序章 歌の途中
ミレイユは、最後列の生徒が歌っていないことに気づいた。
口を閉じ、両手で鞄の紐を握っていた。
十四歳の少女、ファラだった。
普段なら国歌の途中で声を確かめるように顎を上げるのに、その朝は地面を見ていた。
四月の校庭は、朝から暑かった。
マハジャンガの海のほうから風が来ていたが、建物に囲まれた校庭では、生徒の列の端にある木の葉を揺らすだけだった。
ミレイユは出席簿を胸から少し離し、襟の内側に風を入れた。
あとで水を飲むよう、子供たちに言おうと思った。
国歌が終わったら。
校長の話が終わったら。
その間に、ファラの手が鞄の紐から離れた。
何かを振り払うように腕を動かし、少女は顔を上げた。ミレイユと目が合った。助けを求めているように見えた。
ミレイユが列へ入ろうとしたとき、ファラが叫んだ。
言葉にはなっていなかった。
近くの生徒が振り向き、その肩に別の生徒がぶつかった。
ファラの膝が折れた。
ミレイユは腕を伸ばしたが、届く前に隣の少女が支えた。
その少女も、すぐに泣き始めた。
歌が途切れた。
校庭の別の場所から、先生を呼ぶ声がした。
ミレイユはファラのそばにしゃがみ、名前を呼んだ。少女の瞼は閉じ、呼びかけに答えなかった。
鞄が地面に落ちていた。
紐の片方が、まだ少女の指に絡んでいた。
第一章 日陰の順番
ミレイユは鞄の紐を外した。
同僚が来て、二人でファラを日陰へ移した。少女の呼吸を確かめ、もう一度名前を呼んだ。
「ファラ。先生がいるよ」
返事はなかった。
校庭では、列が崩れていた。泣いている子の周りに人が集まり、その人だかりの後ろで、別の子が座り込んでいた。
ミレイユには、どこから次の声が出たのか分からなかった。
ひとりが倒れたことに気づくと、別の先生が別の少女を抱えていた。小さな礼拝堂の前にも、子供たちが運ばれてきた。
「水を」
ミレイユが言うと、男子生徒が走って持ってきた。
少女の口元へ器を近づけかけ、ミレイユは止めた。
意識がはっきりしていない子に、無理に飲ませてはいけない。
看護師の姉から、以前聞いたことがあった。
「これは、まだ置いておいて」
男子生徒は頷いた。
手が震えていた。
「君は飲んだ?」
「僕は大丈夫です」
「大丈夫でも、座って」
少年は器を床に置き、膝を曲げた。すぐまた立とうとしたので、ミレイユは肩に手を置いた。
ファラの瞼が動いた。
目を開けたが、ミレイユの顔を見ているようではなかった。喉から短い声が出た。体を起こそうとし、同僚が支えた。
「ここは学校。日陰にいる」
ミレイユは短い言葉で話した。
「先生がいる。今、起きなくていい」
少女は泣き始めた。
涙が頬を伝い、耳のほうへ流れた。
ミレイユは清潔な布で拭いた。
顔を隠したがる子もいたので、布を押しつけず、少女の手に触れさせた。
礼拝堂の入口で、別の生徒が叫んだ。
体を起こそうとする少女を、男子生徒たちが押さえていた。
ひとりは腕を、ひとりは脚を持っていた。
押さえられた少女は、ますます激しく泣いた。
ミレイユはそちらへ行った。
「少し離れて。ぶつからないように、場所を空けて」
「動くんです」
「分かる。でも、強く掴まないで」
少年たちは手を緩めた。
少女のそばに鞄が積まれていた。
ミレイユはそれをどかし、他の生徒を下がらせた。
怪我をさせないようにすることと、動きを止めることを、その場で区別するのは難しかった。
少年たちは助けようとしていた。
何をすれば助けになるのか、誰も十分には知らなかった。
神父が来た。
小さな器を手に持ち、少女たちの名を聞いた。
聖水を撒き、祈りを唱えた。
泣きながら祈りの言葉を繰り返す子がいた。
顔を背ける子もいた。
神父は顔を背けた子を追わず、隣の子に声をかけた。
ミレイユはファラのところへ戻った。
少女は同僚の手を握っていた。
「おばあちゃん」
かすれた声で言った。
「呼んでいるから」
同僚が答えた。
本当に連絡がついたか、ミレイユには分からなかった。それでも少女はその言葉を聞いて、少しだけ顎を緩めた。
校庭にいた子供たちが、教室へ移され始めた。
教師たちは人数を確かめた。誰が具合を悪くし、誰が保護者と帰ったか、記録が追いつかなかった。
ミレイユは自分の出席簿を探した。
最初にいた場所の地面に落ちていた。表紙に土がつき、挟んでいた紙が一枚なくなっていた。
拾い上げると、名前の列が目に入った。
その日、授業で読む予定だった文章の横に、ファラの提出物について小さな印をつけていた。書き直しを頼むつもりだった。
朝礼が終わったあとに。
第二章 門の向こう
保護者が来るころには、学校の中にアンバラヴェロナという言葉が広がっていた。
悪い霊に取り憑かれた状態を指す、その土地の言葉だった。
ミレイユは子供のころから知っていた。
大人が声を落として話すときに聞いたことも、親戚の家で真剣に語られるのを聞いたこともあった。
校門の外では、その言葉が人から人へ渡っていた。
「何人?」
「うちの子は?」
「最初は誰?」
保護者の声が重なった。
学校の事務員が名簿を持ち、ひとりずつ答えようとしていた。ミレイユはファラの祖母を見つけると、門のところへ行った。
祖母は靴の片方の踵を踏んだままだった。
急いで来たことが、それだけで分かった。
「今は目を開けています」
ミレイユが言うと、祖母は頷いた。
「どこ」
「こちらへ」
歩きながら、祖母は何が起きたか聞かなかった。礼拝堂の前でファラを見つけると、膝をつき、額に手を当てた。
少女は祖母の服を握った。
その姿を見て、ミレイユは初めて自分の喉が乾いていることに気づいた。
朝から一度も水を飲んでいなかった。
器を持ったが、飲む前に別の教師が名前を呼んだ。保護者の来ていない子を、教室へ移す必要があった。
ミレイユは器を置いた。
そのとき視界の端が暗くなった。
床が少し傾いたように感じた。柱に手をつくと、同僚がこちらを見た。
「座って」
「平気」
「座ってから言って」
ミレイユは椅子に腰を下ろした。
両手に汗が出ていた。胸が速く動き、さっきまで聞こえていた声が遠くなった。
その遠さが怖かった。
ファラが最初に顔を上げたとき、何を感じていたのか。ミレイユは不意に、その顔を思い出した。
同僚が器を渡した。
今度は飲んだ。
少しずつ飲み、椅子の背に体を預けた。
自分が倒れれば、またひとつ、人の集まる場所が増える。
そう思うと焦ったが、焦って立つほうがよくないとも分かった。
校長が来た。
信心深い女性で、生徒に厳しく言うときも声を大きくしなかった。その朝は、首元の十字架が服の外に出ていた。
「今日は授業をやめます」
ミレイユは頷いた。
「明日は?」
「朝、ミサを行います。そのあと、様子を見て授業を」
「来られない子もいると思います」
校長は少し考えた。
「欠席の理由は、個別に聞きましょう」
ミレイユは、そこでファラの名前を出しかけた。
最初に倒れた子。
その言い方が、もうひとつの役割を少女につけてしまう気がして、やめた。
代わりに、子供たちを人だかりから離したいと伝えた。誰かが携帯電話を向けていたことも。
校長は門のほうを見た。
「伝えます」
ファラが帰るとき、ミレイユは鞄を持っていった。
少女は祖母に支えられて立っていた。ミレイユから鞄を受け取ると、その重さに一度肩を下げた。
「家で休んで」
少女は頷いた。
「明日の課題は?」
ミレイユは返事が遅れた。
校庭の混乱の中で、少女が課題を気にしていることに、胸の奥が痛んだ。
「今は考えなくていい」
ファラは唇を閉じた。
その答えが、少女にとって十分ではないことを、ミレイユはあとになって知った。
第三章 少女が覚えていること
午後、ミレイユはファラの家へ行った。
先に祖母へ連絡し、訪ねてもよいか確かめた。
学校のことを説明するためというより、午前中に聞けなかった少女の言葉を聞きたかった。
家の前には、小さな洗い物が干されていた。
制服の白い部分が水を含み、まだ重そうだった。ファラが朝着ていたものかどうか、ミレイユには分からなかった。
祖母は椅子を出してくれた。
ファラは奥の敷物に座っていた。普段着に着替え、膝の上に本を置いていたが、開いてはいなかった。
ミレイユはその前へ座った。
「話したくないことは、話さなくていいから」
ファラは祖母を見た。
祖母は炊事の道具を片づけ、少し離れた場所に座った。出ていくのでも、すぐ隣へ来るのでもなかった。
「朝、どこから覚えている?」
ミレイユが聞いた。
「歌っていました」
「うん」
「それから、先生がいた」
「私が?」
ファラは頷いた。
「近くにいました。おばあちゃんを呼んだか、聞きました」
そのあいだが抜けていた。
ミレイユは埋めるための質問をしなかった。誰かが支えたこと、日陰へ移したことだけを話した。
ファラは本の角を指で押した。
「変なことを言いましたか」
「おばあちゃん、と言った」
「ほかには」
「私が聞いたのは、それだけ」
ファラは少し長く息を吐いた。
何を言ったか分からないことが、怖いのだとミレイユは思った。倒れたことより、目が覚めるまでの自分を、人が知っていること。
祖母が言った。
「この子には、前から寄ってくるものがある」
ミレイユは祖母を見た。
「何度かあったんですか」
「学校でも、家でも」
ファラが本から手を離した。
「五回か、六回」
ミレイユは驚きを顔に出さないようにした。
「今年度に入ってから?」
少女は頷いた。
ミレイユは、その数を知らなかった。
欠席の連絡には、具合が悪いとだけ書かれていた。
授業中に眠そうだった日は、夜更かしをしたのかと思っていた。
「始まる前は、何か分かる?」
ファラは考えた。
「怖くなる」
「何が怖い?」
「分からないです」
祖母が何か言おうとしたが、ミレイユは少女のほうを向いたまま待った。
「何かある気がする。でも、どこを見たらいいか分からない」
少女は言った。
「それから、お腹が冷たくなります」
ミレイユは、それを覚えておこうと思った。
誰かの言葉に置き換えず、少女がそう言ったことを。
祖母は、町にいる知り合いへ相談すると言った。祈りをしてもらいたいという。
ミレイユは頷き、同時に医療機関でも相談してほしいと伝えた。
祖母の顔が少し硬くなった。
「病気だということ?」
「まだ分かりません。何度もあって、本人が怖がっているから、体のことも調べてほしいんです」
祖母は少女を見た。
ファラは二人のあいだで、指を組んでいた。
ミレイユは言葉を足した。
「祈ることをやめてください、と言っているのではありません」
祖母はすぐには返事をしなかったが、やがて椅子の背から体を離した。
「この子の母親にも言います」
母親は遠くの町で働いていた。
電話は来るが、いつも長く話せるわけではない。ファラが学校でよい成績を取ると、祖母がまず母親へ知らせるという。
少女は小さな声で言った。
「試験、受けられますか」
「今すぐ決めなくていい」
午前中と似た答えをしてしまい、ミレイユは続けた。
「欠席した授業のことは、私たちで考えます。課題も、あなたが元気になってから相談する。倒れたから、それだけで学校にいられなくなることはないよ」
祖母が目を上げた。
ミレイユには、学費や家の事情まで約束する力はなかった。
それでも、自分の教科についてできることは、具体的に言えた。
提出を待つ。
説明をもう一度する。
試験の前に、抜けた箇所を一緒に確かめる。
ファラは初めて本を開いた。
挟まれていた紙には、フランス語の単語が細かく書かれていた。空いたところにも、小さな字が並んでいた。
「これ、明日の範囲です」
少女は言った。
ミレイユは紙を見た。
朝礼が終われば教えるつもりだったことが、ここではすでに、少女の一日を占めていた。
第四章 姉の声と祖母の声
帰り道、ミレイユは日陰を見つけて姉に電話した。
姉のエリーズは、仕事の途中だった。すぐには話せないと言い、少ししてからかけ直してきた。
「あなたは水を飲んだ?」
最初に聞かれたのは、それだった。
「飲んだ」
「食事は」
「まだ」
「話しながらでも、何か食べて」
ミレイユは鞄に入れていたパンを出した。
午前中の出来事を、できるだけ順番に話した。
少女たちの泣き方や倒れ方が同じではなかったこと。
見ていた子にも、具合を悪くした子がいたこと。
自分も一度、座らなければならなかったこと。
エリーズは途中で、何人が医療機関へ行ったか聞いた。
ミレイユは、正確な数を知らなかった。
「まず、そこを確かめて」
姉は言った。
「同じ場所にいた子が何人も具合を悪くしたなら、体の病気や、環境の原因を調べる必要がある。電話の話だけでは決められない」
ミレイユは頷いた。
「でも、怖さが広がることはある?」
「ある」
姉は間を置かず答えた。
「暑さや疲れ、強い不安が重なって、誰かの具合が悪くなるのを見たことで、自分の体にも症状が出ることはある。意識して真似しているわけではないの」
ミレイユはパンを持った手を止めた。
午前中、ファラの顔を思い出したとき、自分の胸が速くなったことを思った。
「それで、全部説明できる?」
「今の私には分からない」
エリーズは言った。
「説明の名前をつけるより、本人が困っていることを聞いて。繰り返している子は、特に」
ミレイユはファラの話をした。
恐怖が来ること。そのあとの記憶がないこと。五回か六回あったこと。
姉の声が少し低くなった。
「それなら、きちんと診てもらってほしい。ほかの子と一緒に起きたからって、その子の症状まで全部同じだとは限らない」
ミレイユは、学校の祈りのことも話した。
エリーズは祈りを笑わなかった。
「安心できる人がそばにいるのは大切。でも、診てもらうことも続けて」
電話を切ってから、ミレイユは残りのパンを食べた。
海から来た風が、制服の襟の汗を冷やした。
子供のころ、祖母も同じように、食べたかどうかを先に聞いた。
祖母はトロンバの霊媒だった。
サカラヴァの王族など、亡くなった人の霊が身に降りて語るとされる儀礼で、親戚や近所の人が祖母のもとへ集まった。
ミレイユは幼かったので、準備の途中に用事を言いつけられることが多かった。
水を運ぶ。布を畳む。邪魔にならないところへ座る。
ある日、祖母がいつもと違う言葉を使った。
短い言葉がいくつか続き、大人たちが顔を上げた。
あとで、それは古い言い方だと聞いた。
祖母が普段の会話で使うのを、ミレイユは聞いたことがなかった。
だから、祖母が知らない言葉を話したのだと思っていた。
けれど今になって考えれば、祖母が何を知っていたかを、子供の自分がすべて知っていたわけではない。
そのことを認めても、あの場の静けさまでは消えなかった。
祖母は儀礼が終わると疲れ、横になった。
ミレイユはその手のそばに座っていた。
指の関節も、爪の欠け方も、いつもの祖母だった。
彼女が何を信じればよいのか迷うとき、思い出すのは、不思議な言葉よりその手だった。
帰宅すると、母から連絡が来ていた。
学校の話が、すでに町の親戚へ届いていた。
「あなたは平気なの?」
「今は平気」
「おばあちゃんが生きていたら」
母はそこまで言って、やめた。
ミレイユも続きを聞かなかった。
祖母なら何と言ったか。
姉なら何と言うか。
その二つを考えているあいだに、目の前の少女の言葉を聞き損ねないようにしようと思った。
第五章 戻るための話し合い
夕方、学校で短い話し合いがあった。
校長、数人の教師、神父が集まった。
誰が帰宅し、誰が医療機関へ行き、誰の保護者とまだ連絡がついていないか、記録を合わせた。
人数はすぐには揃わなかった。
途中で回復して教室へ戻った子がいた。
保護者が来て、そのまま帰った子がいた。
具合が悪くなったと訴えたが、倒れてはいない子もいた。
ミレイユは、全員をひとつの数字にまとめることが、その日の仕事ではないように思った。
名前の横へ、分かっていることを書いた。
神父は、明日のミサについて話した。
祈りをしてから授業を再開する。ただし、具合の悪い子を無理に来させない。家族と連絡を取る。
ミレイユは姉から聞いたことを伝えた。
「繰り返している生徒は、個別に診てもらう必要があります」
神父は頷いた。
校長は、医療機関への連絡を誰が担当するか決めた。
別の教師が言った。
「子供たちは、何が起きたのか聞くでしょう」
「分かっていることだけ話しましょう」
ミレイユは答えた。
「具合が悪くなった子がいて、今日は休んだ。調べている。誰かのせいにしない」
「アンバラヴェロナのことは?」
その言葉で理解している家族がいる。学校の中でも、そう話している人がいる。
ミレイユは神父を見た。
神父は卓に置いた両手を組み直した。
「家で聞いてきた言葉を、教室で否定する必要はないでしょう。ただ、その言葉を使って、苦しんだ子を怖がらせたり、避けたりしないように」
ミレイユは、翌朝それをどう子供たちに伝えるか考えた。
学校は、答えを持たないまま開く。
そのことが怖かった。
けれど答えが出るまで閉じていれば、子供たちは家で、もっと多くの話を聞くかもしれなかった。
学校で会えないことが、別の恐怖になる子もいる。
ファラの課題の紙が、頭に浮かんだ。
話し合いが終わると、ミレイユは教室へ行った。
朝の出席簿を机に置き、地面の土を布で拭いた。
生徒の机は授業前のままだった。
教科書を置き忘れた子がいた。
椅子の背に、布の袋が掛かっていた。
黒板には、昨日の授業の最後の文が残っていた。
ミレイユはそれを消した。
翌日のために、新しい文を書こうとして、手を止めた。
難しい説明をする日ではない。
けれど、何もなかったように普通の授業を始める日でもない。
彼女は短い詩を書くことにした。
借りてきた有名な詩ではなく、授業で言葉の順番を練習するために、自分で作っていたものだった。
机、器、水、隣の人。
生徒が意味を確かめやすい言葉だけを使った。
一行を短くした。
読むのが苦手な子でも、ひとつずつ声にできるように。
書き終わると、ミレイユは教室の後ろへ立った。黒板の文字が読めるか確かめた。最後列の席からは、右端が少し見づらかった。
彼女は文字を中央へ寄せて書き直した。
その晩、なかなか眠れなかった。
叫び声そのものより、少女が目を開けてから周りを見た表情を思い出した。何が起きたか、自分だけが知らない顔だった。
ミレイユは寝台の上で、自分の手を見た。
誰かを支えるには、思っていたより多くの手が必要だった。
翌朝、ファラが来るかどうかは分からなかった。
来たら、課題のことを先に話そうと思った。
第六章 後ろの席
ミサには、普段より多くの保護者が来た。
子供の肩に手を置いたまま祈る人がいた。入口の近くに立ち、途中で外へ出る人もいた。ファラは祖母と来た。
ミレイユが挨拶すると、祖母は小さく頷いた。
「午後、相談に連れていきます」
医療機関のことだった。
「ありがとうございます」
ファラは二人を交互に見た。
祖母は少女の鞄の紐を直し、手を離した。
ミサが終わっても、子供たちはすぐには教室へ向かわなかった。友達を待ち、昨日休んだ子の顔を確かめていた。
ファラに近づいてきた少女がいた。
二人は何か短く話した。ファラが少しだけ笑った。
ミレイユはそれを見ていた。
教室に入ると、何人かの生徒が席を変えてよいか聞いた。
前のほうに座りたい子がいた。友達の隣へ行きたい子もいた。ミレイユは、その日の授業では構わないと言った。
ファラは後ろの席を選んだ。
普段の席ではなかったが、ミレイユは理由を聞かなかった。
授業の初めに、昨日のことを短く話した。
具合の悪くなった人がいたこと。休む必要がある人もいること。誰かをからかったり、昨日の様子を真似したりしないこと。
「覚えていないことを、無理に聞き出さないで」
そう言うと、何人かが顔を上げた。
ミレイユはファラを見なかった。
黒板の詩を読み、まず意味を説明した。
フランス語の「ジュ・スイ・イシ」は、「私はここにいる」という意味だと、音を区切って教えた。
よく知っている言葉だったが、その日は皆が声を出すまで時間がかかった。
ミレイユは待った。
ひとりが読み、次に二人が続いた。
声が揃うと、教室の空気が少し緩んだ。間違えた生徒が自分で笑い、隣の子が小さく訂正した。
そのとき、後ろで椅子が動いた。
ミレイユは顔を上げた。
ファラが俯いていた。
両手は膝の上にあり、肩が細かく震えていた。隣の少女が口を開きかけ、閉じた。
前の席から順に、生徒が振り向いた。
ミレイユは黒板に置いていた白墨を下ろした。
「みんな、座っていて」
自分の声が、思っていたより普通に出た。
彼女はファラのそばへ行った。机の横にしゃがむと、少女は顔を上げずに言った。
「冷たくなります」
昨日の話を思い出した。
お腹が冷たくなる。
ミレイユは少女の両手を見た。
「手に触れていい?」
ファラが小さく頷いた。
ミレイユは片方の手を取った。
その瞬間、視界が白く揺れた。
黒板も、生徒の顔も、輪郭だけになった。膝から力が抜け、ミレイユは自分の体が少女のほうへ倒れかかるのを感じた。
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