序章 凍てついた調書
折りたたみの木の机の上に、粗末な更紙の綴りが置かれていた。
ゲルの中央の鉄のストーブからは、乾いた牛糞の燃えるかすかな煙と、煤けた鉄の匂いが立ちのぼっている。
フェルトの壁の外では、モンゴル北部の草原に積もった硬い雪が、乾いた風に削られて地表を滑っていく音がしていた。
一九三〇年代の終わりの冬、この地方の冬営地を覆っていたのは、零下三十度を下回る寒気だけではなかった。
羊飼いの娘オユーンは、革の手袋を外したばかりのかじかんだ両手を膝の上で重ね、自分の家のゲルの、低い寝台の端に腰を下ろしていた。
十八歳の彼女にとって、郡の役所から馬で乗りつけてきた男と向かい合うのは、取り調べを受けているのと変わらない重苦しさがあった。
男はツェンドと名乗った。
首都ウランバートルで教育を受けたという彼は、真新しい綿入れの外套をまとい、胸ポケットから万年筆を抜いて、凍りかけたインクを息で温めていた。
父と母は、ストーブの向こうで身じろぎもせずに座っていた。
「もう一度確認する」
ツェンドは感情を交えない平坦な声で言った。
「君の家の隣の、バト老人のゲルで起きた騒ぎについてだ。この一帯の牧民のあいだで、死者の魂が物を投げ飛ばしているという噂が広まっている。宣伝員のドルジ同志の報告では、突風による事故ということになっている。
だが、噂は止まない。新しい社会において、そうした迷信は人々の働く意欲を削ぎ、恐れを植えつける毒でしかない。君は隣人として、いちばん近くでその様子を見ていたはずだ」
オユーンは乾いた唇を舐めた。
ゲルの壁を揺らす風の音が、ときおり、獣の低い唸り声のように聞こえる。
嘘をつくつもりはなかった。
けれど、本当のことをそのまま話すこともできなかった。
本当のことのほうこそが、この男の言う迷信そのものだったからだ。
「老人はただ、一人で暮らしています」
オユーンは絞り出すように答えた。
「誰も怪我はしていません。誰かが石を投げ込んだわけでもありません」
「私が聞いているのは、物が勝手に跳ね回り、ゲルの壁が内側から波打っていたという話だ」
ツェンドは万年筆の先で紙をこつこつと叩いた。硬い音が、ゲルの中に冷たく響く。
「誰かが外から細工をしたのか。あるいは、老人が人目を引くために自分でやったのか。合理的な説明は必ずある。君が見たとおりの事実だけを言いなさい」
オユーンは目を伏せ、机の木目に視線を落とした。
脳裏には、数日前に見たあの光景が、細部まで鮮やかに蘇っていた。
それは誰かの悪意や手品で説明のつくようなものではなかった。
そして何より、あの騒ぎの真ん中で、朝の霜を眺めるように静まり返っていた老人の横顔が、目に焼きついて離れなかった。
「話します」
オユーンは小さく息を吸い込んだ。
「あれは、初めからあんな騒ぎだったわけではありませんでした」
第一章 震えるフェルト
始まりは、十日ほど前の夕暮れだった。
冬営地へ移ってきてから二月が過ぎ、家畜の世話は厳しさを極めていた。
日没とともに気温は急に下がり、羊たちを囲いへ追い込む仕事が終わる頃には、吐く息の白さが睫毛に凍りついて、顔の皮膚に刺さるほどになる。
仕事を終えたオユーンが家のゲルへ戻ろうとしたとき、十数歩離れたバト老人のゲルから、妙な音が聞こえてきた。
こと、こと、と何かが規則正しく木の格子壁を叩くような音だった。
バト老人は、冬営地の誰とも深く交わらない男だった。
昔は大きな寺で経を読んでいた僧だったという噂もあったが、僧院がつぎつぎと閉ざされ、僧たちが連れ去られていくこの数年、本人が昔のことを口にすることは一度もなかった。
彼はただ、数頭の馬とわずかな羊を飼い、誰の手も借りずに、頑なに一人で暮らしていた。
不審に思ったオユーンが立ち止まると、その音は急に激しくなった。
どすん、と重いものが倒れる音。続いて、乾いた小石をいくつも床に撒き散らすような、細かな衝突音がゲルの裾から響いてきた。
風は吹いていなかった。
それなのに、二重に重ねた厚い羊毛のフェルト壁が、呼吸する動物の腹のように、外側へ向かって不規則に波打っていた。
「お父さん、来て」
オユーンは家のゲルへ駆け戻り、炉に乾いた糞をくべていた父の袖を引いた。
父は眉をひそめながら外へ出たが、老人のゲルの前に立つと、すぐに足を止めた。
ほかのゲルからも、何人かの牧民が集まり始めていた。
「おい、バト! 中に誰かいるのか!」
隣の家の男が声を張り上げたが、返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、内側からフェルトを激しく擦るような、ざらざらとした音だった。
何十羽もの大きな鳥が、外へ出ようとして、壁の内側を狂ったように掻きむしっているかのようだった。
円いゲルそのものが、骨組みごとわずかに軋み、足元の地面を揺らしていた。
「狼でも入り込んだのか」
誰かが呟いたが、入り口の木の扉はしっかりと閉ざされていた。
冬の夜、狼が家畜の匂いに誘われてゲルの近くで暴れることはある。
だが、この音には、生き物の立てる熱や荒い息づかいがまったく感じられなかった。
そのとき、冬営地を回っていた若い宣伝員が駆けつけてきた。
郡の役所から送られてきて、地方を巡りながら、衛生の心得や迷信の撲滅を説いて回っている男だった。
名をドルジといった。
彼は集まった人々を押しのけ、ゲルの前に立った。
「何をしている、こんな寒空の下で集まるな。ただの隙間風だ。草原の突風が裾から吹き込んで、フェルトが揺れているだけに決まっている」
ドルジはそう大声で言い放ち、誰にでも分かる自然の現象だと示そうとした。
だが、その言葉が終わらないうちに、ゲルの骨組みがひときわ大きく、がたがたと鳴った。
凍てついた無風の夕暮れの中で、老人のゲルだけが、心臓を持っているかのように脈打ち続けていた。
人々は息を詰め、ドルジもまた、それ以上一歩も踏み出せずに立ち尽くした。
この土地の人々にとって、こうしたことが意味するものは一つしかなかった。
チョトゴル——非業の死を遂げた者や、死んだあとの道に迷った者の魂が、居場所を求めて荒れているのだと、誰もが胸の中で思っていた。
第二章 跳ねる骨と舞う灰
翌日になっても、騒ぎは収まるどころか、より露骨な形をとって、昼の光の下に現れ始めた。
朝の放牧を終えたオユーンがおそるおそる近づくと、老人のゲルの扉が、ほんの少しだけ開いていた。
中を覗き込む勇気のある者はいなかったが、隙間から漏れてくる音は、前の晩よりもはるかに異様だった。
ぱちぱち、ぱちぱち、と何かがゲルの床で跳ねていた。
小気味よいほど連続した音だった。
オユーンが目を凝らして隙間を見つめていると、扉の足元から、白い小さな塊が一つ、勢いよく外の雪の上へ飛び出してきた。
羊の踝の骨——シャガイだった。子供たちが占いや遊びに使う、あの小さな骨である。
骨は生きている甲虫のように、雪の上で二度、三度と自分で跳ね上がり、やがて動きを止めた。
続いて、ゲルの中から、白く濁った煙のようなものが立ちのぼった。
火事かと思って人々が色めき立ったが、煙の匂いはしなかった。
それはストーブの底に溜まっていた灰だった。
誰かが灰かき棒で撒き散らしたかのように、細かな灰が扉の隙間から霧のように噴き出し、冬の澄んだ空気に吸い込まれていった。
「近づくんじゃない」
父がオユーンの肩を強く引いた。
「あれは怒っている魂だ。近づけば、こっちの魂まで抜かれてしまう」
この土地の古い言い伝えでは、人がひどい恐怖や驚きに襲われると、体から魂——スンス——が抜け落ちて、その場に置き去りにされるという。
魂を失った者は生気をなくし、やがて弱って病みつく。
だからこそ、理屈の通らないものに出くわしたとき、人々は何よりもまず「驚くこと」を恐れた。
だが、分からないのは老人の様子だった。
これほどのことが中で起きているのに、老人の叫び声や、助けを求める声は一度も聞こえてこなかった。
それどころか、天井の煙突からは、朝も昼も、淡い青灰色の煙がまっすぐに立ちのぼっていた。
老人は、火を焚き続けているのだ。
午後になると、遠くの冬営地からも、噂を聞きつけた牧民たちが馬でやってきた。
彼らは十数メートルの距離を保って輪を作り、怯えと好奇心の入り混じった目でゲルを見守っていた。
そのとき、中で鈍い音がした。
続いて、馬の鞍が一つ、扉の内側から弾き出されるようにして転がり出てきた。
木と革でできた頑丈な鞍が、大人の男が力いっぱい蹴り出したかのような勢いで雪の上を滑り、雪煙を巻き上げた。
集まった人々のあいだから悲鳴が上がった。
「チョトゴルだ!」
「昔のいくさで死んだ者が、馬を探して暴れているんだ!」
誰かがそう叫ぶと、恐れは野火のように広がった。
革命の前後、この一帯でも戦いがあったと、年寄りたちは語っていた。
弔われずに死んだ者の魂が荒野をさまよい、暖を求めてゲルに入り込むこともあるのだと。
けれども、オユーンは鞍を見つめながら、妙な違和感を覚えていた。
放り出された鞍には、争ったような傷も、乱暴に引きちぎられた跡もなかった。
置かれていた場所から、目に見えない力で、ただ押し出されただけのように見えた。
そして、鞍が飛び出してきたすぐあと、ゲルの中から、茶釜の湯が煮立つしゅうしゅうという穏やかな音が、かすかに漏れ聞こえてきたのだ。
第三章 静止した炉火
三日目の昼、オユーンはこらえきれずに、一人で老人のゲルの裏手へ回った。
冬営地の大人たちは、近くの寺が閉ざされ、頼るべきラマ——僧——も、病を見てくれた年寄りの祈祷師も連れ去られてしまったいまでは、遠くからゲルを見つめて溜め息をつくばかりだった。
ドルジは「集団の思い込みだ」と言い捨てて、郡の役所へ報告に戻っていった。
冬営地には、薄気味の悪い沈黙が垂れ込めていた。
オユーンは、氷を割って溶かした水を桶に入れて持っていた。
老人が外に出てこない以上、水も尽きているはずだった。
もし老人が中で倒れているのなら、見殺しにはできなかった。
ゲルの北側、フェルトの継ぎ目には、風よけの小さな重ね代があった。
オユーンは雪を踏む音を忍ばせ、冷え切ったフェルトの隙間に指を差し入れた。
わずかな隙間を作り、片目を押し当てる。
ゲルの中が、薄暗い光の中に浮かび上がった。
中央には、赤く焼けた鉄のストーブがあった。
炉の上では、使い込まれた真鍮の茶釜が白い湯気を吐きながら、静かに煮立っている。
その周りは、まさに騒乱の渦の中にあった。
床に置かれていたはずの木の乳桶が、生き物のように床から少し浮き上がっては、どすんと落ちて滑っていた。
格子壁に掛けられた馬具の革紐が、見えない風に煽られたようにぴんと張りつめ、宙で鞭のようにしなっていた。
足元では、乾いた羊の骨が何十個も、熱い鍋の底で煎られる豆のように跳ね回り、からからと音を立てていた。
混沌だった。ゲルの中にあるあらゆる暮らしの道具が、意志を持ったかのように、でたらめな動きを繰り返していた。
けれども、オユーンの呼吸を止めたのは、その騒ぎそのものではなかった。
ゲルのいちばん奥、上座——ホイモル——に腰を下ろしている人の姿だった。
バト老人がいた。
老人は、古びた羊皮のデール——長い外套——をしっかりと着込み、あぐらをかいて座っていた。
右手には、磁器の小さな椀が握られていた。
中には、乳と塩を入れた茶——スーテーツァイ——が注がれていて、淡い湯気が立ちのぼっている。
老人の頭のすぐ上を、乾いた牛糞の塊がかすめて壁にぶつかった。
足元では、跳ねた骨が老人の長靴の革に当たって弾け飛んだ。
だが、老人は瞬き一つしなかった。
その目は、荒れ狂う道具たちには向けられていなかった。
ただ、中央のストーブの、赤い炎の揺らめきだけを、じっと見つめていた。
その顔には、恐れも、怒りも、驚きすらもなかった。
冬の朝に放牧地の地平線を眺めるときのような、どこまでも退屈で、どこまでも穏やかな目がそこにあった。
椀を持つ手は、少しも震えていなかった。
老人はときおり、茶の表面に浮いた脂を息で静かに吹き分け、すすっていた。
老人の座る上座のまわり、わずか一メートルほどのところだけが、目に見えない囲いで守られているかのように、何の異変も起きていなかった。
物が飛び交い、壁が波打つ騒乱の中で、老人と、茶釜の置かれた炉のまわりだけが、まったくの静けさに浸されていた。
オユーンは息を潜めたまま、その信じがたい対比を見つめ続けた。
なぜ老人は逃げ出さないのか。なぜ叫ばないのか。
そのとき、老人がふと、わずかに視線を動かした。
彼が見たのは、揺れる骨組みでも、飛び跳ねる道具でもなく、オユーンが覗いているフェルトの継ぎ目だった。
濁りのない黒い瞳が、オユーンの目と真正面からぶつかった。
心臓が早鐘を打った。見つかった、という恐れで体がこわばり、指先が凍りつきそうになった。
だが、老人は表情を変えなかった。
茶の椀を持ったまま、わずかに顎をしゃくり、入り口のほうを示すような仕草をした。
用があるなら表から入ってこい——無言で、そう促しているかのようだった。
第四章 踏み入れた閾
オユーンがゲルの正面に回り込んだとき、背後から荒々しく雪を蹴散らして、何人かが近づいてきた。
郡の役所から戻ってきた、宣伝員のドルジだった。その後ろには、屈強な若い牧民が数人、不安そうな顔で棍棒を手に従っていた。
「オユーン、離れろ!」
ドルジが叫んだ。
「役所からの指示だ。このゲルの中を調べて、物音と揺れの原因を突き止める。老人が何かの仕掛けを使っているか、さもなければ、誰か怪しい者をかくまっている疑いがある」
ドルジの顔は青ざめていたが、その目には、自分の信じる科学と理性を示そうとする、必死の光があった。
彼は怯える若者たちを叱りつけ、ゲルの扉に手をかけた。
「待ってください」
オユーンは思わず声を上げた。
「老人は……怪我はしていません。ただ、お茶を飲んでいるだけです」
「お茶を飲んでいるだと?」
ドルジは嘲るように鼻を鳴らした。
「壁があれほど波打って、物が飛び出してきたのを、お前も見ただろう。中で何かが起きているのは明らかだ。開けるぞ」
ドルジが木の扉を勢いよく引き開けた。
その瞬間、冷たい外気がどっとゲルの中へ流れ込み、中に籠もっていた重い空気が弾けた。
ひゅう、という耳障りな音が鳴った。だが、外に風はない。
オユーンはドルジの背中越しに、おそるおそる中を覗き込んだ。
ゲルの中は、外から覗いたときよりも、はるかに凄まじい有様だった。
床に敷かれたフェルトの敷物が、下で何千匹ものネズミが這い回っているかのように、あちこちで盛り上がっては沈んでいた。
格子壁に結びつけられていた革袋や木の椀が、激しくぶつかり合って、かたかたと悲鳴のような音を立てている。
そして、ゲルの中央を漂っていたのは、目に見えない大きな渦だった。
床の灰が舞い上がり、乾いた牛糞の欠片が、見えない指先につまみ上げられたかのように、宙ででたらめな軌道を描いて回っていた。
「な……なんだ、これは」
ドルジが足をもつれさせ、扉の枠に手をついた。
彼の掲げていた理性の仮面が、一瞬で剥ぎ取られた。
首都の学校で学んだどんな教科書にも、物がひとりでに宙を舞い、敷物が波打つことの説明など書かれていなかった。
後ろに控えていた若者たちは、その光景を一目見るなり、悲鳴を上げて雪原の向こうへ逃げ去ってしまった。
棍棒を雪の上に放り出し、振り返りもせずに走っていく。
ドルジの膝ががくがくと震えていた。彼は入ることも、逃げることもできず、扉の枠にすがりついて荒い息を吐いていた。
その騒乱のただ中で、バト老人は相変わらず上座に座っていた。
開け放たれた扉から吹き込む冷気にも眉一つ動かさず、老人は手にした椀を、静かに低い卓の上に置いた。
かつん、という小さな磁器の音が、物の飛び交う騒音を切り裂いて、驚くほど澄んで響いた。
老人はゆっくりと顔を上げ、青ざめて立ちすくむドルジと、その背後にいるオユーンを、まっすぐに見つめた。
その目には、荒れ狂うものへの敵意も、逃げ惑う若者たちへの蔑みもなかった。
吹雪を受けて立つ古木のような、底知れない静けさだけが湛えられていた。
老人の唇が、ゆっくりと開いた。
低く、かすれた、だがゲルの隅々まで染み渡るような声だった。
「敷居を踏むな、若いの」
ドルジははっとして、扉の枠の下の、自分の長靴の先を見た。片足が、木の敷居の上に乗っていた。
この土地では、ゲルの敷居を踏むことは、その家の主と、家を守るものとを踏みつけるに等しい、と昔から戒められてきた。
宣伝員が説いて回る新しい教えでも、それを改めさせることはできなかった。
「入るなら跨いで入れ。逃げるなら逃げろ。だが、そこで震えているのだけはやめろ」
ドルジは足を引き、喉を鳴らした。
「バト……同志……これは、一体何の手品だ……何が、何がいるんだ……」
老人はかすかに口元を緩めた。笑みというより、あまりに世慣れた諦めの形に近かった。
「何もおらんよ」
老人は言った。
「ただの、迷子だ」
「迷子……?」
オユーンは思わず呟いていた。
「そうだ」
床を滑っていく木桶には目もくれないまま、老人は続けた。
「行くべき所を忘れて、戻る体もなくした魂だ。行き場がなくて、ここで騒いでおる。それだけのことだ」
「そ、それなら、なぜお前は平気なんだ!」
ドルジが叫んだ。声は裏返り、役人の威厳などどこにも残っていなかった。
「物が飛んでいるんだぞ! 頭に当たれば、死ぬかもしれないんだぞ! なぜ逃げない!」
老人は静かに息を吐き、膝の上に両手を置いた。長年の厳しい暮らしで節くれだち、深い皺の刻まれた手だった。
「チョトゴルが人を殺すのではない」
老人は、言い聞かせるように言った。
「人が、己の恐れで己を弱らせるのだ。チョトゴルには体もなければ、骨を砕く力もない。ここにある物を少し揺らし、音を立てることしかできん。それを恐ろしい化け物に変えているのは、お前たちの怯えた心だ」
老人は目を落とし、足元でぱちぱちと跳ね続けるシャガイを見た。
「恐れれば、魂が体から離れる。だが、恐れさえしなければ、チョトゴルなどただの風と同じだ。風が吹いてゲルが揺れたからといって、お前はいちいちゲルを捨てて逃げ出すのか」
ドルジは言葉を失っていた。
老人の言葉は、彼が打ち消そうとしてきた迷信の言葉ではなく、むしろ、ひどく冷静な観察のように聞こえたからだ。
「だが……現に、物が飛んでいる!」
ドルジが絞り出すように言った。
「見ろ」
老人は静かに言った。
「飛んでいる物が、誰かを傷つけたか。お前に向かって飛んできたか」
オユーンははっとして、あたりを見渡した。
たしかに、激しく飛び交い、跳ね回っている道具たちは、ゲルの壁や床にぶつかるだけで、扉の前に立つ自分たちや、上座の老人に向かってまっすぐ飛んでくることは、一度もなかった。
目に見えない何かが、誰かを傷つけようとしているのではなく、出口の分からない部屋で、ただうろたえて暴れている小さな獣のように見えた。
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