序章 ナムチェの薪ストーブ

夕暮れがナムチェ・バザールのすり鉢状の斜面を青く塗りつぶす頃になると、石造りのロッジの広間には、乾かしたヤクの糞と松の薪を焚く鉄ストーブの匂いが立ち込め始める。

開け放した戸口の向こうでは、夕陽の名残を浴びたコンデ・リの氷壁が、冷たい銀色から沈んだ鉛色へと、ゆっくり表情を変えていくところだった。

私がこのロッジに泊まったのは、エベレスト街道を下る途中の、雪の降り出しそうな晩だった。

ほかに泊まり客はなく、広間には私と主人の二人きりだった。

主人のアング・ダワは、長年の荷運びと煮炊きで節くれだった大きな手で、琺瑯のマグカップに熱いスジャ——塩気の利いたバター茶——を注ぎ足してくれた。

彼が十九歳で、遠征隊のコック見習いとして初めて氷河の上のテントに入ったのは、一九八六年の秋のことだったという。

いまのクンブ谷には立派なトレッカー用の宿が連なり、ベースキャンプからでさえ衛星回線で下界と話ができる。

しかし、四十年近く前の山はまったく別の世界だった。

大きな国の大がかりな隊でもなければ無線機など持てず、ひとたび氷河の末端にテントを張れば、下界の誰とも繋がらない小さな石の島に取り残される時代だった。

ダワはストーブの蓋を金鋏で少しだけ開け、赤く熾きた炭を見つめながら、低い声で言った。

山にはときどき、人間の耳には届かないはずの声を、そのまま誰かの頭の中へ運び込んでしまう夜がある。

そう言ったきり、彼はしばらく黙っていた。

第一章 真夜中の呼び声

あれは、標高四千九百メートルのモレーン——氷河が運んだ岩屑の堆積——の上に設けたベースキャンプでのことだった。

十月も半ばを過ぎ、夜には気温が零下二十度を大きく下回る季節に入っていた。

その夜、時刻は午前一時を回っていた。

四角いコックテントの中は凍りつき、分厚い羽毛の寝袋に潜り込んでいたダワは、入口のジッパーが引き裂かれるような鋭い音で目を覚ました。

凍った布地が擦れ合い、ばりばりと氷の砕ける音が暗闇に響いた。

誰かが飛び込んできて、寝袋の上からダワの肩を乱暴に揺さぶった。

天井から吊るした小さな灯油ランプの芯にマッチの火が灯ると、青白い光の中に、ニュージーランド人の青年デイヴィッドの顔が浮かび上がった。

その顔は異様だった。

目は血走り、唇は寒さと緊張で紫に変わり、頬には乾いた鼻血の筋がついていた。

「起きろ、ダワ。ペンバを呼んでくれ。リュックが呼んでいる」

デイヴィッドの口から漏れる息は白く、荒く乱れていた。

ダワは寝袋の中で身を固くした。

頭はまだ冷気で痺れていたが、言われていることの意味だけは分かった。

だが、それはあり得ないことだった。

リュックはフランス人の登山者で、その日の昼前、たった一人で上部の側稜へ向かったきり戻っていなかった。

彼らが挑んでいたのは、クンブ谷の奥、氷河の分かれ目にそびえる、七千メートルにわずかに届かない尖った岩峰だった。

キャンプからその岩峰の取り付きまでは、巨大なモレーンとクレバス帯を越えて三キロ以上も離れている。

「デイヴィッド、外を聞いてみろ」

ダワは身を起こし、テントの薄い布地を指さした。

外には、ただヒマラヤの重い静寂があるだけだった。

ときおり谷を吹き抜ける風がテントの張り綱を低く唸らせ、遥か遠くでセラック——氷河の氷の塔——が崩れる、地鳴りのような低い響きが伝わってくるだけだ。

叫び声はおろか、動物の気配すらない。

この高さで、三キロ先の岩壁から人の声が届くはずがなかった。

「聞こえるはずがない。風の音だ、デイヴィッド。君はひどく疲れているんだ」

だが、青年は首を激しく横に振った。彼の両手はダワのジャケットの襟元を掴んだまま、小刻みに震えていた。

「風じゃない。耳で聞いたんじゃないんだ。右の耳のすぐ後ろで、はっきり呼んだんだ。

『デイヴィッド、助けてくれ、肋骨が折れた、ロープが届かない』と、フランス訛りの英語で。あいつの声だった。あいつはいま、この瞬間に倒れている」

第二章 空いた木箱

その小さな遠征隊は、もとから危うい釣り合いの上に成り立っていた。

フランス人のリュックは三十代半ばの家具職人で、物静かで慎重なクライマーだった。

対照的に、二十代後半のデイヴィッドは南島の羊牧場で育った無骨な男で、体が強く、自分の頑健さに過剰な自信を持っていた。

二人はアルプスで知り合い、資金を出し合って、あまり名の知られていない、許可の手続きも簡単な峰を狙ってこの谷へやってきたのだった。

シェルパの側は、サーダー——シェルパ頭——である初老のペンバと、コックのダワ、それに荷揚げの若いポーターが一人という、最小限の顔ぶれだった。

登攀を始める前のプジャ——山の神に安全を祈る儀礼——で、ペンバは石を積んだラプソの祭壇にジュニパーの青い小枝を焚き、色とりどりのタルチョ——経文を刷った旗——を四方に張り巡らせて、山々の神に祈りを捧げた。

そのとき、二人の外国人は、立ちのぼる煙を物珍しそうに眺めているだけだった。

ダワにとって、プジャは物心ついた頃から当たり前の景色だった。

山は登るためのものではなく神々の住まいであり、人はそこへ少しのあいだ足を踏み入れさせてもらうだけだ——父も祖父も、そう言って荷を担いできた。

儀礼の終わりに、ペンバは二人の外国人にもツァンパ——炒った麦の粉——をひとつまみずつ握らせ、祭壇に向かって宙へ撒くよう促した。

デイヴィッドは笑いながら放り投げ、リュックは少し考えてから、帽子を取って静かに撒いた。

そのときの二人の違いを、ダワはなぜか今でもよく覚えている。

異変が始まったのは、その真夜中の騒ぎの四日前のことだった。

先に体を壊したのはリュックだった。

高度に体を慣らしている途中で、ひどい咳が止まらなくなり、熱を出した。

胸の風邪をこじらせたのだろうと、ペンバは見立てた。

下山を勧められても、リュックはベースキャンプで安静にして、抗生物質を飲みながら回復を待つと言い張った。

相棒の足止めに苛立ったデイヴィッドは、一人で第一キャンプの予定地までルートを延ばしてくると宣言した。

無謀な単独行だった。

ペンバが止めるのも聞かず、彼は最小限の装備を背負って、東の側稜へと消えていった。

デイヴィッドが戻ってきたのは、それから丸二日後の夕暮れだった。

予定を一日以上も過ぎていた。

キャンプの氷河の縁に現れたデイヴィッドは、まるで幽霊のようだった。

アイゼンをつけたまま足を引きずり、ピッケルを一本失い、ザックの片方のストラップは千切れていた。

唇は青ざめ、ひどい衰弱で、目の焦点が合っていなかった。

ダワは慌てて彼を食堂テントへ抱き入れ、毛布を何枚も被せて、砂糖をたっぷり入れた熱いレモンティーを差し出した。

そのときだった。

デイヴィッドは震える手で受け取ったマグカップを、自分の口元へ運ぶのではなく、向かいの空いた木箱の上へと押しやったのだ。

「彼に先に飲ませてやってくれ。指が凍りかけている」

ダワは思わず周囲を見回した。

テントの中には、ダワと、寝袋で横になっているリュックと、デイヴィッドの三人しかいない。

木箱の向こうには、誰も座っていなかった。

「デイヴィッド、誰のことだ。ここには誰もいないぞ」

だがデイヴィッドは、何もない空間に向かって、そこに確かに誰かが座っているかのように何度も頷き、小声で労いの言葉をかけ続けていた。

翌朝、ひと晩眠って正気を取り戻したデイヴィッドが語った話は、ダワの背筋を冷たくさせた。

上部の岩壁を横切っているときに岩の隙間に打ったハーケンが抜け、宙吊りになりかけたこと。

ビバーク用の小さな天幕が突風で裂け、暗闇の中で吹雪に巻かれたこと。

体温が奪われ、意識が途切れそうになったそのとき、ふと気づくと、自分のすぐ右隣に「もう一人」がいたのだという。

その人物の顔は見えなかった。

厚い雪煙のせいか、あるいは初めから姿などなかったのかは分からない。

だが、その存在はデイヴィッドの右側にぴったりと付き添い、休むことなく指示を与え続けた。

「右足をあと十センチ上げろ。そこに小さな足場がある」「いま懸垂下降の支点を取るな、その岩は浮いている。あと三メートル右へ移れ」

その声は、耳を震わせる音ではなく、頭の中心に静かに置かれるような、確信に満ちたものだったという。

その存在に伴われて、デイヴィッドは一歩ずつ下りてきたのだった。

「あいつは誰だったんだ」とダワが尋ねると、デイヴィッドは力なく首を振った。

「分からない。だが、あいつは最後まで俺の右側にいて、モレーンの平らな場所まで俺を連れてきてくれた。そして、キャンプの明かりが見えた瞬間に、いなくなったんだ」

第三章 入れ替わった稜線

デイヴィッドの生還は奇跡だったが、その代わりに彼はひどい疲労と軽い凍傷で動けなくなった。

一方で、丸二日の休養と薬のおかげで、リュックの体調は目に見えて持ち直していた。

咳は落ち着き、熱も引いていた。

そして、相棒が無惨な姿で戻ってきたのを見たリュックの胸の中には、焦りと後ろめたさが芽生えていたようだった。

デイヴィッドが上部の岩壁に残してきた登攀用具や固定ロープを回収しなければ、この遠征は終わってしまう。

天候の安定する日は、あと二日ほどしか残されていなかった。

「第一キャンプのデポ——荷物の置き場——まで行って、ギアを回収してくる。登りはしない。荷物を下ろして戻るだけだ」

リュックがそう告げたのは、騒ぎの前日の午前十一時だった。

ペンバは渋い顔をした。

体調が戻ったとはいえ、病み上がりの体で、標高五千五百メートルを超える岩溝へ一人で向かうのは危険すぎる。

だがリュックは頑なだった。

自分だけが何もせず、相棒にすべてを背負わせたまま山を下りることを、彼の誇りが許さなかったのだろう。

リュックは青いアノラックを着込み、小さなザックを背負ってキャンプを出ていった。夕方六時までには戻る、という約束だった。

だが、午後五時を過ぎた頃から、山頂のあたりに灰色の笠雲がかかり始めた。

風が唸りを上げ、モレーンの岩肌を白い地吹雪が這い回り始めた。

六時になっても、七時になっても、リュックのヘッドランプの光はモレーンの尾根に現れなかった。

その夜、ダワはいつもより多めに湯を沸かし、魔法瓶を三本満たしておいた。

誰に言われたわけでもなかった。

食堂テントでは、デイヴィッドが毛布にくるまったまま、何度も入口の垂れ幕をめくっては、黒い尾根を見上げていた。

十時過ぎ、ペンバに促されて、デイヴィッドはようやく自分のテントへ戻った。

眠れるはずがない、と言いながら、横になるとすぐに、深い眠りに落ちていったという。

当時のヒマラヤでは、予定外のビバーク——山中での野宿——は決して珍しいことではなかった。

登山者が予定の時刻に戻らなくても、岩陰や雪洞に潜り込んで夜を明かし、翌朝の陽光とともに自力で下りてくることがしばしばあった。

下手に夜の捜索に出れば、助けに行った者まで遭難するだけだ。

ペンバはラプソの前に座り、数珠を繰りながら低く経文を唱えていた。

「山が静まるのを待つしかない。彼には防寒具もある。雪洞を掘っていれば、朝まではもつ」

それが、山の掟に従った、冷たいが正しい判断だった。

しかし、その判断は、深夜一時を過ぎてデイヴィッドがコックテントへ転がり込んできたことで、粉々に打ち砕かれることになった。

第四章 凍てつくモレーン

「リュックは雪洞になんか入っていない」

デイヴィッドはコックテントの真ん中で膝をつき、駆けつけたペンバの手を両手で握りしめて叫んでいた。

「あいつは落ちたんだ。主稜線じゃない。黒い岩塔の真下にあるクーロワール——急な雪の溝——だ。そこのクレバスの縁に引っかかっている。あいつがそう言ったんだ。『右腕が動かない、早く来てくれ』と!」

ペンバは鋭い目でデイヴィッドを見据えた。

「デイヴィッド、落ち着け。リュックが向かったのは東側の、安全な横断路だ。黒い岩塔の下など、落石と雪崩の通り道だぞ。あいつがそんな場所へ入る理由がない」

「俺にも理由は分からない! だが、あいつの声がそう言ったんだ!」

デイヴィッドの声は悲痛だった。

正気と錯乱の境目が崩れかけている男の目だった。

だが、その瞳の奥には、ただの錯乱とは違う、冷たく研ぎ澄まされた確信があった。

ダワは、二日前にデイヴィッドが空の木箱に熱い紅茶を差し出した光景を思い出していた。

あのとき、デイヴィッドの隣には確かに「何か」がいたのかもしれない。

もし、その見えない存在が、今度はリュックの声をこの男の耳元へ運んできたのだとしたら。

ペンバは長い沈黙のあと、重い息を吐いた。

そして、祭壇の横に置いてあった銅の小さなバターランプに火を灯した。

揺れる黄色い炎を見つめながら、老サーダーは短く言った。

「ラ(魂)が迷い出たのかもしれん」

シェルパの人々のあいだには、人の魂「ラ」は、ひどい恐怖や衝撃を受けたとき体から離れてさまようことがある、という考えがある。

迷い出たラが、親しい者のもとへ助けを求めにいくこともあるのではないか——ペンバはそう考えたのだろう。

「行くぞ、ダワ。魔法瓶に湯を沸かせ。ロープとスノーバー、ハーネスを持てるだけ持て」

ペンバの決断は早かった。彼らは分厚いダウンジャケットを着込み、アイゼンを締め直した。

テントの外に出た瞬間、零下二十度を下回る冷気が、肺の奥を刃物のように刺した。

空には無数の星が青白く凍りついていたが、月はなく、周りの山々は巨大な黒い影となってのしかかっていた。

ヘッドランプの光の輪だけを頼りに、三人は氷河の上へと踏み出した。

先頭を行くデイヴィッドの足取りは、数時間前まで衰弱して倒れていた男とは思えないほど速かった。

目に見えない細い糸で、暗闇の奥へと手繰り寄せられているかのようだった。

モレーンの巨大な岩塊を渡り、凍った氷河のうねりを越えていく。

標高が五千メートルを超えると、一歩進むごとに心臓が早鐘を打ち、喉の奥から鉄の味がせり上がってくる。

一時間、二時間。時計の針は午前四時を指そうとしていた。

やがて彼らは、東側のいつもの道筋を大きく外れ、黒い岩塔が空を突き刺す絶壁の真下に辿り着いた。

そこは昼間なら決して近づかない、巨大なセラックが頭上に張り出した、雪崩の通り道だった。

青白い雪面に、風で消えかかった一筋の乱れたトレース——人の歩いた跡——が残っていた。

リュックは確かに、ここへ来ていたのだ。

なぜ道を外れたのかは分からない。

濃い霧の中で迷い込んだのか、あるいは上からの落石を避けて逃げ込んだのか。

トレースは、雪田の真ん中で唐突に途切れていた。

その先には、暗い割れ目——ベルクシュルント、岩壁と雪面の境に口を開けるクレバス——が待っていた。

冷たい風が、雪煙を舞い上げながら吹き抜けていく。

デイヴィッドが雪の上に崩れ落ちるように膝をつき、震える指先で、その底知れない氷の裂け目を指さした。

本文の約75%まで公開

【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます

この先は、記録の結末です。

メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。

登録は無料です。広告メールなどは一切配信しません。