序章 帰郷の匂い
グアヤキルの喧騒から逃れるように長距離バスに乗り込み、北へ数時間。
熱を帯びた風に目を細めながら、私は埃っぽい空気の向こうに広がる、濃い緑の海を見つめていた。
海沿いの乾いた景色はいつのまにか消え、湿り気をたっぷり含んだ重い空気が、肌にまとわりつくようになっていた。
ここはマナビ州の内陸、エル・カルメン。
エクアドルでも指折りのプランテンの産地だ。
道の両側には、見渡すかぎり、大きな葉が茂っている。
空を覆うように伸びた巨大な緑の葉の群れは、生き物のようにうねり、風に揺れるたびに、ざわざわと深い音を立てた。
子供のころから見慣れた、そしてしばらくのあいだ忘れていた景色だった。
泥だらけの停留所でバスを降り、少ない荷物をつかんで、ぬかるんだ赤土の道に立った。
空はもうどんよりと曇り、雨季のスコールが、いまにも降り出しそうだった。
家までの道のりは、記憶よりも少し長く感じられた。
道の脇には細い水路がめぐらされ、濁った水がゆっくりと流れている。
その水路の向こうに、わが家の畑が広がっていた。
私の家族は、三代にわたって、この土地でプランテンを育てている。
スペイン語でプラタノ、あるいはベルデ——「緑」——と呼ばれる、料理用の青いバナナだ。
生では食べられず、揚げたり、茹でて潰したりして食べる。
私の体の半分は、このベルデでできていると言ってもいい。
木と竹を組み合わせた高床の家が見えてきた。
二〇一六年の四月に起きた大きな地震は、マナビ州に大きな被害をもたらした。
エル・カルメンも激しく揺れ、古い家の多くが傷んだ。
わが家も柱が折れ、床が抜けた。
いまの家は、そのあと父と兄が中心になって建て直したものだ。
材木が少し新しくなったほかは、昔の面影をそのまま残している。
家の前まで来ると、階段の下に父がいた。
六十代も半ばの父は、深い皺の刻まれた顔と、日に焼けて赤銅色になった太い腕を持っていた。
手には使い込んだマチェーテ——山刀——を握っている。
父は私を見ると、大げさな身振りもなく小さく頷き、「着いたか」とだけ言った。
私は荷物を階段に置き、ただいま、と返した。
都会での数年は、私にわずかな蓄えと、どうにもならない疲れを残しただけだった。
何も言わなくても、父にはそれが分かっているようだった。
ふと見ると、父の足元に、小さな陶器の皿が置かれていた。
皿の上には、パネラ——精製していない黒砂糖の塊——が、丁寧に砕いてのせてある。
子供のころから変わらない、わが家の夕方の光景だった。
父は、私が皿を見ているのに気づくと、マチェーテの背で軽く自分の膝を叩いた。
「お前が帰ってきたことを、あいつらにも知らせてやらんとな」
そう言って、父は皿を拾い上げ、家の裏手に広がる畑の奥へ歩いていった。
鬱蒼と茂るプランテンの葉の陰に、父の背中が吸い込まれていく。
私はその光景を、都会の暮らしに慣れた頭で、どこか冷めた気持ちで見ていた。
あいつら。
父がそう呼ぶのは、畑の奥に住んでいるという、小さな者たちのことだった。
子供のころは半分くらい信じていたその存在を、大人になったいまの私が信じているはずはなかった。
それは、昔の人間が自然に抱く、ただの感傷にすぎない。
そう思っていた。
第一章 緑の海と赤い土
翌日から、私は泥にまみれる暮らしに戻った。
まだ暗いうちに起き出し、ゴムの長靴を履いて畑に出る。
朝もやの立ちこめるプランテン畑はひんやりとしていて、巨大な葉から滴る朝露が、冷たく首筋を濡らした。
三十代半ばの兄は、口数は少ないが、腕の立つ男だった。
兄と一緒に、収穫どきを迎えた大きな房を切り落としていく。
マチェーテを正確な角度で振り下ろし、太い茎を一太刀で断つ。
ずっしりと重い青い房を肩に担ぎ、ぬかるみに足を取られないよう踏ん張りながら、集める場所まで運ぶ。
単純だが、全身の筋肉を使う重労働だ。
数日もすると、手のひらにはいくつも新しい豆ができ、腰は悲鳴を上げた。
それでも、額から汗を流し、赤土の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいると、都会の事務所でパソコンの画面をにらんでいたころの、あの息の詰まるような気分は、少しずつ薄れていった。
昼前になると、湿った熱気が畑を覆いつくす。
木陰に座り込んで息をついていると、母と妹が昼食を運んでくる。バナナの葉で包んだ弁当、トンガだ。
葉を開くと、鶏肉の煮込みとご飯、それにピーナッツのソースをたっぷり絡めたベルデが、湯気を立てている。
ボロン・デ・ベルデ——茹でたベルデを潰し、チーズや豚の揚げかすを混ぜて丸めたもの——も添えてあった。
「ほら、しっかり食べなさい。都会でずいぶん痩せたんだから」
母はそう言って、私の手に大きなボロンを押しつけた。
妹は二十歳を過ぎたばかりで、まだ少女のような無邪気さを残していた。
都会から戻った私に、グアヤキルの流行やショッピングモールの話をしきりに聞きたがったが、母がすぐにそれをさえぎった。
「そんなことより、お前、暗くなってからひとりで畑に出るんじゃないよ。何度言ったら分かるんだい」
妹は口をとがらせた。
「分かってるわよ。こんな泥だらけのところ、夜中に誰が出歩くっていうの」
「いいかい。女の子が夜に畑に出たら、あいつらに連れていかれるんだ。あいつらは若い娘が大好きだからね。気に入られたら、森の奥に連れていかれて、二度と帰ってこられないんだよ」
母は大まじめだった。私はトンガの鶏肉をかじりながら、苦笑した。
ドゥエンデの話だ。
中南米のあちこちで、似たような話が語り継がれている。
大きなつばの帽子をかぶった小人で、森や畑の奥、水場の近くに住んでいる。
いたずら好きで、人の物を隠したり、家畜にちょっかいを出したりする。
そして、気に入った人間を、神隠しのように連れ去ってしまうこともある、と。
「母さん、本気で言ってるのかい」
呆れたように言うと、母はきつい顔で私をにらんだ。
「都会の水に染まって、大事なことを忘れてしまったのかい。このあたりで、娘が夜ひとりで畑に出るのを許す親なんて、いやしないよ」
そばで食べていた父が、ふっと笑い声を漏らした。
「連れていかれるかどうかは知らんがな。だが、あいつらがいるのは確かだ」
父は大きな手でマチェーテの泥を拭いながら、遠くの緑の陰に目を向けた。
「俺がまだ子供のころ、親父に連れられて、隣の州からここへ越してきた。そのころのエル・カルメンは、まだ荒れ地と森ばかりだった。木を倒して、泥にまみれて、一からこの畑を作ったんだ。
そのはじめのころから、あいつらはそこにいた」
第二章 父の語る隣人
午後のスコールが過ぎると、畑の湿気はいっそう増した。
作業の合間に、私は父と、細い水路の泥をさらっていた。水はけが悪くなると、プランテンの根が腐ってしまうからだ。
「あいつらはな、悪さばかりするわけじゃない」
泥をすくい上げながら、父はぽつりぽつりと語りはじめた。
「俺が若いころ、畑に置いておいた道具が、よくなくなった。前の晩、たしかに小屋の前に置いたはずの鍬が、どこを探しても見つからない。泥棒かと思ったが、足跡もない。
三日後、畑のいちばん奥の、誰も行かない水たまりの脇で見つかった。泥をきれいに落とされてな」
父は顔の汗を腕で拭った。
「牛を飼っていたころもあった。ある朝、小屋に行ってみると、牛の尻尾が細かい三つ編みにされていた。人の手では結べないような、込み入った、きれいな編み方でな。ほどくのがもったいないくらいだった」
私は黙って聞いていた。
置き忘れた道具や、牛の尻尾に絡みついた草の蔓を、昔の人はそうやって解釈したのだろうと、頭の隅で考えながら。
「だがな、いちばんの恩は、別のことだ」
父は泥のついた手を水路で洗い、まっすぐに私を見た。
「何年か前、このあたり一帯に、ひどい病気がはやった。シガトカだ。葉が黒く枯れて、実がまるで育たなくなる。隣の畑も、その向こうの畑も、みんなやられた。薬をいくら撒いても追いつかない。うちもこれで終わりだと、皆が覚悟した」
その年のことは、私もうっすら覚えていた。畑一面が黄色く立ち枯れ、村じゅうに重苦しい空気が漂っていた時期があった。
「ところが、うちの畑の奥の区画だけは、病気が入らなかった。そこだけ見えない壁で守られているみたいに、葉は青々と茂って、立派なベルデをつけた。その実のおかげで、うちは借金を背負わずに済んだんだ」
父は水路の向こうの、ひときわ葉の密集したあたりを指さした。
「あいつらは、この土地の番人だ。いたずらもするが、敬えば畑を豊かにしてくれる。だから俺は、毎日夕方にパネラを置くんだ。甘いものが好きだからな。あいつらがこの土地を気に入ってくれているかぎり、うちの畑は大丈夫だ」
父の口ぶりには、少しの疑いもなかった。
それは神への信仰というより、気難しい隣人とのつきあい方を話すような、ごく現実的で、暮らしに根ざした響きを持っていた。
奥の区画だけが助かったのは、水はけがいいからか、風向きのせいか、たまたまか。
そう言いかけて、私は口をつぐんだ。
父がそんなことを考えなかったはずはないのだ。
私は水路の泥を見つめながら、ふと兄のほうを見た。
少し離れたところで枯れ葉を集めていた兄には、父の話が聞こえていたはずだったが、何も言わず、ただ黙々と手を動かしていた。
第三章 夜警の打ち明け話
週末、私は町へ買い出しに出た。
小型トラックの荷台に空の木箱を積み、エル・カルメンの中心へ向かう。
ぬかるんだ道を抜けて舗装道路に出ると、揺れが少しだけおさまった。
市場で日用品をそろえ、トラックに戻ろうとしたとき、声をかけられた。
「おや、マテオじゃないか。帰ってたのか」
振り返ると、日に焼けた小柄な男が立っていた。
隣の大きなプランテン農園で夜警をしている、ダニエルという男だった。
子供のころから知っている顔だ。
「ダニエルおじさん。ええ、少し前にグアヤキルから戻りました」
「そうかそうか。都会に疲れちまったか。まあ、ここは泥だらけだが、気は楽だからな」
ダニエルは人のよさそうな笑顔で、私の肩を叩いた。
立ち話をするうち、話は自然と畑のことになった。私はふと思いついて、父のドゥエンデの話を持ち出してみた。
「父さんは相変わらず、畑の奥に小さい者がいるって信じてるんですよ。毎日甘いものを置いたりして。おじさんは夜通し畑を見回っているんだから、そんなのは迷信だって分かってますよね」
笑い話のつもりで言うと、ダニエルの顔から、すっと笑みが消えた。
彼はあたりをちらりと見回し、声をひそめた。
「マテオ、お前、本気で迷信だと思ってるのか」
ダニエルは私を自分のトラックの陰に引き寄せ、真剣な顔で話しはじめた。
「三か月前のことだ。雨上がりの夜中だった。俺は懐中電灯を持って、資材置き場の倉庫を見回っていた。お前んちの畑と境を接しているあたりだ」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を動かした。
「倉庫の前に、何かがいたんだ」
「野良犬か、ナマケモノでもいたんですか」
「違う。人みたいな形をしていたが、人とは呼べない代物だった」
ダニエルの声が、わずかに震えていた。
「大きさは、せいぜい俺の膝くらい。頭に合わない、ぶかぶかの帽子を深くかぶっていて、顔は見えなかった。体つきが、どこかゆがんでいた。腕が妙に長くてな。それが、倉庫の前に放り出してあった肥料の袋を、つついていたんだ」
ダニエルは酒が入るとほら話をすることがあったが、いまの彼の目には、たしかな怯えが浮かんでいた。
「俺は声も出せず、逃げることもできずに、懐中電灯の光をそいつの足元に向けたまま固まっていた。すると、そいつはぴたりと動きを止めて、ゆっくりこっちを向いた」
ダニエルは唾を飲み込んだ。
「顔は見えなかったが、見られている、という感じが強くあった。心臓が止まるかと思ったよ。だが、そいつは向かってくるでもなく、ふしゅっと鼻を鳴らすような音を立てて、信じられない速さで葉の陰に滑り込んだ。
あっという間に見えなくなった」
「おじさん、それ、本当に見たんですか。見間違いじゃなくて」
「見間違いなもんか」
ダニエルはきっぱりと言った。
「驚いたのは、そのあとだ。腰が抜けて、朝までその場にへたり込んでいたんだが、夜が明けて倉庫の前を見て、もう一度腰を抜かしかけた」
「何があったんです」
「前の日の夕方、怠け者の若い衆が、肥料の袋や使った道具を散らかしたまま帰っちまったんだ。ところが朝になったら、その重い袋が、壁際にきっちり積み上げられて、スコップや鍬も種類ごとにきれいに並べて立てかけてあった。あの小さいのが、夜のうちに片づけたんだよ」
ダニエルは、私の胸のあたりを指さした。
「お前の親父さんの言うことは正しい。あいつらはいる。機嫌を損ねなきゃ害はないが、怒らせちゃいけない。俺はそれ以来、あの倉庫のまわりを見回るときは、わざと大きな咳払いをして、こっちが行くぞって知らせるようにしてるんだ」
帰り道、ハンドルを握りながら、私はダニエルの話を何度も思い返していた。
見間違いだ。
闇と恐れが、ただの野生の動物を、ゆがんだ小人に仕立て上げたのだ。
道具が片づいていたのは、ダニエルが寝ぼけて自分でやったか、ほかの夜警が片づけたにちがいない。
頭では、そう結論づけていた。けれども、泥の道を走るタイヤの揺れが、なぜか胸の奥に、奇妙なざわめきを残していた。
もし、父の言うことが、ただの年寄りの感傷ではなかったとしたら。
もし、この広い緑の海の底に、本当に何かが息づいているのだとしたら。
第四章 暗がりの奥で
夕食の席で、私はダニエルから聞いた話を家族に打ち明けた。
母は眉をひそめて十字を切り、妹は少し怯えたようにあたりを見回した。
父だけは、満足げにボロン・デ・ベルデを頬張りながら、それ見たことか、と言わんばかりに鼻を鳴らした。
兄の様子をうかがうと、兄は黙って食べ続けていたが、その手が少しだけ止まり、目はテーブルの木目を見つめていた。
食後、母と妹が台所を片づけ、父が早々に寝室へ引き上げたあと、私は縁側に座って煙草に火をつけた。
雨上がりの夜の空気は重く、遠くで蛙がやかましく鳴いている。
後ろで床板がきしみ、兄が隣に腰を下ろした。
「ダニエルの話、お前はどう思う」
兄が低い声で尋ねた。私は煙を吐き出しながら、肩をすくめた。
「ただの見間違いだろう。暗がりで、動物を勘違いしたんだ」
「そうか」
兄は短く答え、私の手から煙草を取って、一口吸った。
「俺は、親父の言うことを全部信じているわけじゃない」
兄は煙を夜空に吹き上げながら、ぽつりと言った。
「ドゥエンデだの精霊だの、そういう昔話はどうでもいい。だがな、マテオ。この畑の奥には、俺たちの手の届かない何かがいる。それはたしかだ」
私は兄の横顔を見た。ふだん口数が少なく、目の前の仕事しかしない兄の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「見たのか」
「はっきりとは見ていない。だが、収穫が遅れて夜中まで畑に残っていたとき、何度か感じたことがある」
兄は、畑の奥の、真っ暗な闇に沈む緑の海を指さした。
「いちばん奥の区画。親父がいつもパネラを置くあたりだ。夜中になると、風もないのに、あそこの葉だけが大きく揺れることがある。それに、ときどきひどく臭う。腐った卵のような、マッチを擦ったときのような、硫黄の匂いだ」
私は息を吐いた。
奥の区画のさらに向こうには、昔から水の抜けない湿地がある。
腐った泥から湧くガスなら、硫黄のような匂いもするだろう。
理屈をつけるなら、そうなる。
「匂いだけじゃない。光を見たこともある。蛍よりずっと強くて、ランタンより低い、地面すれすれを這うような光だ。それに、声も聞いた」
「声」
「言葉じゃない。歌うような、鳥のさえずりのような、妙に高い声だ。近づこうとすると、ぴたりとやんで、光も消える。探しても、誰もいない」
兄は煙草を私に返し、立ち上がった。
「お前、都会暮らしでずいぶん理屈っぽくなったな。ダニエルの話も親父の話も、頭から否定している。だったら、自分の目で確かめてみるか」
私は兄を見上げた。
「今夜、行くっていうのか」
「ああ。雨上がりで湿気の強い夜は、よく出る。ちょうどいい」
私は少し迷ったが、頷いて立ち上がった。都会で身につけた理屈が、田舎の迷信を打ち負かしたがっていたのだ。
第五章 歌う光
私たちは長靴を履き、それぞれ強い光の懐中電灯を持って、夜の畑へ踏み出した。
夜のプランテン畑は、昼とはまるで違う顔をしている。
見上げるほど高く伸びた巨大な葉が空の光を遮り、足元には真っ暗な闇が広がっている。
葉が風に揺れて擦れ合う音は、無数の人がひそひそとささやき合っているように聞こえた。
私たちは光を下に向けて泥のぬかるみを照らしながら、黙って奥へ、奥へと進んだ。
長靴が泥に沈み、引き抜くたびに、粘りのある音がした。
奥へ進むにつれて、まわりの空気がさらに重く、濃くなっていくのが分かった。息苦しいほどの湿気だ。
十分ほど歩いたとき、不意に風がやんだ。
ざわざわと鳴っていた葉の音が消え、気味の悪いほどの静けさが落ちてきた。遠くで鳴いていた蛙の声さえ、聞こえない。
兄が立ち止まり、手で私を制した。鼻をひくつかせている。
私も匂いを嗅いでみた。
むせ返るような、強い硫黄の匂いだった。
兄が私の腕をつかみ、斜め前を指さした。
闇の奥、プランテンの太い茎の根元のあたりに、ぼんやりとした黄色い光が浮かんでいた。
懐中電灯の光とは違った。
ゆらゆらと揺れ、小さな松明のようにも、光る苔のようにも見えた。
地面からわずか数十センチという、ひどく低いところに、その光はあった。
そして、静けさを破って、かすかな音が聞こえてきた。
ひゅるるる、ひゅる、ひゅるる。
鳥の声にも似ているが、もっと規則正しく、節があった。
口笛とも声ともつかない、高い音。
誰かが、機嫌よく歌っているような音だった。
全身の産毛が逆立った。理屈では片づかない、体の奥からの恐れが、背筋を駆け上がった。
兄は黙ったまま、懐中電灯を消した。私もそれにならった。
私たちは闇の中、その低い光と歌声に向かって、泥の音を立てないよう、ゆっくりと近づいていった。
十メートル。八メートル。
五メートルほどまで近づいたときだった。
ふっ、と光が消えた。
同時に、歌声も途絶えた。
真っ暗な闇と、沈黙。目を凝らしたが、プランテンの茎の黒い輪郭があるだけで、何も見えなかった。
逃げたのか。
そう思い、私はほっと息を吐き出そうとした。
そのときだった。
私のすぐ背後、首筋に息がかかるほど近いところで、音が鳴った。
ぴゅいっ。
短く、鋭い口笛。
それは、父が畑の遠くにいる家族を呼ぶときにだけ使う、あの独特の合図だった。
父は、家で眠っているはずだった。
本文の約77%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。