序章 白い都の静けさ
ハバナの日差しは、生きている者の肌を容赦なく焼くが、死者たちの眠る場所では、不思議と熱を失うように見えた。
北の海から吹き込む湿った潮風がベダード地区の並木を揺らし、その緑の帯を抜けた先に、目もくらむほど白い大理石の街並みが広がっている。
クリストバル・コロン墓地。
五十ヘクタールを超える広い敷地には、碁盤の目のように大通りと小道が走り、何万もの霊廟や彫像が、地上にもう一つのハバナを写し取ったかのように立ち並んでいる。
尖った塔、古い神殿のような円柱、翼を広げた大天使たちが、青空の下で、音もなく息をひそめていた。
生きている者の街では、古いアメリカ車の排気ガスと、建物の補修工事から舞い散る埃が絶えることがない。
配給所の前には朝早くから長い列ができ、誰もが小さな扇子や紙切れで胸元をあおぎながら、今日のパンや油の割り当てについて噂話を交わしている。
けれども、ひとたびあの大きな門をくぐれば、すべての騒がしさは、乾いた砂が水を吸い込むように消えてしまうのだった。
そこは、百五十年近く積み重ねられてきた、記憶と沈黙の場所だった。
富める者も貧しい者も、独立戦争の英雄も名もない労働者も、最後にはあの白い石のあいだへ滑り込み、強い日差しにさらされながら、ゆっくりと風化していく。
けれども、その広い静けさのただ中に、ただ一か所だけ、生きている者の体温が決して途切れない一角があった。
そこには毎日、朝の開門と同時に、人々が吸い寄せられるように集まってくる。
名所を巡る外国人の姿はほとんどない。
つばの広い麦わら帽子をかぶった年配の婦人、ふくらんだお腹にそっと手を添えた若い娘、赤ん坊を抱いた父親、くたびれた革靴を引きずるように歩く老人。
彼らはみな、同じ場所を目指して白い大通りを進み、一つの墓の前に、静かな列をつくる。
墓の上に立つのは、白い大理石で彫られた若い女性の像だ。
彼女は左腕に小さな赤ん坊を抱き、右手で大きな十字架を支えながら、何かを問いかけるように、あるいはすべてを許すかのように、足元を見つめている。
人々はその墓の前で、決まった仕草を繰り返す。
手を伸ばし、墓石に取りつけられた金属の輪を握る。それを持ち上げて、石に打ちつけ、乾いた音を響かせる。一度、二度、三度。
その音は、眠っている誰かの部屋の扉を叩く合図のように、墓地の乾いた空気に鋭く染み通っていった。
第一章 青い処方箋
その年の春、私のお腹には、新しい命が宿っていた。
夫のマノロと結婚して五年、待ち望んでいた最初の子だった。
三十一歳の私は、ハバナ市内の小さな公立小学校で、学籍簿の整理や消耗品の管理をする事務員として働いていた。
マノロは旧市街の外れにある協同組合の木工所で、家具の修理や窓枠の削り出しをする指物職人だった。
二〇一五年という年は、街じゅうが、どこか落ち着かない期待に浮き足立っていた。
長いあいだ途絶えていたアメリカとの国交が戻るという知らせがラジオから流れ、海沿いのマレコン通りには、見慣れない外国の観光客が目立って増えはじめていた。
配給の暮らしの厳しさは相変わらずだったが、街の人々は、これからは少しはましになるのではないかと、口々に語り合っていた。
けれども、そうした時代の大きなうねりは、私の足元に忍び寄っていた不安を、何一つ拭ってはくれなかった。
妊娠七か月に入ったころから、私の体は目に見えておかしくなりはじめた。
朝起きると、足首が丸太のように腫れていて、愛用のサンダルの革紐が肉に深く食い込んだ。
はじめは暑さのせいだと思っていた。
だが、やがて頭の奥を重い金槌で叩かれるような鈍い痛みが一日じゅう続くようになり、耳の奥では、波が絶え間なく打ち寄せるような低い音が鳴りはじめた。
近所のポリクリニコ——地域の診療所——へ行った日のことを、私は今でもはっきりと覚えている。
診察室の天井では、古い扇風機が頼りない音を立てて回っていた。
担当のアルマンド医師は、私の腕に血圧計の帯を巻き、ゴム球を何度も握った。
目盛りを見つめる先生の顔から、いつもの柔らかな笑みが消えていくのが分かった。
「エレナ、血圧がずいぶん上がっている」
先生は、聴診器を首に掛け直しながら、静かに言った。
「妊娠高血圧腎症の疑いがある。放っておくと、母親にもお腹の子にも、とても危ない。すぐに仕事を休んで、横になっていなさい」
先生は小さな青い紙に、薬の名前を書きつけた。血圧を下げる薬と、ほかにいくつかの薬だった。
「これを薬局で受け取って、言われたとおりに飲むんだ。絶対に無理をしてはいけないよ」
けれども、その紙を持って近所の薬局へ行った私は、窓口の鉄格子の向こうで、すまなそうに首を横に振る薬剤師の顔を見ることになった。
「エレナ、悪いけれど、その薬は先週から切れているの。倉庫にも入ってこないのよ」
ほかの薬局を三軒回ったが、返ってくる答えは同じだった。
この国では、医者に診てもらうことにお金はかからない。
けれども、肝心の薬が棚から消えてしまうことは、珍しくなかった。
家に帰り、薄暗い居間の古い椅子に身を沈めると、涙が勝手にこぼれた。
お腹の中で、赤ん坊が小さく、頼りなく動いた。
外の世界の危うさを感じとって、震えているかのようだった。
夕方、仕事から戻ったマノロは、私の腫れた足と、薬の手に入らない処方箋を見て、青ざめた顔で立ち尽くした。
彼は木工所の仲間に連絡をとり、薬を融通してくれる人を探すと言って飛び出していったが、確かな当てがあるわけではなかった。
夜、私の寝台のそばにやってきたのは、同じ地区に住む母のカルメンだった。
母は六十三歳になる。
長年、近所の診療所で看護助手として働いて定年を迎えた、現実的な人で、古い迷信や祈りごとを口にすることなど、めったになかった。
その母が、私の額に冷たいタオルを当てながら、思いつめたような低い声で言ったのだ。
「エレナ、明日の朝、コロン墓地へ行くよ」
「墓地?」
痛む頭を押さえながら聞き返すと、母は真剣な目で私を見た。
「アメリアさまのところだよ。ラ・ミラグロサ——奇跡の女——のお墓へ行くんだ。あそこへ行って、お前のお腹の子を助けてくださるよう、お願いするんだよ」
私は戸惑った。母がそういう信心に頼ろうとする姿を、見たことがなかったからだ。
「でも、お母さん。あそこはただの墓地でしょう。お医者さまの薬だって手に入らないのに、亡くなった人にお願いしたって……」
「ばかをお言い」
母は私の手を強く握った。その手のひらは、長年の家事と仕事で、硬くひび割れていた。
「アメリアさまはね、ただの死人じゃない。お前と同じように、お産の苦しみの中で亡くなった、若いお母さんなんだ。百年のあいだ、ハバナの女たちがどれだけあの方にすがって、どれだけの赤ん坊が無事に生まれてきたか、お前は知らないのかい。
薬を探すのはマノロに任せればいい。でも、私たちにできることがあるなら、何だってやるべきなんだよ」
母の目に宿る必死の光を見て、私はそれ以上、何も言い返せなかった。
第二章 ベダードの交差点
翌朝、ハバナの空は、雲一つない抜けるような青だった。
涼しさが残るうちに、私たちはタクシーを拾った。
一九五〇年代の古いシボレーの座席はばねが壊れかけていて、道が悪いところを走るたびに、お腹に鈍い痛みが走った。
運転手は無口な中年の男だったが、母が「コロン墓地の正門まで」と告げると、バックミラー越しに私のお腹をちらりと見て、黙って車の速さを少し落としてくれた。
墓地の正門は、大きな通りの交わる角に、堂々と構えていた。三つのアーチを持つ石の門には、精緻な浮き彫りが施されている。
門を一歩くぐると、外の騒がしさが嘘のように遠のいた。
大理石の照り返しが目を射る。
母は私の腕をしっかりと支えながら、中央の広い並木道を進んだ。
「ほら、あそこだよ」
母が指さした先に、人だかりができていた。
まわりの豪壮な霊廟に比べれば、その墓は決して大きなものではなかった。
平らな大理石の台の上に、等身大より少し大きな白い像が立っている。
長い衣をまとった若い女性が、左腕に幼い子をしっかりと抱き寄せ、右手には自分の背丈ほどもある大きな十字架を握っていた。
その顔は穏やかで、慈しみに満ちているようでもあり、どこか遠い彼岸を見つめているようでもあった。
墓のまわりは、花で埋めつくされていた。
グラジオラス、カーネーション、白い百合、黄色い野の小さな花。
色あせた古い花は片づけられ、今朝摘まれたばかりの花束が、台の上に幾重にも重ねられている。
そして、墓石の側面や足元の地面には、小さな大理石の板が、隙間なくびっしりと並べられていた。
板には、短い言葉が刻まれていた。
「ありがとう、アメリア」
「わが子の命を救ってくださった奇跡の母へ」
「一九八三年、無事の出産に感謝して」
「二〇〇二年、息子の病が癒えました」
手彫りのたどたどしい文字もあれば、石工が美しく彫った金文字もあった。
何百枚、何千枚もの板が、何十年という歳月の層をなして、墓のまわりを埋めつくしているのだ。
墓の前には、十数人の人々が、静かに列をつくっていた。
お腹の大きな若い女性が、母親らしい年配の女性に肩を抱かれて立っている。
その前では、よちよち歩きの子の手を引いた若い父親が、緊張した顔で順番を待っていた。
誰も大きな声を出さず、小声で祈りの言葉を呟くか、じっと像を見上げている。
列の脇には、古びた黒い日傘をさした小柄な老女が立っていた。
洗いざらしの木綿のブラウスを着て、首には木のロザリオを下げている。
彼女は墓を訪れる人々に声をかけ、花の置き場所を整えたり、作法を優しく教えたりしていた。
「初めてかい、お嬢さん」
私たちが列の後ろに並ぶと、老女が穏やかな声で話しかけてきた。
日焼けした顔の皺の奥で、澄んだ茶色の目が、私のお腹を見つめていた。
「はい。娘の体の具合がよくなくて、お願いに参りました」
母が答えると、老女は深く頷き、自分の胸に手を当てた。
「心配いらないよ。アメリアさまはね、子を抱いた母親の祈りを、決して粗末にはなさらない。私はロサリオ。
もう三十年、ここでアメリアさまのお世話をさせていただいているんだ。私の孫もね、昔、生まれてすぐにひどい肺炎にかかって、お医者さまも見放しかけた。そのときここへ来て願をかけたら、次の朝には、嘘のように熱が下がったのさ。
それからは、毎日ここへ通って、あの方の話をみんなに伝えているんだよ」
ロサリオと名乗った老女は、墓の上の像を見上げながら、親しい身内のことを話すように、静かに語りはじめた。
第三章 三度鳴る輪
「アメリアさま……アメリア・ゴイリ・デ・ラ・オスさまはね、一八七七年に、ハバナのいい家に生まれたんだ」
ロサリオの声は低く、墓地の乾いた風に溶け込むように、なめらかだった。
「あの方は、いとこのホセ・ビセンテ・アドットさまと、子供のころから深く愛し合っていた。けれど、家の事情で、なかなか結婚を許してもらえなかったと言われている。そのうちホセさまはキューバの独立戦争に身を投じて、解放軍の大尉になって戦い抜いた。
戦争が終わって、ようやく二人は夫婦になれたんだ。どれほど幸せだったろうね」
ロサリオは、ため息をつくように間を置いた。
「けれど、神さまのお考えは、ときに残酷だ。結婚して間もなくアメリアさまは身ごもったが、子癇という恐ろしい発作に見舞われた。一九〇一年の五月三日……百十年以上も前のことだよ。
二十四歳の若さで、アメリアさまは息を引き取られた。お腹の赤ん坊も、助からなかったのさ」
私は思わず、自分のお腹に手を当てた。
百十年前の若い女性の命を奪ったものが、昨日アルマンド先生から告げられた病と、あまりにも重なっていたからだ。
「そのころの習わしではね」とロサリオは続けた。
「赤ん坊は、棺の中のお母さんの足元に置かれて葬られることになっていた。アメリアさまも、わが子を足元に置かれたまま、この土の下に眠ることになった」
残された夫、ホセ・ビセンテの悲しみは、狂おしいほどだったという。
彼は毎日、朝の開門とともに墓地へやってきた。
黒い喪服に身を包み、妻の墓の前に立つと、墓に取りつけられた輪で、三度、石を叩いた。
眠っている妻を起こすためだった。
彼は妻に語りかけ、墓地を出るときは決して妻に背中を向けず、顔を墓に向けたまま、後ずさりで去っていった。
愛する妻に背を向けることなど、彼にはできなかったのだ。
「ホセさまはね、四十年近く、雨の日も風の日も、毎日それを繰り返したんだよ」
ロサリオは、慈しむように墓を見つめた。
「そして何年かたって、身内の別の方を葬るために、アメリアさまのお墓が開けられることがあった。そのとき、お墓の中を見た人たちは、わが目を疑ったのさ」
私は息を詰めて、ロサリオを見つめた。
「アメリアさまのお体は、葬られた日のまま、少しも朽ちていなかった。そしてね……足元に置かれていたはずの赤ん坊が、アメリアさまの腕の中に、抱きかかえられていたんだよ」
風が墓地を吹き抜け、供えられた百合の花びらを、わずかに散らした。
「そんな……」
私が呟くと、ロサリオは小さく微笑んだ。
「信じるか信じないかは、お前の心しだいだよ。記録には何も残っていないし、伝説にすぎないと言う人もいる。けれどね、その話が広まると、同じように子を亡くした母親や、お産を怖がる身重の女たちが、このお墓に集まってくるようになった。
ホセさまは、はじめは妻の静けさを乱されるのをひどく嫌がったそうだ。花を供えるなという札を立てたこともあったけれど、次の日には札がなくなって、また花が置かれていた。そのうち、ホセさまも、女たちが祈るのを黙って許すようになったんだよ。
一九〇九年には、彫刻家のビラルタ・サアベドラが、あの母子の像を大理石で彫り上げた。ホセさまご自身も一九四一年に亡くなって、いまは同じお墓の中で、アメリアさまと赤ん坊のそばに眠っておられる」
ロサリオは、私の肩に優しく触れた。
「さあ、お前の番だよ。作法を教えてあげよう」
列が進み、私たちの前が空いた。
目の前のアメリアの墓は、思っていたよりも、温かみのある白さを帯びていた。
台の隅に、太い金属の輪が取りつけられている。
何十年ものあいだ、数えきれない人の手に触れられてきたその輪は、黒ずんだ錆のあいだから、金色のような鈍い光を放っていた。
「まず、その輪を握って、三度叩くんだ」
ロサリオが、後ろからささやいた。
「アメリアさまを起こすんだよ。心の中で、どうか聞いてください、と呼びかけるんだ」
私は震える右手を伸ばし、輪を握った。ひんやりとした金属の冷たさが、手のひらに伝わってくる。
持ち上げ、落とした。
かつん。
乾いた硬い音が響いた。もう一度。かつん。三度目。かつん。
音が墓石の奥へ吸い込まれていくのと同時に、私の胸の奥に、言葉にならない震えが走った。
「そう。それから、願いを告げて、像に触れなさい」
私は目を閉じ、頭を垂れた。
アメリアさま。
私には薬がありません。
私の体は弱っていて、この子を無事に産めるかどうかも分からないのです。
どうか、この子を助けてください。
この小さな命を、私の腕に抱かせてください。
目を開け、私は像に手を伸ばした。
何万人もの母親たちが祈りを込めて触れてきたせいで、大理石の像はところどころ、なめらかにすり減っていた。
アメリアの右手の指先、十字架の角、そして左腕に抱かれた幼い子の小さな背中と、ふっくらとした足の裏。
私は、その赤ん坊の小さな石の足に、指先で触れた。
強い日差しを浴びていたはずの石の肌は、熱くはなく、人肌のような、不思議なぬくもりを宿しているように感じられた。
冷えきっていた私の指先に、そのぬくもりが、じんわりと移ってくる。
「祈り終えたら、お墓のまわりを一回りするんだ」
ロサリオの声に従い、私は母と一緒に、花と石板に囲まれた墓のまわりを、ゆっくりと歩いた。
無数の「ありがとう」の文字が、足元から私を見上げていた。
最後に墓の正面に戻ったとき、ロサリオが言った。
「決して背を向けちゃいけないよ。アメリアさまに顔を向けたまま、後ずさりで離れるんだ。ホセさまが四十年そうなさったようにね。それが、あの方への敬意なんだよ」
私は像を見つめたまま、一歩、また一歩と、慎重に足を後ろへ引いた。
像のアメリアは、腕の赤ん坊を抱いたまま、静かに私を見つめ返していた。
どれだけ離れても、その慈しみに満ちた目が、私のお腹を包み込んでいるような気がした。
十数歩さがって、通路の角を曲がる直前まで、私は決して彼女から目を離さなかった。
第四章 熱い午睡と影
墓地から戻ったあとも、病気が奇跡のように消えたわけではなかった。
現実の厳しさは、相変わらず私を取り囲んでいた。
頭の痛みは続き、足の腫れも少しも引かなかった。
マノロが方々手を尽くして見つけてきた血圧の薬は、ほんの数日分しかなく、それもすぐに底をついてしまった。
私は小学校をすっかり休み、薄暗い寝室のベッドで横になり続けた。
鎧戸の隙間から差し込む光の筋が、時間とともに床を這っていくのを、ただじっと見つめる日々だった。
けれども、あの墓を訪れてから、私の胸の中にあった暗い絶望の澱は、少しずつ形を変えていた。
目を閉じると、あの輪が石を叩く三度の澄んだ音と、大理石の赤ん坊の足に触れたときの、あの不思議なぬくもりがよみがえってくるのだった。
ハバナの午後は、息が詰まるほど暑い。
通りの声も途絶え、街じゅうが深い昼寝に沈む時間、私は微熱に浮かされながら、浅い夢を見た。
夢の中で、私はコロン墓地の白い大通りに、一人で立っていた。
まわりには誰もいない。
強い光のせいで、大理石の建物は輪郭が溶け出し、すべてがまぶしい白一色に染まっていた。
私は重い足を引きずりながら、あの母子の像へ向かって歩いていた。
墓の前に着くと、台の上にいたはずの女性が、像ではなく、生きた人の姿で、そこに立っていた。
薄い生成りの木綿のドレスを着て、長い黒髪を後ろで束ねた、二十歳を少し過ぎたくらいの、驚くほどほっそりとした女性だった。
腕の中には、白い布にくるまれた小さな赤ん坊が眠っていた。
彼女は何も言わなかった。ただ、痛ましげに、そして深い思いやりをたたえた目で、私のふくらんだお腹を見つめていた。
彼女の手が、お腹にそっと伸びたように見えた瞬間、私は強い胎動を感じて目を覚ました。
寝室の天井で、埃をかぶった電球が、小さく揺れていた。
全身が冷たい汗でびっしょりだった。
お腹の中で、赤ん坊が、これまでになく強く、確かな力で、内側から壁を蹴っていた。
生きている。この子は、まだあきらめていない。
私は汗を拭い、荒い息を整えながら、枕元の小さな聖母像に、手を合わせた。
第五章 嵐の夜
妊娠三十三週に入った夜、事態は急に悪くなった。
激しい雷雨がハバナを襲い、古い送電線が切れたのか、あたり一帯が停電した。
蒸し風呂のような暗闇の中で、私の頭の奥で、何かが弾けるような激しい痛みが走った。
「マノロ……」
かすれた声で呼ぶと、暗がりで蝋燭を灯していたマノロが駆け寄ってきた。
目の前は白く霞み、火花が散っているようだった。
耳鳴りは嵐のような轟音に変わり、手足が、自分の意志とは関係なく、小刻みに震えはじめた。
「エレナ! しっかりしろ!」
マノロの叫ぶ声が、遠い井戸の底から聞こえてくるようだった。
マノロは豪雨の中を飛び出し、近所の診療所へ走った。
アルマンド先生が泥まみれになって駆けつけてくれたときには、私の意識は、もうろうとしかけていた。
「救急車を待っている時間はない!」と、アルマンド先生の切迫した声が響いた。「知り合いの車を出してもらう。産科の病院へ運ぶんだ。すぐに帝王切開をしないと、二人とも危ない!」
古いロシア製の車の後部座席に押し込まれ、激しい雨の降る夜の通りを走った記憶は、とぎれとぎれの影の連なりとしてしか残っていない。
ワイパーのきしむ音。
街灯の消えた暗い街。
私を抱きしめ、泣きながら名前を呼び続けるマノロの胸の鼓動。
病院の救急の入り口に滑り込んだとき、私の血圧は、上が二百を超えていた。
運び込まれた部屋は、非常用電源の薄暗い明かりに照らされていた。
医者や看護師たちが慌ただしく行き交う中、執刀医らしい年配の女性の医師が、アルマンド先生に向かって、険しい顔で首を振るのが見えた。
「発作を抑える点滴が足りないわ。今夜の分でぎりぎりよ。保育器の空きだって……」
「頼む、ロペス先生」と、アルマンド先生が必死に食い下がった。「薬なら、小児病院の当直に連絡して、回してもらうよう手を打った。頼むから、今すぐ始めてくれ!」
その声を聞きながら、私は冷たい手術台の上に寝かされた。
お腹に冷たい消毒液が塗られ、緑色の布がかけられる。
背中に麻酔の針が刺さった瞬間、鋭い痛みが走り、やがて下半身の感覚が遠のいていった。
手術室の時計の針は、真夜中の一時を回っていた。
金属の触れ合う音。医者たちの短く鋭い指示。お腹が強く引っ張られるような、鈍い感じがあった。
私は薄れていく意識の中で、心の中で祈り続けた。
神さま。
アメリアさま。
どうか、どうかこの子を。
私を連れていってもいいから、この子だけは。
何かが、私の体から取り出された気配がした。
けれども、その部屋のどこからも、赤ん坊の声は聞こえてこなかった。
静まり返った手術室の中で、心電図の規則正しい電子音だけが、不気味なほど大きく響いていた。
本文の約70%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。