序章 嵐の夜のブロンクス

九月になると、カリブの海はひどく機嫌を損ねる。それは私たちが子供のころから知っている、季節の約束だった。

私はニューヨークのブロンクスにある公立図書館で、司書として働いている。

一九九〇年代に両親とともにこの街へ移り住み、英語とスペイン語が混ざり合う騒がしい通りで大人になった。

島から海を渡ってきた何十万もの人々と同じように、私たちの暮らしの半分は、いつも南の海に浮かぶあの島とつながっていた。

電話の向こうの家族の声、送られてくるコーヒー豆の香り、クリスマスのたびに集まって歌う古い歌。

私たちはこの街に根を下ろしながら、心のどこかで、いつも島の天気予報を気にしていた。

二〇一七年の九月は、初めから不穏な空気を孕んでいた。

月の初めには、大きなハリケーン・イルマが島の北側をかすめ、古い電力網をなぎ倒して、広い範囲に停電を引き起こした。

そのニュースを見ながら、私は島の中央山地に住む叔母のカルメンに電話をかけた。

叔母は「風は強かったけれど、うちは山の上だから水には浸かっていないわ。冷蔵庫の中身が駄目になったくらいよ」と笑っていた。

六十代も後半になる叔母は、ウトゥアドという山の町のはずれで、一人でコーヒーの農園を営んでいる。

小柄だが、日に焼けた腕には力があり、斜面に植えたコーヒーの木々を、自分の子供のように可愛がっていた。

イルマの爪痕がまだ残るなか、二週間もたたないうちに、次の嵐が大西洋で生まれ、異常な速さで勢力を増しているという予報が出た。

ハリケーン・マリア。

気象の図で赤く塗られた巨大な渦は、狙いを定めたかのように、まっすぐ島へ向かっていた。

九月二十日の朝、私は図書館の奥にある小さな休憩室で、職員用の古いテレビの画面を見つめていた。

キャスターが深刻な顔で、マリアが島に上陸したことを伝えていた。

強風でヤシの木が地面すれすれまで曲がり、灰色の雨がすべてを飲み込んでいく映像が、繰り返し流された。

島の全域で電気が止まったという速報の文字が、画面の下を冷たく流れていく。

私は携帯電話を取り出し、叔母の番号を押した。

呼び出し音さえ鳴らなかった。

何度かけ直しても、通信がつながらないことを告げる機械の声が返ってくるだけだった。

不安は、ブロンクスの街全体を覆っていた。

行きつけのボデガ——角の小さな食料品店——の店主も、図書館にやって来る常連の老人も、誰もが携帯電話を握りしめ、顔を曇らせていた。

島の携帯電話の基地局のほとんどが倒れ、島と本土を結ぶ通信は、ほとんど断たれていた。

ラジオからは、道路が川に変わり、多くの町が孤立しているという、切れ切れの知らせだけが届いた。

一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎても、叔母とは連絡がとれなかった。

ウトゥアドは、中央山地の深い谷と急な斜面に囲まれた町だ。

川があふれ、土砂崩れが起きれば、外から完全に切り離されてしまう。

私は夜になるたびにアパートのソファに座り込み、ニュースのチャンネルを音を消して流しながら、叔母の小さな家が濁流に飲み込まれる想像を打ち消すのに必死だった。

図書館では、島の家族の安否を知りたい人たちのために、職員が交代でパソコンの前に座り、救援団体の掲示板や、島から少しずつ届きはじめた名簿を一緒に探した。

見知らぬ老婦人が、甥の名前を見つけて、カウンターの前で声を上げて泣いた。

私はその背中をさすりながら、叔母の名前がどの名簿にもないことを、何度も確かめていた。

島の被害が少しずつ明らかになるにつれ、私の不安は深まっていった。

ガソリン、飲み水、食料、そして現金を求めて、何時間も続く列に並ぶ人々の姿。

物資は港に届いているのに、道路が寸断されて山あいにはなかなか届かないという報道。

叔母は無事だろうか。薬は足りているだろうか。飲み水はあるのだろうか。

眠れない夜が三週間近く続いたある日の午後、私の携帯電話が不意に鳴った。ずっと沈黙していた、島の番号が表示されていた。

第一章 知らされていた

「リリアナ、私よ」

電波の向こうから聞こえてきたのは、ひどく遠く、水の底から響いてくるような叔母の声だった。

私は椅子から跳ね起き、電話を両手で握りしめた。

カルメンおばさん。無事だったのね。怪我はないの。家はどうなったの。

私は泣きながら、問いを次々にぶつけた。叔母は落ち着いた声で、私をなだめるように答えた。

「私は無事よ。怪我もしていない。ただ、コーヒーの木はほとんど倒れてしまったわ。斜面の木は、根こそぎ持っていかれた。家の屋根も半分飛んでしまったけれど、命があるだけましよ」

町へ下りる道が土砂崩れでふさがれ、しばらく孤立していたこと、ようやく届きはじめた救援の水と食料を近所で分け合っていることを、叔母は淡々と語った。

今日は町まで下りてきて、電話がつながる場所で、長い列に並んでかけているのだという。

「でもね、リリアナ」と、叔母は不意に声をひそめた。「私は、こうなることが少しだけ分かっていたの」

どういう意味、と私は聞き返した。ハリケーンが来ることは、予報で誰もが知っていたではないか。

「そうじゃないの。イルマのずっと前、夏のあいだに、知らされていたのよ。だから、少しだけ用意ができていた」

回線がひどく混線し、ざらついた雑音が叔母の声を途切れさせた。

誰に知らされていたの、と私が尋ねようとしたとき、通話は唐突に切れた。

そのあと何度かけ直しても、つながらなかった。

年が明けた二〇一八年の二月、私はまとまった休みをとり、島へ向かう飛行機に乗った。

サンフアンの空港に降り立つと、島はまだ深い傷跡を残していた。

信号の多くは消えたままで、交差点では警官が手で車を誘導していた。

車を借りて中央山地へ向かう道中、山の斜面はかつての深い緑を失い、葉をむしり取られた茶色い木々の残骸が、マッチ棒のように散らばっていた。

そして何よりも私の目を引いたのは、山のあちこちを覆う青い色だった。

飛ばされた屋根の代わりにかぶせられた青いビニールシートが、奇妙な花のように山肌に点々と咲いていた。

ウトゥアドへ入る道も、あちこちでアスファルトが崩れ落ち、片側だけを交互に通す区間が続いた。

町の広場の前のガソリンスタンドには、まだ発電機用の燃料を求める人たちの列ができていた。

叔母の家へ続く急な未舗装の坂道を、車体を揺らしながら、ゆっくりと登っていく。

叔母の家が見えたとき、私は思わず小さな声を漏らした。

簡素な木造の家は壁の塗料が剥げ落ち、屋根の半分は青いシートで覆われていた。

かつて家の裏手から斜面に広がっていたコーヒーの木々は、ほとんどがなぎ倒されていた。

土のむき出しになった斜面は、何か大きな手で掻きむしられたあとのようだった。

車を降りると、家の裏から叔母が歩いてきた。

痩せてはいたが、足取りはしっかりしていた。

私たちは無言で抱き合った。

叔母の肩は前よりも小さく感じられ、服からは土と、湿った木の匂いがした。

「よく来てくれたわね、リリアナ」

その日の夕方、隣の家のエクトルという男が、妻と二人の子供を連れて、焼いたパンノキの実を持ってきてくれた。

叔母がいないところで、エクトルは私に小声で言った。

「あんたのおばさんには、頭が上がらないよ。嵐のあと、最初の何週間か、うちの子供たちが飲んだ水は、ほとんどあの人の溜めていた水だった」

私は意味がよく分からないまま、ただ頷いた。

電気はまだ戻っていなかった。

私たちは家の前のポーチに座り、叔母が卓上コンロで沸かしてくれたお湯で、インスタントのコーヒーを飲んだ。

コーヒー農家の叔母がインスタントを飲んでいる。

そのことが、島の受けた傷の深さを、何よりもよく物語っていた。

日が暮れると、山は恐ろしいほどの静けさに包まれた。

いつもならどこからか聞こえてくるはずの音楽も、テレビの音もない。

森の奥から、コキー——親指ほどの小さな蛙——の、コ・キー、コ・キー、という澄んだ鳴き声だけが響いていた。

ランタンの明かりを灯しながら、私はずっと気になっていたことを切り出した。

「秋に電話で話したとき、おばさんは言っていたわね。知らされていた、って。あれはどういう意味だったの」

叔母は手元のマグカップを見つめたまま、しばらく黙っていた。

やがて顔を上げ、ランタンの揺れる光の中で、静かに語りはじめた。

以下は、その夜、叔母が私に語ったことである。

第二章 山の儀式

「あれは七月の終わり、まだ嵐の影もなかったころのことよ」

叔母の語り口は、いつもの現実的で地に足のついた彼女らしくなく、どこか遠くの出来事を思い出すように響いた。

ウトゥアドには、カグアナという古い遺跡がある。

コロンブスがこの島にやって来るずっと前から、カリブの島々に暮らしていたタイノの人々が残した、儀礼の広場だ。

並べられた大きな石には、奇妙な顔や模様が刻まれている。

長いあいだ、タイノの人々は歴史から消え去ったと言われてきた。

けれども、島の多くの人の血の中には、彼らの記憶が流れている。

近年になって、タイノの言葉や信仰、儀礼を学び直し、自分たちの根を取り戻そうとする人々が、少しずつ増えていた。

「近所に住んでいるロサという友達が、そういう集まりに通いはじめたの」と叔母は言った。「ひどい関節の痛みに悩まされていたのだけれど、山の薬草に詳しい人に教わって、少し良くなったらしいのよ。それで、夏の夜に行われる小さな集まりに、私を誘ってきたの」

叔母は熱心なカトリック教徒だった。

日曜ごとに町の教会のミサに通い、毎晩ロザリオを手にして祈る暮らしを、何十年も続けてきた。

島には、エスピリティスモと呼ばれる、死者の霊と夢を通して語り合う民間の信仰が古くから根づいていて、叔母の世代の人間なら誰でも、その感覚を肌で知っている。

けれども叔母自身は、そうしたものには深入りせず、目に見える土と、木に実る豆だけを信じて生きてきた人だった。

「はじめは断ろうと思ったの。でも、ロサがあまりにも熱心に言うものだから、付き合いのつもりで一度だけ行くことにしたのよ。夜の山は涼しいし、太鼓を聞くのも悪くないと思ったから」

その夜、ロサの運転する古いトラックに乗って、叔母は山のさらに奥へ入っていった。

舗装の途切れた土の道を抜け、開けた場所に出ると、そこにはもう二十人ほどの人々が集まっていた。

空き地の真ん中では焚き火が燃え、火の粉が夜空へ舞い上がっていた。

集まっていたのは、近くの農家の人たちや、町で店をやっている若者たちだった。

皆、綿の簡素な服を着て、火のまわりに座っていた。

アレイトと呼ばれる、歌と踊りの集まりが始まった。

木をくりぬいた太鼓が一定の拍子を刻み、ひょうたんの鳴り物がしゃらしゃらと鳴る。

どこからか、煙草の葉や樹脂を燻した強い香りが漂ってきた。

人々は火のまわりを回りながら、古い言葉で歌いはじめた。

大地と水の母であるアタベイへの歌や、山や川への祈り。

叔母は輪には加わらず、少し離れた丸太に腰を下ろして、その様子を静かに眺めていた。

「正直に言うとね、少しおかしくも見えたの」と、叔母は微笑んだ。「ふだんはスーパーでレジを打っている男の子が、目を閉じて、真剣な顔で踊っているんだもの。でも、太鼓を聞いているうちに、だんだん心が静かになっていくのは分かったわ」

やがて踊りが止まり、太鼓だけがゆっくりと鳴り続けるなかで、一人の男が前に進み出た。

四十代半ばくらいの男で、髪を長く伸ばし、首には、セミと呼ばれる木彫りの小さな守り神の像を下げていた。

集まりの中では、ボイティオ——癒し手、祭司——の役を務めている人だと、ロサが耳打ちしてくれた。

ふだんは町で、車の部品を売る店を手伝っているのだという。

男は火のそばに座り込むと、深い呼吸を繰り返した。

まわりの人々は、黙って彼を見守っていた。

叔母にとっても、まったく知らない光景ではなかった。

エスピリティスモの集まりでも、霊媒が深い眠りのような状態に入り、死者の声を語ることがあるからだ。

太鼓が心臓の鼓動のように響き、火のはぜる音だけが、空き地を満たしていた。

男の体が小刻みに震えはじめ、額に玉のような汗が浮かんだ。

彼は不意に顔を上げ、見開いた目を空に向けた。

その目は火の光を映して、異様なほど明るく見えた。

男の口から出てきた声は、彼自身の声ではなかった。

もっと低く、何人もの声が重なり合ったような、地の底から響いてくるような声だった。

第三章 祖先の声

空き地に集まった人々は、地面に膝をつき、頭を垂れた。

叔母は一人だけ丸太に座ったまま、男の様子を見ていた。芝居を見ているような気分だった、と叔母は言った。

男の口から出る声は、古いスペイン語と、叔母の知らない言葉を交えながら語りはじめた。

大地が乾いている。木々が根を伸ばし、水を求めている。

それは、昔の農夫が口にするような、ぼんやりとした言葉だった。

叔母は心の中でため息をついた。

夏に雨が少ないことなど、農家なら誰でも知っている。

けれども、声はしだいに切迫した響きを帯びていった。

備えよ。

その一言に、空気が冷え込んだように感じられた、と叔母は言った。

備えよ。何かが来る。水と食べ物が足りなくなる。道はふさがれ、明かりは消える。

人々がざわめきはじめた。

島に住んでいれば、ハリケーンへの備えは毎年のことだ。

けれども、その声の響きには、季節の嵐への用心を超えた、ひりつくような切実さがあった。

暗い日が長く続く。天から落ちる水を溜めておけ。

男はふらふらと立ち上がり、火のまわりを歩きはじめた。その目は誰かを探しているように、人々の顔を一つずつ確かめていった。

そして、男の足が止まった。

彼は火を挟んで、丸太に座る叔母を、まっすぐに見据えていた。

叔母は、背筋が粟立つのを感じた。

男の目には、叔母を「知っている」光があった。

男自身ではない。

男の中にいる何かが、叔母を見つけ出したのだ——そのときは、そう感じたのだという。

男がゆっくりと腕を上げ、叔母を指さした。

聞いておきなさい。水と豆を蓄えなさい。明かりの油を切らしてはいけない。

その声は、空き地の端にいる叔母の耳元でささやかれたように、はっきりと聞こえた。

叔母は立ち上がり、後ずさりしかけた。

この男は、ただ芝居をしているのではない。

自分に向けられた言葉の重みに、叔母の現実的な理性がひび割れはじめていた。

「誰なの」

叔母は思わず、声に出して問いかけていた。

男は首を少し傾げ、口元に、かすかな笑みを浮かべた。そして、男の喉から出た次の言葉が、叔母をその場に縫いつけた。

叔母はランタンの光の中で、私の顔をじっと見た。

「その声はね、私を呼んだの。私が六つのときに死んだ祖母が、私と二人きりのときにしか使わなかった呼び方で」

私は、それは……と言いかけて、続く言葉を見つけられなかった。

本文の約71%まで公開

【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます

この先は、記録の結末です。

メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。

登録は無料です。広告メールなどは一切配信しません。