序章 空白の海峡
夏とはいえ、カナダ北極圏の風には、いつも氷の刃がひそんでいる。
ヌナブト準州のイグルーリク島から北西へ百二十キロほど、フューリー・アンド・ヘクラ海峡の海面は、鈍い鉛色に波立っていた。
七月の太陽は地平線すれすれを這うように横へ滑り、白夜のやわらかな光が、冷たい海と空の境をあいまいに溶かしている。
六十代半ばのイサクは、船外機のついた小さなボートの船尾に座り、厚い手袋の手で舵の柄を握っていた。
その顔には、この海の風と塩が刻んだ深い皺が、幾筋も走っている。
防寒着のフードの奥からのぞく目は、遠くの波間を油断なく見つめていた。
ボートの前のほうでは、十代後半の孫娘アニアクが、身を縮めるようにして座っている。
夏休みを祖父と過ごすために、南の町の寄宿舎から村へ戻ってきていた。
手には防水のケースに入れたスマートフォンが握られていて、ときおり画面に目を落としては、不満げに親指を動かしている。
村から遠く離れたこの海峡では、電波などとうに途切れている。
それでも彼女は、体の一部のように、それを手放そうとしなかった。
イサクは静かにエンジンを絞り、ボートの速度を落とした。
スクリューが水をかき回す音が小さくなり、やがて、波が船体に当たる規則正しい音だけが残った。
静かすぎる、とイサクは思った。
例年なら、七月のこの海峡は、命の息吹に満ちているはずだった。
凍らない水面、ポリニヤ——氷に囲まれた開水面——には、餌を求めてホッキョククジラが回ってくる。
遠くの波間に高く噴き上がる潮。
息継ぎに浮かぶ、黒く大きな背中。
氷の上で体を休めるアゴヒゲアザラシやワモンアザラシ。
巨体を寄せ合い、牙を鳴らすセイウチの群れ。
それは、イサクが物心ついたころから、いや、父や祖父の代から、変わらずに繰り返されてきた夏の景色だった。
けれども、今年は違った。
見渡すかぎりの鉛色の海には、鳥の影さえまばらだった。
クジラの潮も、アザラシが水面から丸い頭を突き出す姿もない。
海そのものが大きく息を止め、すべての生き物を深い底へ隠してしまったかのような、不自然な空白が広がっていた。
アニアクが顔を上げ、フードの縁を少し押し下げて祖父を見た。白い息が漂う。
「何もいないね」
彼女はイヌクティトゥット語——イヌイットの言葉——でそう言った。
イサクは黙って頷き、また海へ目を戻した。
足元には、手入れの行き届いたライフルと銛が置いてある。
冬を越すための肉を得ることは、この村に暮らす者にとって、生きるか死ぬかの問題だった。
村の店の棚には、南から運ばれてきた高い食べ物が並んでいる。
けれども、それだけで長く厳しい冬はしのげない。
アザラシの肉を近くの家族と分け合う昔からの慣わしは、ただの伝統ではなく、生き延びるための、ごく現実的な手立てなのだ。
イサクは、海鳥の声ひとつしない空を見上げた。
何かがおかしい。
長年この海で狩りをしてきた勘が、目に見えない異変を告げていた。
海峡の冷たい風が、ボートの縁を鋭くなでていった。
イサクはもう一度エンジンの紐を引き、重い排気音とともに、ボートを北へ向けた。
水面には、何も浮かんでいなかった。
第一章 黙り込む海の獣たち
イグルーリクの村に戻っても、重苦しい空気は晴れなかった。
組み立て式の家々が並ぶ通りには、四輪のバギーや錆びたトラックがとめられ、庭先には出番を失った猟の道具やボートの部品が積まれている。
夏の短いあいだだけ姿を見せる赤茶けた地面は、歩くたびにぬかるんで、長靴の底にまとわりついた。
イサクの家の居間では、古いラジオが、いつも低い音で鳴っていた。
村のハンターたちは、互いの居場所や天気、獲物の様子を知らせ合うのに、この地域のラジオを使う。
けれども、ここ何週間か、そこから流れてくる声は、どれも戸惑いと苛立ちに満ちていた。
アニアクは電子レンジで温めた冷凍のピザをかじりながら、食卓でスマートフォンの画面を指で送っていた。
イサクはいつもの椅子に座り、熱い紅茶の入ったマグカップを両手で包むようにして、ラジオの声に耳を傾けていた。
「東の氷の縁を回ったが、影も形もない」
ざらついた雑音の奥から、なじみの猟師の声が響く。
「こっちもだ。セイウチの匂いすらしない。いったい、どこへ消えちまったんだ」
別の声が応じる。ため息のような雑音がまじった。
イサクは紅茶をひと口すすった。
村から見える海は、穏やかに見えた。
けれども、あの海峡の気味の悪い静けさを思い出すと、背筋に冷たいものが走るのを、どうすることもできなかった。
少し前から、ラジオのやり取りの中に、奇妙な話がまじるようになっていた。
「お前ら、何か聞こえなかったか」
ある若いハンターが、数日前、だしぬけに尋ねたのだ。
「音だ。変な音がするんだ。エンジンの故障かと思ったが、止めても聞こえる」
はじめは誰も、まともに取り合わなかった。
イサク自身も、自分の古い船外機の具合が悪いのだろうと思っていた。
歯車のかみ合わせが悪くなったり、スクリューに海藻が絡まったりすれば、船体を伝って奇妙な振動の音が響くことは、よくある。
けれども、その「音」を口にする者は、一人、また一人と増えていった。
海の底から響いてくるみたいだ、とある者は言った。
いや、あれはもっと金物みたいな音だ。ピッと鳴って、それからブーンと響く、と別の者が言い張った。
アニアクがピザの最後のひと口を飲み込み、画面から顔を上げた。
「おじいちゃん、また、あの音の話をしてるの」
「ああ」と、イサクは短く答えた。
「村の掲示板にも、いっぱい書き込みがあるよ。鉱山の会社がこっそり海の底を掘ってるんじゃないかとか、環境保護の団体が動物を追い払うために音を出してるんじゃないかとか」
アニアクは肩をすくめた。指先は、もう次の画面を叩いている。
「噂は噂だ」と、イサクは静かに言った。
「でも、クジラがいないのは本当でしょ」
彼女の言うとおりだった。
原因が何であれ、海の獣たちが姿を消しているのは、目の前の現実だった。
この地域から出ている議員のひとりが、「毎年クジラでいっぱいになる海峡に、今年は一頭もいない」と、南の政府に調べるよう求めるまでになっていた。
イサクはマグカップをテーブルに置き、立ち上がった。玄関の土間へ行き、壁に掛けた防寒着を手に取る。
「また行くの」と、アニアクが背中に声をかけた。
「確かめてくる」
イサクは厚いブーツに足を入れながら答えた。
ほかの猟師たちの言葉を疑っているわけではなかった。
けれども、自分の目で見て、自分の耳で聞かないかぎり、彼は納得できなかった。
この海は、彼の一族を何代にもわたって生かしてきた場所だ。
その海で起きていることを、人任せにはできなかった。
「わたしも行く」
アニアクがスマートフォンをポケットにねじ込み、自分の防寒着をつかんだ。
イサクは振り返り、孫娘の黒い目を見つめた。
しばらく黙ったあと、彼は小さく顎を引いた。
第二章 船底の反響
数日後、二人はふたたび、フューリー・アンド・ヘクラ海峡の真ん中に浮かんでいた。
空は曇っていた。
雲の底が低く垂れ込め、海は前の日よりも暗い灰色に沈んでいる。
風は弱かったが、そのぶん空気がよどんでいるように感じられた。
イサクはあたりを注意深く見回してから、スロットルを戻し、エンジンの停止スイッチを押した。
ぶるる、という短い震えとともに、エンジンが止まった。
排気の音がふっと途切れ、広い静けさがボートを包み込んだ。
波が舳先を叩く、ちゃぷちゃぷという音だけが、やけに大きく聞こえる。
アニアクはフードを深くかぶり直し、両腕を抱えて身を震わせた。何か言おうと口を開きかけたが、イサクが手を上げて止めた。
聞け、と彼は唇の動きだけで言った。
二人は息をひそめ、耳を澄ませた。波の音。遠い風の音。自分の心臓の音。それ以外には、はじめは何も聞こえなかった。
けれども、何分かが過ぎ、耳が静けさに慣れはじめたころ、それは不意に現れた。
ピン。
しずくが薄い金属の板に落ちたような、澄んだ、けれども不自然なほど輪郭のはっきりした音だった。
それは空の遠くからではなく、間違いなく、足元の船体を通って、下から上へ伝わってきた。
アニアクが目を見開き、イサクを見た。イサクは表情を変えず、じっと足元の床板を見つめていた。
十秒ほどの空白。
ブーン。
今度は、低く震えるような音だった。
ボートの底板がかすかに共鳴し、ブーツの底を通して、足の裏に細かな震えが伝わってくる。
生き物の声には似ていなかった。
かといって、ただの機械の音とも違う、どこか意志を持っているような、奇妙な拍子がそこにはあった。
ピッ。
また、短い高い音。今度は少し、間が短かった。
アニアクが慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、録音のアプリを立ち上げた。
ケースの隙間からマイクのところを出し、それをボートの床に押し当てる。
「録れてるかな」と、彼女はささやいた。
音は、不規則な間をおいて続いた。
一分ほど途切れたかと思うと、立て続けに三度鳴ることもあった。
海峡の冷たい水を通って響いてくるその音は、遠さがまるでつかめなかった。
すぐ真下で鳴っているようにも、何キロも深い海の底の、知れない暗がりから立ちのぼってくるようにも思えた。
イサクは目を閉じ、古い記憶の糸をたぐった。
まだほんの子供だったころ、祖母から聞かされた話。
海の底には、ヌリアユク——南の人々がセドナと呼ぶ女——が住んでいる。
父親に舟から突き落とされ、舟べりにすがった指を切り落とされて、海に沈んだ娘。
切り落とされた指はアザラシやクジラになり、彼女は海の獣たちの母になった。
人が決まりを破り、驕ったふるまいをすれば、ヌリアユクは怒って髪を振り乱し、獣たちを自分のもとに囲い込んでしまう。
猟師たちは獲物を失い、飢える。
この音は、深い底で、もつれた髪を嘆く彼女の声なのだろうか。それとも、すべてを拒む怒りのしるしなのか。
イサクは目を開け、首を振って、その考えを追い払った。
言い伝えは、言い伝えだ。
いまの世の中では、南から来た大きな砕氷船が氷を割り、空には飛行機が飛んでいる。
けれども、もしこれが人間の機械の音だとしたら、なぜこんな海で、獣たちを追い払うようなことをしているのか。
十五分ほどたったころ、音はふっつりと途絶えた。
しばらく待っても、ふたたび鳴ることはなかった。ボートは、静まり返った鉛色の海に、ぽつんと浮かんでいるだけだった。
アニアクがスマートフォンを持ち上げ、録音を再生した。
流れてきたのは、波が船体を叩く音と、服の擦れるかさかさという音だけだった。
肝心のピンという音も、ブーンという音も、波の音にかき消されたのか、小さなマイクでは拾えない音だったのか、まるで入っていなかった。
「だめだ。全然入ってない」
アニアクは苛立たしげに画面を叩き、録音を止めた。
イサクは立ち上がり、エンジンの紐を握った。
「帰るぞ」
ここでは狩りはできない。
獣たちは、この音を嫌って逃げたのだ。
確かなのは、それだけだった。
イサクが紐を強く引くと、エンジンがうなりを上げ、静けさを打ち破った。
第三章 外からの声
八月に入ると、村の様子はさらに悪くなった。
海峡の異変は、もうハンターたちのあいだの噂話ではすまなくなっていた。
村からの強い求めを受けて、この奇妙な出来事は南の政府に正式に伝えられ、カナダの大きなニュースが、北極圏の小さな村で起きている不可解な出来事を取り上げはじめた。
イサクの家の居間では、ラジオの代わりに、アニアクのスマートフォンが外の世界の騒ぎを運んできた。
「見てよ、これ」
ソファにあぐらをかいたアニアクが、画面をイサクのほうへ突き出した。
南の大きな町の人たちが集まる、SNSの書き込みだった。
北極で謎の音? 絶対に宇宙人の秘密基地だろ。
昔の潜水艦が氷漬けのまま動いてるんじゃないの。
どうせ補助金ほしさに騒いでるだけだ。
アニアクの頬は、怒りで赤くなっていた。
「何も知らないくせに、好き勝手なことばっかり書いてる。宇宙人とか潜水艦とか、ばかにしてる。わたしたちがどれだけ困ってるか、ちっとも分かってない」
イサクはちらりと画面を見て、すぐに、手入れをしている銛の穂先に目を戻した。
やすりが金属を削る、しゅっ、しゅっという音が、静かな部屋に響く。
「放っておけ。あの連中に、わしらの腹は満たせん」
「でも、腹が立つじゃない。おじいちゃんは悔しくないの」
イサクはやすりを止めた。夏の終わりが近づき、夜になると、空がわずかに暗さを取り戻しはじめていた。
「南の人間が何を言おうが、海峡の氷がどうなるわけでもない」
彼は静かな声で言った。
「大事なのは、音が何かではなく、肉がどうなるかだ。冬が来る前に備えができなければ、誰のせいであっても、わしらは飢える」
鉱山の会社は、海峡のあたりで海底の調査や発破の作業はいっさいしていないと、公に否定した。
環境保護の団体も、動物を守るための音の装置を置いたことなどないと声明を出した。
軍の専門家は、あの海の深さや地形からみて、外国の潜水艦がひそんでいる見込みは低いと話していた。
誰もが否定し、誰も答えを持っていなかった。
残されたのは、獲物のいない広い海と、不安を抱えて冬を待つ村人たちだけだった。
ラジオからは相変わらず、空振りに終わった猟の知らせが、沈んだ調子で繰り返されていた。
イサクは銛の穂先を布で丁寧に拭い、壁の棚に立てかけた。
秋が近づいている。海が凍りはじめる前に、もう一度だけ、海峡の奥へ行かなければならない。イサクは、そう心に決めていた。
第四章 凍りゆく水面
十月に入ると、北極圏の空気は、はっきりと質を変えた。
風にまじる氷の粒は鋭さを増し、吐く息は顔の前ですぐに凍って、白い結晶になって落ちる。
海面には、油を流したような薄い氷——グリースアイス——が広がりはじめ、夜のあいだにそれはさらに固まって、シャーベットのような氷のかゆに変わっていく。
海が閉ざされるまで、残された時間は少なかった。
イサクは防寒着の下に、さらに一枚、厚いセーターを着込み、アニアクと三度目の海峡へ向かった。
舳先が薄い氷を割って進むたびに、乾いた音が寒空に響き渡る。
空は相変わらず重たい灰色だったが、雲の切れ間から、ときおり冷たく青白い光が海を照らした。
アニアクはボートの底に敷いた毛布にくるまり、ほとんど口をきかなかった。
スマートフォンは寒さで電池が急に減り、もう電源が落ちていた。
外の世界とのつながりを断たれた彼女は、ただ果てしなく広がる氷と海を見つめていた。
海峡のほぼ真ん中、イサクが長年の勘で決めた狩り場に着くと、彼はゆっくりとスロットルを戻した。
ボートは流氷を避けるように、黒い水面の真ん中で止まった。
イサクは停止スイッチを押し、エンジンを黙らせた。
前と同じ、耳鳴りのするほどの静けさが降りてきた。
波が船体を叩く音さえ、まわりに漂う氷のかゆのせいで、くぐもって聞こえる。
イサクは厚い手袋を外し、ライフルと銛を手元に引き寄せた。
凍てつく風が頬を刺したが、まばたきひとつせず、水面を見つめ続けた。
五分。十分。二十分。
何も起こらなかった。
アニアクが寒さにこらえきれず、小さく身を震わせたときだった。
ブーン。
ボートの真下、深い暗がりの底から、その音は湧き上がってきた。
前よりもはるかに強く、重い響きだった。
薄い船底の板が、目に見えない大きな手のひらで下から叩かれたように、びりびりと震える。
イサクの足の裏から膝へ、そして背骨へと、奇妙な震えがじかに伝わってきた。
アニアクがボートの縁にしがみついた。
ピン。
ピッ。
立て続けに、高い金物のような音が鳴る。
それは規則正しい機械の合図のようでもあり、同時に、途方もなく大きな生き物の心臓の鼓動のようでもあった。
音は海峡の水を震わせ、ボートの下で渦を巻いているように感じられた。
イサクは銛の柄を固く握りしめた。
長年の経験で知っているどんな音にも、これは当てはまらなかった。
氷がぶつかり合う音ではない。
潮の流れが海底の岩を削る音でもない。
それは、何かの意図をもって発せられている「声」のように思えた。
真下の水の深さは、何十メートルあるのか。その知れない暗がりの中で、何がこちらを見上げているのか。
ふたたび、ブーンという低い音が響き、ボート全体がかすかに揺れた。
その直後だった。
ボートから五十メートルほど前の水面——氷のかゆが漂う黒い海が、音もなく盛り上がった。
波ではない。
海そのものが下から押し上げられるように膨らみ、そこから、大きく滑らかな、漆黒の岩のような背中が、ゆっくりと水面を割って現れようとしていた。
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