序章 南の果ての記録者
出発の二か月前、私はブエノスアイレス郊外の古い住宅地を訪ねた。
十一月の陽射しはもう強く、庭先のハカランダの木が、薄紫の花を落としていた。
乾いた土の匂いと、遠くで吠える犬の声。
私は住所を書いた紙切れと、目の前の色あせた赤煉瓦の家を見比べた。
間違いない。
ここがアルベルトの家だ。
私は気象観測員として、次の冬を、南極のオルカダス基地で過ごすことになっていた。
南オークニー諸島のローリー島にある、南極でいちばん古い基地だ。
スコットランドの探検隊が残した石造りの小屋を引き継ぐ形で、一九〇四年からアルゼンチンの人間が暮らし、それ以来、一年も途切れることなく人が冬を越してきた。
私はそこで、気象のデータを集め、観測機器の手入れをすることになっていた。
赴任が決まってから、私は基地の歴史にかかわる資料を読みあさった。
膨大な気象データや氷の観測記録にまじって、隊員たちの手記や、日誌の写しが、わずかに残されていた。
その中に、奇妙な記述を見つけた。
一九六一年の冬。
越冬隊長が書き残した日誌の写し。
そこには、凍ったスコシア湾の上を、船のように動いていった光のことが記されていた。
私はその記録に、強く惹きつけられた。
長い冬の夜の孤独の中で、彼らは何を見たのか。
それを記録に残すことに、当時の隊長は何を込めたのか。
基地の関係者に尋ねて回った末に、当時の越冬隊に無線係の助手として加わっていた人が、いまもブエノスアイレスの郊外で暮らしていることを知った。
それがアルベルトだった。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして重い木の戸が開いた。
白髪を短く刈り込み、深い皺の刻まれた顔をした、小柄な老人が立っていた。
彼は私の顔をじっと見つめ、それからゆっくりと顎を引いた。
部屋の中は薄暗く、古い家具と古本の匂いがした。
老人は、銀色のボンビージャ——金属の吸い口——を挿したひょうたんの器に熱い湯を注ぎ、マテ茶を淹れてくれた。
私はそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
独特の苦みが、喉の奥に広がった。
私は名を名乗り、次の冬からオルカダス基地へ行くこと、そして一九六一年の日誌の記録について尋ねに来たことを告げた。
老人はしばらく、手元のマテ茶の器を見つめていた。
その目は、目の前の私ではなく、ずっと遠くの、時も場所も隔てたところを見ているようだった。
「あれは、もう半世紀以上も前のことだ」
老人は、低くかすれた声で言った。
「皆、忘れてしまった。隊長のフェルナンドも、ほかの連中も、もうこの世にはいない。わたしひとりが、あの冷たい氷の上の記憶を抱えて、生き残ってしまった。
あんたは、あの光のことを知りたいと言うが、わたしにも説明はできないよ。わたしたちにできたのは、見たものを書き留めることだけだったんだから」
老人は静かに息を吐き、ゆっくりと語りはじめた。一九六一年の、日の短い、果てしなく長い冬の夜のことを。
以下は、その午後、アルベルトが私に語ったことである。
第一章 石の小屋の冬
一九六一年のオルカダス基地は、あんたたちがこれから行くような、楽なところではなかった。
老人はそう言って、小さく笑った。
いまのような暖房もなければ、衛星の通信もない。
外の世界とのつながりは、わたしと上司が受け持っていた無線だけだった。
それも天気しだいで、吹雪の日には、モールス信号の電鍵をいくら叩いても、雑音ばかりで何も返ってこないことが多かった。
その冬の越冬隊は、全部で十人。
気象観測、無線、機械の手入れ、それに犬の世話をする者がいた。
そう、あのころはまだ犬ぞりを使っていた。
犬たちの遠吠えは、氷点下の風にまじって、わたしたちの孤独を少しだけまぎらわせてくれた。
暮らしの拠点は、スコットランド人の残した古い石の小屋だった。
厚い石の壁は風をさえぎってくれたが、それでも寒さは骨の髄までしみ込んできた。
部屋の真ん中には大きな石炭ストーブがあって、わたしたちはそのまわりに集まっては、凍えた指先を温めた。
石炭の燃える匂いと、濡れた毛織りの服が乾く匂いが、いつも小屋の中にこもっていた。
六月に入ると、日はどんどん短くなる。
昼のあいだも、太陽は北の空の低いところに、ほんの数時間、弱々しく顔を出すだけだ。
あとは長い、長い夜が続く。
それはただの夜ではなかった。
時間が凍りついたような、果てのない暗がりの連なりだった。
時計の針だけが律儀に進み、外の世界は、黒と、星や月に照らされた氷の白とでできていた。
目の前には、スコシア湾が広がっていた。
冬になると、湾は一面に凍りつき、大きな平原に姿を変える。
氷は、人や犬ぞりが渡れるほど厚くなり、そこが海だったことさえ忘れさせた。
湾の中には、エイルサ・クレイグという小さな島があった。
黒い岩肌をむき出しにしたその島は、凍った海に取り残された墓標のように、いつも黙ってそこにあった。
毎日の仕事はきつかった。
気象観測のためには、吹雪の中でも外へ出なければならない。
観測機器についた氷を払い落とし、目盛りを読む。
暮らしに使う水を得るには、厚い氷を砕いて溶かさなければならない。
少しでも手袋を外せば、あっという間に皮膚が凍りつく。
何をするにも、命がけだった。
それでも、わたしたちは規律を守り、毎日の記録をつけ続けた。
隊長のフェルナンドは、とりわけ記録を重んじる男だった。
気象のデータでも、無線のやり取りでも、機械の小さな故障でも、彼はすべてを細かく日誌に書き残した。
わたしたちがここにいて、務めを果たしていることの、ただ一つの証が、その記録だったからだ。
長い夜をもてあまして、わたしたちはカードをしたり、擦り切れるほど読んだ本を交換したりして過ごした。
けれども、どれほど気丈にふるまっていても、十人の男の心の底には、いつも重い澱のような孤独が沈んでいた。
世界から切り離され、忘れられてしまったのではないかという恐れ。
それが、あの冬という季節だった。
第二章 黙り込む無線
七月の半ば。その日も、激しい風が吹き荒れていた。
老人は言葉を切って、マテ茶の器に熱い湯を注ぎ足した。
わたしは無線室で、耳を覆う受話器に神経を集めていた。
雑音の海の中から、ブエノスアイレスからの定時の連絡を拾い上げようとしていたんだ。
だが、聞こえてくるのは、ぱちぱちという空電の音と、気味の悪いほどの沈黙だけだった。
上司がわたしの肩を叩き、首を横に振った。きょうは無理だ、空の具合が悪すぎる、と。
わたしは電鍵から手を離し、深いため息をついた。
外からの声が途絶えるのは、わたしたちにとって、吸う空気が薄くなるのと同じだった。
自分たちのほかに人間がいることを確かめられない不安が、じわじわと胸の奥を蝕んでくる。
気分を変えようと、わたしは防寒具を着込み、石の小屋の厚い戸を開けた。
一歩外に出ると、肺の凍りつくような冷気が、顔を殴りつけてきた。
風は少しおさまっていたが、それでも雪の粒が容赦なく叩きつけてくる。
わたしは犬たちの様子を見に、雪を踏んで小屋の裏手へ回った。
空にはオーロラもなく、ただ圧倒的な闇が広がっていた。
星明かりに照らされたスコシア湾の凍った海面が、かすかに青白く浮かび上がっている。
エイルサ・クレイグ島の黒い影が、闇の中で、いっそう濃い影をつくっていた。
その夜の静けさは、いつもと少し違っていた。
氷のきしむ音がしなかったんだ。
ふだんなら、寒さの具合で氷の層がゆがみ、大きな獣がうめくような低い音が、いつもどこかで響いている。
それが、その夜は、風の音さえ遠く感じられるほど、不自然な静けさが、あたりを覆っていた。
わたしは、言いようのない不安に駆られた。
振り返って、小屋の戸口から漏れるかすかな明かりを確かめた。
あの明かりだけが、わたしの命をつないでいる。
そのときだった。
「おい、あれを見ろ」
誰かの声がした。
振り向くと、気象観測から戻ってきた隊員のひとりが、スコシア湾の西の岬のほうを指さして、立ち尽くしていた。
防寒具に覆われて顔は見えなかったが、その声には、はっきりと動揺がまじっていた。
わたしは、彼の指さすほうへ目を凝らした。
闇の彼方に、小さな点が浮かんでいた。
第三章 凍った海の上の火
はじめは、ただの星かと思った。地平線の近くで光る、ひときわ明るい星。
だが、その点は、たしかに動いていた。
小屋の中にいた者たちも、異変に気づいて次々と外へ出てきた。
フェルナンド隊長も、厚いコートを羽織って、わたしたちの隣に並んだ。
十人の男が、身を切るような寒さの中で一列に並び、ただその一点を見つめていた。
光は、橙がかった赤い色をしていた。
燃えさかる火のような、あるいは自動車の前照灯を遠くから見ているような、強く、生々しい光だった。
それが、スコシア湾の西の岬の陰からゆっくりと現れ、凍った海の上を動いていたんだ。
あり得ないことだった。
スコシア湾は一面に凍りついている。
船が入ってくることなど、できるはずがない。
氷の上を走る雪上車だとしても、あんな色の光は出さない。
そもそも、このあたりの海に、わたしたちのほかに人間がいるはずがなかった。
だが、光はたしかにそこにあった。
それは、波に揺れる船のように、ゆっくりと上下に揺れながら進んでいた。
見えない波をかき分けて進んでいるかのように。
上下するたびに、光の強さがかすかに変わり、氷の表面に、気味の悪い赤い照り返しをつくった。
距離はまるでつかめなかった。
数キロ先なのか、もっと遠くなのか。
ただ、その動きの遅さと揺れの拍子が、それが途方もなく大きなものであることを思わせた。
隊長が、絞り出すような声で言った。
「アルベルト、すぐに無線室へ戻れ。周波数を探れ。近くに船がいるかもしれん。どんなにかすかな信号でもいい、拾え」
わたしは弾かれたように小屋へ駆け戻った。
かじかんだ指で、無線のダイヤルを回す。あらゆる周波数を探り、電鍵を叩いて応答を求めた。
こちらオルカダス基地。応答せよ。所属を知らせよ。
雑音。ぱちぱちという空電の音。
付近を航行中の船舶、応答せよ。
わたしは何度も繰り返した。受話器を耳に押しつけ、息を殺して、雑音の奥の音を探った。
何もなかった。
どの船も、どの基地も、応えなかった。沈黙だけが、重く冷たく、耳の奥に響いていた。
わたしは絶望的な気分で無線室を飛び出し、ふたたび外へ出た。
光は、まだそこにあった。
十人の男たちは、誰ひとりその場を動いていなかった。皆、凍った海の上を進むその赤い光を、黙って見つめ続けていた。
光は、エイルサ・クレイグ島のほうへ向かって、ゆっくりと、だが確実に進んでいた。
上下に揺れるその動きは、生き物の呼吸のようにも見えた。
そのときだった。
光の動きが、ふいに止まった。
ゆっくりと上下していた揺れがおさまり、氷の上に静止した。
そして、それは向きを変えた。
西から東へ向かっていた光が、ゆっくりと、こちらへ、その赤い目を向けたように見えたんだ。
強い悪寒が、背筋を駆け上がった。
見られている。
わたしたち十人は、雪の上に釘づけにされたまま、身動きひとつとれなくなった。
どれほどの時間がたっただろう。
わたしたちは、息をすることさえ忘れたように、ただ雪の上に立ち尽くしていた。
極寒の風が顔を叩いているはずなのに、寒さはまるで感じなかった。
こちらを向いた赤い光は、わたしたちを観察し、品定めでもしているかのようだった。
その光の奥に、何かの意思がひそんでいるような、圧倒的な重さがあった。
誰も声を出せなかった。
少しでも動けば、あの火のような光が、凍った海を越えて、まっすぐこちらへ向かってくるのではないか。
その恐れが、全員の体を縛りつけていた。
けれども、光はそれ以上、近づいてはこなかった。
止まってから数分ののち、光はふたたび、ゆっくりと向きを変えた。
そして、何ごともなかったかのように、もとの西から東への道筋に戻っていった。
波に揺れる船のような上下の動きを取り戻し、ゆっくりと、ひたすらゆっくりと、暗い海の上を滑っていく。
わたしたちは、ただ黙ってそれを見送った。
光はエイルサ・クレイグ島のほうへ進み続け、やがて、その黒々とした岩肌の陰へ滑り込んでいった。
岩の向こうで、赤い残り火のような光が数秒だけまたたき、それから、すっかり消えた。
あとに残されたのは、底のない闇と、もとのままの凍ったスコシア湾だけだった。
光が現れてから消えるまで、二十分あまりのことだった。
誰かが、深く、震える息を吐いた。
それを合図にしたように、全員の体に、急に寒さが戻ってきた。
歯の根が合わなくなり、体が勝手に震えだした。
わたしたちは、逃げるように石の小屋へ戻った。
厚い木の戸を閉め、かんぬきをかける。
石炭ストーブの熱が、凍りついた防寒具を溶かし、しずくが石の床に落ちた。
小屋の中には、荒い息の音だけが響いていた。
「アルベルト」
フェルナンド隊長が、低い声でわたしを呼んだ。
「無線は」
わたしは首を振った。
「どの周波数にも、何もかかりませんでした。応える船はありません。ほかの基地からの交信もありません。完全な沈黙です」
隊長はそれきり何も言わず、ストーブの火を見つめていた。
ほかの隊員たちも同じだった。
いま自分たちが見たものが何だったのか、誰ひとり、言葉にできなかった。
言葉にしてしまえば、自分たちの正気が崩れてしまうような気がしたんだ。
第四章 氷原の空白
翌日、昼の短い明るさが空を薄く染めるのを待って、わたしたちは犬ぞりを出した。
光が通ったはずのあたりを、調べるためだ。
犬たちの荒い息と、そりの滑る音だけが、静けさを破っていた。
わたしたちは凍ったスコシア湾の上を進み、西の岬とエイルサ・クレイグ島を結ぶあたりに着いた。
光は、たしかにここを通った。
わたしたちの目測が正しければ、まさにこの上を、あの赤い光が上下に揺れながら進んでいったはずだった。
そりから降りたわたしたちは、ランタンをかざし、氷の表面を、くまなく照らしていった。
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