序章 九月の冷気とサイレンの残響

九月の初めのサンティアゴは、冬の名残と春の気配が奇妙な釣り合いを保ったまま、夜ごと盆地の底に冷気を沈める季節である。

東にそびえるアンデス山脈の巨大な山肌は、日没とともに暗い紫色の影に変わり、街の上空に澱んだ排気ガスの層を押し込める。

街には、二週間後に迫った九月十八日の独立記念祭——フィエスタス・パトリアス——を祝う、白と赤と青の国旗が翻りはじめていた。

大通りの空き地には、牛の串焼きや揚げたエンパナーダを売る仮設の屋台——フォンダ——の木組みが立ち、夜風に乗って、鋸屑の乾いた匂いが漂っていた。

街のあちこちには、二年前の記憶がまだ生々しく刻まれていた。

二〇一〇年二月に国の中南部を襲ったマグニチュード八・八の大地震と大津波、そして同じ年、落盤事故で地下に閉じ込められながら、奇跡のように生還した三十三人の鉱山労働者たちの記憶である。

崩れかけた古い煉瓦の家は取り壊されるか角材で補強され、道路にはまだ補修の継ぎ目が走っていた。

あの大きな揺れを経験してから、この街の人々は、足元の地面がどれほど脆いものの上に置かれているかを、口にはしなくても体のどこかで知っていた。

私はそのころ、サンティアゴ市内の空軍の病院と契約している救急搬送の班で、民間雇いの救急救命士として働いていた。

軍の制服を着る資格はなく、袖に反射材のテープを縫いつけた蛍光黄色の作業服を着て、夜勤の十二時間を救急車の後ろで過ごすのが私の毎日だった。

仕事はどこまでも泥臭く、体の現実に縛られていた。

心肺停止の老人、深夜の酒場で喧嘩に巻き込まれて腹を刺された若者、高速道路で横転した車から引きずり出された家族。

血の匂いと消毒液の刺激臭、吸引器の不快な作動音、そしてモニターを走る脈の波形だけが、私たちの世界の確かな物差しだった。

その夜の当番は、九月二日の夕暮れから始まっていた。

日付が変わって二時を回ったころ、私たちは市の西の住宅街で倒れた六十代の女性を収容した。

広い範囲の急性心筋梗塞で、心臓は細かく震えるだけの状態になっていた。

同僚のマルセロがサイレンを鳴らしながらアクセルを踏み込み、私は揺れる車内で両膝を床につき、女性の胸の上に両手を重ねて押し続けた。

冷えきった肋骨のきしむ感触、除細動器の充電完了を告げる甲高い電子音、バッグから送り込まれる酸素のしゅうという音。

病院の搬送口に滑り込み、ストレッチャーを処置室へ押し込んだときには、私の背中は冷や汗で作業服に張りついていた。

処置室のカーテンの向こうで、当直医の平坦な声が死亡を告げるのが聞こえた。

待合のプラスチックの長椅子で、駆けつけた家族が泣き崩れた。

それは、私たちが一週間に何度も立ち会う、ありふれた夜の終わり方だった。

マルセロと私は救急車の後部を開け放ち、床に散らばった注射器のキャップや使い捨ての手袋を片づけ、バッグをアルコール綿で拭いた。

車内には、人が亡くなる直前に特有の、重い湿り気が残っていた。

燃料計の針を見ると、もう赤い警告の手前を指していた。

夜明けまでにもう一度呼ばれれば、市内のスタンドを探して走り回る余裕はない。

「補給所に寄ろう」と、私は言った。「空軍の施設の中庭のポンプなら、この時間でも使える」

マルセロは無言で頷き、乾いた咳を一つして、運転席のドアを閉めた。

第一章 補給所の中庭

救急車は、深夜の静まり返ったサンティアゴの街を、東へ進んだ。

空軍の教育施設の敷地は、高い塀と鉄柵に囲まれていたが、前線の基地のような物々しい警戒があるわけではなかった。

昼間は士官や教官たちが出入りする落ち着いた学びの場で、夜は少数の衛兵が正門を守るだけの、役所に近いたたずまいだった。

空軍の病院と契約している私たちの救急車は、登録された車の番号を照らし合わせるだけで、敷地の中の燃料補給所を使うことが許されていた。

鉄の正門を抜けると、細かな砕石を敷きつめた広い中庭に出た。

正面と両脇には三階建ての古い煉瓦の建物が並び、コの字型に中庭を囲んでいる。

中庭の隅、波板の簡素な屋根の下に、大型の給油ポンプが一台だけ、ぽつんと立っていた。

ポンプの脇に車を止めると、タイヤが砕石を踏みしめる重い音が、冷えきった夜気の中に響いた。

エンジンを切ると、車内を満たしていた低い唸りが消え、耳が痛くなるほどの静けさが降りてきた。

標高五百メートルを超える盆地の夜気は、冬の終わりの乾いた氷のように澄んでいた。

当直の兵士が、詰所の引き戸を開けて出てきた。

二十歳そこそこの若い伍長で、分厚いカーキ色の防寒着に身を包み、手には書類を挟んだ金属のバインダーを提げていた。

吐く息が、外灯の黄色い光に照らされて、白い煙のように立ちのぼる。

「ご苦労さまです。給油ですね」

伍長は眠気をごまかすように短く挨拶し、救急車のナンバーと給油口に目を落とした。

マルセロは車のボンネットに背中を預け、作業服のポケットから煙草を取り出して火をつけた。

ライターの石が擦れる硬い音と、小さな橙色の炎が、彼の無精髭を照らした。

煙が、冷たい空気の中に紫色の細い帯を描いて昇っていく。

「今夜はどうでした」と、伍長がペンを走らせながら尋ねた。

「心臓だ。駄目だったよ」と、マルセロが短く答えた。

「それは……気の毒に」

伍長はそれ以上何も言わず、ノズルをポンプのホルダーから引き抜いた。

ポンプの中でモーターが回りはじめ、低い振動がゴムホースを伝って砕石の地面へ伝わった。

ノズルが給油口に差し込まれ、かちゃりと金属同士の噛み合う冷たい音がした。

その瞬間だった。

あたりの空気が、一枚の分厚いゴムの膜で覆われたかのように、細かな物音のすべてを一瞬で失った。

ポンプのモーターは、たしかに足元で震えていた。

マルセロの指先の煙草も、かすかに赤く燃えていた。

けれども、遠くの大通りを走るトラックの音も、アンデスから吹き下ろす風が建物の角を撫でる音も、何一つ耳に届かなくなった。

音が遮られたというより、音の伝わる空間そのものが、頭上の数メートル四方から抜き取られてしまったような感じだった。

マルセロが、煙を吸いかけた姿勢のまま、ふいに視線を宙へ跳ね上げた。

第二章 音のない幾何学

マルセロの視線につられて、私も、ノズルを握っていた若い伍長も、同時に顔を上げた。

中庭を囲む三階建ての屋根の線。

その向こうに広がるサンティアゴの夜空は、盆地にたまったスモッグを乾いた風が吹き払ったあとで、星がいくつか滲んで見えるほどに澄んでいた。

その暗がりの中に、光があった。

はじめは、屋上の避雷針につけられた赤い航空灯を見間違えたのかと思った。

だが、違った。

それは赤くも青くもなく、航空灯のように明滅してもいなかった。

五つの光の点が、私たちの真上、地上からおよそ四十メートルから五十メートルほどの高さに、止まっていた。

砕石の中庭から見上げれば、ビルの十階か十二階ほどの、ごく低い高さだった。

投げ上げた石が届くのではないかと思うほどの近さである。

光は、濁りのない冷たい乳白色をしていた。

街灯を照り返す金属の肌のようなものではなく、光そのものが硬い球になって、宙に留まっているように見えた。

輪郭には滲みも、ぼやけた光の輪も、揺らぎもなかった。

ごく小さな冷たい灯りを、丁寧に磨き上げたような、完全な円い光の粒だった。

「おい……あれは何だ」

マルセロの声が漏れた。

いつもの太い声ではなく、喉の奥が引きつったような、かすれた囁きだった。

彼の指から煙草が砕石の上に落ち、赤い火の粉を散らしたが、その音すら聞こえなかった。

伍長の手から、金属のボールペンが滑り落ちた。

ペンはポンプのコンクリートの台に当たり、砕石の上へ転がった。

伍長は拾おうともせず、口を半開きにしたまま空を見上げていた。

五つの光は、はじめ、きれいな横一列に並んでいた。点と点の間隔は、物差しで測ったように等しかった。

ヘリコプターなら、と私はとっさに思った。

夜のサンティアゴでは、警察や空軍のヘリが低く飛ぶことは珍しくないが、そのときは必ず、腹の底を揺さぶるローターの風と轟音で、まわりの窓ガラスが震える。

けれども、頭上の五つの光からは、風のひと吹きも起きていなかった。

中庭の砂利は少しも動かず、マルセロが落とした煙草から立ちのぼる煙は、一本の糸のようにまっすぐ上へ昇っていた。

光の粒の背後に、機体の影のようなものも見えなかった。

星空を背にして、ただ光の点だけが、夜空に開いた穴のようにそこにあった。

一、二秒止まっていたあと、光が動いた。

真ん中の光が、わずかに下がった。それに応えるように、両端の二対の光が、機械の関節が滑るような滑らかさで外側へ開いた。

加速も減速もなく、ある動きから別の動きへ、すっと移った。次の瞬間、五つの光は、夜空に整った逆三角形を作っていた。

「おい、下がってきてるぞ」

伍長が言った。顎が小刻みに震えていた。

逆三角形を組んだまま、光の群れはさらに下がった。

四十メートル、あるいは三十五メートル。

建物の屋根すれすれの高さまで降りてきた。

その近さになっても、熱も、焦げたような臭いも、耳鳴りもなかった。

光は、まわりの建物の壁を照らすことさえしなかった。

光っているのに、その光が球の外へは少しも漏れ出していないかのようだった。

三角形の頂にあった一つの光が、ゆっくりと横へ滑り出した。

それを合図に、残る四つの光が、その中心をなぞるようにして、時計回りに回りはじめた。

円を描く動きだった。

あまりにも規則正しく、あまりにもゆっくりとした旋回だった。

見えない大きなコンパスの針が、真夜中の空軍施設の中庭を測るために、頭の上で円を描いているかのようだった。

第三章 粗い画面と朝の聞き取り

伍長が、震える手で腰のポーチから自分の携帯電話を引っ張り出した。折りたたみ式の小さな端末だった。

「撮れ……記録に残すんだ」

伍長は自分に言い聞かせるように呟き、ぎこちない手つきでボタンを押し、カメラを夜空へ向けた。

小さな画面の明かりが、青白く彼の鼻先を照らし出した。

私も思わず作業服の胸ポケットに手を入れた。

スマートフォンを取り出し、震える指でカメラを立ち上げた。

だが、冷えた指先のせいか、画面がうまく反応しない。

心臓が早鐘のように打った。

救急の現場で、私たちはどれほどむごい光景を見ても取り乱さないよう訓練されている。

人の体が壊れ、叫び声が飛び交う中でも、血圧計を巻き、気道を確保し、薬の量を冷静に計算しなければならない。

それは「予測のつく現実の崩れ」だからだ。

人は死ぬものであり、骨は折れるものであり、血は流れるものだという前提が、そこにはある。

けれども、頭上で音もなく回り続ける五つの光は、私が三十年あまりの人生で積み上げてきた当たり前を、足元から静かに踏みにじっていた。

そこには悪意も、脅しも、親しみもなかった。

ただ、あまりにも冷ややかな、見知らぬ規則正しさだけがあった。

恐ろしいというより、現実の手触りが急に薄れていくような目眩がした。

ようやくスマートフォンを空に向けた。

だが、画面の中には、肉眼であれほどはっきり見えている光は、まともに映らなかった。

暗い青灰色のざらついた画面の中で、滲んだ光の筋がかすかに揺れては、細かな粒の中に埋もれていった。

伍長の端末も同じだったらしい。「ちゃんと映らない……ぼやけた点しか見えない」と、彼は呻くように言った。

光の回転が、ふいに止まった。

円を描いていた四つの光が、真ん中の光のまわりに一瞬で寄り集まり、今度は一本の斜めの線に並び直した。

その止まり方の鋭さは、何かのブレーキで止まったのではなく、初めからそこに鋲で留められていたかのようだった。

感覚としては何十分にも思えたが、あとで時計を確かめると、光が現れてから消えるまで、おそらく三分から五分のことだった。

前触れは何もなかった。

閃光が弾けることも、急に速度を上げて夜空の彼方へ吸い込まれることもなかった。

五つの光は、一つのスイッチを切られた電球のように、まったく同じ瞬間に、ぷつりと消えた。

空は、もとの暗い夜空に戻った。

とたんに、耳を塞いでいた透明な栓が抜けたかのように、まわりの音がどっと押し寄せてきた。

遠くの高速道路を走る大型トラックのタイヤの唸り、ポンプのモーターの低い音、風が建物のトタン屋根を揺らす乾いた音。

給油ノズルの自動停止が働き、がちんという硬い金属音が夜気の中に響いた。

満タンになった軽油が、給油口の縁からわずかにあふれ、タイヤの黒いゴムの上に数滴垂れていた。

私たち三人は、誰一人として動けなかった。

冷たい夜風が作業服の襟元から入り込み、首筋を凍えさせた。

マルセロは足元に落ちた煙草を見つめたまま、両手をポケットに突っ込んで固まっていた。

伍長は開いたままの携帯電話を握りしめ、まだ空を見上げていた。

「……見たな」

長い沈黙のあと、マルセロがぽつりと言った。

「ああ」と、私は答えた。「見た」

伍長は何も言わず、ゆっくりと携帯電話を折りたたんだ。ぱちんというプラスチックの小さな音だけが、やけにはっきりと響いた。

翌朝、夜勤の引き継ぎを終えたあと、マルセロと私は、病院の事務所ではなく、施設の管理棟の一階にある小さな会議室に呼ばれた。

部屋には、糊のきいたカーキ色の制服を着た将校が二人と、地味な背広を着た民間人らしい男が一人、パイプ椅子に座って待っていた。

机の上には、ゆうべ伍長が書いたらしい当直日誌の写しと、あの折りたたみ式の携帯電話が置かれていた。

取り調べのような重苦しさはなかった。部屋の空気は、どちらかといえば淡々とした事務の手続きに近かった。

将校の一人が、私たちに紙とペンを渡し、ゆうべ見たものの図を描くよう求めた。

光の数、並び方、動いた道筋、続いた時間、高さの見当。

「光の色は変わりましたか。青や赤に変わるようなことは」

「ありませんでした。ずっと、冷たい白でした」と、私は答えた。

「音は聞こえましたか。耳鳴りや、金属のような高い音は」

「何も聞こえませんでした。風の音まで消えていました」

「匂いはどうです。硫黄や、焦げたような臭いは」

「軽油の匂いだけでした」

背広の男が、手帳に細かな字を書きつけながら、顔を上げて私を見た。

「体の具合に変わったところはありませんか。吐き気や、肌の火照り、目の痛みなどは」

「ありません。ただ……ひどく寒かったことのほかは」

将校たちは私たちの話を一つずつ照らし合わせ、マルセロの描いた逆三角形の図と、私の描いた斜めの線の図を並べて見比べた。

二人の図は、ほとんど同じだった。

「口外するな」といった言葉は、最後まで一度も出なかった。誓約書に署名を求められることもなかった。一通り聞き終えると、年長の将校が立ち上がり、「協力に感謝する。

疲れているところを引き止めてすまなかった。休んでくれ」と、型どおりに言っただけだった。

そのあっけないほど事務的な態度が、かえって私の中に、奇妙なしこりを残した。

第四章 日常の隙間に落ちた小石

施設を出て、朝の光が差しはじめたサンティアゴの街を歩き出すと、通勤のバスが黒い排気ガスを吐きながら通りを埋めていた。

パン屋からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、キオスクには朝刊が束になって積まれていた。

一面の見出しは、国会議員の疑惑と、週末のサッカーの試合の予想だった。空を見上げている者など、誰一人いなかった。

アパートに戻り、シャワーを浴びて泥のように眠ったが、午後遅くに目が覚めたとき、最初に頭に浮かんだのは、やはりあの乳白色の幾何学だった。

目蓋の裏に焼きついているわけではない。

ただ、記憶の引き出しのいちばん手前に、冷たい石のように居座っていた。

数日後、日曜の昼に実家で開かれた家族の食事会で、私はワインを飲みながら、従兄弟にそれとなくその話をしてみた。

救急車の燃料を入れに寄った場所で、奇妙な光を見たのだと。

従兄弟は、焼いた牛肉をフォークで突き刺しながら、愉快そうに鼻を鳴らした。

「そりゃ、救急車の中で笑気ガスでも吸いすぎたんじゃないか? でなきゃ、どこかの金持ちの子が飛ばしたラジコンだろ」

「そんなものじゃない。四十メートルの高さに五つ並んで、音もなく三角形を作って回ったんだ」

「じゃあ軍の新しいヘリだな。独立記念祭の行進の練習だよ」

「ローターの風も音もなかったって言ってるでしょう」

従兄弟はそれ以上言い合う気もないらしく、グラスの赤ワインを飲み干すと、話をあっさり別のことに変えてしまった。

しばらくして、病院の詰所で、同僚の看護師長に同じ話をしてみたときも、返ってきたのは似たような反応だった。

彼女は点滴のボトルの日付を確かめながら、いたわるような、けれどどこか哀れむような目で私を見た。

「疲れてるのよ。あの地震のあとから、みんな神経が高ぶってるもの。この前の夜勤でも、サイレンの音が聖母マリアの歌声に聞こえたって言い出した隊員がいたわ。少し休みを取って、海にでも行ってきたら?」

それから、私は二度と、誰にもその話をしなくなった。

誰も信じてくれないから、ではない。

信じる、信じないという話にすらならないのだ。

人々にとってそれは、「あり得ないこと」ではなく、「暮らしの枠の外にある、どうでもいい雑音」にすぎなかった。

私自身、日々の仕事に呑み込まれていくにつれて、自分の記憶を疑う瞬間があった。

毎日、生と死の境目を行き来していた。

壊疽を起こした足を抱えて運ばれる老人、出産間近の妊婦の破水、バイクの事故で頭を打ち、か細い脈しか残っていない少年。

人の体はあまりにも脆く、あまりにも騒々しく壊れる。

皮膚が裂ければ血が噴き出し、気道が詰まれば人はもがき、心臓が止まれば機械がけたたましく警告を鳴らす。

その生々しい、泥と血と体温にまみれた現実の只中にいると、あの夜の光は、あまりにも清潔で、あまりにも静かすぎた。

あの五つの光には、血も通っていなければ、機械の熱もなかった。

ただ澄んだ秩序のように、そこに現れ、形を変え、消えた。

あれは本当に起きたことだったのだろうか。

それとも、ひどい疲れとアンデスの冷気が、私の目に見せた束の間の幻だったのだろうか。

マルセロも、あの夜のことには一切触れようとしなかった。

私たちはその後も同じ救急車に乗り続け、何百人もの患者を運び、何十回も同じ補給所の中庭で軽油を満たした。

中庭の砕石を踏むたび、給油のノズルを手にするたび、私は知らず知らず夜空を見上げたが、そこにはいつも見慣れたスモッグと、遠い星がいくつか瞬いているだけだった。

マルセロは黙って煙草を吸い、吸い殻を踏み消して車に戻った。

私たちは言葉にしないまま、あの夜を記憶の底へ沈めていた。

第五章 三十六か月の空白

季節はめぐり、二〇一三年が過ぎ、二〇一四年が来た。

街は少しずつ地震の傷跡を消していった。

壊れた橋は架け直され、仮設住宅に住んでいた人々は新しい団地へ移っていった。

鉱山の三十三人の話は本になり、映画になるという噂が流れ、やがてそれも、過ぎた出来事として薄れていった。

そのあいだ、ネットの掲示板やタブロイド紙の片隅に、ときおり「未確認飛行物体」の目撃談が載ることがあった。

円盤形の金属の船が光を放ちながら飛び去ったとか、宇宙人と心で交信したといった類の話である。

そうした記事を目にするたび、私は冷ややかな違和感を覚えずにはいられなかった。

彼らの語る怪異は、あまりにも人間くさく、あまりにも物語めいていた。

宇宙人が乗っているとか、地球を見張っているとかいった解き明かしは、分からないものを、自分たちの分かる物語の枠に無理やり押し込もうとする、ありふれた願いにすぎないように思えた。

私が見たものは、乗り物ですらなかった。

ただの光の点だった。

そこには窓も、乗り手の気配も、伝えたいことの気配もなかった。

あるのは、説明のつかない動きと、形の並びの美しさだけだった。

だからこそ、それはどんな物語にも収まらず、呑み込めない異物として、私の記憶の中に残り続けた。

そして、二〇一五年の五月が来た。

南半球のサンティアゴは、また肌寒い秋の終わりに入り、病院のまわりの並木は、黄色く枯れた葉を路上に散らしはじめていた。

その日の午後、私は十四時間の長い当番を終え、地下の職員食堂で一人、遅い昼食をとっていた。

食堂の隅では、トレイを持った若い看護師や実習生たちが、楽しそうに週末の予定を話し合っていた。

壁の低いところに据えつけられた薄型のテレビでは、午後のニュースが、音を絞ったまま淡々と流れていた。

冷めかけた豆の煮込みをスプーンで口に運んでいたとき、画面の下に、速報を告げる帯が走った。

画面が切り替わり、記者会見の場が映し出された。

チリ民間航空局の会見室だった。

壇上には、航空局の幹部とともに、眼鏡をかけた年配の学者風の男たちが何人か、硬い顔で並んでいた。

画面の文字は、二〇一二年に首都の空軍施設で報告された目撃事例について、異常航空現象研究委員会——セファー——が報告を公表した、と告げていた。

私はスプーンを握ったまま、指先を凍りつかせた。

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