序章 運河沿いの古木

タイの首都バンコクを囲むチャオプラヤー川の支流と、網の目のように広がる運河(クローン)の岸辺は、乾季であっても息苦しいほどの湿気と泥の匂いに満ちている。近代的な高速道路の高架下、あるいは無秩序に建て増しされたコンクリートのアパートの裏手には、都市の再開発から取り残された熱帯の茂みが黒々と口を開けている。そこには、樹齢を重ねた巨大な菩提樹やガジュマルの古木が、気根を幾重にも垂らしながら聳え立っている。

そうした大木の根元には、独特の光景が広がっている。

壊れ、役目を終えた無数のミニチュアの寺院——精霊の家であるサーン・プラプームや、地主神を祀るサーン・チャオティーの残骸が、足の踏み場もないほど積み捨てられているのだ。屋根が崩れ、柱が折れた陶器や木製の祠。その周囲には、首や腕の折れた伝統舞踏の踊り子人形(トゥッカター・ナンラム)、色褪せた象や馬の焼き物、そして濁った赤色の炭酸水が半分残った無数の小瓶が散乱している。

タイの信仰において、一度精霊が宿った祠は、破損したからといってゴミとして処分することは決して許されない。不吉な祟りを避けるため、人々は古い祠を撤去すると、精霊が集まりやすいとされる大木の根元や、道路のカーブ、あるいは橋の袂へと運び、そこに遺棄する。そうして出来上がった場所は、地元の人々から「祠の墓場(スサーン・サーン・プラプーム)」と呼ばれ、昼間であっても近隣住民が足を止めることのない忌避の領域となる。

タイのオンラインコミュニティのオカルト板には、そうした都市の暗がりで起きた怪異の記録が、日々膨大な数で書き込まれ続けている。

中でも、「実体験(プラソプカーン・チン)」というタグが付された長文の手記には、娯楽的な創作怪談とは一線を画す、冷や汗を伴う生活の細部が刻み込まれている。地方からバンコクへ出稼ぎに出てきた若者たちが借りる安アパート、いわゆる「ホー・パック」の薄暗い一室。そこで彼らが遭遇するのは、古い信仰と、急速な近代化の裂け目に取り残された死者たちの、重苦しい息遣いである。

第一章 五〇九号室の敷金

キッティサック・チャイディがそのアパートに転がり込んだのは、十月の終わりのことだった。

タイ東北部、イサーン地方のナコンラチャシマからバンコクへ出てきて三年。二十四歳になるキッティサックは、個人経営のエアコン修理・清掃業者で下請けの作業員として働いていた。連日、四十度近くまで上がる熱帯の猛暑の中、古いアパートや雑居ビルをバイクで巡り、カビと油煙で真っ黒になったエアコンのフィルターを外し、高圧洗浄機で薬品を吹き付けるのが彼の日常だった。

それまで同郷の友人とシェアしていた部屋を急に追い出されることになり、手持ちの金が底をつきかけていた彼にとって、ノンタブリー県の運河沿いに建つその物件は、渡りに船に見えた。

築三十年を超える五階建ての「ラタナ・マンション」。外壁の白いモルタルは雨季の湿気で黒ずみ、緑色の苔が筋のように垂れ下がっていた。エレベーターはなく、中央の吹き抜け階段を囲むようにして、薄暗い通路に鉄格子の扉が並んでいる。

最上階の角部屋、五〇九号室。家賃は相場より遥かに安い、月額千八百バーツだった。敷金も一ヶ月分だけでいいという。

一階の管理事務所で契約を交わした際、くたびれた花柄の巻きスカートを履いた初老の女性管理人、パー・マリは、キッティサックの身分証をコピーしながら、妙に抑揚のない声で言った。

「部屋の備品は全部使っていいよ。ただね、壁の備え付けの古いクローゼット、あれは鍵がかかってるから開けないでおくれ。前の住人の荷物が少し残ってるんだが、大家の都合でそのままにしてあるんだ」

「鍵を開けなきゃいいんですね。それなら構いませんよ」

「それとね」

パー・マリは老眼鏡の縁から、キッティサックの顔を用心深く見上げた。

「夜中にベランダの外から音がしても、窓を開けちゃいけないよ。あそこは運河に面してるから、鳥やトカゲが迷い込んでくるんだ。いいかい、絶対に開けるんじゃないよ」

手渡された真鍮の鍵は、長年使われていなかったのか、黒く錆びて指先に金属の匂いを残した。

五階まで階段を上ると、背中に羽織った作業着が汗でじっとりと張り付いていた。フロアの廊下には昼間だというのに人影がなく、どこかの部屋から漏れ聞こえるタイ語のテレビドラマの音声と、扇風機の低い回転音だけが漂っていた。

五〇九号室のドアを開けると、熱気が塊となって押し寄せてきた。八畳ほどのワンルーム。床はひんやりとした緑色の人工テラゾータイルで、奥には小さなベランダへと続くアルミサッシの引き戸がある。

室内には、合板のローテーブルと、パイプフレームのシングルベッド、そして部屋の隅に鎮座する、ニスが剥げかけた木製の大型クローゼットが置かれているだけだった。

キッティサックは背負っていた道具袋を床に下ろし、ベッドの上に腰掛けた。薄いウレタンスポンジのマットレスが、ギシリと重い音を立てて軋む。

その時、マットレスの端がわずかに浮き上がっているのが目に入った。シーツの角をめくってみると、スプリングの鉄枠と木板の隙間に、セロハンテープで何かが貼り付けられていた。

埃を被った、丸い金属片。剥がしてみると、それは現在流通しているものより一回り大きな、古い一バーツ硬貨だった。硬貨の裏には、小さく折り畳まれた黄ばんだ紙片と、乾燥して茶色く縮れたマリーゴールドの花びらが一欠片、挟み込まれていた。

キッティサックは指先で硬貨を弾きながら、小さく舌打ちした。

「寝床の買い取り(スー・ティー・ノン)か……」

タイの古い慣習だった。ホテルや安宿、賃貸の部屋で見知らぬベッドに寝る際、そこに居着いている土地の霊や先住の死者に対して「一晩、寝床をお借りします」という仁義を切り、金縛りを避けるために硬貨を供える儀礼。前の住人が置いたものだろう。

信心深い田舎の人間がよくやる迷信だと、キッティサックは深く考えず、その硬貨をポケットへと滑り込ませた。

部屋の壁を見上げると、そこには彼にとって見慣れすぎた器具が取り付けられていた。九十年代後半のモデルと思われる、黄色く変色した三菱製の旧型エアコンだった。ルーバー(風向き板)は壊れて半開きになっており、吹き出し口の奥は暗黒の洞窟のように口を開けていた。

リモコンのスイッチを入れると、室外機がベランダでドロドロと不穏な重低音を響かせ、数分遅れて、冷気が室内へと流れ出してきた。

その冷気とともに、部屋の中に匂いが広がった。

カビの匂いでも、ホコリの匂いでもなかった。それは、胸の奥が締め付けられるような、異常に濃厚で甘美な白い花の香りだった。

第二章 吹き出し口の芳香

ドック・ソンクリン。和名で言えば、チューベローズ、あるいは月下香と呼ばれる花だった。

タイの伝統において、その花は祝い事や日常の装飾に使われることは決してない。熱帯の強い日差しの中で遺体が急速に腐敗するのを防ぐ術が乏しかった時代、野辺送りや火葬の現場で死臭を覆い隠すために棺の周囲に敷き詰められた、死と葬儀の象徴だった。

キッティサックは鼻をひくつかせ、エアコンの真下に立った。冷風を浴びる。風自体は冷えているが、その風に乗って運ばれてくる匂いは、まるで葬儀場の本堂に頭を突っ込んだかのように強烈だった。

「ドレンパンにネズミの死骸でも詰まって、芳香剤でもぶちまけたのか?」

職業柄、彼はエアコン内部のあらゆる汚れのパターンを知っていた。動物の死骸、ゴキブリの巣、湿気による真菌の繁殖。しかし、この甘ったるい花の匂いだけは説明がつかなかった。

明日にでもカバーを外して内部を高圧洗浄してやろうと心に決め、その日は疲労に任せてベッドに倒れ込んだ。

異変が始まったのは、深夜の二時を過ぎた頃だった。

キッティサックは、突然の息苦しさによって意識を浮上させた。胸の上に、数十キロの砂袋を置かれたような強烈な圧迫感。金縛り(ピー・アム)だった。

(くそっ、疲れてるんだ……体が動かない)

彼は必死に指先を動かそうとしたが、神経が筋肉から切り離されたかのように、一ミリたりとも動かない。目は半開きになったまま、暗い天井を捉えていた。エアコンの唸り声だけが、ゴオオオと部屋を満たしている。

部屋の中は、冷蔵庫の内部のように冷え切っていた。設定温度は二十五度にしてあったはずだが、吐き出す息が白く濁るのではないかと思えるほどの凍てつく冷気だった。

そして、あの匂い。ドック・ソンクリンの甘い香りが、昼間よりも遥かに濃密になり、気道を塞ぐように喉の奥にへばりついていた。

ピチャ、ピチャ。

湿った音が聞こえた。ベランダからではない。部屋の中、キッティサックが横たわるベッドの足元からだった。

何かが、濡れた足で床を踏みしめている。タイルの上を、素足がペタペタと歩き回る音。

音はベッドの左側を通り、ゆっくりと頭上の方へと近づいてきた。キッティサックは眼球だけを必死に動かし、視界の端を睨んだ。

部屋の隅、あの開けてはならないと言われた木製クローゼットの前に、影が立っていた。

細い、女の輪郭だった。頭には、タイの古典舞踊の踊り子が被るような、金色の尖塔型の冠——チュダーのような突起物が載せられているように見えた。だが、その輪郭は揺らめいて定まらず、まるで黒い煙を人間の形に束ねたかのようだった。

その影は、クローゼットの扉に向かって立っていた。そして、コトコトと、爪の先で木板を引っ掻くような音を立てていた。

やがて、影がゆっくりと、機械仕掛けのようにぎこちない動きで向きを変えた。首が、あり得ない角度まで横にねじれる。パキパキと、骨が乾いた音を立てて砕ける音が静かな部屋に響いた。

影の顔の部分には、目も鼻もなかった。ただ、白く光る二つの点が、爛々と輝きながらキッティサックを見下ろしていた。

キッティサックの心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。声を出そうとしても、喉の奥が痙攣してヒューという摩擦音しか漏れない。影の手が、ゆっくりと持ち上がった。

指先には、古典舞踊で用いられる真鍮製の長い付け爪(レップ)が光っていた。その鋭く反り返った爪先が、空気を切り裂くようにして、キッティサックの顔面へと真っ直ぐに向けられた。

チリン、と鈴の鳴るような金属音が耳元で響いた。同時に、エアコンが激しい異音を立ててガタガタと震え、バツンという音とともに電源が落ちた。

部屋の空気が緩んだ。重圧がふっと消え去り、キッティサックの身体が跳ね起きるように自由を取り戻した。

彼は汗まみれになりながら、壁の照明スイッチを叩いた。蛍光灯の白い光が部屋を照らし出す。

誰もいなかった。クローゼットの扉は固く閉ざされ、床には水滴一つ落ちていない。しかし、エアコンの停止した蒸し暑い空気の中に、あのドック・ソンクリンの甘い香りと、線香の燃え尽きた灰の匂いだけが、確かな質量を持って漂い残っていた。

キッティサックは震える手でポケットを探り、昼間に拾い上げたあの一バーツ硬貨を取り出した。冷たい金属の表面に触れた瞬間、彼は激しい後悔に襲われた。この部屋には、確実に「誰か」がいる。

そして自分は、その縄張りに土足で踏み込んでしまったのだ。

第三章 送風ファンの黒髪

翌朝、キッティサックは仕事に出る前に、道具袋から工具を取り出した。睡眠不足で頭が割れるように痛かったが、この部屋の異常をそのままにしておくことはできなかった。特に、あのエアコンだ。

昨夜の怪異が何であれ、技術者としてあの機械の内部を確かめずにはいられなかった。

彼は脚立代わりにローテーブルをエアコンの真下に引きずってきた。プラスドライバーを握り、エアコンの前面パネルのネジを外す。爪を外し、プラスチックの白い外装カバーを手前に引いた。

三十年分のヤニと埃が固着した熱交換器のアルミフィンが露わになった。フィンは灰色に変色し、所々が目詰まりを起こしていた。

「ひどいな……」

キッティサックはマスクを着け、懐中電灯で内部のシロッコファン——細長い円筒状の送風ファンを照らし出した。ファンの羽根の隙間には、ビロードのような黒カビがびっしりと生え揃っていた。

だが、異常なのはカビだけではなかった。

ファンの軸の奥、回転翼の隙間に、何かが絡みついていた。黒い、細い糸のようなもの。

キッティサックはピンセットを取り出し、その塊を慎重に引き出してみた。指先に伝わってくる感触は、埃や糸くずのそれではない。しなやかで、油気を含んだ、人間の髪の毛だった。

一本や二本ではない。引き出しても、引き出しても、ファンの奥から黒髪の束がズルズルと音を立てて出てくる。長さは優に五十センチを超えていた。

女性の長い黒髪だった。髪の毛は湿っており、あのドック・ソンクリンの濃厚な香油の匂いが鼻腔を刺した。

「うわっ……なんだこれ……」

キッティサックは思わず手を止め、ピンセットを取り落とした。エアコンの送風ファンに人間の長い髪がこれほど大量に巻き込まれることなど、構造上あり得ない。吸気口にはフィルターがあり、ファンの手前には密密とした熱交換器のフィンが立ちはだかっているのだ。

外から髪の毛が吸い込まれたとしても、ファンの軸にこれほど綺麗に巻き付くはずがなかった。

まるで、誰かがエアコンの内部から、外へ向かって髪を伸ばしているかのように。

キッティサックは息を殺しながら、懐中電灯の光をエアコンの背面、壁の配管穴へと向けた。冷媒管とドレンホースが外のベランダへと貫通している穴の隙間。そこに、何かが詰め込まれていた。

防音材でもパテでもなかった。それは、赤黒いインクで複雑な幾何学模様とパーリ語の呪文がびっしりと書き込まれた、色褪せた布の切れ端だった。

パー・ヤント——タイの護符布だった。

布は小さく折り畳まれ、エアコンの銅管に錆びた針金で幾重にも縛り付けられていた。しかし、経年劣化のせいか、あるいはネズミがかじったのか、布の中央が裂け、そこに封じられていたはずの呪文の円陣が真っ二つに引き裂かれていた。

キッティサックがその布に触れようとした瞬間。

ゴトン。

背後で、重い音がした。

脚立の上で振り返ると、部屋の隅の木製クローゼットが、数ミリだけ手前に開いていた。鍵がかかっていたはずの扉だった。その黒い隙間から、細い白い指が一本、外の空気を探るようにして、ゆっくりと這い出しつつあった。

爪には、あの真鍮の付け爪が嵌められていた。

キッティサックは脚立から飛び降りた。床に足がついた瞬間、ベランダのアルミサッシが、突風に煽られたようにガタガタと激しく音を立て始めた。

外は晴れ渡っていた。昼の強烈な太陽が運河の濁った水面を照りつけているのがガラス越しに見える。風など吹いていなかった。

それなのに、ベランダのガラス戸が、まるで外側から何百人もの手のひらで乱打されているかのように、激しく波打っていた。

ドンドン、ドンドン、ドンドン!

アルミの枠が軋み、ガラスに細かいヒビが走る。キッティサックは恐怖のあまり立ち尽くした。昨夜の管理人の言葉が、頭の中で警報のように木霊した。

『夜中にベランダの外から音がしても、窓を開けちゃいけないよ』

昼間だ。今は真昼の十二時前だ。それなのに、窓の向こう側の空気が、急速に夜の闇のように濁り始めていた。

ベランダの手すりの向こう、運河の対岸に聳えるあの巨大なガジュマルの古木——無数の壊れた祠が積み捨てられた「祠の墓場」の梢が、風もないのに狂ったように波打っていた。

第四章 真夜中の舞踏

その日の午後、キッティサックは仕事をすべてキャンセルし、近所の屋台街を彷徨い歩いた。部屋に戻る勇気は到底なかった。しかし、田舎の両親に仕送りをし、なけなしの貯金で食いつないでいる彼には、別のホテルに泊まるような金銭的余裕はなかった。

夕暮れ時、アパートの路地の入り口にあるバイクタクシー(ウィン・モーサイ)の溜まり場で、彼は古株の運転手であるソムチャイに声をかけた。五十代半ばのソムチャイは、この界隈で三十年以上バイクを走らせており、地域の生き字引のような男だった。

キッティサックがラタナ・マンションの五〇九号室に住んでいることを告げると、ソムチャイは煙草を灰皿に押し付け、露骨に嫌な顔をした。

「……あそこの部屋に入ったのか。パー・マリのババア、また地方から来た若い奴を騙して入れたな」

「ピー・ソムチャイ、あそこで何があったんですか。頼みます、教えてください。さっき部屋で、信じられないものを見たんです」

キッティサックの真に迫った表情を見て、ソムチャイは小さく息を吐き、チャオプラヤー川の支流へと続く路地の奥を顎で指した。

「四年前の話だ。あの部屋には、地方の舞踊学校を出て、観光客向けのレストランで踊っていた若い娘が住んでいた。名前はダーオといったよ。美しい子だったが、運が悪かった」

ソムチャイは声を潜めた。

「悪い男に引っかかったのさ。男は金を巻き上げた挙句、別の女のところへ逃げた。ダーオは精神を病んで、部屋に引きこもるようになった。

そして……ある満月の夜、舞台用の正装を着込み、冠を被り、化粧を完璧に施した姿で、あの部屋のクローゼットの中で首を吊ったんだ」

キッティサックの喉がカラカラに渇いた。

「それだけじゃない。彼女が死んでから数日後、異臭に気づいた住人が通報して遺体が見つかったんだが、彼女の怨念があまりにも強くてね。次の住人も、その次の住人も、夜中に踊り子の幽霊を見て狂いそうになって逃げ出した。

噂が広まってアパート全体の住人が減り始めたもんだから、大家は有名なモー・ピー(祈祷師)を呼んで、部屋の悪霊を封じ込める儀式をやらせたんだ」

「封じ込める……」

「ああ。彼女が息絶えたあのクローゼットに私物をすべて閉じ込め、お札で封印した。そして、部屋の空気を吸い込むエアコンの配管穴に、霊を外に出さないための強力な結界布(パー・ヤント)を縛り付けたんだ。

霊を成仏させたんじゃない。部屋の中に無理やり『閉じ込めた』のさ。だが、そんな無理な封印が長持ちするはずがない。

おまけに、あの建物の真裏には何があるか知ってるだろ?」

「……運河の古木ですね」

「そうだ。あの祠の墓場だ。何十年も前から、行き場を失った無数の無縁仏や悪霊(ピー・サンパウェーシー)が集まる掃き溜めだよ。

ダーオの怨霊は、あの古木に群がる無数の死者たちの気配を呼び寄せちまったんだ。今じゃあの五階の角部屋は、生者の世界と死者の溜まり場を繋ぐ、開かずの門みたいになってるのさ」

ソムチャイはキッティサックの肩を強く叩いた。

「荷物をまとめて、今すぐ逃げろ。敷金なんざ諦めちまえ。命より高い家賃はないんだぞ」

しかし、キッティサックには逃げる場所がなかった。実家の母親からは、弟の学費の催促の電話が毎日のようにかかってくる。今夜を路上で明かすわけにはいかなかった。

部屋に戻ったのは、夜の十一時を過ぎていた。彼は近くのセブンイレブンで買ってきた小さな白蝋燭と、赤い炭酸水の小瓶、そして寺院の屋台で買ったジャスミンの花輪(プアン・マーライ)を手にしていた。戦う気はなかった。

ただ、一晩だけでも自分を見逃してくれるよう、祈りを捧げるつもりだった。

部屋の空気は、昼間よりも冷たく澱んでいた。エアコンの電源は抜いてあった。それでも、室内にはあのドック・ソンクリンの甘い香りが、まるで霧のように立ち込めていた。

キッティサックはローテーブルの上に赤い炭酸水の蓋を開けて供え、ストローを差し込んだ。ジャスミンの花輪を添え、蝋燭に火を灯す。そして、床に膝をつき、両手を胸の前で合わせて合掌(ワイ)した。

「ダーオさん……どうか私の祈りを聞いてください。私はあなたを傷つけるためにここに来たんじゃない。ただ、貧しくて、寝る場所が必要なだけなんです。

どうか今夜、私を安らかに眠らせてください。明日には、あなたのために寺で功徳を積みますから」

蝋燭の炎が、風もないのに細かく震えた。キッティサックは額を床に擦り付け、三度、深く頭を下げた。

灯りを消し、彼は服を着たままベッドに潜り込んだ。心臓が激しく脈打ち、目を閉じることができなかった。

午前二時四十五分。突如として、その音が始まった。

ポク、ポク、ポク……。

木を打つ乾いた音。タイの伝統的な木琴——ラナートの音色だった。最初は遠く、運河の底から響いているように微かだったが、次第にテンポを上げ、鉄琴の鋭い響きと、チャイムのような小さなシンバル(チン)の甲高いリズムが重なり合ってきた。

哀愁を帯びた、狂乱の旋律。古典劇で、死や破滅を告げる場面で演奏される楽曲だった。

そして、天井の隅から、カサカサという擦れる音が降り注いできた。

キッティサックは息を止めた。ベッドの上で、身体が再び完全に硬直していた。あの金縛りだった。指一本動かせない。声も出ない。

ミシリ、と頭上の天井板が軋んだ。

何かが、天井を這っていた。ヤモリではない。もっと巨大で、重い肉の塊。

キッティサックの視界の上方、薄暗い天井の石膏ボードから、二つの腕が垂れ下がってきた。滑らかな、金褐色の肌を持つ女の腕。手首には幾重にも真鍮の腕輪が嵌められ、指先にはあの長く反り返った黄金の付け爪が装着されていた。

その腕は、天井から生えていたのではない。

女は、天井に背中を張り付けた状態で、関節を完全に逆さまに折り曲げながら、蜘蛛のように四つん這いになって這い回っていたのだ。

女の頭部が、重力に引かれて真下へとだらりと垂れ下がっていた。

長い黒髪が、キッティサックの顔面に向かって雨のように降り注ぐ。その髪の毛の一本一本が、生き物のように蠢き、キッティサックの首筋や頬を冷たく撫で回した。ドック・ソンクリンの濃厚な匂いと、腐敗した肉の放つ耐え難い悪臭が混ざり合い、彼の鼻腔を満たした。

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