序章 霧の底のさざなみ

重慶の冬は、骨の髄まで染み込むような湿った寒さと、何もかもを真っ白に塞ぐ濃い霧に支配される。

長江の支流が刻んだ深い谷の斜面に、へばりつくように石段の続く白岩鎮(バイイェン・ジェン)も、その例外ではなかった。

数えきれない石段の両脇には、斜面に沿ってみかん畑が広がり、収穫を終えたばかりの濃い緑の葉が、重たげな霧の滴をじっと支えている。

日は厚い雲と霧の向こうに隠れ、一日じゅう、ぼんやりとした真珠色の光だけが地上に届いていた。

三十代半ばの教師、林秀(リン・シウ)は、白岩中心小学校の古い寄宿舎で、子供たちを寝かしつけたあとの冷えきった廊下を歩いていた。

吐く息は白く、手縫いの綿入れを着ていても、隙間風が容赦なく体の熱を奪っていく。

彼女は語文——国語——の授業を受け持つかたわら、親元を離れて暮らす子供たちの世話係も兼ねていた。

二〇〇九年の暮れ。

この山あいの町から、働き盛りの大人たちの姿はほとんど消えていた。

海沿いの広東や福建、あるいは遠い北の工業都市へ、よりよい賃金を求めて出稼ぎに出ていくのが当たり前の時代だった。

あとに残るのは、年老いた祖父母と、まだ幼い子供たちである。

「留守児童」と呼ばれるその子供たちの多くは、毎日何時間もかけて山道を歩く代わりに、月曜から金曜までを学校の寄宿舎で過ごしていた。

夜が更けると、古いコンクリートの寄宿舎には、寝返りを打つ二段ベッドのきしむ音や、誰かの小さな寝息、ときおり親を呼ぶ寝言だけが響く。

林秀は、子供たちの寂しさを知っていた。

彼女自身、遠い都市で働く夫と離れて、この山の学校で教えている。

冷たい井戸水で顔を洗い、石炭ストーブの燃え残りでわずかに暖をとる暮らしの中で、彼女は子供たちの小さな変化を、誰よりも敏感に感じ取っていた。

十一月の終わりごろだった。

見えない水面の下を伝わるかすかなさざなみのように、得体の知れない噂がこの町を覆いはじめたのは。

発端は、何百キロも離れた都市の工場で働く親たちからの、週末の電話だった。

村の雑貨屋に置かれた公衆電話や、仕送りで少しずつ広まりはじめていた安い携帯電話を通して、親たちは思いつめたような声で、子供や祖父母に語りかけた。

重慶のどこかの村で、十三歳の男の子が死んだらしい。

赤い服を着ていたそうだ。

ただの事故じゃない、何かの術だと言う人がいる。

お前の誕生日はいつだったか。変な人に声をかけられていないか。

遠い海沿いの工場の食堂や、急に広がりつつあったネットの掲示板で飛び交う、出どころの知れない噂話。

それが、親たちの不安というふいごを通って、電話線をつたい、この静かな山の町に流れ込んできたのだ。

はじめは大人たちのあいだだけでささやかれていたその話は、またたく間に子供たちの耳に届き、子供たち自身の想像を養分にして、教室や校庭の片隅で、ひそひそと語られるようになっていった。

霧に閉ざされた狭い土地が、噂を育てる苗床になっていた。

誰かが死んだという事実と、赤い服、術、という刺激の強い言葉の連なりは、楽しみの少ない山の子供たちにとって、恐ろしくも抗いがたい力を持っていた。

林秀が気づいたときには、噂はもう学校じゅうに根を張り、静かに、けれど確かに、一人の少年の毎日を侵しはじめていた。

第一章 陰と陽の天秤

林秀の受け持つ六年生のクラスに、陳宇(チェン・ユー)という十三歳の男の子がいた。

細身で口数が少なく、いつも教室の後ろの席で、外に広がる霧の海をぼんやり眺めているような子だった。

両親は遠く広東の東莞にある電子部品の工場へ出稼ぎに出ていて、彼は足の悪い祖母と二人きりで、斜面の上の古い土壁の家に暮らしていた。

十二月に入り、期末の試験が近づくにつれて、子供たちのあいだで語られる噂は、より具体的で、より残酷な形へと変わっていった。

ネットの掲示板で顔のない誰かが書き込んだ憶測が、出稼ぎの人々の口伝えを経て、さらに尾ひれをつけて語り継がれる。

そのあいだに、噂はひとつの「条件」を生み出していた。

亡くなった男の子は、特別な誕生日の生まれだったらしい。

陰と陽の釣り合いがひどく陽に偏った「純陽」の生まれだったから、狙われたのだ。

五行の火がどうのこうの——大人たちが半ば迷信まじりに口にする言葉を、子供たちは意味も分からないままつなぎ合わせ、自分たちだけの恐ろしい決まりを作り上げていた。

「十三歳の男の子が危ないんだって」

「誕生日に特別な星が入ってる子が狙われるんだって」

教室のストーブのまわりに集まった子供たちが、声をひそめてそんな話をしているのを、林秀は何度も耳にした。

そのたびに、根拠のない噂で怖がるのはやめなさい、と厳しくたしなめた。

けれども、子供たちの目は、大人には見えない得体の知れない怪物をはっきりと捉えているかのように、怯えと興奮に満ちていた。

そして、子供たちのむごい無邪気さは、その「条件」に当てはまる誰かを、自分たちのすぐそばに見つけ出してしまった。

誰かが言い出したのだ。

陳宇の誕生日が、噂の中でまことしやかに語られている、その特別な日に近いのではないか、と。

十三歳という年齢。

出稼ぎの親と離れて暮らす境遇。

誰かのふとした一言が、あっという間にクラスじゅうに伝わった。

それからの変化は早かった。

休み時間、陳宇のまわりには不自然な空白ができるようになった。

昼食の時間も、誰も彼の隣に座ろうとしない。

あからさまないじめや暴力があったわけではない。

ただ、皆が彼を怖がり、彼がもう半分、違う世界に足を踏み入れているかのように、遠ざけたのだ。

林秀が授業で陳宇を当てると、彼はいつもどおり小さな声で答えを読み上げた。

けれども、その声を聞くクラスメイトたちの背中は固くこわばり、誰一人、彼のほうを振り向こうとはしなかった。

陳宇自身もその見えない壁に気づいていて、ますます口を閉ざし、休み時間は一人で机に突っ伏すか、冷たい廊下の隅でじっと縮こまっていることが多くなった。

ある日の放課後、林秀は陳宇を職員室に呼んだ。

宿題の直しを口実に、話を聞こうとしたのだ。

けれども、彼はうつむいたまま、手の中の鉛筆の削りかすをいじり続けるだけで、何も話そうとしなかった。

「宇、最近、ちゃんと眠れてる?」

林秀が尋ねると、彼はわずかに肩を震わせ、力なく頷いた。

その首元から、見慣れない黄色い紙の札がのぞいているのに、林秀は気づいた。

朱色の墨で、くねくねとした符が描かれている。

「それ、どうしたの」

陳宇は慌てて札を襟の中に隠し、小さな声で答えた。

「おばあちゃんが、町の人から買ってきた」

林秀の胸に、重い鉛のようなものが沈んでいった。

噂は、子供たちだけでなく、町に残された年寄りたちの心まで、確かに蝕んでいたのだ。

その週の金曜日、寄宿舎の前の石段には、いつもより多くの大人たちの姿があった。

腰の曲がった祖父母たちが、竹の背負い籠を背負ったまま、孫の名前を呼んでいる。

男の子を持つ家の何軒かが、遠くの親からの電話を受けて、しばらく子供を家から通わせることにしたのだという。

「毎日、山道を二時間も歩かせるんですか」

林秀が尋ねると、ある祖父は困ったように笑った。

「遠いのは分かっとります。でも、息子が電話で、どうしても目の届くところに置いてくれと言うもんで。向こうで夜も眠れんらしいんです」

その中には、陳宇と同じ部屋の二段ベッドの上で寝ていた、王磊(ワン・レイ)という男の子もいた。

福建の縫製工場で働く母親が、わざわざ数日の休みを取って帰ってきていた。

王磊は、荷物をまとめながら、ちらりと陳宇のほうを見た。

何か言いたそうに口を開きかけたが、母親に手を引かれ、そのまま霧の石段を下りていった。

次の月曜日から、陳宇の部屋の上の段は空になった。

夜、見回りのたびにその空いた寝台が目に入り、林秀はそのたびに、薄い布団にくるまって壁のほうを向いている陳宇の小さな背中を見つめた。

ある晩、消灯の前に、陳宇が珍しく自分から林秀のところへやって来た。

手には、祖母に書いてもらったという、自分の生まれた日付の紙切れを握っていた。

「先生、ぼくの生まれた日は、悪い日なの」

林秀は、紙に書かれた日付を見た。何の変哲もない、冬のある日だった。

「悪い日なんて、ありません。宇が生まれて、おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、みんな喜んだ日でしょう。それだけの日です」

陳宇は、しばらく紙を見つめていた。

それから、こくりと小さく頷き、紙を丁寧にたたんで、ポケットにしまった。

けれども、その目から怯えの色が消えていないことに、林秀は気づいていた。

言葉ひとつで消えるほど、噂は軽いものではなかった。

第二章 朱色の呪縛

週末、林秀は急な坂を下り、長江の支流沿いに広がる町の中心へ向かった。

目当ては、古い建物の二階にある、薄暗いネットカフェだった。

ふだん、彼女がネットを使うことはめったになかった。

けれども、子供たちを怯えさせ、陳宇の祖母に得体の知れない札まで買わせたこの噂の正体を、自分の目で確かめなければならない、と思ったのだ。

煙草の煙とカップ麺の匂いの満ちた店の中には、近所の若者や、出稼ぎから戻った男たちが、モニターの青白い光に照らされて座っていた。

林秀は身分証を見せていちばん奥の席に座り、慣れない手つきでマウスを握った。

重慶、男の子、赤い服、と打ち込んでみる。

画面には、数えきれないほどの結果が並んだ。

大手のニュースサイトの短い記事から、個人のブログ、何千もの書き込みが連なる大きな掲示板まで。

林秀はまず、新聞社の報道を探して読んだ。

二〇〇九年の十一月、たしかに重慶の別の地区の農村で、十三歳の男の子が自宅で亡くなっているのが見つかっていた。

警察は一か月ほど調べた末、現場に第三者が入った痕跡はなく、他殺でも自殺でもない事故だと結論づけていた。

家族はその結論を受け入れられず、調べ直しを求めている、とも書かれていた。

そこにあったのは、ひとつの痛ましい死と、残された家族の悲しみという、まぎれもない現実だけだった。

けれども、誰でも名前を伏せて書き込める掲示板を開いたとたん、景色は一変した。

書き込む人々は、想像だけで亡くなった子のことを語り、それがまるで事実であるかのように言い合っていた。

誕生日の八字から割り出された運勢。

五行の理屈。

道術。

茅山術。

魂を封じる儀式。

誰かが狙って、何かの目的のために命を奪ったのだという、無責任で熱に浮かされた推測の数々。

画面を送るたびに、根拠のない言葉が暴走し、増えていくのが見えた。

彼らは、男の子の死を悼んでいるのではなかった。

自分たちの退屈な日常を刺激するための、消費できる物語として扱っているのだ。

そして、その毒を含んだ物語が、電波に乗って、白岩鎮のような遠い山の町にまで届き、そこに生きる生身の子供たちを怯えさせている。

林秀は静かに画面を閉じ、重い足取りで店をあとにした。

次の日、林秀は陳宇の家を訪ねた。

急な石段を登りきった先の、土壁と瓦屋根の質素な家だった。

縁側では、陳宇の祖母が干し芋を作りながら、所在なげに座っていた。

林秀が挨拶をして、最近の陳宇の様子を切り出すと、祖母は深いため息をついた。

「先生、私も心配でならないんですよ。広東にいる息子から電話があって、おかしな噂を聞いたって。うちの宇は十三だし、誕生日もなんだかよくないって言うもんだから。

町の広場にときどき来る先生に見てもらって、お札を書いてもらったんです。高かったけれど、背に腹はかえられませんから」

祖母の言う「先生」とは、町や村を渡り歩いて、占いやまじないをする素性の知れない男のことだった。

林秀は丁寧に、けれどきっぱりと、重慶の出来事は警察が調べて事故だと結論づけたこと、ネットの噂はでたらめだということを話した。

「そんなものに振り回されて、宇を怖がらせてはいけません。学校でも、あの子はまわりから浮いてしまっているんです」

けれども、祖母の顔から不安の影が消えることはなかった。

祖母のような古い世代にとっては、警察の発表よりも、何百年も前からこの土地に根づいている陰陽五行や、驚いて抜けた魂を呼び戻す「叫魂(ジャオフン)」の習わしのほうが、ずっと切実で、現実の力を持っていたのだ。

「赤がいけないんです」と、祖母は皺だらけの手で自分の膝をさすりながら呟いた。「赤はおめでたい色で、魔除けでもあるはずなのに。噂じゃ、赤い服を着たまま死ぬと、魂が抜け出せなくなるって言うじゃありませんか。

宇はすっかり怯えてしまって、家にある赤いバケツや、赤い柄のタオルを見るだけで震えるんです」

その言葉を聞いて、林秀は思い出した。

このあいだの体育の時間、陳宇が組分けの赤いゼッケンを着るのを頑なに拒み、真っ青な顔でうつむいていたことを。

彼はいま、目に見えない呪縛に囚われているのだ。

遠い場所で生まれた、形のない言葉の連なりが、一人の少年の心を、確かに締めつけていた。

第三章 夜霧の幻

十二月も半ばを過ぎると、白岩鎮の霧はいっそう濃くなった。

日が落ちると、数メートル先の隣の建物の輪郭さえ、厚い灰色の幕の向こうに溶けて消えてしまう。

その夜、林秀は寄宿舎の当直だった。

古い配線のせいか、夕方から学校じゅうが停電していて、子供たちはいつもより早くベッドに潜り込んでいた。

外には濃い霧がたちこめ、あらゆる音を吸い込んでいるかのようだった。

ときおり、遠い長江を行く貨物船のくぐもった汽笛だけが、地の底から響く獣の唸りのように低く響いては消えていく。

林秀は懐中電灯を手に、冷えきったコンクリートの廊下の見回りに出た。

底冷えのする寒さが、靴の裏から這い上がってくる。

子供たちの部屋のドアに耳を寄せ、静かな寝息を確かめながら、ゆっくりと進んでいく。

陳宇のいる部屋の前を通りかかったとき、林秀は足を止めた。

このところ、彼は夜中にうなされることが増えていたのだ。

ドアの隙間から聞こえてくるのは、規則正しい寝息だけだった。

林秀は小さく息をつき、さらに奥の洗面所へ向かった。

そのときだった。

長く続く薄暗い廊下の突き当たり、懐中電灯の光が届くか届かないかの境目に、何かがあるのが見えた。

林秀の足が、ぴたりと止まった。胸の鼓動が乱れはじめる。

それは、ぼんやりとした赤い塊だった。

子供の背丈ほどの高さで、かすかに揺れている。

霧のせいで輪郭がひどくぼやけ、それが何なのか、はっきりとは分からない。

ただ、その強い赤だけが、闇の中で異様に浮き上がって見えた。

赤い服。十三歳の男の子。魂を縛る儀式。

林秀の頭に、ネットカフェで見た無数の書き込みや、子供たちの怯えた声、祖母の嘆きが、一度に押し寄せてきた。

頭はそれを打ち消そうとするのに、体がこわばって動かない。

見えるはずのないもの。

あってはならないもの。

自分がいちばん打ち消そうとしてきた形のない噂が、いま、形を持って目の前に現れたのではないか。

暗がりの中で、その赤い塊が、ゆっくりとこちらへ振り返ろうとしているように見えた。

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