序章 返すもの

瓶の横に、返却、と書いてから、沙織はその二文字を消した。

現場の記録に出てくるのは証拠品だった。持ち帰った警察が店へ返すものではない。それでも、買った人間の側から考えると、その瓶には別の行き先があった。水を飲み終え、坂を下り、カウンターへ置く。そこで用事が一つ終わる。

沙織は消しゴムの屑を手のひらで受けた。机には古い雑誌記事の複写と、ポルトガル語の鑑定書の画像が並んでいる。どれも原本ではない。紙の皺に見えるものまで、印刷された黒い線だった。

窓の外では配送車が停まり、台車の車輪が歩道の継ぎ目を渡っていた。彼女が作っている小冊子も、来週には箱に詰められ、同じような車で運ばれる。表紙だけがまだ決まっていなかった。

候補の一つには、目のあたりを覆う、灰色の金属片が二つ並んでいた。

第一章 二人分の名前

最初の打ち合わせで、同僚の村瀬は、表紙の下半分に二つの名前を置いた。

長い、と言って文字を小さくした。沙織は何も言わなかった。自分でも、仕事を引き受けるまでは二人を仮面の男たちとしか覚えていなかったからだ。

小冊子は、ブラジルの不可解な出来事を紹介する読書会のためのものだった。沙織の担当は、日本語の説明文と出典の整理である。録音された番組を日本語に置き換える仕事ではない。紹介された事件を、読める資料まで遡って組み立て直す。

薄く作れば早く終わる。年、場所、遺体、仮面、謎の指示書。そこへ幾つかの説を添えれば、見開きは埋まるはずだった。

一九六六年八月十七日。カンポスからニテロイへ来た、二人の電子技術者。ミゲル・ジョゼ・ヴィアナと、マヌエル・ペレイラ・ダ・クルス。

テレビなどの修理に携わっていた男たちが、数日後、モーロ・ド・ヴィンテンという丘で死体となって見つかる。

その程度の文章を打つのに、十分もかからなかった。

時間を取られたのは、そのあとだった。当時の雑誌を読むと、ミゲルが若いころから電子技術を学び、修理の仕事に入っていった経歴が出てきた。死人を説明するための肩書だった「技術者」が、急に、毎日繰り返す作業を持つ人間になった。

沙織の父も修理をする人だった。町の小さな電器店を閉めたあとも、近所から時計や扇風機が持ち込まれる。見積もりを出すほどの仕事でなくても、紙に受け取った日と相手の名前を書いた。

沙織は子どものころ、その紙に付けられた通し番号が好きだった。

番号があれば、持ち主のところまで戻れる。

引き出しからはみ出したコードにも、輪ゴムで留めた小さな部品にも、紙が付いていた。父の字は誰にでも読みやすい字ではなかったが、父自身は一度も困った様子を見せなかった。

沙織は画面に戻り、仮面の男たち、を消した。

村瀬に送る原稿には、二人の名前を入れた。長くなるぶんだけ改行を増やした。

その日のうちに、解けていない、という文も打った。ところが語尾に句点を置くと、もうそこで作業が終わってしまう気がした。沙織は句点を消した。後ろへ続く文章は、まだなかった。

第二章 途中の町

旅程を地図に重ねる作業は、予想より難しかった。

家族には買い物のための旅行と説明されていた。車や電子部品を求める予定だったとする報道がある。ところが、この旅行について残っているのは、本人たちの旅日記ではない。

帰らなかった二人を、あとから店の人や家族が思い出して語った内容だった。

沙織は出発点と到着地を丸で囲んだ。次に線を引こうとして、指を止めた。

知らない部分を地図の線で埋めるのは簡単だった。線に矢印まで付ければ、二人が何を考えてその方向へ進んだのかも分かったように見える。彼女は線を消し、確認できた立ち寄り先だけを別の紙に書いた。

ニテロイで電子部品を扱う店に寄ったこと。雨具を買ったこと。丘の近くで水を買ったこと。午後の順序を追えるようでいて、時刻の細部は記事によって揺れる。

どの店でも、二人はその時点では客だった。

後世の呼び名を付けたまま、その午後へ連れていくことはできない。雨具を売った相手は、鉛の仮面事件の犠牲者に雨具を売ったわけではない。これから外を歩く客に、雨具を渡したのだ。

沙織は紙の中央に置いてあった遺体発見の写真を裏返した。旅行の説明を書くあいだ、写真の中の身体が目の端に入るのが嫌になっていた。

水を売った店の話は、一九六六年九月の『マンシェッチ』の記事にあった。瓶を返すという話が出ていた。二人が落ち着かなかったとも報じられている。

落ち着かなかった、という言葉の下には線を引かなかった。待ち合わせの時刻が迫った客も、初めて来た町で迷った客も、そのように見えることはある。売り手の記憶を否定する理由はないが、それだけで彼らの心の中へ入ることもできない。

瓶のほうが、沙織には気になった。

返す品物を持って出る。そこには、少なくとも戻ってくるという言葉があった。だからといって、死ぬつもりがなかったと証明されるわけではない。予定は変わる。言葉と意図が同じとも限らない。

それでも彼女は、現場で見つかるより前の瓶を、一度は考えたかった。

買われたときには冷たかったかもしれない。誰が持ったか、途中で持ち替えたか、どの時点で飲んだかは分からない。そうした想像を本文へ書き込むことはやめた。

ただ、二人が丘へ向かうところで水の話を終えず、帰りの欄にも小さく瓶と書いた。

その欄には、ほかの文字が入らなかった。

夕方、父から電話があった。日曜日に来るなら、止まった台所の時計を持ってくるようにと言う。以前、電池を替えても動かなくなったと話したのを覚えていたらしい。

「急がなくていいよ」

沙織が答えると、父は、急いではいないが忘れるだろう、と言った。彼女は手帳の日曜日の欄に時計と書いた。いま書かないと本当に忘れると思った。

電話を切ってから、旅程の紙を見直した。戻る日にする用事というのは、短い言葉で足りる。本人には、その先が分かっている。

第三章 雨のあとの測定

発見を語る記事には、ほぼ同じ筋道があった。丘に人が倒れていた。通報があった。警察が来た。だが、誰が最初に見たのか、いつを発見の日とするのかは、読み進めると揃わなかった。

沙織は、誰かがすでに丸めたあらすじを、もう一度丸めようとしていたことに気づいた。

彼女が使えるのは複写だった。公開された資料集に含まれる、当時の記録とされる紙面である。現地の公文書館から取り寄せた原本でもなければ、その来歴をすべて辿れた資料でもない。冊子の出典欄には、そのことも残す必要があった。

そのうえで、一九六六年八月二十一日付の現場鑑定書を読む。

朝七時十分。鑑定に来た者たちが見たのは、仰向けの二つの身体だった。頭同士の距離は二・九八メートル、足同士は二・七五メートル。数値を読み、沙織は自分が勝手に二人を肩が触れるほど近くに寝かせていたと知った。

部屋の床に目を落とした。机の脚から本棚まででは足りない。立ち上がって、廊下への戸口まで歩いた。約三メートルという隔たりが、自分の部屋では、途中に椅子の背が入り込む長さだった。

そこにいた二人が声を交わしたかどうかは分からない。手を伸ばしたかどうかも分からない。距離を測った記録から、最後の会話は取り出せない。

沙織は席に戻った。

同じ現場鑑定書は、瓶に少量の液体が残っていたこと、半仮面の形をした二つの鉛片や手書きの紙があったことを記していた。物が濡れていたため、指紋の手掛かりは得られなかったという。

最初の原稿には、空き瓶、と書いていた。彼女は空きを消した。

別のページでは、黒いスーツという言い方も消した。鑑定書にある服の色はそれとは違う。映像や短い紹介の中で出来上がった輪郭をほどくと、揃いの黒服を着た謎の二人は、異なる服を着て旅をしてきた二人へ戻った。

村瀬は、写真を大きくしたほうが伝わるのではないかと尋ねた。

「何が?」

沙織が聞き返すと、彼は少し考えた。

「異様さ」

それは、たしかに伝わるだろう。しかし大きくしたところで、見えていない時間は見えてこない。沙織は、まず遺留品の説明だけで組ませてほしいと頼んだ。

二人の身体を縮めた画像は、画面の隅に残った。資料として必要になるたびに開き、閉じた。閉じるとき、眠っている人にそっと戸を閉めるような気持ちが生じるのを、彼女は不適切だと思った。

眠っているのではなかった。

現場の記録を書いた人間は、次の検査によって事情が明らかになることを期待していた。その結びの文章を読むと、書類の端にまだ、次の担当者のための席が空いているように見えた。

沙織は次の資料を開いた。

第四章 短すぎる手順

メモの画像は、拡大すると文字より先に紙の傷みが大きくなった。

沙織はポルトガル語を読む仕事をしているが、乱れた筆記体なら何でも読めるわけではない。判読したとする文章と画像を往復し、句読点がどこから補われたものかを確かめた。訳者が善意で整えるだけで、紙にない命令が一つ増えてしまう。

メモには時刻があった。

十六時三十分、指定の場所にいること。十八時三十分、カプセルを服用。効果のあと、金属を保護。合図を待つ。仮面。

沙織は、そう仮に訳した。ただし、後半は滑らかな一文にならない。金属を保護するのか。金属で何かを保護する意味なのか。最後の語はどこに掛かるのか。読み手が意味を補えば、いくらでも筋の通った指示になる。

彼女は本文に説明を足さず、訳の脇に疑問を残した。

服用する、とある。服用した、とは書いていない。

合図を待つ、とある。合図があった、とは書いていない。

これが旅の予定とどう結びつくのか、カプセルが何だったのか、合図が音なのか光なのか、誰かの動作なのか。この小さな紙は、知りたい部分に近づくほど言葉を減らしていった。

村瀬が向かいの席で、指示書か、と呟いた。

沙織も、その呼び名でファイルを保存していた。誰かから渡されたものを、二人が持ってきた。書かれたとおりに行動して、戻らなかった。

筋が通る。その筋に沿って書けば、依頼人の知らないところで指示を出す第三の人物が、いつのまにか丘へ登ってしまう。

彼女はファイル名を、遺留メモ、に変えた。

「命令なのか、忘れないために書いたのか、まだ決められない」

「誰が書いたかは?」

当時の記事の一つには、二人の筆跡ではないという趣旨の記述があった。しかし、それを読んだ時点では、沙織は記事の根拠を確かめられていなかった。

「続きを調べる」

村瀬は頷き、メモを置くページを空けておいた。

沙織は普段使う手帳を開いた。そこには、印刷所、二百部、時計、とあった。事情を知らない人間が読めば、三つの言葉の関係は分からない。けれど自分にとっては、どれも十分な情報だった。

説明を省けるのは、必要な部分を、読む人間がすでに知っているからだ。

彼女は、そこまで考えて手を止めた。二人の理解まで決めることになる。言葉が短い理由は一つとは限らない。メモが本人たちにも不明瞭だった可能性も残っている。

それでも、時刻だけが妙に端正だった。

十六時三十分と十八時三十分。その二つの点のあいだには、二時間ある。長い昼寝も、食事も、仕事もできる時間だ。その日の二人にとって二時間が何を入れるための容器だったのか、紙は説明しなかった。

第五章 まだ先がある

翌日の昼、沙織は机に昼食を広げた。紙に汁を落とさないよう、資料を窓際へ移した。

ニュース記事には、空に奇妙なものを見たという話も出てくる。この事件が空飛ぶ円盤と結びつけて語られてきたことは、読んでいた番組の紹介文ともつながる。しかし、何かを見たという話と、二人の死の原因とのあいだに、一本の線を引ける資料ではなかった。

沙織は目撃談を別の頁へ送った。証言者が嘘をついたと書くこともしない。二人がそれを見たとも書かない。同じ出来事の周りで語られたことを、同じ出来事だったと扱わないようにした。

その整理をすると、急に文章が痩せた。

村瀬は余白に写真を入れようと言った。沙織は、残った余白をしばらく見ていた。説明で埋めたくなる場所が、いま自分の目にも見えている。何もないところへ何かを置けば、仕事をした形になる。

「後日の検査を入れる」

彼女はそう言って、別の束を持ってきた。

話は、丘で終わらなかった。一九六七年には二人の遺体が掘り返され、あらためて検査のための試料が採られている。複写で読めるその年の記録を追うと、現場の雨が止んだあとも、誰かが名前を書き、容器を用意し、番号を付け、結果を待っていたことが分かる。

検査をしたという事実と、原因が分かったという結果は、同じではなかった。

閲覧できた報告の範囲では、二人を死亡させた原因の確定には届いていない。検出されなかったという記述も、考えられるすべての原因が除外されたという意味にはならない。沙織は難しい検査名を並べるのをやめ、何を調べ、何が答えとして残らなかったかを書くことにした。

年代順に紙を置くと、空白が長くなった。

一九六六年の八月の横に、一九六七年の八月を置く。そのあいだに、沙織の机なら一年分の仕事が入る。支払いがあり、食料が減り、季節の服を出し入れする。

事件の説明では一行で済む年月にも、それを暮らした人には毎朝があったはずだった。

彼女は遺族の気持ちを書こうとして、やめた。自分ならどう思うかと、彼らが何を思ったかは、置き換えられない。当時の取材に残る言葉以上に、他人の家の中へ入ることはできなかった。

代わりに、年表から省いていた検査の日付を戻した。

沙織のスマートフォンが震えた。父から時計の裏蓋の写真を送ってほしいという短い連絡だった。型を見ておきたいらしい。彼女は台所の椅子に上がって時計を外し、写真を撮った。

止まった針の下で、父からの返信が来た。

日曜でいい。

彼女は時計を食卓へ置き、仕事場に戻った。午前中に書いた文章を読み返すと、原因不明、の四文字が、便利すぎるように感じられた。

その四文字の前に、やったことがあった。前の検査では届かず、もう一度やったことがあった。結果を受け取るために、どこかの机を空けた人間がいた。

二人を見つけたところで筆を止めると、そこにあった時間までなくなってしまう。

沙織はその夜、最初に予定していた倍の頁数になると村瀬に連絡した。彼は、綴じ方を変えれば入る、と答えた。

第六章 比較するための紙

筆跡の鑑定は、別のまとまりになっていた。

沙織が開いた複写には、文字の一部を示す印や、比較する書類の画像があった。丘の上で見つかった短いメモの隣に、商売のための書類が置かれている。

テレビの修理に関する伝票。機器についての書き付け。日付のある紙。住所や代金のように、暮らしの側で使われる文字。

それらは、死の事情を説明するために作られたものではなかった。

沙織は一枚ずつ画面へ出した。紙面の端が切れ、薄い部分があり、何度か写されたために黒く潰れたところもあった。大きくすれば失われた線が戻るわけではない。彼女は倍率を上げすぎないようにした。

鑑定のために集められた比較資料が、ミゲルの筆跡の分かる書類だと知ったとき、父の引き出しの札を思い出した。

修理を頼まれた日には、その紙が何年も後にどんな役を与えられるかなど考えない。見積もりや受領のために書いて、保管する。忘れたころ、誰かがそれを探しに来る。

彼女は父の紙片を、好きだと思っていた。番号があれば戻れると考えた。だが、紙が人を呼び戻すわけではない。持ち主が来なくても、番号は残る。

夕方になると、村瀬が印刷した仮組みを持ってきた。まだ白い頁が何枚もあり、閉じると表紙より中身のほうが少し横へはみ出した。

「ここは二人の筆跡ではない、のままでいい?」

彼は古い雑誌を出典に付けた短文を指した。

沙織は鑑定書を開いたまま、首を振った。まだ結論の日本語を作っていなかった。読める言葉だけ拾って、自分の予想する結論へ寄せたくなかった。

一度席を離れ、湯を沸かした。台所の時計が食卓にあるため、いつもの場所に丸い薄汚れが見えていた。そこを拭こうとして、やめた。時計は日曜日に持っていく。それまでのことだった。

湯が沸く音を聞きながら、彼女は、どんな答えを期待しているのかを考えた。

知らない誰かが書いた命令であれば、二人はその言葉を受け取った者として考えられる。命じた人間を探す、という次の仕事が生まれる。探す先があることに、沙織は無意識に安心していた。

だが、紙を読む仕事は、安心できる方を選ぶ仕事ではない。

戻って椅子に座り、結論の段落を見た。前の頁から続いていた文字の比較が、短い文章に集められていた。

沙織は、村瀬の置いた付箋を外した。

丘へ行かせた誰かを探していたのに、この紙の結論は、逆の方向を指していた。

比較された文字は、同じ人間の手によるものとされていた。

ミゲルの字だった。

第七章 いつもの手

公開されている鑑定書の複写では、一九六七年十月二十七日付の結論が、調べた書類を同一の筆者に結びつけていた。比較の土台になったのはミゲルの書類である。

沙織は、記事が間違っていた、という一文だけでは済ませられなかった。早い時期の報道と、翌年の鑑定の記述を分けなければならない。その違いを丁寧に書いたあとで、しばらく画面から目を離せなくなった。

彼女の頭の中では、差出人のいない命令書が、ずっと二人の前に置かれていた。誰かが何かを知っていて、その一部だけを二人に渡した。だから言葉が足りないのだと、勝手に考えていた。

しかし、少なくとも筆跡について示された答えは、普段の生活の側へ戻っていく。

修理の伝票を書く手が、合図を待つと書いた。

それで謎が解けたわけではない。自分で考えた内容か、誰かの言葉を書き留めたのかは、筆跡からは決められない。マヌエルとのあいだでどこまで話し合っていたかも分からない。

ただ、沙織が紙の向こうに置いていた、顔のない差出人は消えた。代わりに、名のある一人の、いつもの手が残った。

彼女は鉛片の鑑定の頁を並べた。

半仮面。測って記された形。顔に合わせるような切り込み。

そして、目のための穴がない。

頭へ固定するための紐もないと、記載されている。

沙織は灰色の画像を見た。仮面という言葉を読んだとき、無意識に目の部分に穴を作っていたことに気づいた。仮面を着けた人間は、こちらを見ている。そういう絵を、自分のほうで描いていた。

実物の記述は違った。

顔の前にあれば、向こうは見えない。

メモには、合図を待つ、とあった。

沙織は自分の両目を手で覆った。指の隙間から明かりが漏れたので、掌を少しずらした。コピー機の冷却音が聞こえる。村瀬が紙を揃える音がする。目を閉じるだけのときよりも、掌を外すという一つの動作が、世界とのあいだに挟まった。

目を覆って待つとしたら、何を頼りに終わりを知るのだろう。

すぐに手を離した。二人がそのように使ったと確かめられたわけではない。発見時の鉛片の位置の語られ方にも違いがある。着用した、という一語で最後の姿を決めることはできない。

しかし、机には、そのように顔を遮れる物の記述と、待つための言葉が同時にあった。

何かが姿を現す場面を思い浮かべる必要はなかった。見えないまま待つという可能性だけで、沙織は椅子を引きたくなった。

「どうした?」

村瀬が尋ねた。

「二人とも待っていたのかな、と考えた」

口に出すと、また一歩余計に進んでいたと分かった。沙織は言い直した。

「待つと書いた人がいた」

村瀬は返事をしなかった。

しばらくして、道路から自転車のベルが聞こえた。ありふれた音だった。誰かがどいて、誰かが通り過ぎたのだろう。その音を合図として受け取る人がいる。何のことか分からず聞き流す人もいる。

資料の中には、二人が待ったかもしれない合図を、受け取ったと知らせる記録がなかった。

誰も知らないことが一つ増えたわけではない。ずっと同じ場所にあった分からなさが、急に、座っている人間の大きさになったのだった。

第八章 戻る欄

最後の作業で、沙織は結論の頁を作り直した。

候補の説を横一列に並べる組み方はやめた。同じ大きさの枠に入れると、それぞれ同じだけの根拠があるように見える。彼女が確認できたのは、二人が亡くなり、物と文字が残り、調べた記録があるということだった。

それでも、二人が何のためにその場所へ行き、なぜ帰らなかったのかは閉じられない。

村瀬は、結末のない冊子だな、と言った。非難ではなく、綴じる側の困惑だった。頁には最後が要る。読者が本を閉じる位置を決めなければならない。

沙織は最初に書いた、瓶の返却のことを見直した。

帰るつもりだった、と言い切れば、文章は強くなる。帰るつもりの人間に何が起きたのか、という物語が出来上がる。だが、手元にあるのは、店で瓶を返す話が出たという報道までだった。

彼女はその境界を越えない文にした。

瓶は丘で見つかった。

返すという話は、店の側に残った。

二つの文を続けて読むと、それ以上の説明はいらない気がした。旅程の表にあった帰りの欄は、空欄のままにした。矢印を引いて、出発地へ戻すこともしなかった。

日曜日、沙織は時計を持って父の家へ行った。父は新聞を広げ、その上に時計を伏せた。ネジを外すところを見ていると、作業の途中なのに、小さな安心が湧いてきた。手順の先に、もう一度針が動く場面を想像できる。

父は彼女に茶を淹れるよう頼んだ。沙織が台所へ行っているあいだに裏蓋が外され、戻ると、細い工具が二本、皿の上に並んでいた。

「直る?」

「まだ分からない」

父は、顔を上げずに答えた。

沙織は頷いた。分からないと言われても、その場にいられた。急いで次の言葉を求めなくてよかった。

小冊子の話を少しした。二人の技術者と、丘に残った物と、その後の検査。父は手を止めて聞いたが、同業だから分かるということは何も言わなかった。

代わりに、預かっておく、と言って時計を箱に入れた。白い紙に沙織の名前を書き、日付を入れた。

彼女はその字を見ていた。

帰るとき、時計の入っていた袋は軽かった。車内で折り畳み、膝に置いた。窓に映る自分の顔の向こうを、交差点の明かりが通った。仕事場へ戻ったら、最後の校正を送る。彼女には、その日の先があった。

終章 二つの箱

刷り上がった冊子は、雨の降らない午前に届いた。

表紙から仮面の画像は外れていた。事件の名と二人の名前が、薄い紙の上に載っている。沙織は一冊を開き、瓶について書いた頁を確かめた。

印刷では消し跡まで写るわけではないのに、最初に書いて消した二文字が、まだそこにあるように思えた。

資料の複写は、再確認できる順序に並べ、別の箱へ入れた。記事と鑑定書を混ぜず、参照先を書いた紙を一番上に置く。自分の推測を記した付箋は外した。誰かが次に読んだとき、元からあった記述だと思わないようにした。

最後まで手元に残ったのは、旅程の下書きだった。

丸が幾つかある。取り消した線がある。帰りの欄に、小さく瓶と書いてある。その先は白い。

沙織は裏へ、下書き、と書いた。捨てようとしていたが、資料とは別に、制作中の紙を入れる封筒へ収めた。

机に残った鑑定書の複写を持ち上げると、下から修理伝票の画像が出てきた。たまたま重なっていただけだった。彼女は二枚を正しい順番に戻した。

同じ手の文字が、離れた頁へ帰っていった。

箱の蓋を閉める前に、索引を見直した。ミゲル・ジョゼ・ヴィアナ。マヌエル・ペレイラ・ダ・クルス。二人の名前が途中で切れないよう、行を一つ増やした。

窓の外で、配送車の後ろの扉が閉まった。

沙織は蓋を載せた。箱はいっぱいだった。

帰りの時刻だけが、どこにもなかった。