序章 線香の灰と冷たい手首

台湾に戻って二日目の夕暮れ、私は母に手を引かれて、新北市の路地裏にある小さな廟の敷居を跨いでいた。

夕方の湿った熱気の中に、白檀と線香の脂っこい煙が低く淀んでいる。

赤塗りの柱の根元には雨水と埃の混じった黒ずみがこびりつき、奥の神棚では金色の冠をかぶった神像が、煤けた帳の隙間からこちらを見下ろしていた。

母は誰かに急かされるように小刻みに歩き、廟の管理人にいくらかの紙幣を手渡すと、私を木の粗末な丸椅子に座らせた。

魂を呼び戻すお祓い、收驚(シウキン)を受けるためだった。

收驚を受け持つ老婆が、私の青い上着の袖口を乱暴に引っ張る。

老婆の手は驚くほど小さく、節くれだっていて、指先は線香のヤニで黄色く染まっていた。

老婆は茶碗に擦り切り一杯の白米を盛り、それを私の着古したTシャツで固く包み込むと、私の頭上から背中、そして両腕へと、小刻みに揺らしながら撫で下ろしていった。

低く濁った呟きが、老婆の唇の隙間から漏れ出る。

天の神、地の神、方角の神々の名を早口で呼び立て、迷い出た魂に家へ戻れと命じる唱え言だった。

だが、老婆の手が私の右肩に差し掛かったとき、その滑らかな動きが唐突に止まった。

老婆の乾いた指先が、私の右腕の付け根を強く押さえた。

痛みに思わず身を縮めると、老婆は眉をひどく顰め、包みを解いて米粒の表面をじっと見つめた。

米粒の並びは乱れ、中央に鋭いくぼみができていた。

「あんた、向こうで何に触れたんだい」

老婆の声は嗄れていた。

「何にも触れていません」

私は答えた。

嘘ではなかった。

私はマカオのあの路地で、石壁にも、香炉にも、古びた扁額にも触れていない。

私が触れたのは、ただ一つだけだった。

吸い寄せられるように暗がりへ足を踏み入れようとしていた妹の、細い手首だけだった。

「触っていなくても同じだよ」

老婆は米の包みを無造作に机へ放り出し、線香の灰が積もった金属の皿を指先で叩いた。

乾いた金属音が廟の薄暗い天井に反響した。

「引き留めたってことは、相手の重みを、自分の腕で受け止めたってことだ。向こうはまだ、その手を離しちゃいないよ」

右腕の奥が、氷を押し当てられたようにじわりと冷たくなった。

あの旧正月のマカオ。

極彩色のカジノホテルが立ち並ぶ埋め立て地から遠く離れた、南の端の古い漁村。

潮風と湿った木材の匂いが漂う石畳の路地で起きた出来事が、冷え切った血の流れに乗って、胃の底へ蘇ってきた。

第一章 石畳の漁村と湿った香炉

父が胃がんで亡くなってから、ちょうど一年が過ぎた冬だった。

闘病の末期、父は衰弱しきった体で家族に当たり散らし、母と私と妹の三人は、ただ嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めて暮らしていた。

葬儀を終え、遺品を片付け、新北市の下町にある古いアパートの空気がようやく落ち着きを取り戻した頃、母がぽつりと、海外旅行に行きたいと言い出した。

どこか遠くへ、父の記憶が染みついていない場所へ行きたいのだと。

私は小さな文具卸の会社で受発注の事務をしており、妹は専門学校を途中でやめてから定職に就かず、カフェのアルバイトを転々としていた。

二人の休みを合わせ、母のパスポートを更新し、旧正月の連休を使って選んだのがマカオだった。

台北から飛行機で二時間もかからず、治安も悪くなく、漢字が通じる。

それが理由だった。

だが、旧正月のマカオ半島は、私たちの想像を超える狂騒の中にあった。

空港からタクシーに乗った瞬間から、道の両側は金色の電飾と巨大なホテルの壁で埋め尽くされていた。

街のいたるところで新春を祝う爆竹がけたたましく鳴り響き、赤と金色の飾り付けが施された目抜き通りは、中国本土からの観光客で溢れかえっていた。

どこへ行っても人いきれと、ホテルのロビーに流される甘ったるい人工的な香りが充満しており、父を亡くして以来、静かな部屋に慣れきっていた母は、半日も経たないうちに目眩を訴えてホテルのベッドに倒れ込んだ。

二日目の午後、私たちは人混みを逃れるようにして、路線バスで南の端のコロアネ島へ向かった。

埋め立て地の道路を越え、巨大なリゾートの影を抜けると、景色は急激に色を失っていった。

低い山肌に生い茂る南国の木々と、灰色の海。

終点の集落でバスを降りたとき、肌を撫でた風の冷たさに、私はほっと息をついた。

そこはかつて漁村だったという古い町だった。

海沿いの細い一本道には、波に洗われて黒ずんだ護岸が続き、対岸には中国本土の横琴の山並みが、霞の向こうに平たく横たわっている。

ポルトガル統治時代に敷かれたという波模様の石畳はところどころ剥がれ、パステルイエローや水色に塗られた民家の壁は、長年の湿気で漆喰が浮き上がっていた。

「静かでいい場所ね」

母が海風に髪を揺らしながら言った。

名物のエッグタルトを売る小さな店の前には数人の客が並んでいたが、カジノ街の押し寄せるような喧騒に比べれば、まるで時間の流れが止まっているかのようだった。

私たちは焼きたての温かいタルトを紙袋に入れてもらい、海沿いの通りから、民家と民家の間に延びる細い路地へと足を踏み入れた。

案内板もない、大人が二人すれ違うのがやっとの狭い路地だった。

頭上には錆びたトタンの庇が張り出し、住人が干した洗濯物が、風もないのに重たく垂れ下がっている。

旅行案内には、この島がかつて海賊の拠点にもなり、二十世紀の初め、子供たちをさらって身代金を求めた海賊をポルトガル軍が掃討した場所だと書かれていた。

天后廟や観音廟など、航海の安全を祈る古い廟が今も点在しているという。

だが、私たちが迷い込んだその路地は、どの観光地図にも載っていないような死角だった。

曲がり角を二つ曲がったところで、妹が突然、足を止めた。

「どうしたの」

私が声をかけても、妹は振り返らなかった。

妹の視線は、両脇の二階建ての民家に挟まれた、わずか一間ほどの隙間に注がれていた。

そこには、石を積み上げて作られた、小さな祠があった。

屋根の瓦は半分以上が割れて苔が生え、扁額が掛けられていたはずの場所には、木が腐り落ちた跡の黒い釘だけが二本、牙のように突き出ている。

中に祀られているはずの神像の姿は見えなかった。

奥は深い闇に沈み、ただ煤けた石の台座の上に、粗末な陶器の香炉が一つ、ぽつんと置かれているだけだった。

異様なのは、その香炉だった。

どんなに寂れた廟であっても、旧正月のこの時期なら、誰かが手向けた赤い線香の燃え殻や、金紙の燃えかすが残っているはずだった。

だがその香炉には、線香が一本も立っていなかった。

器を満たしている灰は白く乾いておらず、油を含んだ土のように黒ずみ、じっとりと湿り気を帯びて固まっていた。

「ねえ、行こうよ。ここ、通り抜けられないみたいだし」

私は妹の肩に手を置こうとした。

その瞬間、妹がふらりと前に進み出た。

まるで、見えない誰かに手招きされたかのような、頼りなげで滑らかな足取りだった。

妹の目は焦点が合っておらず、祠の奥の暗がりをじっと見つめていた。

その表情には、好奇心も恐怖もなく、ただ深い眠りの中にいるような無防備な空白だけが広がっていた。

背筋を、冷たい針で撫でられたような感覚が走った。

台湾で育った私は、身元の分からない死者や無縁の霊を祀る陰廟には、軽々しく近づいてはいけない、と祖母から言い聞かされてきた。

拝むなら礼を尽くし、そうでなければ、そっと通り過ぎるものだと。

この祠が何を祀っているのかは分からなかった。

けれど、その言い聞かせが、私の背中を強く叩いた。

「入っちゃ駄目!」

私は叫び、踏み出そうとした妹の右手を、力任せに後ろへ引き戻した。

妹の華奢な手首を私の指が強く締め上げた瞬間、ぱちんと、静電気のような硬い衝撃が私の掌から肘へと突き抜けた。

妹の体がよろめき、私の胸の中に倒れ込んだ。

妹は大きく息を吸い込み、水底から跳ね上がった魚のように、激しく瞬きを繰り返した。

そして次の瞬間、その顔に猛烈な怒りの色が走った。

「何するのよ!」

妹は私の手を乱暴に振り払った。手首には、私の指の形が赤く残っていた。

「痛いじゃない! いきなり引っ張るなんて、頭おかしいんじゃないの!」

「だって、あんた、あんな気味の悪いところに入ろうとするから……」

「気味が悪い? 何がよ。ただ路地を見てただけじゃない。あんたが勝手に騒いで、痛い思いさせられた私の身にもなりなさいよ!」

妹は肩を怒らせ、踵を返して路地を大股で歩き去っていった。

母がおろおろと妹の背中を追いかける。

取り残された私は、その場に立ち尽くした。

妹を掴んだ私の右手の指先から、腕の骨の奥にかけて、重く鈍い痛みが居座っていた。

真冬の氷水を血管の中に直接流し込まれたような、底冷えのする痛みだった。

祠の奥をもう一度見たが、そこには湿った黒い灰を湛えた香炉があるだけで、動くものの気配は一切なかった。

第二章 閉ざされた部屋の毒

ホテルへ戻るバスの中でも、妹は私と一言も口をきかなかった。

マカオの街は、夜が下りるにつれて、ますますけばけばしい光を放ち始めていた。

巨大なスクリーンの青い光、ネオンサインの毒々しい赤、そして道路を埋め尽くす車のヘッドライト。

それらの光が流れていくたびに、座席に座る妹の横顔が、輪切りにするように照らし出された。

妹は唇を真一文字に結び、膝の上に置いた両手を固く握りしめていた。

母は妹と私の顔を交互に見比べ、小さなため息をついた。

「せっかくのお正月旅行なんだから、喧嘩はやめなさい。ねえ、明日は赤口(チェクハウ)よ。年初三は口喧嘩が起きやすいから、言葉に気をつけなきゃいけない日なんだって。ホテルのフロントの人が言ってたわ」

広東語圏では、旧正月の三日目を「赤口」と呼び、親戚回りや人との面会を避ける習わしがある。

口論や諍いが起きやすい日とされているからだ。

母はフロントで聞きかじったその話を持ち出して、なんとか場を取り成そうとしていた。

だが、その言葉も妹の頑なな沈黙を溶かすことはできなかった。

泊まっていたのは、マカオ半島の外れにある、少し古びたビジネスホテルだった。

部屋にはセミダブルのベッドが二台押し込まれ、カジノホテルのような華やかさは微塵もなかった。

壁の薄い部屋には、隣室の排水の音や、エレベーターの到着を知らせる電子音が、かすかに響いていた。

母は疲れ果ててシャワーを浴びると、すぐに一方のベッドに潜り込み、浅い寝息を立て始めた。

私は右腕の痛みに耐えながら、もう一台のベッドの端に腰掛けていた。

痛みは引くどころか、時間を追うごとに増していた。

手首から始まった冷たさは肘を越え、右の鎖骨のあたりまで広がっている。

触れてみると皮膚はぬるいのに、骨の芯だけが氷漬けになっているような感覚だった。

妹は部屋の隅の小さなデスクの前に座り、スマートフォンの画面を無表情に指で弾いていた。

時計の針が深夜の一時を回った頃だった。

エアコンが低い唸り声を上げ、生ぬるい風を吐き出した。

母の規則正しい呼吸の音だけが響く暗闇の中で、突然、椅子の軋む音がした。

妹が立ち上がり、私の枕元へ歩み寄ってきた。

暗がりの中で、妹の顔は見えなかった。ただ、その輪郭が異様なほど強張っていることだけが分かった。

「……あんた、さっき何て言った?」

妹の声は低く、押し殺されていた。震えを帯びていたが、それは恐怖ではなく、煮え滾るような憎しみの震えだった。

「え?」

私は上半身を起こした。右腕がずきりと痛んだ。

「さっきって、何のこと? 私、何も言ってないよ」

「嘘つかないで」

妹が一歩、踏み出してきた。暗闇の中で、妹の吐く息が私の頬にかかった。その息は妙に生臭く、冬の泥のような匂いがした。

「さっき、私の耳元で言ったじゃない。『あんたが専門学校の学費を無駄にしたせいで、お父さんの入院費が足りなくなった』って。はっきり言ったじゃない!」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

「そんなこと、言うわけないでしょ! 私、ずっとベッドに座ってたのよ。声なんて出してない!」

「嘘! あんたの声だった! お父さんが死ぬ前、あんたが心の中でそう思ってたのを、私は知ってるのよ。

あんたはいつもそう。自分だけが真面目に働いて、自分だけが親孝行の顔をして、私のことを役立たずの穀潰しだと思って見下してた! それを今、わざわざ私の耳元で囁いたでしょ!

」

妹の声は次第に大きくなり、金切り声へと変わっていった。

その言葉の端々には、父が生きていた頃、私たちが互いに決して口に出さないように蓋をしてきた、家の中の澱のような本音が混ざり合っていた。

妹が学校をやめたこと。

父の治療費の負担。

私が給料から工面していた通帳の残高。

それらは確かに私の胸の片隅に、黒い棘のように刺さっていた感情だった。

だが、それを今、この場所で、妹の耳元に囁くはずなどなかった。

「静かにしなさい! お母さんが起きるでしょ!」

私が妹の肩を押し戻そうと右手を伸ばした瞬間、激痛が肩口を走った。

見えない冷たい杭を関節に打ち込まれたようだった。

私は短く悲鳴を上げ、右腕を押さえてベッドに倒れ込んだ。

物音に驚いて、母が飛び起きた。

部屋の明かりが点けられた。

蛍光灯の白々しい光の下で、妹の顔は蒼白になり、唇の端から唾を飛ばしながら私を指差していた。

母は事情も呑み込めないまま、取り乱す妹の肩を抱き、そして痛みに呻く私を見て、ひどく疲れた声で言った。

「もうやめて……お姉ちゃんなんだから、謝りなさい。お願いだから、これ以上私を苦しめないで」

どうして私が謝らなければならないのか。

理不尽な怒りと、右腕を締め上げる冷たい痛みが混ざり合い、喉の奥で硬い塊になった。

私はシーツを握りしめ、ただ歯を食いしばるしかなかった。

明かりが消されたあとも、ドアの下の隙間から廊下の光が細く漏れて、床に一本の白い線を引いていた。

その線の端が、昼間に見たあの名もない祠の、割れた瓦の縁のように欠けて見えて、私は目を背けた。

第三章 赤口の街と掠れる影

翌日、年初三の朝は、鉛色の重い雲が空を覆っていた。

赤口のこの日、私たちは申し合わせたように言葉を交わさなかった。

朝の食堂でも、妹は母の隣に座り、私から一番遠い席でトーストを機械的に口に運んでいた。

その目の下には濃い隈が浮かび、肌は血の気を失って土気色をしていた。

母の様子も、どこかおかしかった。

普段なら旅先で細かい予定を立てたがる母が、ぼんやりと宙を見つめ、スプーンを握ったまま動かなくなることが何度もあった。

私が「大丈夫?」と声をかけても、二拍ほど遅れてから、ひどく怯えたように私を見返すのだった。

私たちは予定していた観光地へ向かう気力もなく、ただホテルの周辺から、セナド広場へと続く古い石畳の坂道を、あてもなく歩いた。

旧正月の三日目だというのに、通りには人が溢れていた。

広東語、北京語、英語、ポルトガル語が入り混じる喧騒の中、道の両脇には干し肉やアーモンドクッキーを売る土産物屋がひしめき、試食を勧める店員の大声が飛び交っている。

だが、その華やかな賑わいが、私たちの周囲だけ、すっぽりと抜け落ちているようだった。

妹は私の数歩前を歩いていたが、人混みの中で、頻繁に足を止めた。

誰かに呼び止められたかのように、びくりと肩を震わせ、振り返るのだ。

だが、背後にあるのは見知らぬ観光客の波だけだった。

妹はその度にひどく怯えた目をして、それからすぐに憎々しげな視線を私に向けた。

私の右腕は、もはや指先まで感覚が鈍り始めていた。

コートのポケットに手を突っ込んでいても、指の関節が冷たく強張り、動かすことすらおぼつかない。

歩く振動が肩に響くたび、骨がきしむような鈍痛が走った。

昼過ぎ、古い教会の前の広場から一本入った裏通りを歩いていたときだった。

母が突然、足を止めた。

通りの角に、線香や紙の供物を扱う古い店があった。

店先には、死者に送るための紙の札束や、紙で作られた精巧な屋敷、車などの模型が並んでいる。

正月の祝いの品ではなく、明らかに葬儀や墓参りのための品々だった。

母は、吸い寄せられるようにその店先へ歩いていった。

母は、黄色い紙に朱色の文字が刷られた紙銭の束を両手で持ち上げ、じっとそれを見つめていた。その指先が小刻みに震えていた。

「お母さん、何してるの。そんなもの買ってどうするのよ」

妹が苛立った声で母の袖を引いた。

母はゆっくりと顔を上げた。その目は潤んでおり、今にも泣き出しそうだった。

「これ……お父さんに持っていってあげなきゃいけない気がして。お父さんが、あっちで寒いって、お金が足りないって、さっきからずっと……」

「お母さんまで、何言ってるの!」

妹が叫んだ。その声の鋭さに、通りを歩く観光客が何人か足を止め、不審そうにこちらを見た。

「お父さんはもういないの! 死んだのよ! どうしてこの旅行に来てまで、お父さんのことばっかり言うの? 私たちが生きているのが、そんなに気に入らないの?」

「違うの、そうじゃないの……」

母は紙銭の束を抱きしめたまま、その場にへたり込みそうになった。

「さっき、あんたが言ったんじゃない」

母の口から漏れた言葉に、私と妹の動きが同時に止まった。

「え?」

妹が眉をひそめた。

「あんたが、さっき私の後ろから言ったのよ。『お母さんが早く死ねば、保険金でみんな楽になれるのに』って……あんたの声で、耳のすぐ後ろで……」

通りの喧騒が、潮が引くように遠のいた。

鳩の羽ばたく音と、遠くで鳴る爆竹の破裂音だけが、耳の奥で乾いて響いた。

「私、言ってない」

妹の声が震えていた。怒りではなく、底知れぬ恐怖が、その顔を急速に侵していくのが分かった。

「私、そんなこと言ってない! お母さん、何言ってるの? 私がお母さんにそんなこと言うわけないじゃない!」

「でも、聞こえたのよ……あんたの、冷たい声で……」

母は路上の敷石の上に崩れ落ち、紙銭を胸に抱いたまま、声を殺して泣き始めた。

妹は立ち尽くし、見知らぬ人を見るような目で自分の母親を見つめていた。

それから、ゆっくりと首を巡らせ、通りの端に立っていた私を見た。

その目は、もう怒りに燃えてはいなかった。暗い井戸の底を覗き込むような、底知れぬ混乱と怯えに満ちていた。

妹の耳には私の声で、母の耳には妹の声で、私たちが心の中で恐れ、恥じ、誰にも知られたくないと思っていた残酷な言葉が、直接注ぎ込まれていた。

誰も口を開いていない。

誰もそんな言葉を発していない。

だが、あのコロアネの路地で妹の腕を引いた瞬間から、何かが私たちの間に割り込み、私たちの声を使って、互いの急所を正確に抉り続けているように思えた。

私の右腕の奥で、骨が軋む音がした。

皮膚の下で、冷たい何かが蠢いているような錯覚に襲われ、私はコートの上から必死に自分の腕を抱きしめた。

第四章 突き合わされた空白

最終日の朝、私たちは荷物をまとめ、逃げるようにしてホテルをチェックアウトした。

空港へ向かう前の数時間を潰すため、私たちはタイパの古い通りの寂れた茶餐廳——香港やマカオの大衆食堂——の片隅に座っていた。

古びた天井扇が頼りなげに回り、薄暗い店内には、煮詰まった濃いミルクティーと油の匂いが漂っていた。

テーブルの上には手付かずのトーストと、冷めきった茶が三つ並んでいた。

誰も何も食べようとしなかった。

外では、三日間の狂騒を終えた街が、祭りの残骸を引きずりながら平日の気配を取り戻しつつあった。

道路を走る車の音もまばらで、灰色の空からは細かい霧雨が降り始めていた。

沈黙を破ったのは、妹だった。

「……あの祠でね」

妹は両手で湯呑みを包み込みながら、俯いたまま言った。その声は掠れ、ひどく小さかった。

「私、最初からあそこに行こうとしてたんじゃないの。海沿いの道を歩いてるときから、ずっと誰かがすぐ後ろにいる気がしてた」

私と母は、息を殺して妹の言葉を待った。

「何かが聞こえたとかじゃないの。ただ、誰かが私のすぐ後ろにいて、私の名前を呼んでるような気がした。振り向いても誰もいないのに、路地に入ったら、その気配がどんどん近くなって……祠の前に立ったとき、奥の暗がりに、誰かがいる気がしたの。

見えたわけじゃない。でも、いるって分かった」

私は背筋が凍りつくのを感じた。

「その誰かが、おいでって言ってる気がした。こっちに入りなさいって。その声が、すごく優しくて……お父さんが病気になる前の、昔の声みたいで、私、足が勝手に動いちゃったの」

妹の指が、陶器の湯呑みを強く握りしめた。

「でも、お姉ちゃんが私の手を引っ張ったでしょ。あの瞬間、後ろにいたものが、ものすごい力で私の耳元に顔を寄せてきたの」

妹の唇が、恐怖で細かく震えていた。

「あの声は、お父さんの声じゃなかった。冷たくて、湿った泥みたいな声で、こう言ったの」

妹は顔を上げ、私の右腕をじっと見つめた。

「『代わりはお前じゃない』って」

胃袋が冷水で満たされるような感覚だった。

代わりはお前じゃない。

では、誰が代わりだというのか。

私が妹の手首を力任せに引き戻した、あの瞬間。私の掌を突き抜けた、あの硬い衝撃。

「……母さんもね」

母が掠れた声で言った。母は震える手でハンドバッグを開け、中からくしゃくしゃになったティッシュを取り出した。

「この旅行に来る前の晩、夢を見たのよ」

「夢?」

「ええ。古い船の底のような、暗くて湿った場所に、私が一人で座っている夢。足元には冷たい泥水が溜まっていて、逃げようとしても足が動かないの。

そうしたら、向こうの暗がりから、誰かが近づいてきて、私の耳元で囁いたのよ。『お前の家から、一人連れていく』って」

母の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ただの悪い夢だと思ったの。お父さんが亡くなってから、変な夢ばかり見ていたから、気にしちゃいけないと思って、あんたたちには黙ってた。でも、あのコロアネの路地に入ったとき、あの夢と同じ匂いがするって、すぐに気づいたのよ。

潮の匂いと、腐った泥の匂い……」

母は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れた。

テーブルの上で、冷え切ったミルクティーの表面に、天井扇の風で細かな波紋が立っていた。

私たちは互いの顔を見つめ合った。

父が死んでからのこの一年、私たちが心の奥底に隠してきた罪悪感、疲れ、苛立ち、そして互いに対する微かな憎しみ。

あの路地の祠にいた何者かは——もし本当に何かがいたのだとすれば——その隙間を正確に見抜き、私たちの声を借りて、家族を内側から食い破ろうとしていたのだろうか。

そして、妹を引き離した私の右腕。

私は震える左手で、コートの右袖を捲り上げた。

手首から肘にかけて、皮膚の下の血管が、黒ずんだ紫色に変わっていた。

打ち身の痕ではなかった。

冷たい泥水が皮膚の下を這い回ったかのような、不気味な染みとなって、私の腕に定着していた。

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