序章 深い夜の翻訳机
十一月も半ばを過ぎると、コペンハーゲンの日は午後三時半にはすっかり落ちてしまう。
煉瓦の街並みは底冷えのする青黒い帳に包まれ、人々は部屋に柔らかな蝋燭を灯して、外の寒さから身を守るように閉じこもる。
ノアブロ地区の、十九世紀の終わりに労働者向けに建てられた集合住宅の最上階。
五階の角部屋に暮らすアストリッドは、この季節になると、時計を見る回数がめっきり減る。
外がずっと暗いせいで、時間の感覚が麻痺してしまうからだった。
彼女の仕事は、海外の映画や連続ドラマのデンマーク語の字幕を訳すことだ。
机の上には大きなモニターが二台並び、片方には映像のタイムコードが細かく刻まれ、もう片方には台詞の原文と、決められた文字数に削ぎ落とされた訳文が並んでいる。
画面の人物の口の動きと、一秒間に出せる文字数の制限とのあいだで、彼女は何時間も神経をすり減らす。
話し言葉の余白をどう埋めるか、どう削るか。
そうした作業に没頭していると、気がつけば、深夜の静けさが部屋の隅々にまで溜まっているのが常だった。
アストリッドの住む建物は、中庭——ゴー——をぐるりと囲むように建てられた古い棟の一つで、エレベーターはない。
一階から五階の彼女の部屋まで続くのは、何十年ものあいだ無数の靴底に踏まれて黒ずんだ、重い木の階段室——オプゴング——だけである。
踊り場ごとの明かりは押しボタン式のタイマーで、真鍮のボタンを押し込むと、かちりと硬い音がして橙色の電球が点く。
そして三分ほどたつと、前触れもなく、ふっと消えて闇に戻る。
夜更けになると、この階段室は大きな空洞のようになって、建物じゅうの小さな物音を奇妙に響かせた。
誰かが中庭側の重い鉄の扉を閉める音、排水管を水が落ちていく鈍い震え、遠くの階で閉まる部屋の扉。
アストリッドはヘッドフォンを首にかけたまま、ときどきそれらの音を遠い潮騒のように聞き流しながら、淡々とキーボードを叩き続けていた。
その規則正しい異変に彼女が初めて気を留めたのは、街に初雪が降った週の、凍りつくような木曜日のことだった。
第一章 午前一時四十五分の規則
時刻は午前一時四十分を回っていた。
長編のミステリー映画の終盤、登場人物が告白を始める、いちばん張りつめた場面の字幕を合わせていたとき、アストリッドはふとヘッドフォンを外した。
長い作業で、耳の奥が痛んでいたからだ。
部屋の中は、暖房のかすかな唸りのほか、すっかり静まり返っていた。
卓上のランプが、冷めた紅茶の入った陶器のマグカップをぼんやりと照らしている。
そのとき、遠く下のほうから、澄んだ金属の音が響いてきた。
ちりん、と鳴った。
鍵束の揺れる音だった。
誰かがコートの深いポケットから、幾重にも重なった金属の束を引き抜いたときのような、乾いて硬い擦れ合う音。
足音は聞こえなかった。
床板のきしみもない。
ただ、鍵と鍵のぶつかり合う小さな音だけが、一段、また一段と、確かに階段を上がってくる。
アストリッドは、キーボードの上の指を止めた。
鍵の音は三階の踊り場のあたりで一瞬だけ間を置き、それからまた、同じ間隔で近づいてきた。
ちりん、じゃらり。
金属の輪に通された何本もの古い鍵が、持ち主の歩みにつれて、互いに打ち合っている。
いまどきの平たい鍵の軽い音ではない。
古い建物の頑丈な錠前を開けるための、肉厚で重い真鍮の鍵がぶつかり合う音だ。
音は四階を通り過ぎ、五階へ続く最後の階段を上ってきた。
アストリッドの部屋の玄関の扉は、階段室の踊り場に面している。
扉のすぐ外、わずか数センチの木の板を隔てた向こうで、鍵束の擦れ合う音が、ぴたりと止まった。
息を詰めて見つめる扉の隙間から、冷たい空気が忍び込んでくるような気がした。
すぐに、かちゃり、と小さな音がした。
鍵穴に、鍵の先が差し込まれた音だった。
迷いのない手つきで、鍵穴の縁を一度こつりと撫でてから、奥へ滑り込んでいく金属の感触が、扉の木肌を伝って部屋の中にまで届くようだった。
続いて、ぎり、と重い手応えを伴って、鍵が回された。
だが、閂の外れる音はしなかった。
取っ手が動く気配もない。
ただ、鍵穴の中で真鍮の歯が一回りし、かちりと元の位置に戻るような乾いた余韻を残して、すべての音が途絶えた。
アストリッドは立ち上がり、音を立てないよう、靴下のまま玄関へ近づいた。
冷えきった床が足の裏を刺す。
扉の真ん中の真鍮ののぞき穴に、そっと右目を寄せた。
外の階段室は真っ暗だった。
タイマーの明かりは点いていない。
もし誰かが階段を上がってきたのなら、踊り場のボタンを押して明かりを点けるはずだった。
足元も見えないほど暗い木の階段を、手探りで、しかも音も立てずに五階まで上がってくることなど、できるだろうか。
のぞき穴の丸いレンズの向こうの暗闇には、誰もいなかった。
気配すら残っていない。
ただ、古い漆喰と冷たい木の匂いが、扉の隙間から細く流れ込んでくるだけだった。
机に戻り、パソコンの画面の隅の時計を見た。
午前一時四十五分。
その夜は、近所の酔っぱらいか、鍵を間違えたどこかの階の住人だろうと自分に言い聞かせて、眠りについた。
けれども、翌週の火曜日、まったく同じことが起きた。
タイムコードを調整していたアストリッドの耳に、三階の踊り場のあたりから、鍵束の触れ合う音が届いた。
じゃらり、ちりん。
同じ重さ、同じ速さ。
階段を上がる足音はないのに、鍵の音だけが、宙に浮かんだまま上がってくる。
そして扉の前で止まり、鍵が差し込まれ、回され、消える。
モニターの時計は、正確に午前一時四十五分を指していた。
水曜日も、木曜日も、金曜日も。
それは一度も狂うことなく、午前一時四十五分になると下から上がってきて、アストリッドの部屋の扉の前で鍵を回し、そのまま、霧のように消えた。
第二章 中庭に消えた兄弟
デンマークの古い言い伝えには、「ゲンゲンガー」という言葉がある。
戻ってくる者、という意味だ。
生前にやり残したことのある者や、生きていたころの習慣を体が忘れられない死者が、かつて暮らした場所に、そのままの姿で戻ってくる、という素朴な考えである。
けれども、いまのコペンハーゲンで、そうした言い伝えを本気で口にする者はほとんどいない。
アストリッド自身、言語学を学び、筋の通った言葉を何より大事にする字幕の仕事をしてきた人間で、幽霊のたぐいを信じたことは一度もなかった。
何かの音の反響ではないか。彼女はまず、そう考えた。
建ってから百二十年を超えるこの集合住宅は、床下や壁の中に入り組んだ隙間があり、下の階の配管のきしみや通気口の風の音が、人の立てる物音のように聞こえることがある。
あるいは、換気扇の羽根が規則正しく回る金属の音が、階段室の吹き抜けで大きく響いているのかもしれない。
だが、あの音はどう聞いても鍵束だった。
金属の重み、真鍮同士の細かな擦れ、そして何より、鍵穴に差し込まれて回る、錠前の中のあのかすかな機械の音は、配管のきしみなどで生まれるものではない。
アストリッドは、この部屋に越してきた四年前のことを思い出していた。
越してきたころ、この階段室には、近所でも知られた年老いた兄弟が住んでいた。
兄の名はイェンス、弟の名はポウルといった。
二人とももう七十代の半ばを過ぎていて、この建物が労働者の住まいとしてにぎわっていた時代から、半世紀以上ここで暮らしていたという。
妙なことに、二人は仲がよいのに、一緒には住んでいなかった。
弟のポウルがこの五階の、アストリッドの向かいの部屋に住み、兄のイェンスは二つ下の三階の部屋に住んでいた。
二人とも一生独り身で、身寄りは互いしかいなかったらしい。
アストリッドが引っ越しの挨拶に回ったとき、向かいの扉から顔を出した弟のポウルは、小柄で背の丸い老人で、銀縁の眼鏡の奥から人懐っこい目を細めて迎えてくれた。
部屋の中からは、淹れたての濃いコーヒーの匂いと、古いパイプ煙草の香りが漂っていたのを覚えている。
「ここは階段がきついだろう。でもね、最上階は空が近くて、静かでいいんだよ」
ポウルはそう言って、皺だらけの手で、小さな焼き菓子をアストリッドに渡してくれた。
三階のイェンスは対照的だった。
弟より頭一つ背が高く、若いころは造船所で働いていたという骨太な体つきだったが、気難しく、無口だった。
階段ですれ違っても、顎をわずかに引いて短く会釈するだけで、決して余計な言葉を交わそうとはしなかった。
けれども、この正反対の兄弟には、何十年も変わらない日課があった。
毎晩、夜更けになると、どちらかがもう一方の部屋を訪ねていくのだ。
中庭のゴミ置き場で、ほかの階の住人が立ち話をしているのを耳にしたことがあった。
二人は毎晩のように顔を合わせ、安い酒の瓶を傾けながら、古い木のチェス盤を挟んで、何時間も黙って勝負をしていたという。
トランプの切り札をめぐって小さな言い合いをしては、笑い合っていたらしい。
「あの二人はね、時計みたいに正確なのよ」
近所の誰かがそう言っていたのを、アストリッドはぼんやりと覚えていた。
夜が更けて、街の物音がすっかり途絶えたころ、兄が弟の部屋へ上がるか、弟が兄の部屋へ下りていく。
そして、日付が変わってしばらくたった深い時間に、自分の部屋へ戻っていくのだと。
その暮らしは、二年前の冬に、突然途切れた。
まず、弟のポウルが心臓の病で急に亡くなった。
寒い朝、アストリッドが新聞を取りに扉を開けると、向かいの部屋の前に救急隊員が集まっていた。
ポウルは、眠るようにベッドの中で冷たくなっていたという。
一人残された兄のイェンスは、それから急に衰えていった。
階段を上る足取りは目に見えて重くなり、中庭で見かける姿も、日に日に小さくなっていった。
弟の遺品を片づけることもせず、三階の自分の部屋に閉じこもりがちになった。
そして翌年の秋、弟の死から一年もたたないうちに、イェンスも、自分の部屋の椅子に座ったまま息を引き取っているのが見つかった。
そのあと、五階のポウルの部屋には若い二人連れがしばらく住んだが、すぐに別の街へ越していき、いまは空き部屋のまま、改装の工事を待っている。
三階のイェンスの部屋も、身寄りがないため管理会社の手で鍵が閉ざされたまま、誰の気配もしない。
兄弟は、いなくなった。
二人の暮らした跡は、階段室の壁に残る無数の擦り傷や、古びた真鍮の郵便受けのへこみくらいしか、残っていないはずだった。
それなのに、なぜ今になって、三階から五階へ上がってくる鍵の音が聞こえるのか。
第三章 薄暗い階段室の証言
十二月に入り、外の気温は氷点下に下がった。街路樹の葉はすっかり落ち、歩道には凍結を防ぐ白い塩の粒が撒かれている。
その日の午後、アストリッドは近所のスーパーへ買い出しに出ようと、階段を下りていた。
木の段は、踏むたびにみしりと小さく鳴る。
踊り場の壁は薄緑色のペンキがところどころ剥げ、下の赤煉瓦がのぞいていた。
三階の踊り場を通り過ぎるとき、彼女は知らず知らず歩みを緩めた。
かつて兄のイェンスが住んでいた部屋の扉がある。
濃い茶色に塗られた分厚い木の扉の真ん中に郵便受けの細い口があり、その上には「J. Hansen」と刻まれた真鍮の札が、くすんだ色のまま、ねじで留められていた。
扉の前で耳を澄ませてみたが、中からは何の物音もしない。冷えきった空気が淀んでいるだけだった。
一階まで下りると、郵便受けの並ぶ入り口のホールの隅で、一階に住むインゲルが新聞を仕分けているところだった。
インゲルはこの建物に四十年前から住んでいる小柄な老女で、住民の会の連絡係のようなことを長年引き受けている。
白髪をきっちりと後ろでまとめ、厚手のウールのカーディガンを着た彼女は、アストリッドに気づくと、人懐っこい笑みを浮かべて顔を上げた。
「こんにちは、アストリッド。今日も寒いわね。最上階は隙間風が入るでしょう」
「こんにちは、インゲル。暖房を強めにしているから大丈夫よ」
アストリッドは、ついでのふりをして郵便受けから自分宛ての広告を抜き取りながら、できるだけ何気ない口調で切り出した。
「ねえ、インゲル。最近、夜中に階段で誰かの気配を感じたことはない? 鍵を鳴らして上がっていくような音とか」
インゲルは、仕分けの手をぴたりと止めた。青い目が、眼鏡の縁の上から、アストリッドをじっと見つめた。
「……あなたにも、聞こえるの?」
その低い問いに、アストリッドは小さく息をのんだ。
「聞こえるの。毎晩、一時四十五分に。三階のあたりから鍵の音が上がってきて、私の部屋の前で鍵が回るの。でも、のぞき穴から見ても誰もいない」
インゲルは深いため息をつき、手元の新聞を郵便受けの台の上に置いた。冷たいホールに、彼女のかすれた声が静かに落ちた。
「やっぱりそうだったのね。私、てっきり自分の耳鳴りか、夢でも見ているのかと思っていたのよ」
インゲルの話では、彼女の部屋は一階の奥の、階段の上り口に近いところにあり、夜中の物音がよく響くのだという。
「ここ一か月くらいかしら。毎晩決まった時間に、階段の空気がふっと動くような感じがするの。足音はしないのよ。
あの階段は、誰が上ったって必ずぎしぎし鳴るはずなのに。ただ、ポケットの中で鍵が擦れ合う、あの音だけが、上り口のあたりから聞こえはじめるの」
「インゲルも、あの音を聞いていたのね」
「ええ。初めは泥棒かと思ったわ。でも、明かりも点かないし、外の鉄の扉が開く音もしない。音は一階から始まって、三階へ上がっていくの。三階の扉の前で一度だけ立ち止まるような気配がして、それからまた、五階へ上がっていくのよ」
インゲルは腕を組み、冷えた指先をカーディガンの袖口に滑り込ませた。
「あの鍵束の音、私には聞き覚えがあるの」
「聞き覚え?」
「イェンスよ。お兄さんのほう。あの大男はね、いつもズボンの右のポケットに、ばかみたいに大きな真鍮の輪に通した鍵束を入れていたの。
造船所の倉庫の鍵やら何やら、もう使わなくなった古い鍵まで、全部ひとまとめにしてね。歩くたびに、じゃらり、ちりんって、独特の重い音がしたのよ。ポウルのほうは几帳面だったから、革の小さな鍵入れにしまって、静かに持ち歩いていたけれど」
アストリッドの背筋に、冷たいものが走った。
「イェンスが……弟の部屋へ、行っているということ?」
「分からないわ」
インゲルは首を横に振った。
「でもね、あの二人の習慣を知っている人なら、誰だってそう思うでしょうね。生きていたころ、二人は本当に毎晩そうしていたんだから。とくに、ポウルが亡くなる前の年の冬はね。
ポウルの心臓が悪くなってからは、弟のほうが三階へ下りていけなくなったのよ。階段の上り下りが心臓にこたえるからって。だから毎晩、イェンスのほうが自分の部屋を出て、重い足取りで五階まで上がっていったの。
いつも、一時半を過ぎたころだったわ。弟の薬の時間を確かめて、二人で黙りこくって、お茶を飲んでいたのよ」
「……イェンスが、五階へ」
「そうよ。ポウルが逝ってしまったあとも、イェンスはときどき、夜中に五階へ上がっていたわ。誰もいないはずの弟の部屋の前に立って、鍵を差し込もうとしているのを見た住人もいるの。
物忘れが始まっていたのか、それとも、ただ体が覚えていたのか……。弟の部屋の鍵なんて持っていないのに、自分の鍵束の鍵をがちゃがちゃ回しては、あきらめて三階へ戻っていくのよ」
インゲルは悲しげに眉を寄せ、アストリッドの肩にそっと手を置いた。
「怖がらなくていいと思うわ。あの人たちは、生きていたころも、誰かに悪さをするような人たちじゃなかった。ただ……なんていうのかしら、忘れっぽくなっているだけなのかもしれないわね。自分にはもう、行く場所がないってことを」
アストリッドはインゲルと別れ、スーパーへ向かう雪道を歩きながら、老女の言葉を何度も思い返した。
恐ろしくはなかった。むしろ、胸の奥に、鉛のように重い哀しさが沈んでいくのを感じていた。
毎晩一時四十五分に、階段を上がってくる鍵の音。
それは、かつてこの寒々とした煉瓦の建物の中で、互いだけを頼りに生きていた二人の老人の、消え残った日課の残響なのだろうか。
第四章 真鍮の擦れ合う距離
クリスマスが近づくにつれ、街は明かりで飾られ、通りにはモミの木の甘い香りが漂いはじめた。
けれども、アストリッドの部屋の中では、映画の台詞と字幕の文字数だけが、淡々と消費されていく毎日が続いていた。
仕事の合間に、彼女はときどき、向かいの空き部屋の扉を見つめるようになった。
塗装の剥げた、ポウルの部屋の扉。鍵穴のまわりは、長年使われてきたせいで真鍮がすり減り、鈍い光を放っている。
あの音は、なぜポウルの部屋ではなく、自分の部屋の前で止まるのだろう。
ある夜、彼女はひとつのことに思い当たった。
建物のつくりの上では、五階の二つの部屋は、階段を上りきった踊り場の左右に向かい合っている。
右手がポウルの部屋、左手がアストリッドの部屋だ。
けれども、階段を上りきったところから、いちばん自然に体を向けやすいのは、じつはアストリッドの部屋の扉のほうだった。
階段の木の手すりは、アストリッドの玄関のすぐ脇で途切れている。
目の悪くなっていたイェンスが、暗がりの中で手すりを頼りに五階まで上がり、手すりの途切れた最初の場所にある鍵穴に、無心で鍵を差し込んでいたのだとしたら。
そう考えると、筋が通るような気もした。けれども、それで何かが分かったわけではなかった。
十二月二十三日の夜。
外は吹雪になり、細かな氷の粒が、煉瓦の外壁を激しく叩いていた。
風が建物の隙間を抜けるたびに、屋根裏の梁がきしみ、古い換気扇がかたかたと乾いた音を立てていた。
時計の針が一時半を回った。
アストリッドは仕事を中断し、モニターを閉じた。
部屋の明かりを落とし、机の上の小さな蝋燭だけに火を灯した。
長い夜を過ごすための、この国のささやかな温もりの灯り。
彼女は厚手のウールの靴下のまま、静かに玄関へ歩いた。
冷気が床を這っている。アストリッドは玄関マットの上に立ち、木の扉に寄り添うようにして、息を潜めた。
一時四十分。
外の吹雪の音に混じって、下のほうから、かすかな気配が立ちのぼってきた。
ちりん。
最初の音がした。いつものように、三階の踊り場のあたりからだった。
じゃらり、ちりん。
鍵束の揺れる音。真鍮の輪に束ねられた何本もの肉厚な鍵が、持ち主の腿に当たって揺れているような、規則正しいリズム。
一段。また一段。
足音は、やはりない。床板のきしみもない。ただ、金属の擦れ合う音だけが、宙を滑るようにして上がってくる。
四階を過ぎた。音の響く向きが変わり、天井の漆喰に跳ね返って、じかに耳に届くようになる。
ちりん、じゃらり。
アストリッドの胸が、早鐘のように打ちはじめた。
恐ろしいのではない。
何かがすぐそばまで近づいてくることへの、肌が粟立つような、張りつめた緊張だった。
音は、五階の最後の段に達した。
手すりに何かが触れるかすかな気配。
そして、アストリッドの立っている場所からわずか数センチ先——扉を一枚隔てただけの踊り場で、鍵束の音がぴたりと止まった。
すぐそこに、何かが立っている。
冷たい木の板を通して、氷のような冷気がじわりと染み出してくるのが分かった。
外の階段室の空気よりも、はるかに冷たく、張りつめた気配だった。
こつり。
鍵の先が、扉の真鍮の鍵穴の縁に触れた。
アストリッドは扉の取っ手を見つめた。
真鍮の古い取っ手は動かない。
だが、鍵穴の中で、細い金属の爪が鍵の溝に沿って滑り込んでいく、しゃり、というかすかな擦れる音が、恐ろしいほどはっきりと鼓膜を震わせた。
向こうで、誰かが鍵を差し込んでいる。
そして、手首をひねる重い気配がした。ぎり、と錠の中の筒が、抵抗を受けながら回りはじめる。
その瞬間、アストリッドの頭の中で、ある衝動が弾けた。
見てみたい。
確かめたい。
そこに誰がいるのか、何が鍵を回しているのか。
のぞき穴から覗くのではなく、この手で扉を開け放って、その前に立ってみたい。
彼女は震える右手を伸ばし、真鍮の取っ手に指をかけた。
鍵が中で一回りし、かちりと止まる、まさにその瞬間に合わせて。
取っ手を握りしめ、力を込めた。
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