序章 プラタナスのざわめき

九月のテヘランは、昼の乾いた熱気が嘘のように、日が落ちると急に冷え込む。

とりわけ北部のシェミラン地区は、背後にそびえるアルボルズ山脈の険しい岩肌から吹き下ろす夜風の通り道になっていて、市街の中心の喧騒や排気ガスが届かない、澄んだ空気に満ちていた。

坂道に沿って並ぶ古い屋敷を囲むように、大きなプラタナスの並木が影を落とし、道の脇に掘られた水路ジューブを、山からの冷たい水が絶え間なくさらさらと洗っていた。

そのころのテヘランでは、夏から初秋にかけての寝苦しさを避けるため、平らな屋根の上に絨毯を敷き、布団を並べて眠る家が少なくなかった。

夜露を防ぐ幕を張る家もあれば、遮るもののない群青の夜空を、そのまま仰ぎ見ながらまどろむ家もあった。

一九七六年九月十八日の宵、十六歳のシーデは、夕食の片づけを終えると、敷布と薄い毛布を抱えて、屋上へ続く狭い石段を上がった。

下の中庭からは、湯を沸かすサモワールのかすかな湯気と、カルダモンの香りのする紅茶の匂いが漂ってきた。

街は石油の富に沸き立ち、舗装されたばかりの大通りには国産車ペイカーンや輸入されたばかりの大型の車が誇らしげに行き交い、ラジオからは西洋風の軽やかな歌が流れていた。

それでも、このシェミランの夜の帳の下だけは、何百年も変わらない静けさが保たれていた。

シーデは屋根の縁に腰を下ろし、冷えた手すりに手を置いた。

南を見下ろせば、テヘランの街の灯りが、黄褐色の絨毯のように広がっている。

北を振り仰げば、アルボルズの大きな尾根が、星々の瞬きを鋭く断ち切る黒い壁となって、夜空にそびえていた。

その夜は雲一つなく、澄みきった大気の底で、星座の輪郭は針で突いたように鮮やかだった。

第一章 動かない星

異変に最初に気づいたのは、八歳になる弟のババクだった。

シーデの隣で、屋根に敷いた絨毯の上に寝転がり、両手を頭の後ろに組んで星を数えていた弟が、急に身を起こして、北の空を指さした。

「姉さん、あそこの星、さっきから色が変わってるよ」

シーデは寝転がったまま、弟の細い指の先、アルボルズの稜線の近くに目を向けた。

はじめは、山の上で誰かが焚いた火か、メヘラーバード空港へ降りていく旅客機の灯りだろうと思った。

けれど、その光は飛行機にしてはあまりにも明るく、そして何より、ぴたりと止まっていた。

光は、まわりのどの星よりも大きく、鋭かった。

ふつうの星のような控えめな瞬きではない。

強い光が、青、緑、赤、濁りのない橙色へと、規則正しい間隔で鮮やかに色を変えていた。

宝石の切り口が回りながら、冷たい光をはね返しているかのようだった。

光が青に変わる瞬間、背後の黒い岩肌が薄青く浮かび上がり、緑に変わると、乾いた空気そのものが、淡い燐光を帯びて震えているように見えた。

「見間違いじゃないわね」

絨毯の上に盆を置き、ガラスの小さなグラスに淹れたての紅茶を注いでいた母のファーテメの手が止まった。

母は茶をこぼしそうになりながら、じっとその光を見つめた。

「ジンの火かもしれない。あの山には、昔から古いものが住んでいるっていうから」

ジンは、煙のない火から生まれたとされる精霊で、年寄りたちは名を呼ぶのを避けて「我らより良き者たち」と言った。

母はそう呟き、不安そうに胸元のスカーフをかき合わせた。

だが、石段を重い足取りで上がってきた父のアリーの反応は違った。

バザールで布地と敷物の商いをしている父は、新しい機械やラジオのニュースに明るく、迷信めいた物言いを好まない男だった。

「ジンなものか。あれは人の作った光だ。アメリカの新しい観測気球か、でなければ軍の飛行船だろう」

父は眉をひそめ、老眼鏡の位置を直しながら屋根の端へ歩み寄った。

だが、どれほど目を凝らしても、光のまわりに気球の輪郭や吊り籠の影は見えなかった。

ただ、硬く澄んだ光の塊だけが、高い空の一点に、見えない釘で打ちつけられたように留まっていた。

近所の家々でも騒ぎが始まっていた。

隣の屋敷の平屋根にも人影が現れ、誰かが身を乗り出して空を指さしていた。

通りの向かいの屋根では、年老いた女が両手を上げて祈りの言葉を唱え、若い男が双眼鏡を構えて必死にピントを合わせていた。

プラタナスの葉を揺らす風の中に、人々の低いざわめきが混じっていった。

誰もが息を潜めて、光が動き出すのを待っていた。

だが、十分が過ぎ、二十分が過ぎても、光は少しも位置を変えなかった。

第二章 黒い受話器

午後十一時を回るころには、光はさらに強くなっているように見えた。

色の変わる間隔は速まり、ときおり、白銀のきらめきが、輪を描くようにまわりへ広がった。

父のアリーは落ち着かない様子で屋上を行き来していたが、やがて何かを決めたように石段を下りていった。

シーデは父のあとを追い、中庭を抜けて、薄暗い母屋の廊下へ入った。

階段の脇の小机の上に、重い黒のダイヤル式の電話機が置かれていた。

そのころ、家に電話を引いている家は、シェミランでも限られていた。

父は電話帳をめくることもなく、覚えている番号を、人さし指で一息に回した。

じい、ことと、じい、ことと、ダイヤルの戻る硬い音が、静かな家の中に響いた。

父がかけたのは、警察でも軍でもなく、メヘラーバード空港だった。

「……夜分にすまない。シェミランの者だが、北の空を見ているか」

父の声は低く、慎重だった。

「そうだ、アルボルズの尾根のすぐ上だ。星じゃない。とんでもなく明るくて、赤や緑に色を変えている。もう一時間近くも、同じ所に留まっているんだ。そちらの管制塔からは見えないのか」

受話器の向こうからかすかに漏れてくる声に、シーデは耳を澄ませた。

相手の声ははじめ事務的で素っ気なかったが、父の話が進むにつれて、戸惑いと緊張を帯びた調子に変わっていった。

「……何件もか?」

父が目を見開いた。

「北のほうの住民から、もう何本も電話が来ていると? 管制官も双眼鏡で見ているのか」

電話は、管制塔の当直に回されたらしかった。

当直の男は、塔の大きな双眼鏡でもその光を確かめていること、丸いとも星形ともつかない形で、旅客機の航路から外れたあたりで輝いていることを、父に認めたようだった。

「軍には知らせたのか」

父が問いつめた。

短い沈黙のあと、受話器から何か短い返事があり、通話は向こうから切られた。

かちゃりと重いフックの下りる音が、廊下の暗がりにむなしく落ちた。

父は受話器の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。

「父さん、管制塔の人は何て?」

シーデが尋ねると、父はゆっくりと首を横に振った。

「ただの光ではないらしい。塔でも正体が分からず、空軍に知らせたそうだ。戦闘機が上がるかもしれん、と言っていた」

父の顔からは、さっきまでの落ち着きが消え、冷たい疑いが張りついていた。

第三章 双発の咆哮

夜半を過ぎ、一時を回ったころ、テヘランの夜を切り裂くような轟音が、遠く西の空から響いてきた。

腹の底に響く低い音だった。

シェミランの古い屋敷の壁がかすかに震え、中庭の池の水面に細かな波紋が走った。

屋上で起きていたシーデと家族は、はっとして空を見上げた。

どこかの空軍基地から、緊急に飛び立ってきたのに違いなかった。

夜の迎撃に上がった戦闘機の排気口が、二本の鋭い橙色の針となって、暗い空を突き進んでいた。

帝国空軍の主力の双発ジェット戦闘機、F-4ファントムだった。

エンジンの轟音が、地鳴りのように北の山並みへ向かっていく。

戦闘機は、あの止まった光のほうへ、まっすぐに向かっていった。

屋根の上で見守る近所の人々からも、ほっとしたような、興奮したような叫びが上がった。

軍が動いた。

正体が何であれ、あの鉄の鳥が暴いてくれるはずだ——誰もがそう信じた。

けれども、戦闘機がだいぶ光に近づいたと思われたころ、屋上からは奇妙な光景が見えた。

轟音とともに突き進んでいた機体の灯りが、急に向きを変えたのだ。

目に見えない壁にはね返されたかのように、光から遠ざかっていく。

しばらく離れると、また向き直ろうとするが、それ以上は近づかなかった。

少なくとも、地上からはそう見えた。

「どうしたんだ、なぜ引き返す?」

隣の屋敷の若い男が叫んだ。だが、地上の誰にも、その理由は分からなかった。

やがて一機目の戦闘機は、南西の闇へ飛び去っていった。

夜空には、ふたたび不気味な静けさと、冷ややかに色を変え続ける光だけが残された。

それから十分ほどして、もう一機の戦闘機がやってきた。

今度の機体は、さっきよりも速く、高く、鋭く光へ迫っていった。

シーデは息を止め、祈るように両手を握りしめた。

今度こそ何かが起きる。

その刹那だった。

止まっていた光の塊から、突然、小さく鋭い別の光が分かれ出た。

母が短い悲鳴を上げた。

分かれた小さな光は、それ自体が信じられないほどの明るさを放ちながら、戦闘機のほうへまっすぐに向かっていくように見えた。

戦闘機は激しく身をひねり、急に高度を下げて、その光をかわそうとした。

だが、小さな光は戦闘機を追わなかった。

ゆるやかな弧を描きながら、テヘランの南の乾いた丘のほう、古い町レイの向こうへと、音もなく滑るように下りていった。

地上の一点を目指して静かに舞い降りる、流れ星のようだった。

小さな光が地平線の向こうに沈むと、遠い南の夜空の底が、しばらくのあいだ白く明るんだ。

そして、残された大きな光もまた、やがて高度を上げはじめた。

アルボルズの稜線を軽々と越え、星々のあいだを縫うようにして、空の奥へと吸い込まれ、見えなくなった。

あとに残ったのは、二機目の戦闘機がむなしく旋回を繰り返すジェットの音の余韻と、冷たい夜風の音だけだった。

第四章 朝の光と囁き

翌朝のテヘランは、前の夜の出来事などなかったかのように、いつもどおりの雑多な活気とともに明けた。

東の空に日が昇ると、乾いた熱い風がシェミランの坂を駆け上がり、プラタナスの濃い緑の葉を擦り合わせた。

水路の水は変わらず澄んで流れ、朝早くからナンを焼く窯の香ばしい匂いが立ちこめていた。

大通りにはペイカーンが列をなし、クラクションを鳴らしながら砂埃を巻き上げて走っていく。

シーデはパンを買いに行くのを口実に家を出たが、街角の空気は、いつもと明らかに違っていた。

石造りのパン屋の店先では、焼きたての平たいパンを受け取る人々が、小声で囁き合っていた。

「ゆうべのあれを見たか」

「軍の飛行機が二機も上がったそうだ」

「南の丘に何か落ちただろう。光が見えた」

人々はまわりを気にしながら、切れ切れの話を交わしていた。

ある者は、南の村で夜中に強い光と大きな音があったと語った。

ある者は、朝になって軍のヘリコプターがそのあたりへ飛んでいき、あちこち探したが、焦げ跡一つ見つからなかったらしい、と噂した。

帰り道、ゆうべ向かいの屋根で祈っていた老女が、門の前で水路に水を撒いていた。

シーデが会釈すると、老女は手を止め、北の山のほうを顎で示した。

「あれはね、何かを探しに来たんじゃないよ。こっちを見に来たのさ。見るだけ見て、帰っていった」

それだけ言うと、老女はまた黙って水を撒きはじめた。

シーデには、その言葉の意味は分からなかった。

けれど、軍の飛行機よりも、老女のその言い方のほうが、なぜか長く耳に残った。

昼過ぎ、父がバザールから新聞を何紙か抱えて帰ってきた。

父は居間の絨毯の上に新聞を広げ、熱心に紙面をめくった。

ゆうべの光のことは、記事になっていた。

市民から通報が相次ぎ、空軍機が調べに飛んだ、と。

けれども、父が屋根の上で見たことのすべてが書かれているわけではなかった。

「あれで全部のはずがない」

父は苦い顔で新聞を置いた。

「わしはこの目で見たんだ。飛行機が引き返すのを、光が二つに分かれるのをな。あの管制塔の男だって、認めていたじゃないか」

母は黙って父の前に紅茶を置き、それ以上その話をしないよう、目で合図をした。

街のどこにでも秘密警察の耳がある、と言われていた時代だった。

軍の動きについてあれこれ詮索することは、何の得にもならなかった。

数日が過ぎ、一週間が過ぎると、人々の口からあの夜の話は急に消えていった。

誰もが新しいテレビ番組や流行りの服、物価の上がり具合といった暮らしの波に押し流されていった。

空の光は、まるでテヘランの人々がひと晩だけ同じ夢を見たかのように、記憶の底へ沈んでいった。

第五章 散り散りの歳月

あの夜から三年後、イランの社会は根底から覆った。

一九七九年の革命で王政は倒れ、街の景色は一変した。

やがて女たちは髪を覆うことを求められるようになり、街角に流れていた西洋の音楽は消え、宗教の歌と演説が街のスピーカーを占めた。

その翌年、隣国イラクとの戦争が始まった。

かつて夏の夜に涼を取るための場所だったシェミランの屋上は、空襲を知らせるサイレンに怯え、灯火管制の闇の中で、遠くの火の手を見張る場所に変わった。

とりわけ戦争の終わりが近づいたころには、テヘランの街にもミサイルが落ちた。

かつてシーデが見上げたアルボルズの澄んだ夜空は、対空砲火の赤い光の筋に引き裂かれた。

灯火管制の夜、屋上で母と並んで北の空を見張っていたとき、母がぽつりと言ったことがある。

「あの夜の光、覚えてる?」

シーデは頷いた。

あのときは、誰も空を怖がってはいなかった。

光は何も壊さず、誰も傷つけず、ただそこにいて、去っていった。

いま空から来るものは、家を壊し、人を殺す。

母はそれ以上何も言わず、二人は黙って、暗い空を見上げ続けた。

八年の戦争のあいだに、父のアリーは心労から病に倒れて亡くなり、弟のババクは徴兵を逃れて国境を越え、ヨーロッパへ渡った。

親戚の多くもアメリカやフランスへ散っていき、にぎやかだったシェミランの家には、シーデと母だけが残された。

戦争のあと、シーデは実直な仕立て職人と結婚し、二人の子を育てた。

暮らしを支え、配給の列に並び、戦後の苦しさと移り変わる世の中を生き抜くだけで精一杯だった。

一九七六年の秋の夜のことなど、思い出す暇もなかった。

口にすれば、「まだ王様の時代の夢を見ているのか」と笑われるか、ばかげた作り話として片づけられるのが落ちだった。

あの夜、家族四人で絨毯の上に座り、サモワールの湯気の中で見上げた宝石のような光は、失われた日々の記憶とともに、シーデの胸のいちばん奥の引き出しに、固くしまい込まれた。

第六章 机の上の報告書

長い年月が流れ、時代は二十一世紀に入っていた。

二〇〇七年の晩秋のある日、ヨーロッパに住む弟の息子が、休みを利用してテヘランのシーデのもとを訪ねてきた。

航空機の整備の仕事をしているという甥は、夕食のあと、居間でノートパソコンを開いていたが、ふと思い出したように、シーデを手招きした。

「伯母さん、一九七六年の秋に、このシェミランの空に妙な光が出たっていう話、聞いたことありますか? アメリカのワシントンで、いろんな国の元軍人や元パイロットが集まって記者会見を開いて、昔のイランの空軍の人も、その夜のことを話したらしいんです」

シーデの手が止まった。胸の奥で、三十年のあいだ眠っていた何かが、鋭く跳ねた。

本文の約76%まで公開

【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます

この先は、記録の結末です。

メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。

登録は無料です。広告メールなどは一切配信しません。