序章 熱を帯びた瓦

ひまわりの首が重く垂れ下がり、黄色い花びらが枯れ落ちはじめる季節だった。

ルーマニア南東部に広がる平原の村は、昼のあいだにたっぷり熱を吸い込んだ土の匂いに包まれている。

夜になっても気温は下がらず、風のない日には、とうもろこし畑の葉が擦れ合う音すら聞こえない。

村の人の数は、もう何年も減り続けていた。

若い世代の多くは、仕事を求めてブカレストへ出るか、国境を越えてイタリアやスペインへ去っていった。

残っているのは、長い年月をこの土地の暑さと寒さとともに過ごしてきた年寄りばかりだ。

家々のあいだには、草の伸び放題になった空き家がいくつもある。

マリアは暗い寝室のベッドに腰かけ、じっと耳を澄ませていた。

七十を過ぎた彼女の体は、この数週間で、ひどく小さく、薄くなっていた。

夏のはじめに夫のイオアンを亡くしてから、口に入る食事の量が半分にも満たなくなったのだ。

五十年間、毎日向かい合って座っていた男が、ある朝、いなくなった。

古い家は静まり返っている。

裏庭の数羽の鶏も、小屋の中で身を寄せ合って眠っているはずだった。

昼には村の真ん中の小さな正教会の鐘がときおり鳴るが、夜半を過ぎたいまは、虫の声さえ暑さに参って途切れがちだった。

その重い静けさを破る音が、頭の上から降ってきた。

からん、という硬い響き。

続いて、何かが屋根の斜面を転がり落ちる、鈍い音。

マリアは顔を上げた。

屋根の古い瓦に、何かがぶつかった音だった。

野良猫が飛び乗ったような重さではない。

胡桃の木は家の裏手にあるが、実が落ちるにはまだ早い。

まるで、誰かが下から小石を投げ上げたような音だった。

もう一度、からん、と鳴った。

マリアは立ち上がり、寝室の戸を開けて廊下に出た。玄関の厚い木の戸に耳を当てる。外からは、何も聞こえなかった。

気のせいかもしれない。年老いた耳が、自分の体の中を血がめぐる音を、外の物音と聞き違えたのかもしれない。

マリアは胸の前で十字を切り、寝室へ戻った。

けれども、物音は一度では終わらなかった。

次の夜は、家の壁を何かがかすめていくような、ざらりとした音がした。

その次の夜には、乾いた土の塊が壁にぶつかって砕けるような、くぐもった音がした。

毎晩、少しずつ違う音が、マリアの家を包む闇の中から投げかけられていた。

第一章 井戸端の昔話

翌日の昼、太陽が真上から照りつける中、マリアは中庭のぶどう棚の下に立ち、自分の家の屋根を見上げた。

赤茶色の瓦は、ところどころ欠けたり苔むしたりしているが、変わったところはない。

地面にも、投げ込まれたような石は落ちていなかった。

あるのは、乾いた土と、ぶどうの葉の影だけだ。

イオアンがいれば、梯子を持ち出して、上まで確かめてくれただろう。

彼は無口で気難しい男だったが、家の手入れには細かかった。

瓦が一枚ずれただけでも、ぶつぶつ言いながら、すぐに直しに上がったものだ。

結婚したばかりのころ、この家の屋根をふき替えたのも、イオアンだった。

若い彼が瓦を一枚ずつ手渡しで受け取り、汗だくになって並べていくのを、マリアは下から見上げていた。

昼になると、ぶどう棚の下に二人で座り、冷たい井戸の水と、玉ねぎを添えたママリガ——とうもろこしの粥——を食べた。

あのころのイオアンは、いまよりずっとよく笑った。

マリアはため息をつき、水を汲みに、村の共同井戸へ向かった。

家にも水道はあるが、夏の冷たい水は、深い井戸から汲むのがいちばんだった。

井戸のまわりには、年寄りが何人か集まり、日陰で涼みながら、声をひそめて話し込んでいた。

隣の家のアナが、水桶を提げたマリアを見て、手招きをした。

「ねえ、マリア。ゆうべ、あんたの家でも聞こえたかい」

「何が」

「壁を叩く音さ。石の当たる音もした。うちの屋根にも、何か落ちたんだよ」

アナの目は、怯えて少し赤くなっていた。杖を握る指先が、小刻みに震えている。

ほかの老女も頷いた。村のはずれの家でも、夜更けに同じような音がしたのだという。

「朝から、警察の車が回っていたよ。若い者の悪ふざけだって巡査は言うけれど、あんな夜中に、誰がうろつくっていうのさ」

すると、少し離れたところに座っていたペトレという老人が、鼻で笑った。

「悪ふざけに決まってる。暇を持て余したガキどもが、年寄りをからかってるんだ。今夜は、わしが棒を持って起きていてやる」

けれども、アナは声をいっそう落とし、しわがれた声で言った。

「ストリゴイだよ」

その言葉が出たとたん、井戸端の空気が、ふっと冷たくなった。ペトレも笑いを引っ込め、ばつが悪そうに黙り込んだ。

ストリゴイ。

墓から戻ってくる死者。

言い残したことや、この世への未練がある者が、夜な夜な家族や隣人を悩ませる。

物を投げ、戸を叩き、家畜を弱らせる。

昔からこの土地に伝わる話だ。

アナの祖母の若いころには、疑いをかけられた死者の墓を掘り返したことさえあった、と年寄りたちは言う。

「四十日がまだ済んでいない者が、村にいるんじゃないかい」

アナのその言葉に、マリアの心臓は冷たく縮み上がった。

イオアンのことだ。彼が死んでから、まだ四十日たっていない。

水汲みを終えて家に戻ると、マリアは居間のテレビをつけた。

昼のニュースが、ブザウ県のあちこちの村で同じような騒ぎが起きている、と伝えていた。

夜、家に物が投げられるという通報が相次ぎ、警察が警戒を強めているという。

どこかの村の村長が、「村人はストリゴイの仕業だと恐れている」と真顔で話していた。

マリアはテレビを消した。

イオアンは、怒っているのだろうか。

彼は無口な男だったが、マリアの作る料理は残さず食べたし、冬になれば、誰よりも早くストーブの薪を用意した。

ただ、最後の日々、二人は互いに少し意地を張っていた。

彼がストリゴイになど、なるはずがない。

マリアは自分に言い聞かせるように、部屋の隅のイコン——聖人の画像——に向かって十字を切った。

その夜、ペトレは本当に棒を持って、自分の家の中庭で起きていたらしい。

翌朝、彼は井戸端で、何も来なかった、と得意げに言った。

けれども、その同じ夜、マリアの家の屋根では、また瓦が二度、鳴っていた。

二日後の夕方、村の巡査のミハイが、白と青の車をマリアの家の門の前に止めた。

四十をいくつか過ぎた、汗かきの男だった。

マリアが子供のころから知っている家の息子で、イオアンの葬儀のときには、棺を担ぐ手伝いもしてくれた。

「マリアおばさん、夜の物音のことで、何か気づいたことはありませんか」

ミハイは帽子を脱ぎ、ぶどう棚の陰で額の汗を拭いながら尋ねた。

マリアが瓦の音のことを話すと、彼は手帳に何か書きつけ、屋根を見上げた。

「この辺りの村で、同じ訴えが十件以上あります。夜は巡回を増やしています。もし何か見ても、外に出ないで、すぐに電話をください。自分で追いかけたりしないで」

「あんたは、何だと思うの」

マリアが尋ねると、ミハイは少し困った顔をして笑った。

「人間ですよ、おばさん。死んだ人は、石を投げたりしません」

そう言って車に戻りかけたミハイは、門のところでふと振り返った。

「イオアンおじさんの四十日は、いつでしたっけ」

マリアが日付を言うと、彼は小さく頷いて、それ以上は何も言わずに帰っていった。

その頷き方が、なぜかマリアの胸に引っかかった。

巡査でさえ、心のどこかで、四十日を数えているのかもしれなかった。

第二章 遠い声と麦の甘み

三十日目の朝、マリアの携帯電話が震えた。

画面に、イタリアの介護の施設で働いている娘、エレナの顔が映った。ボタンを押すと、少し遅れて娘の声が届いた。

「お母さん、元気にしてる。ちゃんと食べてるの」

エレナの背後には、明るく清潔な白い壁が見える。ミラノの近くの町だと言っていた。

「ええ、食べているわ。きのうは茄子のペーストを作ったのよ」

マリアは嘘をついた。茄子は手つかずのまま、台所の隅でしなびている。

「それより」と、エレナが顔を曇らせた。「ニュースを見たわ。そっちのほうで、変ないたずらがはやっているんでしょう。

夜中によその家の敷地に入って、石を投げたりするって。動画を撮って、ネットに上げるのよ。戸締まりはちゃんとしてる」

いたずら。

マリアは、夜の音を思い出した。けれども、遠くにいる娘に心配をかけたくなくて、ゆっくりと首を振った。

「ここは静かなものよ。夜になれば、犬の声くらいしか聞こえないわ」

「ならいいけど。四十日のパラスタスには帰れないの。ごめんなさい。神父さまによろしく伝えて」

通話が切れると、家の中はふたたび深い沈黙に沈んだ。

その日の午後、マリアは教会へ行き、ラドゥ神父に四十日の祈りの相談をした。

若い神父は、帳面に日付を書き込みながら、ふと顔を上げた。

「村の皆さんが、夜の物音のことで怯えていると聞きました。マリアさんのところは、大丈夫ですか」

マリアは少し迷ってから、瓦の音のことを話した。神父は黙って聞き、それから穏やかに言った。

「亡くなった人の魂のために祈るのは、わたしたちの務めです。でも、ご主人が石を投げに戻ってくると考えるのは、ご主人に気の毒ですよ。夜の音のことは、巡査に任せましょう」

マリアは頷いた。頭では、神父の言うとおりだと分かっていた。

正教会の教えでは、魂は四十日のあいだ、この世にとどまるという。

その間、生前に歩いた場所をめぐり、四十日目に、ようやく旅立つ。

だから遺された者は祈りを捧げ、ポマナと呼ばれる施しをして、死者の魂を慰める。

マリアは台所へ行き、コリヴァの支度を始めた。

茹でた麦に、たっぷりの砂糖と細かく砕いた胡桃を混ぜ合わせる、甘い供え物だ。

麦は人の体を、甘さは天での魂の喜びをあらわすのだという。

イオアンは甘いものが好きだった。

大きなボウルで麦をかき混ぜながら、マリアの頭に、あの日の朝のことが、くっきりとよみがえってきた。

イオアンが倒れた日の朝。

二人は言い争っていた。

中庭の門の蝶番がひどく軋むようになり、イオアンが直すと言い出したのだ。

マリアは、きょうは暑いから休んでいて、そんなものはあとでいい、と強く言った。

けれどもイオアンは聞き入れず、道具箱を手に外へ出ようとした。

「あんたはいつもそう。私の言うことなんて、ひとつも聞かないんだから」

マリアが背中に向かってそう叫んだとき、イオアンは立ち止まり、振り返ろうとして、そのまま崩れ落ちた。

それが最後だった。

救急車が着いたときには、もう息はなかった。

謝る時間は、一秒も与えられなかった。

その夜から、家のまわりの音は、さらにはっきりとした意志を持ちはじめたように思えた。

からん、という瓦の音に混じって、壁の板を硬いもので引っかくような音がした。

マリアは毛布を頭からかぶり、夜明けまで、震えながら祈りの言葉を唱え続けた。

第三章 壁を叩く三度の響き

四十日目が近づくにつれ、マリアの感覚は研ぎ澄まされていった。

昼は台所に立ち、ポマナのためのパンを焼く。

甘い生地を練り、胡桃を混ぜ込む。

生地の膨らむ甘酸っぱい匂いが、家の中に満ちる。

新しいシャツや靴下、手ぬぐい、小さな鍋など、ポマナとして近所の人たちに配る品もそろえた。

受け取った人がそれを使うことで、故人の魂に届くとされているのだ。

イオアンが一度も袖を通さなかった冬の上着も、ペトレに渡すことにした。

けれども、日が落ちると、パンの匂いは消え、代わりに重い不安が降りてくる。

テレビのニュースでは、とうとう別の村の防犯カメラの映像が流れた。

覆面をした若者たちが棒を持って他人の中庭に入り込み、携帯電話で撮影しながら壁を叩いている姿だった。

動画の再生回数を稼ぐためだという。

警察は、決して自分たちで捕まえようとせず、通報するように、と呼びかけていた。

マリアもそれを信じようとした。あれは人のすることだ。ただの、たちの悪いいたずらだ。

三十六日目の夜には、隣のアナが、ひとりで寝るのは怖いと言って、マリアの家に泊まりに来た。

アナは小さな袋から大蒜を一房取り出し、玄関の戸の取っ手に結びつけようとした。

「わたしのおばあさんは、こうしていたんだよ。ストリゴイは、大蒜の匂いが嫌いだからね」

マリアは、アナの手をそっと押しとどめた。

「やめて、アナ。イオアンは大蒜が好きだったのよ。ママリガには、いつも山ほどのせていた」

アナは一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。

マリアもつられて笑った。

イオアンが死んでから、声を出して笑ったのは、それが初めてだった。

その夜、二人は同じ寝台に並んで横になり、若いころの村の話をした。

ダンスの夜のこと、冬の豚の屠りのこと、二人の夫がまだ若く、酒を飲んで歌っていたころのこと。

屋根の上には、何も落ちなかった。

夜明け前、アナが寝息を立てはじめてから、マリアは天井を見つめたまま、イオアンの若いころの笑い声を思い出そうとしていた。

けれども、三十八日目の夜。

マリアは居間の椅子に座ったまま眠り込み、ふと目を覚ました。

外から、音が聞こえる。

石ではない。

こつん、こつん、こつん。

家の外の壁を叩く音だった。

三度叩き、少し間をおいて、また三度。

マリアの全身の血が凍りついた。

それは、イオアンのくせだった。

冬の寒い日、薪を両腕いっぱいに抱えて戻ってくると、手がふさがっているので、肘で戸を叩く。

三度叩き、ひと呼吸おいて、また三度。

五十年のあいだ、マリアが家の中で聞き続けた合図だった。

いたずらの若者が、イオアンの叩き方を知っているはずがない。

「あなたなの」

マリアは、かすれた声でつぶやいた。

壁の向こうに、イオアンが立っている。

あの不機嫌そうな顔で、門の蝶番なら直しておいたぞ、とでも言いたげに、中に入れろと言っている。

恐ろしさよりも、強い悲しみと悔いが、マリアの胸を突いた。

謝らなければならない。あの朝のことを。無理にでも引き留めればよかったのだ。

マリアは立ち上がり、ゆっくりと玄関へ向かった。

けれども、玄関に着いたときには、音はやんでいた。

かんぬきに手をかけたまま、マリアは長いあいだ、その場に立っていた。

戸を開ける勇気は、その夜はまだ、なかった。

第四章 四十日目の前夜

三十九日目の夜。

明日は、いよいよ教会で四十日の祈りがある。

マリアは寝室へは行かず、玄関の土間に置いた小さな丸椅子に座っていた。

手には、イオアンが使っていた古い金属の懐中電灯を握りしめている。

時計の針が、夜中の二時を回った。

中庭のほうで、乾いた土をこする、かすかな音がした。

ぶどう棚の葉が揺れる音。

マリアは息を詰めた。

近づいてくる。ゆっくりと、確かな重さを持って。

やがて、玄関の戸のすぐ外で、気配が止まった。

こつん、こつん、こつん。

三度の響き。

少しの間。

こつん、こつん、こつん。

間違いない。イオアンだ。四十日の最後の夜に、彼は別れを言いに来たのだ。

マリアの目から涙があふれた。恐れは、どこかへ消えていた。ただ、もう一度だけ会って、言葉を交わしたかった。

マリアは丸椅子から立ち上がった。

「イオアン」

戸に手をかけ、重い鉄のかんぬきを引き抜いた。

冷たい夜気が、むっとする土の匂いと一緒に流れ込んでくる。

マリアは戸を大きく開け放ち、闇に向かって、懐中電灯のスイッチを押し込んだ。

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