序章 土間の爪痕

ナイルの西岸に沈む夕日は、サトウキビの青い葉の海を、みるみるうちに乾いた赤紫へと染め変える。

東の対岸にそびえる石灰岩の崖が、夕闇の冷気をはらんで白く浮かび上がる頃、日干し煉瓦の村には、家畜の乾いた糞を燃やす煙と、煮豆の重たい匂いが低く漂い始める。

ファーティマが、十歳になる娘ヌールの右腕をつかんで息を呑んだのは、夕食前の薄暗い台所でのことだった。

綿のガラベーヤの袖口をまくり上げると、少女の柔らかな前腕に、赤く腫れた三本の筋が走っていた。

刃物で切った傷ではなかった。

誰かが鋭い爪を立てて、皮膚の表面を浅く、しかし執拗に引っかいたような跡だった。

かさぶたになりかけた傷のまわりには、細かな灰色の粉が、薄くこびりついていた。

「ヌール、これはどうしたの」

ファーティマは声を潜めて問いただした。

「また近所の犬と遊んだの。それとも、水路の藪に入ったの」

少女は怯えたように目を伏せ、小さく首を振った。

「違うよ、母さん。外で遊んでなんかない。……朝、起きたときからあったの」

「寝ているあいだに? 自分で掻いたのね」

「爪じゃないよ」

ヌールは小さく身を震わせ、台所の奥の、固く踏み固められた土間を見つめた。

「夜、夢の中で、誰かが私の腕を引っぱるの。冷たくて、指が長くて、砂みたいな匂いのする手が。……『おまえたちの借りだ』って、耳のすぐ後ろで言われるの」

ファーティマの指先が、冷たくこわばった。

娘の目の先、台所の奥の納屋の床には、まわりよりわずかに色の薄い、四角い土の窪みがあった。

半年前まで、そこには深さ五メートルを超える真っ暗な竪穴が口を開けていた。

夫のタラクとその弟たちが、夜ごとに息を殺して掘り進め、そしてある夜を境に、慌ただしく砂利と粘土で埋め戻した場所だった。

穴は塞いだはずだった。

石と泥で隙間なく埋め、その上を重い杵で何度も突き固めたはずだった。

しかし、その土の表面には、地の底で何かがゆっくりと呼吸を繰り返しているかのように、細かなひびが、蜘蛛の巣のように広がっていた。

足元から、かすかに上がってくるものがあった。

昼間の四十度を超える暑さの名残りではない。

何千年も日の光を浴びずに、冷えた岩の隙間に閉じ込められていた、乾いた古い土の匂いだった。

第一章 ナツメヤシの梁の下で

その家は、タラクの祖父が建てたものだった。

ナイルの肥えた泥に藁を混ぜ、木の型に入れて日に干し固めた泥煉瓦。ナツメヤシの太い幹を何本も渡して梁にし、その上に葦と泥を塗り重ねた平らな屋根。

夏は外の熱を遮り、冬の夜の冷えを和らげるその家は、上エジプトの農民が何世代も繰り返してきた、慎ましく丈夫な住まいの形だった。

だが、この家には、古くから伝わる奇妙な言い伝えがあった。

「この床の下には、古い時代の部屋がある」

タラクが子供だった頃、祖父は夕暮れのお茶をすすりながら、気まぐれのようにそう呟くことがあったという。

「昔の王たちが、自分の身体と宝を隠すために穿った石の部屋が、この土の下の深いところに眠っている。だが、決して触れてはならない。土の下のものには、土の下の番人がついているのだから」

子供のタラクにとって、それはただのおとぎ話だった。

村の男たちはサトウキビの刈り取りに汗を流し、冬になればルクソールのホテルや観光船で働いて、いくらかの金を持って帰ってくる。

古代の遺跡など、自分たちの足元にどこまでも広がるただの石ころであり、外国人の観光客がカメラを向けるための背景にすぎなかった。

ファーティマがこの家に嫁いできたのは、十九の年だった。

隣の村の農家の娘で、読み書きは小学校で習ったぶんしかできなかったが、パンを焼くのと、鶏を太らせるのは誰よりも上手だった。

姑が亡くなってからは、この家の台所と、屋上の鳩小屋と、裏の小さな菜園は、ぜんぶ彼女のものになった。

夫は口数の少ない男だったが、冬の出稼ぎから帰ってくるたびに、ルクソールの市場で買った色つきの髪留めを、ヌールのために一つずつ持ち帰ってきた。

この家で娘を育て、この家で年を取っていくのだと、ファーティマは疑ったことがなかった。

風向きが変わったのは、二〇二〇年の春だった。

新しい病のために国境が閉ざされ、ルクソールの神殿から人影が消えた。

観光で暮らしを立てていた町や村の経済は、音を立てて崩れた。

ホテルは閉まり、土産物屋のシャッターは下りたままになり、タラクが働いていたナイルの小さな観光船の会社も、何の手当てもなく解散した。

三十代半ばのタラクは、何も持たずに村の実家へ戻ってきた。

そこには、同じように仕事を失い、サトウキビ畑の端で一日じゅう水タバコをふかしている二人の弟——サミールとオマルがいた。

男たちは朝から晩まで、泥煉瓦の壁の陰に座り込み、先の見えない暮らしと、日ごとに軽くなっていく小麦粉の袋を眺めていた。

村のあちこちで、ひそひそとした噂が囁かれ始めたのは、その頃だった。

「隣の村の誰それが、羊小屋の下を掘って、青い小さな像を見つけたらしい」

「カイロから買い付けの男たちが夜中に来て、札束を置いていったそうだ」

サトウキビの葉が擦れ合う乾いた音に紛れて、そうした話が、男たちの口から口へ、熱病のように伝わっていった。

エジプトでは、古代の遺物を許しなく掘り出すことは、重い罪に問われる。

しかし、借金と飢えに追いつめられた男たちにとって、国の法はナイルの川風よりも頼りないものだった。

自分の家の、壁に囲まれた部屋の床下を掘るぶんには、誰の目にも触れるはずがない。

「兄貴、祖父さんの話を覚えてるだろう」

ある暑い夜、サミールが納屋の隅で低く囁いた。

「あれは本当だ。昔、水道管を通すために穴を掘ったとき、四メートルくらいのところで、泥煉瓦じゃない、硬い切り石の角が見えたって、親父が死ぬ前に言ってた」

タラクは初め、首を横に振った。

「馬鹿なことを言うな。床が崩れたらどうする。家ごと潰れて、みんな生き埋めになるぞ」

「崩れやしないさ。梁の下を避けて、まっすぐ掘ればいいんだ。……兄貴、このままじゃ子供に食わせるパンも買えなくなる。ヌールに新しい服の一枚も買ってやれないで、何が父親だ」

その言葉が、タラクの最後の歯止めを外した。

男たちは村の金貸しから高い利子で金を借り、スコップと鉄のつるはし、土を引き上げる滑車と麻袋を買いそろえた。

ファーティマは必死に止めたが、男たちの熱に浮かされたような目の前では、ひと言で退けられた。

「おまえは黙って部屋にいればいい」

タラクは冷たく言い捨てると、納屋の木の扉の内側に、外から見えないよう何重にも筵を張りめぐらせた。

第二章 竪穴の息

掘るのは、毎晩、村じゅうが寝静まる午前一時からだった。

発電機の音を立てるわけにはいかないので、明かりは懐中電灯と、梁から吊るした小さな電池式の蛍光灯だけだった。

納屋の床の土が、つるはしの刃先で砕かれる。

ざくっ、ざくっ、という押し殺したような鈍い音が、薄い壁一枚を隔てた寝室まで響いてきた。

ファーティマは暗闇の中で、眠るヌールの耳を手で塞ぎながら、身を固くしてその音を聞いていた。

つるはしが振るわれるたびに、家を支えるナツメヤシの梁が、ぎい、ぎいと小さく鳴るのが分かった。

掘り出した土は麻袋に詰められ、滑車で一つずつ引き上げられた。

土は、家畜小屋の隅や屋上の薪の山の下に、夜明け前にこっそりと隠された。

ある朝、隣の家の女が、屋上越しに声をかけてきた。

「ファーティマ、おたくの屋上、ずいぶん土が増えたわね。何か建て増しでもするの」

ファーティマは洗濯物を干す手を止めずに、鳩小屋の床を直しているのだと答えた。

女は、ふうん、と言って引っ込んだが、その目が、積まれた土の色——下のほうから出てくる、黄色みを帯びた白い土——をじっと見ていたのを、ファーティマは見逃さなかった。

この村で、白い土が何を意味するかを知らない者はいなかった。

一メートル、二メートル、三メートル。

穴が深くなるにつれて、上がってくる土の色が変わっていった。

初めのうちはナイルの運んだ茶色い粘土だったが、四メートルを過ぎたあたりから、細かく砕けた黄白色の石灰岩の粉と、硬い火打ち石のかけらが混じり始めた。

穴の底で掘る男の姿は、もう上からは見えなかった。

滑車の綱を引くサミールが、泥まみれの汗を流しながら、穴の奥に向かって低く怒鳴る。

「兄貴! 何か当たったか!」

穴の底から返ってくる声は、深い井戸の底から響くように、湿ってくぐもっていた。

「まだだ! 硬い層がある! つるはしをもう一本よこせ!」

掘り始めて二週間が過ぎた頃、村に見知らぬ男が現れるようになった。

黒いガラベーヤを羽織り、粗末なターバンを巻いた、遠くの町から来たというシェイフだった。

サミールがひそかに連れてきたその男は、納屋の穴の縁にしゃがみ込み、懐から出した香木を火皿でくゆらせながら、穴の底に向かって何ごとかを低く唱えた。

「ラサドがいる」

煙の中で、シェイフは濁った目を光らせた。

「この下にあるのは、ただの石ではない。宝には、長いあいだ番をしてきたジンが張りついている。このまま無理に掘れば、家が崩れるか、掘った者の血筋に災いが降りかかる」

タラクは息を呑んだ。

「どうすればいい」

「番人を鎮める祈祷をせねばならん。私への礼と、香料の代金として五千ポンド。……それと、月の満ちた夜に、白い雄鶏の血を穴の四隅に注がねばならない」

男たちは疑いもせず、残っていた金をシェイフの懐に押し込んだ。

鶏の首が落とされ、生温かい血が、暗い竪穴の底へ滴っていった。

それを見ていたファーティマの全身に、寒気が走った。

血を地面に注いでジンに捧げるなど、彼女の信じる教えでは、決してしてはならないことのはずだった。

だが、黄金の幻に取り憑かれた男たちの目には、神の教えも、家族の身の安全も、もう映っていなかった。

血を注いでから三日目の夜だった。

地の底から、甲高い、金属が石を叩くような音が響いた。

かん、という、それまでとはまるで違う、硬い音。

ファーティマは寝床を抜け出し、納屋の戸の隙間から中を覗いた。

滑車の綱がぴんと張り詰め、軋んでいた。

穴の底から引き上げられてきたのは、土の麻袋ではなかった。

厚い布で何重にもくるまれた、細長い、大人の胴ほどの大きさのものだった。

布の隙間から、青緑色の錆を帯びた金属の光と、黒く炭になった木のかけらが、一瞬だけ覗いた。

長いあいだ閉じ込められて乾ききった、甘ったるく鼻を突く匂いが、納屋いっぱいに広がった。

タラクと弟たちは、それを取り囲み、膝をついて震えていた。

喜びの声はなかった。

あまりの恐ろしさと昂ぶりに、男たちの喉はふさがり、浅い息の音だけが、蛍光灯の下に漏れていた。

第三章 埋め戻し

それがどこへ運ばれ、誰の手に渡ったのか、ファーティマは最後まで知らされなかった。

二日後の深夜、村の舗装されていない道に、ヘッドライトを消した一台の四輪駆動車が音もなく入ってきた。

降りてきた仕立てのいい服の男たちが、納屋から運び出された木箱を荷台に積み込んだ。

タラクの手には、輪ゴムで束ねた分厚い札束が渡された。

だが、大金を手にしたはずの家族の暮らしは、よくなるどころか、崩れ始めた。

翌朝から、兄弟のあいだで、取り分をめぐる醜い争いが始まった。

「穴に潜っていちばん危ない思いをしたのは俺だ」とタラクが言えば、サミールは「シェイフを連れてきて、買い手を見つけたのは俺だ」と怒鳴り返した。

オマルは自分の分が少ないと怒り、納屋のつるはしを振り上げて兄たちを脅した。

同じ屋根の下で肩を寄せ合って暮らしてきた兄弟の顔から、血のつながりの情が消えていった。

やがてサミールとオマルは、自分の分け前を懐にねじ込むと、二度と実家に寄りつかなくなった。

タラクの手元に残った金も、何の役にも立たなかった。

村の外れにコンクリートの新しい家を建てようと、業者に前払いで資材を頼んだが、柱が四本立ったところで、業者は金を持って姿をくらました。

警察に駆け込むこともできなかった。金の出どころを聞かれれば、自分が牢に入ることになるからだ。

村の外れには、屋根のない四本の柱だけが、錆びた鉄筋を空に突き出したまま残った。

そして何より恐ろしい変化は、タラク自身に起きていた。

掘るのをやめた頃から、彼の目はひどく落ちくぼみ、肌は乾いた土のように黒ずんでいった。

夜になると部屋の隅に座り込み、ぶつぶつと独り言を繰り返した。

「まだある」「呼んでいる」「下で待っている」

そう呟きながら、自分の爪で首筋や胸を掻きむしった。

恐ろしさに耐えかねたタラクは、ある夜、近所の親戚に頼み込んで、荷車何台分もの砂利と泥を運び込ませた。

そして、あの竪穴を、ひと晩のうちに埋め戻させた。

「埋めろ! 全部埋めてしまえ!」

タラクは叫びながら、自分でもシャベルを振るって土を投げ込んだ。

穴が地面と同じ高さまで埋まったとき、タラクはシャベルを取り落とし、泥の上に座り込んだ。

「これで、下には何も埋まっていない」

彼は荒い息の合間に、何度もそう繰り返した。

「何も埋まっていない。何もなかったんだ」

次の週、タラクは姿を消した。

着替えも持たず、残っていたわずかな金だけをポケットに突っ込んで、ナイルの上流へ向かう乗り合いのバスに乗り込むのを、村の者が見たのが最後だった。

妻のファーティマにも、娘のヌールにも、別れの言葉ひとつ残さなかった。

残されたのは、泥煉瓦の古い家と、母と娘の二人だけだった。

村の親戚たちは、まるで病を避けるように、ファーティマたちの家に近づかなくなった。

「あの家は、ファラオの呪いを受けたんだよ」

水路の洗い場で、女たちが声を潜めて囁き合っていた。

ファーティマはその言葉を、ただの迷信だと思おうとした。

その頃、台所の古いラジオが、ときどき同じような知らせを伝えていた。

どこそこの県で、家の床下を掘っていた男たちの上に家が崩れ落ち、何人かが亡くなった。どこそこの村で、地下室の深い穴が見つかり、家の主が捕まった。

ファーティマは、そのたびにラジオの音を小さくした。

ヌールに聞かせたくなかったのか、自分が聞きたくなかったのか、分からなかった。

夫がおかしくなったのは、急に手にした大金と、弟たちの裏切りに心が耐えられなかったからだ。すべては人の欲と弱さが引き起こしたことにすぎない。

女たちに何か聞かれるたびに、ファーティマは夫の言葉をなぞるように答えた。

「うちの下には、何も埋まっていないのよ」

そう自分に言い聞かせながら、彼女はサトウキビ畑の日雇い仕事に出て、娘と二人、どうにか食いつないでいた。

だが、あの夜が来た。

埋め戻してから半年が過ぎた、二〇二一年の夏の夜だった。

第四章 床下の響き

その夏は、夜になっても暑さが引かなかった。

泥煉瓦の壁は、昼間に吸い込んだ熱を、かまどのように部屋の中へ吐き出し続けていた。

ファーティマは、居間の薄い筵の上に横になっていた。

隣では、ヌールが寝苦しそうに寝返りを打っている。

外からは、夜風がサトウキビの硬い葉を擦り合わせる、さわさわという乾いた音だけが聞こえていた。

ふいに、その音が止んだ。

風が止んだのではなかった。

家を包んでいた熱気の中に、氷の刃を差し込まれたような、鋭い冷たさがすっと忍び込んできたのだ。

とすん。

鈍く、重い音がした。

足元からだった。

筵を敷いた土間の下、何メートルも深い地の中から、何かが石の壁にぶつかったような響きが、背骨を通って、頭の芯まで伝わってきた。

ファーティマは息を殺して、身を起こした。

とすん、とすん、とすん。

規則正しい音だった。

地の底の空洞の中から、誰かが頭の上の土を押し上げようとして、拳を突き上げているような響きだった。

「……誰」

乾いた唇の隙間から、かすかな声が漏れた。

返事はなかった。

だが、隣で眠っていたヌールが、苦しげに喉を鳴らした。

「……やめて」

少女の寝言だった。

「引っぱらないで。そこは暗いよ。息ができないよ」

ファーティマは震える手で、枕元の古い灯油ランプに火を入れた。

小さな橙色の炎が、泥煉瓦の壁に揺れる影を投げかける。

ランプを掲げて、ファーティマは納屋の戸を開けた。

納屋の空気は、居間とはまるで違っていた。

吐く息が白くなるのではないかと思うほどの、凍えるような冷たさ。

そして、あの埋め戻した土間の四角い窪みが、ランプの光の中に浮かび上がった。

ファーティマは目を見開いた。

土が、動いていた。

埋め戻したはずの砂利と泥の層が、煮え立つ泥湯のように、細かく、絶え間なく震えていた。

その真ん中が、すり鉢の形に、ゆっくりと、確かに沈み込み始めていた。

下にあるはずのない空洞が、上から流し込まれた何トンもの土砂を、時間をかけて呑み込んでいくかのように。

「ああ……」

窪みの真ん中に、小さな裂け目が走っていた。

その裂け目から、冷たい空気とともに、あの夜と同じ、長い時を経て乾ききった古い布と油の、胸の悪くなるような甘い匂いが吹き出していた。

ファーティマは、ランプを裂け目の上にかざした。

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