序章 赤い台地と炎の住人

見渡す限り、赤茶けた砂と剥き出しの石灰岩が続く平坦な台地である。

イエメン東部、マフラ州。

隣国オマーンとの国境に近いこの内陸の地は、長い年月をかけて熱風に削り取られた岩肌と、過酷な乾燥に耐えてまばらに生える乳香の木々だけが点在する、荒涼とした静寂の世界だ。

空はいつも白茶けた埃を孕んで霞んでおり、太陽は容赦のない熱を大地に叩きつけている。

子供のころの私にとって、世界とは放牧されるラクダの背中であり、風が運んでくる砂塵の匂いであり、そして祖母が語る古い言葉の響きそのものだった。

私たちマフラの人間は、国で広く使われているアラビア語とは異なる、独自の古い言葉を話す。

決まった文字を持たないマフラ語は、遠い祖先の時代から、歌やことわざ、あるいは恐ろしい昔話として、親から子へ、口から口へと受け継がれてきた。

私が十歳になったばかりの、ある夏の午後のことだった。

群れからはぐれてしまった一頭の子ヤギを追いかけて、私は村から少し離れた台地を一人で歩いていた。

乾いた土の上を子ヤギの鳴き声だけを頼りに進むうち、足元の景色が少しずつ白っぽくなり、もろい石灰岩の露出が多くなってきたあたりで、ふと風の気配が変わった。

ヒュー、という砂を巻く甲高い音ではない。大地の奥深くから這い上がってくるような、低く鈍い唸りだった。

私は足を止め、耳を澄ませた。

音のするほうへ誘われるように数歩進むと、突然、平らな大地に巨大な黒い染みのようなものが現れた。

ぽっかりと大口を開けた、巨大な縦穴だった。

完全な円ではなく、縁がいびつに歪んだその穴は、差し渡しが三十メートルほどはあっただろうか。

空にはぎらぎらと太陽が照りつけているというのに、穴の中には一筋の光も届いていないかのように、ただ濃い闇だけが広がっていた。

のぞき込もうと、縁の脆い岩に足をかけたときだった。

背後から、空気を裂くような鋭い声が飛んだ。

私の細い腕を、力いっぱい引き戻したのは祖母だった。

ふだんは穏やかで、乳香の香りの染みついた温かい手を持つ祖母の顔が、そのときばかりは激しい恐れと怒りで、別人のように歪んでいた。

祖母は私の口を荒々しく手でふさぐと、無言のまま、穴から遠ざかるように私を台地へと引きずって歩いた。

村の近くまで戻り、ようやく私の口から手を離した祖母は、肩で激しく息をしながら、地を這うような低い声で言った。

あの場所の名前を、決して口にしてはいけない。あそこはジンの牢獄なのだから。

ジン。それは私たちマフラの人間だけでなく、この広い世界に生きる多くの人々にとって、単なるおとぎ話の化け物ではない。

祖母は私を膝に座らせ、遠くの台地のほうを睨みながら語って聞かせた。

神が人間を土からお創りになるよりも前、ジンは煙のない火から創られた。

彼らは私たち人間と同じように、この世界で暮らし、食べ、結婚し、子供を産み、そして死んでいく。

人間の目には見えないが、私たちのすぐ隣で生きているのだと。

「ジンの中にも、人間と同じように善い者もいれば、神の言葉に耳を傾ける者もいる」

祖母はしわがれた声で言った。

「だが、あそこにいるのは違う。光を憎み、人を害する、いちばん性の悪いジンたちだ。大昔の預言者が、彼らをあの穴の底に閉じ込めた。あの暗闇の底で、彼らはいまも怒り狂いながら、外に出る日を待っているのだよ」

祖母の震える指先が、私の額に触れた。

「だから、あの穴の名前を呼んではならない。名前を呼べば、彼らは耳を澄ます。お前が縁から底を見下ろすとき、底にいるジンたちもまた、お前を見上げている。

そして見えない手でお前の足をつかみ、二度と出られない底へ引きずり込むのだ」

近づけば物が吸い込まれる。穴からは、ジンたちが吐き出す腐ったような臭いが上がってくる。

それ以来、私はその穴の名前を口にすることをやめた。

村の大人たちも、その話題をできるかぎり避けて暮らしていた。

どうしても触れなければならないときは、声を落とし、不吉なものを払う祈りの言葉を小さく唱えてから、ただ「あそこ」とだけ呼んだ。

あの台地に開いた黒い口は、私たちの穏やかな日々のすぐそばに開いた、決して触れてはならない世界の裂け目であり、畏れそのものの形だったのだ。

第一章 言葉を拾う者

大人になった私は、文字を持たない私たちの言葉、マフラ語の口承を記録し、残していく仕事に就いた。

古い作業唄、砂漠で道に迷わないための星の読み方、あるいはジンや奇妙な生き物たちが出てくる昔話。

村の年寄りたちを訪ね、彼らの語る言葉を録音機に吹き込み、それをアラビア語に移して紙に書き留めていく。

長い内戦や暮らしの移り変わりの中で、少しずつ失われていく私たちの記憶を、かろうじて形あるものとしてつなぎ止めるための、地道な仕事だった。

二〇二一年の夏の終わり、私は村でいちばんの年長者であるサーレムという老人の家を訪ねていた。

サーレムは、昔ラクダの乳を搾るときに歌われていたという独特の節回しの歌を、目を細めながら歌ってくれていた。

乳を出し渋る雌ラクダの機嫌をとるための歌で、ラクダの名前を何度も優しく呼びかける。

私は手元の録音機の赤いランプが点っているのを確かめながら、カルダモンの香りの強い熱い紅茶をすすっていた。

「この歌を知っている者は、もう村に三人しか残っておらん」

歌い終えたサーレムは、そう言って笑った。

「お前が書き留めておいてくれれば、わしが死んでも、ラクダは乳を出すだろう」

そこへ、州の地質の役所で働いている私の遠い親戚が、土埃にまみれた車でやって来た。

彼は顔を拭いもせず、私とサーレムの前に座り込むと、信じがたい知らせを口にした。

隣国オマーンから、洞窟探検の人々がこのマフラへやって来る。

彼らは大がかりな道具とロープを使い、あの台地の穴——外の人々が「バルフートの井戸」と呼び、私たちが村の名をとって「フォージートの穴」とも呼ぶ、あの場所の底まで降りるつもりだという。

そして、あたりの地理と土地の慣わしに明るく、マフラ語と外の言葉をつなぐことのできる私に、彼らの案内と通訳を頼みたい、という話だった。

親戚が帰ったあと、サーレムの家には村の年寄りたちが数人集まってきた。知らせはあっという間に村じゅうに広まっていたのだ。

狭い客間には、乳香を焚く煙が白く立ち込め、重苦しい沈黙が流れていた。

手の中で数珠を繰る乾いた音だけが、カチ、カチと響いている。

「正気の沙汰ではない」

口火を切ったのは、白い髭をたくわえた厳格な老人、ターリクだった。彼は怒りに顔を紅潮させ、杖で床を強く叩いた。

「よそ者がわしらの土地に踏み込んで、ジンの牢獄の蓋を開けようというのか。自分たちが何を引き起こそうとしているのか、分かっておらん。災いが村に降りかかるぞ」

「だが、どうやって止めるというのだ」

壁際で水煙管を吹かしていた物静かな老人、ハーミドが、煙を吐き出しながらぼそりと言った。

「役所の許しを得て、正式な調べとしてやって来るのだ。わしらが石を投げて追い返すわけにもいくまい。それに……」

ハーミドは言葉を切って、皆の顔を見渡した。

「お前たちも、本当は知りたいのではないか。あの穴が、いったいどこまで続いているのか。底に何があるのかを」

その言葉に、ターリクは顔をしかめて押し黙った。ほかの年寄りたちも、互いに目をそらした。

サーレムだけは、何も言わなかった。数珠を繰る手を止め、乳香の煙が天井へ上っていくのを、じっと見つめていた。

反対の声を上げながらも、彼らの心の底には、恐れと同じくらいの重さを持った、かすかな好奇心が潜んでいるのを、私ははっきりと感じ取っていた。

何代にもわたって恐れられてきた闇の正体が、明らかになるかもしれない。

その誘惑は、信仰の厚い年寄りたちの心さえ揺さぶっていたのだ。

その夜、私はすっかり年をとり、目もかすむようになった祖母の枕元に座り、昼間の話をした。

祖母は私の手を強く握りしめ、濁った目で天井を見つめながら言った。

「お前が案内をするというなら、止めはしない。お前は言葉をつなぐ役目を持っているのだから。だが、決してロープを伝って下へ降りようなどと考えてはいけないよ」

「分かっているよ、おばあちゃん。私は上で彼らを待つだけだ」

「外の人間が持ってくるロープは、車を吊り上げるほど丈夫かもしれない。だがね、ジンの爪は鉄の鎖さえ噛み砕く」

祖母の言葉は、ただの迷信として片づけるには、あまりにも重く、確信に満ちていた。

私の心も、激しく揺れていた。

幼いころに植えつけられた畏れが胸の奥で疼き、いますぐ断りの連絡を入れたい気持ちに駆られる一方で、言葉を記録する者として、あの闇が初めて語り出す瞬間に立ち会いたいという、抗いがたい思いがあったのだ。

第二章 引き返した記憶

探検の人々が村に着く数日前、地質の役所の親戚が、もう一度私を訪ねてきた。

打ち合わせのついでだと言って、彼は声を落とし、何年か前に役所の者たちが自分であの穴に降りようとしたことがある、と話しはじめた。

深さと形を調べるために、ロープを垂らして降りてみたのだという。

けれども、五十メートルか六十メートルほどのところで、彼らは引き返した。

「奇妙なものが見えた、と言っていた。それから、奇妙な臭いもした、と」

親戚は、それ以上のことは知らなかった。何が見えたのか、どんな臭いだったのか。降りた者たちは、多くを語らなかったらしい。

「語らなかったから、話のほうが勝手に育ったんだ」

親戚はそう言って苦笑した。

役所の中でさえ、岩肌を黒い影が這っていたとか、壁から人の顔が突き出していたとか、尾ひれのついた話がささやかれているのだという。

それでも、その話を聞いて、私の背筋には冷たいものが走った。

年寄りたちの昔話ではない。

現実に、道具を持った大人たちが降りて、途中で引き返してきた場所なのだ。

そこへ、隣国の人々はこれから降りていこうとしている。

九月、オマーンからの探検の人々が、何台もの四輪駆動車を連ねて村に着いた。

十人の男たちは、大量のロープ、滑車、ヘッドライト、そして岩に固定するための無数の金具を車に積んでいた。

その目は、まだ誰も見たことのない洞窟を前にした者に特有の、まっすぐな熱と興奮に輝いていた。

降下の前夜、私たちは穴から少し離れた台地にテントを張り、野営をした。

乾いたアカシアの枝を集めて火を起こし、甘い紅茶を飲みながら、私は地上に残る予定の二人の隊員と、短い言葉を交わした。

炎に照らされた二人の顔は若く、それでいて経験を積んだ落ち着きがあった。

「明日、下と上とのやり取りは、ロープでするんだ」

一人が、手元の太いロープを点検しながら言った。

「岩の壁が厚すぎて、無線はあてにならない。だから、ロープの引き方で合図を送り合う決まりにしている」

「ロープの引き方で、ですか」

「そう。降りている途中で一回引けば、異常なし。二回続けて引けば、何か問題が起きたから止めてくれ。三回続けて強く引けば、底に着いた、安全だ、という意味になる」

彼はロープをぐいと引く仕草をして見せた。

「原始的だけど、これがいちばん確かなんだよ」

もう一人の隊員が、火の向こうから私に尋ねた。

「この土地の人たちは、あの穴をどう思っているんですか」

私は少し迷ってから、祖母の話をした。ジンの牢獄のこと。名前を口にしてはならないこと。

二人は笑わなかった。焚き火の明かりの中で、一人が静かに頷いた。

「わたしの祖母も、似たようなことを言っていましたよ。山の洞窟には近づくなって」

彼らの国にも、ジンの住む穴や谷の話はいくらでもあるのだという。

それでも彼らは降りる。

怖くないのかと尋ねると、もう一人が肩をすくめた。

「怖いですよ。だから、ロープを三重にするんです」

私は黙って頷き、背後の闇に沈む台地を見つめた。

明日、この細いロープと、引き方の決まりだけを頼りに、彼らはあの闇の中へ入っていくのだ。

第三章 台地の熱風と暗闇

翌朝、太陽が地平線から姿を現すと同時に、台地は赤い光に染まった。

吹き抜ける風はすでに熱を帯び、砂埃が空を白く濁らせている。私たちは道具を担いで、あの穴の縁へ向かった。

明るい陽射しの下で見ても、その穴の不気味さは少しも和らいでいなかった。

差し渡し三十メートルほどの黒い口は、まわりの赤い岩肌とはまるで異質な、光を返さない世界だった。

下へ行くほど広がっていく、フラスコのような形をしているため、縁から足を踏み外せば、自力で這い上がることは決してできない。

隊員たちは無駄のない動きで、縁の頑丈な岩のあちこちに金具を打ち込み、幾重にもロープと滑車を固定して、しっかりとした支点を作り上げていった。

準備が整うと、ハーネスとヘルメットを身につけた八人が縁に立った。

彼らは互いに親指を立てて笑い合うと、一人、また一人と、ロープに体を預けて闇の中へ滑り降りていった。

私は地上に残った二人のそばに立ち、通訳として、そして見届ける者として、その様子を見守っていた。

縁から数歩離れたところに立っているだけでも、穴から上がってくる空気の違いが分かった。

地上は焼けつくような暑さで、立っているだけで汗が噴き出してくる。

それなのに、穴の口からは、ひんやりとした冷気が絶え間なく吹き上がってきているのだ。

まるで、大地そのものが、深く冷たい息をゆっくりと吐き出しているかのようだった。冷気は私の足元を這い、背筋をなでていく。

「いま、三十メートル」

ロープの長さを確かめながら、地上の隊員がつぶやいた。

ロープがかすかに震え、トン、と一回だけ引かれる感触が伝わってくる。異常なし、の合図だ。

八人の姿はすでに闇に溶け込み、ヘッドライトの光さえ、下へ行くほどにぼやけて見えなくなっていた。

深さは、およそ百十二メートルと見込まれていた。

三十階建ての建物よりも高い。

その高さを、彼らは自分の体ひとつで降りていくのだ。

太陽の光も、人の声も届かない、冷たい底へ。

第四章 底からの震え

どれほど時間がたっただろうか。

地上の空気は、暑さとは別の、重苦しい緊張で張りつめていた。

ロープはゆっくりと、だが確実に下へ送り出されていく。

五十メートル。

七十メートル。

九十メートル。

かつて役所の者たちが引き返したという深さを、彼らはもう越えていた。

地上の隊員の一人が、額の汗を拭いながら私に言った。

「そろそろ、底が見えてくるはずだ」

私が縁に一歩近づき、身じろぎもせずに闇を見つめていたときのことだった。

底のほうから、奇妙な音が上がってきた。

はじめは、風が岩の隙間を吹き抜ける音かと思った。けれども、違う。

それは、大きな獣が喉の奥で唸っているような、あるいは大勢の人間が遠くで一斉に、低い声で嘆いているような、重く不気味な音だった。

ズズズ、という音とともに、足元の石灰岩がかすかに震えているような気がした。

地上の二人の隊員も顔を見合わせ、眉をひそめた。

私は知らず知らずのうちに後ずさりしていた。

役所の者たちが途中で引き返したという話。そして、祖母が語った、怒り狂うジンたちの声。

あの底に、何かがいる。

何百年、何千年ものあいだ闇の底で眠っていた得体の知れないものが、外から来た者たちの気配に目を覚まし、低い声で威嚇しているかのようだった。

音はしだいに大きくなり、やがて穴の口全体から湧き上がるように、台地の上に響きはじめた。

私はマフラの古い祈りの言葉を、乾ききった唇を震わせながら、何度も何度も小さく唱えた。

頼む、引き返してくれ。

ロープを二回引いてくれ。

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