序章 泥の混じる水

夕暮れの光が、水平線の向こうへゆっくりと沈んでいく時間だった。

フィジーの本島、ヴィチレヴ島の北東部にあるこの小さな海沿いの村では、潮が引くにつれてサンゴ礁の縁が白く泡立ち、ぬるい風が乾いたヤシの葉をかすかに揺らしていた。

村の真ん中の集会所の床には、編んだ草の敷物——イベ——が何枚も重ねて広げられ、長老や男たちが車座をつくっていた。

車座の真ん中には、四本の短い脚のついた丸い木鉢、タノアが据えられている。

中には灰緑色の濁った液体が満たされていた。

カヴァ、土地の言葉ではヤンゴナと呼ばれる、胡椒の仲間の木の根を干して粉にし、水の中で丹念に揉み出した飲み物だ。

それをヤシの実の殻の杯、ビロに汲み分けて回す。

杯を受ける者は一度だけ手を打ち、一息に飲み干す。

すると、まわりの男たちが「マザ(空になった)」と低く声を合わせ、三度、静かに手を打つ。

その音が、夕暮れの空気に吸い込まれていく。

日本の民間の災害支援団体で看護師として働いていた私が、この村を初めて訪れたのは、二〇一六年の四月のことだった。

南半球の観測史上最も強いと報じられたサイクロン・ウィンストンがこの島々を直撃し、すべてをなぎ倒してから、まだ二か月もたっていないころだった。

それから何年かがたち、復興の仕事がひと段落したあとも、私は休みのたびに、この海辺の村へ足を運んでいた。

新しいトタン屋根はすっかり潮風に馴染み、吹き倒されたパンノキの根元からは、青い若枝が勢いよく伸びていた。

けれども、村の人々がカヴァの杯を交わすとき、ふとした沈黙の合間に漂う空気には、あの大嵐の爪痕が、今もすっかり消えたわけではないことが感じられた。

車座の正面に座っていたのは、エロニという名の長老だった。

縮れた白髪を短く刈り込み、胸元に深い皺を刻んだ大柄な男で、昔は村の小学校で子供たちを教えていた。

エロニは自分のビロを飲み干し、口元を手の甲で拭うと、集会所の外に広がる海を、じっと見つめた。

西の空に残る鈍い橙色の光が、穏やかな浅瀬を鉛色に染め変えようとしていた。

「日本から来たあんたは、あの嵐のあとの怪我や病気の手当てを、ずいぶんしてくれたな」

エロニは、砂利を擦り合わせるような低い声で話しはじめた。

カヴァを飲んだあとで舌が少し痺れているのか、その語り口はいつもより重く、慎重だった。

「だが、あの嵐のあとにこの村で起きていたことを、全部あんたに話したことは、まだなかったはずだ。包帯や熱冷ましの薬ではどうにもならないことが、あの何週間か、この壊れた土地の上で、たしかに起きていたんだよ」

私は何も言わず、膝の上で手を重ねて、長老の言葉を待った。

まわりの男たちも、誰一人口を挟まなかった。

ただ、タノアの底に沈む灰色の粉が、かすかに揺れていた。

第一章 黒い風の夜

二〇一六年二月二十日の夜のことを、この村の者は誰も忘れることができない。

サイクロン・ウィンストンが襲ってきたとき、風は時速二百八十キロという、想像もつかない力となって、この北東の海岸を叩き潰した。

それはもう空気の流れなどではなく、巨大な鉄の塊が村を削り取っていくような轟音だった。

雨は真横から吹きつけ、巻き上げられた海水が霧になって、目を開けることすらできなかった。

何十年も建っていた頑丈な木の家の屋根が、紙切れのように一瞬で引き剥がされ、暗い空へ舞い上がっていった。

大きな波が浜の石垣を軽々と越え、泥と砂を含んだ濁流が、床の下から押し寄せてきた。

村にはおよそ四十の家族が暮らしていたが、その大半の家が、ひと晩で骨組みだけにされた。

わりあい頑丈に建てられていたメソジストの教会と、少し小高い丘の上にあった小学校の校舎だけが、吹き荒れる風の中でかろうじて持ちこたえ、村の人々の逃げ場になった。

人々は暗闇の中、互いの手を引き、子供を胸に抱きかかえながら、泥水に足を取られつつ、必死で教会を目指した。

その嵐のさなか、教会へ向かう人々の中に、シモニという若者がいた。

シモニは二十代の初めの、村でも指折りの頑丈な体をした青年だった。

ふだんは素潜りの漁が得意で、物静かだが、頼まれごとを断らない気立てのよさで、年寄りたちにかわいがられていた。

教会の屋根の下に逃げ込み、ずぶ濡れの家族たちを奥へ押し込んだとき、シモニはふと、後ろを振り返ったという。

村の端の、海にいちばん近い粗末な木の家に住んでいた、足の不自由な老夫婦の姿が見当たらなかった。

「まだ家から出られていないはずだ」

誰かが叫んだ。

外は、瓦礫とトタン板がすさまじい速さで飛び交う、まったくの地獄だった。

大人の男たちでさえ、教会の重い木の扉を一度閉めたら、二度と開ける勇気など持てないほどの風だった。

だがシモニは、止める長老たちの声を振り切って、濡れたシャツのまま、暗闇の中へ飛び出していった。

彼が闇の中へ消えていく後ろ姿を、教会の扉の隙間から、何人かの村人が見ていた。

それが、生きているシモニの最後の姿になった。

老夫婦は、助かっていた。

シモニが駆けつけるより前に、近所に住む別の親戚の男が二人を背負い、横殴りの雨の中を別の道から、小学校の校舎へ連れ出していたのだ。

シモニは、そのことを知らなかった。

彼は、もう誰もいない、今にも崩れそうな海辺の家を目指して、暗い濁流の中を、一人で引き返してしまったのである。

夜が明けると、風は嘘のように止み、信じられないほど青く澄みきった空が広がっていた。

だが、村は消えていた。

見渡すかぎり、引きちぎられたヤシの木と、ねじ曲がった青いトタン屋根の残骸と、泥にまみれた家財が散らばっているだけだった。

海は茶色く濁り、静まり返った瓦礫のあちこちから、生き残った人々が呆然と這い出してきていた。

シモニの姿は、どこにもなかった。

村の男たちは、すぐに浜やマングローブの茂みを探しはじめた。

けれども、どれほど探しても、彼の手がかりは何一つ見つからなかった。

海にさらわれたのか、泥の下に沈んでしまったのか。

何も分からないまま、嵐のあとの最初の数日が、重い沈黙の中で過ぎていった。

第二章 青いトタンとレグレグ

生き残った者たちの避難生活は、教会の礼拝堂と、援助物資として届いたビニールシートのテントの中で始まった。

政府は非常事態を宣言し、夜の外出を禁じた。

電柱は根元からへし折れ、電線はずたずたに引き裂かれていたので、日が暮れると村は真っ暗な闇に包まれた。

非常用の小さな発電機の音だけが、遠くの暗がりで頼りなく響いていた。

家を失った人々は、泥の中から使えそうな鍋や茶碗を掘り出し、配られた乾パンと缶詰を分け合って命をつないだ。

誰もが疲れきり、胸に深い穴が空いていた。

それでも、死者を悼むための習わしを省くことは、この土地の人々にはできなかった。

シモニの亡骸は見つからなかったが、家族の家のあった場所のすぐ脇に張られた大きなテントで、レグレグと呼ばれる弔問の集まりが開かれた。

近くの村々や親族たちが、瓦礫の道を何時間も歩いて、この村へやってきた。

彼らは、樹皮を打って作ったタパの布や、代々大切に受け継いできたマッコウクジラの歯——タブア——を携えていた。

タブアは、この国でいちばん重い誠意と敬意を示す品で、大事な願いごとや和解、そして死者を送り出すときに欠かせない宝だった。

テントの薄暗い灯りの下で、シモニの母親は、泥に汚れたタパの布を膝に抱いて、声を上げて泣き続けた。

「あの子はまだ寒がっている。あんな冷たい風の中に置いていかれて、どこへ行けばいいのかも分からずにいるんだ」

母親のその悲痛な声を、村の長老たちは、ただうつむいて受け止めるしかなかった。

この土地では、人は死んですぐに、すっかり消えてしまうわけではない、と考えられてきた。

土地と血筋を守る祖先の霊、ヴのように、死者の魂も、しばらくのあいだは、自分が生きていた場所のすぐそばにとどまり、慣れ親しんだ空気の中にいる。

悪意をもって人に取り憑く悪い霊——テヴォロ——とは違い、身内の死者の魂は、恐れるものではなく、ただ愛おしく、痛ましいものだった。

教会の牧師は聖書を開き、魂はもう天の父のふところに抱かれているのだと説いた。神の平安が彼とともにあるようにと祈った。

けれども、百日目の夜に開かれる喪明けの集まり、ボンギ・ドラウを迎えるまでは、家族の悲しみも、村じゅうの張りつめた空気も、ほどけることはなかった。

瓦礫を片づけるきつい仕事と、終わりの見えない喪の時間が、重なり合うようにして過ぎていった。

そして、奇妙な話が村の人々の口から漏れはじめたのは、レグレグが終わって一週間ほどたったころのことだった。

第三章 車座の端の影

最初にそれを見たのは、村の南の端で、小さな木の舟を直していた年配の漁師だった。

夜の外出が禁じられていたので、日が沈みきる前には、誰もがテントや教会へ戻らなければならなかった。

だがその夕暮れ、漁師は、翌朝の引き潮に合わせて舟の底板にタールを塗り直そうと、薄暗くなった浜に一人で残っていた。

風はほとんど止んでいた。凪いだ海から、波が砂を洗うかすかな音だけが聞こえていた。

ふと顔を上げた漁師は、十数メートル先の波打ち際に、誰かが立っているのに気がついた。

背の高い、がっしりとした体の男だった。

着ているシャツは、嵐の夜の泥にまみれたように重く濡れ、肌にぴたりと張りついていた。

男は海に背を向け、壊れた村の残骸を、じっと見つめていたという。

「誰だ」

漁師は思わず声をかけた。

こんな時間に浜にいるのは危ない、早く教会へ戻れ、と言おうとしたのだ。

だが、その背中の輪郭を見てとった瞬間、声が出なくなった。

幅の広い肩、少し右へ傾く立ち姿、縮れた髪を短く刈り込んだ頭の形。

シモニだった。

漁師はその場に立ちすくんだ。

波が一度、寄せては引いた。

瞬きをしたほんの一瞬のあいだに、波打ち際の影は、ふっと消えていた。

濡れた砂の上には、潮が引いたあとの平らな模様が広がっているだけだった。

何日かして、今度は教会の裏手でトタン板を片づけていた若者たちが、同じようなものを見た。

昼下がりの強い日差しの中、瓦礫をトラックに積み込む合間に、若者の一人が一息つこうと、あたりを見回した。

倒れた集会所のすぐ脇に、奇跡的に幹を残したパンノキの木陰があった。

その青黒い日陰の奥に、誰かが座っていた。

若者ははじめ、別の組の誰かが休んでいるのだと思った。

だが、その人は道具も持たず、泥のついた膝を抱えるようにして、黙って若者たちの仕事を見つめていた。

顔は木陰の暗がりに沈んでよく見えなかったが、その引き締まった浅黒い腕と、見覚えのある赤い布の腰巻き——スル——は、まちがいなく、嵐の夜にシモニが身につけていたものだった。

「シモニか?」

若者が思わず隣の仲間の腕を掴み、指をさした。

仲間が振り返ったときには、木陰には誰もいなかった。

生暖かい南風が、パンノキの大きな葉を、がさりと揺らしただけだった。

噂は、あっという間に村じゅうに広がった。

見間違いだと笑い飛ばす者はいなかった。

それどころか、夜の避難所でカヴァを飲んでいた男たちのあいだからも、似たような話が次々に出てきた。

夜中、薄暗いオイルランプの明かりだけが灯るテントで、長老たちが車座になって座っていると、いちばん暗い端の席に、ふと、知らない隙間ができていることがあったという。

誰も座っていないはずのその場所から、海水をたっぷり含んだ布が床に擦れるような、かすかな冷気が漂ってきた。

目を凝らすと、車座の外側の影の中に、濡れた額を伏せた若い男の輪郭が、ぼんやりと浮かんでいた。

「杯を渡そうとしたんだ」

ある長老は、震える声でそう語った。

「タノアからビロを汲んで、その影のほうへ差し出そうとした。だが、手を伸ばしたとたんに、そこには誰もいなくなった。ただ、敷物の草が、そこだけ冷たく湿っていた」

シモニは、誰も脅かさなかった。

大声で叫ぶこともなければ、誰かの手を引いて海へ引きずり込もうとすることもない。

ただ、嵐の前と同じように、村のどこかに現れては、静かにそこにいた。

壊れた家々を見つめ、働く村の人々を見つめ、カヴァの車座の外側に、静かに座っていた。

自分がもうこの世の者ではないことに、まだ気づいていないかのように。

あるいは、自分の戻るべき場所を、瓦礫の中から懸命に探しているかのように。

第四章 祈りと戸惑い

村の人々の受け止め方は、ばらばらだった。

若者たちの中には、夜になるとテントから出るのをひどく怖がる者が出てきた。

外出の禁じられた真っ暗な夜に、路地の曲がり角でシモニに出くわしたら、どうすればいいのか。

死者に出会うと熱を出して寝込む、と言う年寄りもいた。

一方で、シモニの母親や幼い弟妹は、その噂を聞くたびに、胸を締めつけられていた。

「どうして、私の前には出てきてくれないのか」

母親は毎晩のように教会へ通い、祭壇の前に膝をついて泣いた。

「あの子はまだ迷っている。あの嵐の夜、年寄りを助けに行こうとして、結局誰にも会えずに、一人で波に呑まれてしまった。自分が何をしていたのか、どこへ行けばいいのか、今も分からずに、村の中を探し回っているんだ」

母親は夜になると、テントの入り口の垂れ布を、わざと少しだけ開けておいた。

シモニがいつでも入ってこられるように。

彼が好きだった茹でたキャッサバを小さな皿に盛って、枕元に置いた。

けれども、その芋が減ることは、一度もなかった。

教会の牧師は、困っていた。

日曜日の礼拝のたびに、牧師は力をこめて説いた。

「死者は主の平和のうちに眠っている。この世をさまよう影に惑わされてはならない。それは、悲しみが私たちの心に見せる幻にすぎない」と。

だが、説教を終えて礼拝堂の扉を閉めるとき、牧師自身が、祭壇の隅の暗がりを、ちらりと振り返っているのを、村の誰もが見ていた。

聖書の言葉がどれほど正しくても、何百年もこの島で土と海とともに生きてきた人々にとって、祖先の霊や死者の気配は、教えの外側にある、生々しい現実だった。

「あれを、追い払うべきだろうか」

ある夜、長老たちの集まりで、誰かがそう呟いた。

昔のやり方にならって、特別な祈りをして、さまよう霊を土地から遠ざけるべきではないか、という意見だった。

死者がいつまでも村にとどまるのは、生きている者にとっても、死者自身にとってもよくない、と考える者もいたのだ。

だが、エロニはそれを頑として受け入れなかった。

「シモニが何をしたというんだ」と、エロニは静かに言った。「あの子は、村の年寄りを助けようとして死んだんだ。人を恨んで死んだわけでも、悪意を持って戻ってきたわけでもない。

自分の家が壊れ、村が壊れて、ただ帰る場所を探しているだけじゃないか。それを杖で追い払うような真似が、どうしてこの村の長老にできる」

話し合いはそれきり平行線のまま、何の儀式も行われずに、時間だけが過ぎていった。

壊れたトタン板は少しずつ片づけられ、海外から来た支援の人々の手で、仮の住まいの建設が始まっていた。

村は少しずつ、けれど確かに、死の匂いから、生きる営みへと引き戻されつつあった。

そして、嵐からちょうど三週間がたった、ひどく蒸し暑い夜のことだった。

第五章 タノアの前に落ちる雫

その夜、エロニは一人で、集会所代わりのテントに残っていた。

発電機の燃料が底をつき、村じゅうが静けさと真っ暗な闇に沈んでいた。

空には厚い雲が垂れこめ、月も星も見えなかった。

海のほうから、重く湿った南風が吹き抜け、青いビニールシートを、ばたばたと低く鳴らしていた。

エロニは手元の小さなハリケーンランプの芯を少しだけ上げ、敷物の上に座って、翌日の片づけの割り振りを書いたノートを閉じたところだった。

ふと、背筋に冷たいものが走った。

ただの夜風の冷たさではなかった。氷を詰めた布を首筋に押し当てられたような、唐突で鋭い冷たさだった。

まわりの空気が急に重くなり、ランプの小さな炎が、風もないのに細かく震えはじめた。

エロニはゆっくりと顔を上げた。

テントの入り口を塞いでいたはずの布が、音もなく横へめくれ上がっていた。そして、その薄暗い開口部に、影が立っていた。

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