序章 石の城塞と南の風
アテネから夜行フェリーに乗り、クレタ島西部ハニアの港で降りてから南へ向かうには、白い山々を越えなければならない。
レフカ・オリと呼ばれるその石灰岩の連峰は、初夏になっても険しい頂に雪の白さをかすかに残し、乾いた山肌にはタイムやセージの強い香りが貼りついている。
切り立った渓谷を縫う細い舗装路を南へ下り、急な坂を抜けると、不意に視界のすべてが海に奪われる。
アフリカへと開かれたリビア海である。
北の穏やかなエーゲ海とは違い、南岸の海はどこまでも深く、底の知れない青さをたたえている。
その平らな海岸線に、四角い石の城塞がぽつんと建っている。
十四世紀、地中海を支配していたヴェネツィア共和国が、海賊を防ぎ、背後の山に住む頑強なスファキアの民を抑えるために築いた要塞、フランゴカステロである。
四隅に四角い塔を従えたその城壁は、六百年以上の風雨と戦火にさらされ、屋根も床も失って、いまは厚い石壁の輪郭だけを砂浜の上に残している。
城塞の東には、アギオス・ハラランボス——聖ハラランボス——と呼ばれる古い修道院の跡が散らばっている。
崩れた石積みのまわりには野生のアスフォデルがまばらに咲き、海から吹きつける風に細い茎を揺らしている。
この城塞のまわりには、二百年近く語り継がれてきた現象がある。
毎年、五月の終わりから六月の初めにかけての短い季節、夜明け前のわずかな時間だけ、武装した黒い人影の隊列が修道院の跡から城塞へと進み、やがて海へ向かって歩きながら消えていくという。
土地の人々は、彼らをドロスリーテスと呼ぶ。
「露の人々」、あるいは「朝露の者たち」という意味になる。
それは幽霊の話として語られることもあるが、特定の屋敷に現れる霊や、一人の人間に憑く怪異とはまったく違っていた。
現れるのはいつも群れで、誰にも襲いかからず、呼びかけに応じることもなく、ただ朝露の立ちこめる砂浜を横切っていくだけだった。
村の老人たちは、それを一八二八年の戦いで死んだ男たちの影だと信じている。
一方で、ここを訪れた学者や旅行者たちは、北アフリカの海岸が光の屈折によって海を越えて映し出される、蜃気楼の一種ではないかと説明しようとしてきた。
だが、どちらの説明も、この土地の人々が覚えてきた細部のすべてをすくい取ることはできていない。
第一章 一九四二年の発砲
私の祖母エレニがその朝のことを口にしたのは、七十歳を過ぎて、ハニアの街の小さなアパートで静かに暮らすようになってからのことだった。
祖母はスファキアの古い家の出で、若いころはオリーブの収穫や蜜蜂の世話で、よく日に焼けた手をしていた。
祖母の記憶の中のクレタ島は、いつも戦争の煙と結びついていた。
一九四一年、空から降ってきたドイツ軍の落下傘部隊と、島の男たちが猟銃や山刀で戦ったクレタ島の戦いのあと、島は厳しい占領下に置かれた。
スファキアの山々は抵抗運動の拠点となり、南岸のフランゴカステロにも、海岸を見張るためのドイツ軍の小さな部隊が置かれていた。
当時十一歳だったエレニは、城塞から少し離れた内陸の集落で、ヤギの乳を搾り、パクシマディ——堅く焼き締めた大麦のパン——を焼く祖母の手伝いをしていたという。
一九四二年の五月の末の朝だった。
正確な日付は祖母も覚えていなかったが、日中の熱気が満ちてくる前の、妙に湿った夜明けだったという。
その朝、山から吹き下ろす風が、ぴたりと止まっていた。
スファキアの海岸は普段、山からの冷たい吹き下ろしか、リビア海からの強い南風にさらされている。
風のない朝というのは、この土地では年に数日あるかないかの珍しい天気だった。
湿気を含んだ重い空気が地面に淀み、海からは白く濁った朝霧が這い上がってきて、城塞の足元を覆い隠していた。
幼いエレニが集落の井戸へ水を汲みに出たとき、海岸のほうから、ドイツ語の短い号令と、金具の触れ合う音が聞こえた。
続いて、小銃の乾いた発砲音が二発、鳴り響いた。
占領下では、銃声はありふれた恐怖だった。
海から潜入してくるイギリス軍や抵抗組織を警戒していた見張りの兵が、何者かを見つけたのだと誰もが思った。
エレニは井戸の陰に身を潜め、息を殺した。
だが、そのあとに続いたのは、激しい撃ち合いではなかった。
単発の射撃が何度か続き、それから機関銃の短い連射音が響いた。
撃っているのはドイツ兵たちだけだった。
撃ち返す銃声は一発もなかった。
やがて射撃は途切れ、砂浜には異様な静けさが戻った。
好奇心に駆られたエレニが、オリーブの木立の隙間から海岸を見下ろすと、城塞の前の湿った砂浜に、数人のドイツ兵が銃を構えたまま立ち尽くしていたという。
彼らの銃口は、海に向かって開けたあたりに向けられていた。
そこには誰も倒れておらず、血も流れていなかった。
ただ、低く立ちこめる灰白色の霧の中を、黒い人影の長い列が、東から西へ、城塞をかすめて波打ち際へと進んでいた。
人影は、どれもクレタの昔ながらの黒い上着を着ているように見えた。
ある者は長い銃を肩に担ぎ、ある者は腰に湾刀を下げていた。
隊列は規則正しく、しかし何の音も立てずに進んでいた。
砂を踏む音も、衣擦れの音も、息づかいさえもなかった。
ドイツ兵たちは青ざめた顔で、もう一度銃を構えた。
すぐ目の前の距離だった。
訓練を受けた兵士なら、外すはずのない距離だった。
弾が放たれ、砂浜の砂が跳ね上がった。
だが、隊列のどの影も、立ち止まらなかった。
弾は影の体を素通りして砂に食い込んだのか、それとも初めからそこに体などなかったのか。
隊列は歩みを緩めることも、身をかがめることもなく、撃たれたことに気づいてさえいないかのように、ただ淡々と進み続けた。
そして、太陽が東の山並みから赤く顔を出し、砂浜を覆っていた朝露の霧が光の中に溶けはじめると、人影たちもまた、輪郭を失って空気の中へと薄れていった。
残されたのは、砂の上に散らばった薬莢を呆然と見つめるドイツ兵たちと、波の寄せる静かな海だけだった。
「あの兵隊さんたちはね」と、祖母は山のハーブの茶をすすりながら、遠い目をして言った。「あとで村の神父のところへ来て、自分たちは何を見たのかと尋ねたそうだよ。神父はただ、ここには昔からそういうものがあるのだ、と答えたらしい。
誰も死ななかったし、誰も捕まらなかった。ただ、兵隊さんたちの顔から血の気が引いていただけだった」
その話を聞いたとき、私はまだ高校生だった。
祖母の記憶違いか、戦時下の緊張が生んだ幻か、あるいは、スファキアの人々が占領軍を笑いものにするために作った話なのだろうと、そのときは思っていた。
第二章 白い山と砂の戦場
私が祖母の話に引き寄せられるようになったのは、ハニアの古文書や教会の古い本を修復する工房で働きはじめてからのことだった。
羊皮紙を張り直し、虫に食われた革表紙を繕う仕事は、過去の時間を指先で確かめるような作業だった。
十九世紀の修道院の日誌や、土地の名士の手紙を読んでいると、クレタ島という土地が、どれほど深い流血の記憶の上に横たわっているのかが、肌で分かってきた。
スファキアは、クレタ島の中でもとりわけ特別な土地だった。
白い山々の断崖と荒々しい渓谷に囲まれたこの地は、オスマン帝国の長い支配のもとでも、完全な服従を拒み続けた。
山羊飼いたちは銃を手放さず、徴税人を追い返し、いつも反乱の火種を抱えていた。
そのスファキアの浜に、一八二八年の春、ギリシャ本土のエピロスから一人の男が兵を率いてやってきた。
ハツィミハリス・ダリアニスである。
ギリシャ独立戦争のさなか、クレタ島の蜂起を助けるために渡ってきたダリアニスは、騎兵と歩兵からなる数百人の兵とともに、海岸に打ち捨てられていたヴェネツィアの古い城、フランゴカステロに陣を敷いた。
だが、砂浜の要塞は孤立していた。
背後の山の人々との連携は十分ではなく、城塞そのものも、守りの拠点としては古びすぎていた、と言われる。
ムスタファ・パシャの率いるオスマン帝国の大軍が海岸に迫るのに、時間はかからなかった。
一八二八年五月、十七日から十八日にかけての夜明け、圧倒的な兵力の差の中で、激しい戦いが起きた。
城塞の外の陣地で戦ったギリシャ側の兵士たちは次々と倒れ、指揮官のダリアニスも、乱戦の中で命を落とした。
城塞に立てこもった生き残りの兵たちは、やがて城を明け渡して退いた、と伝えられている。
戦いのあと、浜には数百の亡骸が残された。
オスマン軍が去ったあと、山から下りてきたスファキアの村人たちが、砂を掘って亡骸を葬ったと伝えられている。
墓は城塞のまわりや、東のアギオス・ハラランボス修道院の近くに、目印もないまま掘られた。
ドロスリーテスの話がいつから語られはじめたのかは、はっきりしない。
ただ、十九世紀の終わりには、すでにこの浜の言い伝えになっていたらしい。
戦いのあった五月の記念日のころになると、夜明け前の浜辺に、武装した男たちの隊列が現れる。
一八九〇年には、この地を通りかかったオスマン帝国の部隊が、朝霧の中に現れた影の隊列をギリシャの反乱軍と見誤り、山の中へ退いていった、という話も伝わっている。
祖母が語った一九四二年のドイツ兵の発砲と、同じ形の話だった。
立場も、時代も、言葉も違う人々が、同じ場所で、同じ季節に、同じものを見たと語っていた。
誰も、それによって傷つけられてはいなかった。
呪いも、祟りも、死の予言も伴わない。
ただ、五月の終わりの湿った夜明けに、影の列が砂浜を歩いて、海に消える。
それだけのことだった。
「あれはただの蜃気楼だよ」
工房で、年上の製本職人がそう言ったことがある。
「リビア海の向こうには、リビアやエジプトの砂漠がある。初夏の夜明け前、海面が冷えて、その上に暖かい空気の層ができると、空気の中で光が曲がって、何百キロも離れた景色が映し出されることがある。砂漠を行く人の列が、クレタの浜辺に幻になって現れるのさ」
その説明は、一見もっともらしかった。
地中海の船乗りたちは昔から蜃気楼を知っていて、海の上に浮かぶ町や、逆さまの船の話は珍しくない。
だが、もしそれが遠くの景色の蜃気楼なら、なぜ映るのはいつも「歩く兵の列」なのか。
なぜいつもアギオス・ハラランボスの方角から城塞へ進み、海へ向かうのか。
なぜ北アフリカの町並みや砂丘ではなく、十九世紀の初めの武装をした男たちの姿として見えるのか。
さらに分からないのは、その現れ方の気まぐれさだった。
毎年必ず現れるわけではない。
条件がそろっているように見える年でも、何事もなく夜が明ける年が、何年も続く。
そして、多くの写真家や見物人がカメラを構えて待ち受けてきたにもかかわらず、その影がはっきり写った写真は、一枚も残っていなかった。
人の目にははっきり見えるものが、レンズの向こうには、ただの霧としてしか残らない。
第三章 満ちない条件
私は三十代になってから、五月の終わりにフランゴカステロを訪れるようになった。
祖母のエレニは、その数年前に亡くなっていた。
亡くなる少し前、病床の祖母に、あの話は本当だったのかと尋ねたことがある。
祖母は少し笑って、「本当だよ」とだけ言った。
「でもね、見ようとして行く人には、見えないものさ。あの兵隊さんたちも、見たくて見たわけじゃなかったんだから」
最初の年は、五月二十日の夜にフランゴカステロに入った。
城塞の西に、旅行者向けの小さなタヴェルナ——食堂——と、数軒の質素な宿がある。
初夏のクレタ島南岸はまだ旅行者もまばらで、夕暮れになると、土地の羊飼いたちがタヴェルナのテラスに集まり、透明な地酒ツィクディアを飲みながら、タヴリ——バックギャモン——の駒を乾いた音を立てて打っていた。
宿の主人は、私が夜明け前に浜へ出るつもりだと知ると、肩をすくめた。
「風を見ろよ」と、主人は山のほうを指さした。「今夜は山からの風が強すぎる。あんな風じゃ、露のかけらも残らないさ」
主人の言ったとおりだった。
真夜中を過ぎると、背後のレフカ・オリの尾根から、冷たく乾いた風が吹き下ろしてきた。
山風は城塞の四角い壁に当たって低く唸り、浜の細かい白砂を海へと吹き飛ばしていた。
午前四時に起きてアギオス・ハラランボスの廃墟まで歩いてみたが、空気は澄み切っていて、水平線の向こうまで星が鋭く瞬いていた。
夜明けが来ると、太陽は何にも遮られずにリビア海を金色に染め、ただ美しい地中海の朝が訪れただけだった。
翌年も、その次の年も同じだった。
ある年は南からのシロッコ——砂漠からの熱風——が吹き荒れ、リビアの砂漠の黄色い砂塵が空を覆って、霧どころではなかった。
またある年は、夜明け前に穏やかな霧が出たものの、日の出の三十分前に急に海風が立ち、霧はあっけなく散ってしまった。
浜辺で同じように夜明けを待つ旅行者や、三脚にカメラを据えた外国人を見かけることもあった。
彼らはみな分厚い上着を着込み、寒さに震えながら海を見つめ、やがて何事もなく太陽が昇ると、がっかりした溜め息をついて機材を片付け、宿の朝食へと戻っていった。
「ドロスリーテスには、うるさい条件があるんだ」
四回目のとき、タヴェルナの年老いた主人が、グラスに酒を注ぎながら教えてくれた。
「まず、その前の何日か、十分に暑いこと。大地が熱を吸い込んでいなきゃならない。それから、風が完全に死んでいること。
山からの風も、海からの風も、木の葉一枚揺らさないほど静まり返っていること。最後に、海から重い朝霧が上がってきて、城の足元を濡らすこと。その三つがそろった朝だけ、彼らは歩く。
だが、そんな朝は十年か二十年に一度しか来ない」
「あなたは、見たことがあるんですか」と私が尋ねると、老主人はグラスを置き、ゆっくりと首を横に振った。
「親父は見たと言っていた。一九五〇年代の初めだ。羊を連れて浜を通ったとき、城の壁沿いに十数人の影が歩いていくのを見た。
親父は立ち止まって帽子を取り、影が海へ入って消えるのを見送ったそうだ。怖いとは思わなかった、と言っていた。ただ、自分の踏んでいる砂の下に、どれほどの血が吸い込まれているのかを、思い出したそうだ」
老主人はそれ以上、何も言わなかった。
五回目の年、私は五月二十六日にフランゴカステロに着いた。
その週のクレタ島南部は、季節外れの熱波に見舞われていた。
昼の気温は三十度を超え、石灰岩の山肌はフライパンのように熱を放っていた。
夕方になっても気温は下がらず、海は油を流したように滑らかで、白い波頭はどこにも見当たらなかった。
夜の十時、タヴェルナを出て浜に立つと、肌にまとわりつくような湿り気があった。
海からの生温かい空気と、山からの乾いた熱気がぶつかり合い、空気が身動きを失ったかのように淀んでいた。
風は、まったく吹いていなかった。
足元の枯れ草一本、揺れていなかった。
第四章 無風の未明
午前三時半、目覚まし時計の音で目が覚めた。
宿の質素な部屋のテラスに出ると、外の空気は昼間の湿気をそのまま抱え込んでいた。
息を吸い込むと、胸の奥に、海水と湿った砂の匂いが重く沈んでいくのが分かった。
懐中電灯は持たずに外へ出た。
街灯の乏しいフランゴカステロの夜道は暗かったが、空には薄い雲が広がっていて、星明かりがにじみ、砂浜の輪郭をぼんやりと青白く浮かび上がらせていた。
風は死んでいた。
海からは、潮騒すら聞こえなかった。
ただ、ひどくゆっくりした間隔で、かすかなうねりが砂の浅瀬を撫で、水の膜を広げては引いていくだけだった。
それは音というより、気配に近かった。
私は舗装路を東へ歩き、アギオス・ハラランボスの修道院の跡へ向かった。
崩れた石壁のまわりには、低い灌木とアスフォデルの群れが、夜の闇に沈んでいた。
足を踏み入れると、昼の熱を放ちきれない土から、強い野草の香りが立ちのぼった。
四時を過ぎたころ、海のほうから変化が始まった。
沖の暗闇から、乳白色の靄が、滑るように岸へ向かって這い上がってきたのだ。
雲の切れ端のようでもあり、海面そのものが蒸発して立ちのぼった湯気のようでもあった。
靄は見る見るうちに厚みを増し、波打ち際を覆い、やがて平らな砂浜全体へと広がっていった。
空気の湿り気が極まっているのが、肌に結ぶ細かな水滴で分かった。額や腕の産毛に、目に見えない朝露がびっしりと降りてくる。
霧は冷たくなかった。生温かく、濃く、視界を数十メートル先までに狭めた。
西を振り返ると、フランゴカステロの大きな四角い城塞が、足元を霧に呑まれ、上の銃眼と角の塔の輪郭だけを、灰色の空に浮かび上がらせていた。
砂の上に建つ建物というより、霧の海に浮かぶ古い船のように見えた。
時計の針は、四時四十分を指していた。
東の空、白い山々の裾の向こうが、夜の藍色から、ごく淡い青灰色へと変わりはじめていた。
夜と朝の境目。
闇が輪郭を手放し、光がまだ色を取り戻していない、一日のうちでいちばん曖昧な時間だった。
私は修道院の崩れた外壁の石に腰を下ろし、息を潜めていた。
カメラは持ってこなかった。
持ってくる気になれなかった。
祖母の言葉と、何十年ものあいだ一枚の確かな写真も残せなかった人々のことが、機械を構えることの空しさを、あらかじめ告げていたからだ。
あたりの静けさは、完全だった。鳥の声すら、まだしなかった。
そのときだった。
わずかに白んだ東の空の光の中で、アギオス・ハラランボスの瓦礫の向こう、海へと続くゆるやかな砂の傾斜のあたりで、霧の濃さが不自然に変わった。
白い靄の中に、墨を垂らしたような薄い影の染みが、いくつも滲み出してきたのだ。
はじめは、光の加減による錯覚だと思った。
だが、その染みは一つではなかった。
十、二十、三十と、砂地の窪みから湧き出すように数を増やし、やがて前後に並んで、整った一つの列を形づくりはじめた。
影の列は、修道院の跡を抜け、城塞の方角へ向かって、ゆっくりと、しかし確かな速さで進みはじめた。
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