序章 白い衣の一行
二〇一五年の三月、サンパウロ州の内陸は、雨季の終わりに特有の、湿った重たい暑さに包まれていた。
サンパウロ市から高速道路を西へ四時間ほど走ったところにあるその町は、見渡すかぎりのオレンジ畑と、背丈を超えるサトウキビ畑の海の中に、島のように取り残された小さな町だった。
幹線道路を外れると、舗装されていない道には赤土の深い轍が刻まれ、大きなトラックが通り過ぎるたびに、鉄分を含んだ褐色の土埃が、平屋の白い壁を赤く汚していった。
朝の八時を回ったばかりの住宅街を、四人の男女が並んで歩いていた。
先頭を行くのは、日に焼けた初老の男、パイ・アデマールだった。
その後ろに、白い木綿のシャツと長いスカートをまとった二人の女性の霊媒が続き、いちばん後ろを、当時十九歳だったルシアナが、重たい編み籠を両手で抱えてついていった。
籠の中には、朝露に濡れたギネーやアフーダ(ヘンルーダ)の青い束、白く太い蝋燭、素焼きの小皿、粗塩、そして煙を立てるための、炭を入れる小さな手提げの香炉が入っていた。
ルシアナは、町外れのトウモロコシ畑の脇にあるウンバンダのテヘイロで、霊媒たちの世話や儀礼の支度を手伝う「カンボーナ」を務めて二年になる娘だった。
ふだんのテヘイロの集まりなら、床に白い砂が撒かれ、アタバキと呼ばれる太鼓の響きに合わせて「ポント」の歌が歌われ、霊媒たちの身体に、先住民の霊とされるカボクロや、年老いた黒人の霊とされるプレト・ヴェーリョが降りてくる。
だが、その朝の訪問は、祝祭のような集まりとはまるで違う、沈んだ、冷えた空気をまとっていた。
「ルシアナ、足元に気をつけなさい」
パイ・アデマールが、振り返らずに、低く穏やかな声で言った。
「門をくぐったら、余計なことは言わないように。誰が何を言おうと、祈りを切らさず、炭の火を絶やさないことだけを考えなさい。この家に入り込んでいるものは、家族の不和の匂いを嗅ぎつけて根を下ろしている」
行き先は、四角いコンクリートブロックの塀に囲まれた、緑色のトタン屋根の平屋だった。
鉄格子の門の前に、擦り切れたポロシャツを着た五十代の男が、憔悴しきった顔で立っていた。
この家の主、ジョゼだった。
何年か前まで、近くのオレンジジュースの工場で働いていたが、前の年からの不況で人員を減らされ、いまは廃品回収や日雇いの取り壊し仕事で食いつないでいた。
ジョゼはパイ・アデマールの姿を見るなり、崩れるように頭を下げ、節くれだった両手でパイの手を握りしめた。
「来てくださって……本当にありがとうございます」
ジョゼの声はかすれ、唇は寒さでもないのに細かく震えていた。
「家内はいま、奥の寝室で横になっています。……ゆうべのことがあってから、ひと言も口をきいてくれません。私の顔を見ようともしないんです」
パイ・アデマールは黙ってジョゼの肩に手を置き、静かに首を振った。
「話はあとだ、ジョゼ。まずは、家の中の重たいものを外へ出さなければならない。……ルシアナ、香炉に火を」
鉄の門が、ぎい、と鈍い音を立てて開いた。
敷地に一歩入った瞬間、ルシアナの喉の奥に、湿った粘土と、何かが焦げついたような、生温かい匂いが張りついた。
強い日差しが庭のパパイヤの木を照りつけているというのに、肌を撫でていく空気だけが、氷室の隙間から漏れ出すような、奇妙な冷たさを帯びていた。
第一章 ほどけていく糸
その借家で一家の暮らしが狂い始めたのは、二〇一四年の暮れのことだった。
ジョゼが工場をやめさせられ、暮らしが急に苦しくなったのと同じ頃から、家の中に、説明のつかない嫌な気配が溜まり始めたという。
家族は四人だった。
長年連れ添った妻のエジナ、縫製工場でパートとして働く二十代の長女カミラ、そして夜間の職業訓練校に通う十九歳の長男パウロ。
カトリックとして育ちながらも、困ったときにはテヘイロで身を清めるパッセを受け、守護霊に祈る。この内陸の町ではごくありふれた、穏やかで仲のいい家族のはずだった。
だが、失業から何か月か経った頃から、家の中で妙な物音が続くようになった。
夜中、誰もいないはずの狭い廊下で、乾いたトウモロコシの皮を引きずるような、かさかさという音がする。
台所の棚にきちんと並べてあった皿が、朝になると一枚だけ床に落ちて割れている。
飼っていた二匹の雑種の犬が、夜十時を過ぎると決まって裏庭の奥の物置小屋のほうを睨んで唸り、怯えて、敷居をまたいで外へ出ようとしなくなった。
それよりも深刻だったのは、家族のあいだに生まれた、わけのわからない不和だった。
ふだんは声を荒らげることなどなかったジョゼが、フェイジョンの塩加減や新聞の置き場所のような、ささいなことで妻に怒鳴るようになった。
エジナもまた、夫の意気地のなさを激しく責め、居間に長年大切に飾ってきた聖母マリアの小さな像を床に投げつけようとして、娘に止められた。
子どもたちも家に寄りつかなくなり、夜遅くまで広場で時間をつぶしてから、寝るためだけに暗い部屋へ滑り込むようになった。
「まるで、誰かが部屋の隅から、私たちの耳に毒を注ぎ込んでいるみたいでした」
のちに、長女のカミラはルシアナにそう話した。
「母は、ウンバンダで言う『コルポ・アベルト』——霊の影響を受けやすい体質でした。でも、テヘイロに通っているあいだは、ちゃんと守られていたはずなんです。それが……あの家に越してきて一年くらい経った頃から、母は、自分の気持ちをすっかり失くしてしまったように見えました」
二〇一五年の二月に入る頃には、両親のあいだで、別れるという言葉がはっきりと飛び交うようになっていた。
三十年近く連れ添い、貧しいながら支え合ってきた夫婦の絆が、目に見えない刃物で、少しずつ切り裂かれていくようだった。
ジョゼはときどき、夜中に一人で食卓に突っ伏して泣いていた。
なぜこれほど妻を憎んでしまうのか。妻の顔を見るだけで、なぜ胸の奥から黒い怒りが噴き出してくるのか。自分でも、まるで説明がつかなかった。
そして、あの夜が来た。
三月最初の金曜日の深夜、家の中のすべての釣り合いが、音を立てて崩れた。
第二章 別人の声
その夜、激しい雷雨が町を通り過ぎたあと、住宅街は深い静けさに沈んでいた。
午前一時を回っていた。
寝室で眠っていたジョゼは、耳元をかすめた異様な気配に跳ね起きた。
裏庭で鎖につながれていた二匹の犬が、突然けたたましく吠え始めたのだ。
威嚇の声ではなかった。追いつめられた獣が上げるような、哀れで切羽詰まった叫びだった。
同時に、屋根裏の梁の上を、何十匹ものネズミがいっせいに駆け抜けるような、ばりばりという音が頭の上を走った。
ジョゼが枕元のスタンドをつけると、隣のシーツの上に、妻のエジナが座っていた。
寝間着のままベッドの上に膝をそろえて座り、両手を不自然に曲げて胸の前に引きつけ、首を右の肩のほうへ、ありえない角度に傾けていた。
目は見開かれていたが、黒目は上を向き、白目が充血して濁っていた。
「エジナ……?」
震える手で妻の肩に触れようとした瞬間、エジナの口から、低く重たい息が漏れた。
五十代の痩せた女の喉から出る声ではなかった。何十年も煙草と泥水を吸い込んできた大柄な男のような、かすれて濁った、腹の底から響く声だった。
「触るな」
エジナの唇は、ほとんど動いていなかった。
それなのに、その声は部屋の四方の壁を震わせるように響いた。
「この女は、連れていく。おまえたちのところに置いておく筋合いはない」
叫び声を聞きつけて、長男のパウロと長女のカミラが寝室のドアを押し開けた。
二人が見たのは、ベッドの真ん中で、骨が軋むような姿勢のまま、宙を睨みつけている母親の姿だった。
エジナの身体から、冷たい空気が立ちのぼっていた。
部屋の隅のプラスチックの扇風機の羽根が、スイッチも入っていないのに、かたかたと逆向きに回り始めていた。
「母さん! しっかりして!」
パウロが駆け寄ろうとしたが、ジョゼが腕を広げて止めた。
そのとき、ジョゼの顔から、この何か月か彼を支配していた苛立ちや混乱が、すっかり消えていた。
貧しい家を支え、いくつもの苦しい時期を乗り越えてきた男の、揺るがない落ち着きが、その目に戻っていた。
ジョゼは首から下げていた、青と白のガラスのビーズを連ねた首飾り——ウンバンダの守りの「ギア」を、右手で握りしめた。
そしてベッドの前に静かに膝をつき、両手を胸の前で組んだ。
「パウロ、カミラ。後ろに下がりなさい」
驚くほど静かで、平らな声だった。
「母さんを見てはいけない。怒鳴ってもいけない。ただ、心の中で主の祈りを唱えなさい。聖母さまと、私たちを見守ってくださる方々に、光を届けてくださるよう願い続けるんだ」
エジナの身体が激しく引きつった。
取り憑いたものは、ジョゼの落ち着きに苛立ったように、唾を飛ばして嘲笑った。
「無駄だ、無駄だ! 祈りなど届かん! この家はもう腐っている! 俺をここへ寄こした奴の望みどおりにな!」
細い指が鉤爪のように曲がり、シーツを力まかせに引き裂いた。
布の裂ける乾いた音が、寝室に響いた。
だが、ジョゼは目を閉じ、低く、同じ調子で祈りの言葉を紡ぎ続けた。
パウロとカミラも、涙を流しながら父の背中に手を当て、震える唇で祈りを重ねた。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
遠くの教会の時計が四時を打った頃、エジナの身体から、ふっと力が抜けた。
糸の切れた操り人形のように、彼女は前のめりにシーツの上へ崩れ落ち、深い眠りに沈んでいった。
部屋の冷たさは引いていたが、壁には、焦げた獣の脂のような生臭い匂いが、べっとりと残っていた。
夜が明けると同時に、ジョゼは自転車に飛び乗って、町外れのテヘイロへ駆け込んだのだった。
第三章 香炉の煙
「さあ、始めましょう」
パイ・アデマールの合図で、家の清めが始まった。
ルシアナは炭の熾きた香炉に、乾かしたギネーの葉と、乳香の黄色い樹脂のかけらを落とした。
じゅっ、というかすかな音とともに、白く甘い煙が立ちのぼった。
それは、鼻の奥にこびりついていたあの嫌な匂いを、端から白く塗り替えていく、澄んだ煙だった。
パイ・アデマールは、アフーダの青い小枝の束を、粗塩を溶かした鉢の水に浸した。
そして玄関の軒先から順に、天井の四隅と、床の縁に向けて、水を振り撒いていった。
ぱしゅっ、ぱしゅっ、と、水の粒が赤茶色のタイルを打つ。
「サラヴァ、わが父なるカボクロ。サラヴァ、清き道を開くすべての方々よ」
パイ・アデマールが、歌うように祈りの言葉を唱える。
二人の女性の霊媒は、白い木綿の布を両手に持ち、壁を撫でるようにして、目に見えない埃を払う仕草を繰り返しながら進んでいく。
派手な呪文も、激しい身振りもなかった。
何十年も畑の草を刈り、作物を育ててきた農夫が、荒れた土地を丁寧に耕し直すような、地道な手仕事の連なりだった。
一行は、狭い廊下を奥へ進んだ。
子どもたちの部屋、浴室、台所。
部屋に入るたびに、パイ・アデマールは足を止め、目を閉じて、空気の重さを確かめた。
台所に入ったとき、パイの眉がわずかに寄った。
「ルシアナ、床の角に塩を盛りなさい」
言われたとおり、ルシアナは素焼きの皿に盛った粗塩を、プロパンガスのボンベの陰の薄暗い角に置いた。
その瞬間、ぴしっ、とタイルの目地から小さな乾いた音がして、香炉の煙がその角へ吸い込まれるように渦を巻いた。
家の中に潜んでいた重たいものが、煙と祈りに追われて、奥へ、奥へと追いつめられていくのが、ルシアナの肌にもはっきりと感じられた。
最後にたどり着いたのが、奥の寝室だった。
ベッドには、毛布を胸まで引き上げたエジナが、青ざめた顔で横たわっていた。
意識は戻っていたが、ひどく力が抜け、怯えてもいて、身動きひとつできずに、部屋に入ってきた一行を潤んだ目で見つめていた。
ゆうべの名残りは、そのまま残っていた。
引き裂かれたシーツの端、壁の黒ずんだ染み、部屋の隅に落ちていた、エジナ自身の髪の毛の束。
パイ・アデマールはベッドの脇に歩み寄り、枕元に腰を下ろした。
老いた霊媒の褐色の手が、汗に濡れたエジナの額に、そっと触れた。
「エジナ、もう大丈夫だ」
父親が幼い娘を寝かしつけるときのような、優しい声だった。
「あなたの身体は、あなたのものだ。怖がらなくていい。重荷は、私たちが森と海へ運んでいく」
パイ・アデマールは立ち上がると、アフーダの枝で、エジナの頭の上から足の先へ向けて、三度、大きく払い下ろした。
パッセ——ウンバンダの清めの所作だった。
風がエジナの全身を通り抜けたとき、彼女の喉から、ひゅう、と細いため息が漏れた。
強張っていた肩が、目に見えてゆるんでいった。
エジナの目から濁った光が消え、澄んだ、けれど深い疲れをたたえた涙が、こめかみを伝ってシーツにこぼれた。
「……パイ」
エジナが掠れた声で囁いた。
「私、ずっと暗い泥の中に沈んでいたの。誰かが私の足を引っぱって……深い穴の中へ連れていこうとしていた」
「分かっている」
パイ・アデマールは静かに頷いた。
「だが、あなたを縛っていたものは、この部屋の中にあるのではない。根は、外にある」
パイ・アデマールは踵を返し、寝室の奥の、裏庭へ出る勝手口の鉄の扉を指さした。
「外へ出よう。この家に持ち込まれたものを、掘り起こさなければならない」
第四章 裏庭の赤土
裏庭は、十メートル四方ほどの、雑草の生い茂る赤土の空き地だった。
奥にはトタン板で囲った粗末な物置小屋があり、その脇に、錆びた洗濯機と、コンクリートの洗い場が置かれていた。
塀のすぐ向こうでは、隣の家のパパイヤの木が大きな葉を伸ばし、地面にまだらな影を落としていた。
鎖につながれた二匹の犬は、一行が出てくると、鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら、物置小屋の足元に向かってしきりに鼻を鳴らした。
ゆうべのような怯えた吠え方ではなかった。自分たちを脅かしていたものの在りかを、主人の仲間に知らせようとするような、しつこい仕草だった。
パイ・アデマールは、物置小屋の裏の、日当たりが悪くいつも湿っている赤土の前に立った。
そこには、枯れたバナナの葉と、切った木の枝が、無造作に積み上げられていた。
パイは木の杖で、その枯れ葉の山を払いのけた。
土が現れた。
まわりの乾いた赤土と違って、その畳半分ほどの場所だけ、土の色が不自然に黒ずんでいた。
何かの油を吸い込んだような、湿ってねっとりとした土だった。
パイ・アデマールはジョゼを振り返った。
「ジョゼ、シャベルを持ってきなさい。深く掘る必要はない。三十センチも掘れば十分だ」
ジョゼは物置から古い角シャベルを持ち出し、震える手で、黒ずんだ土に刃先を突き立てた。
さくっ、と、湿った土の切れる音がした。
二度、三度と土を掘り返していくと、掘り出した土の塊から、台所で嗅いだのと同じ、腐ったような匂いと、古い酒の匂いが立ちのぼってきた。
四度目にシャベルを入れたとき、硬いものに当たった。
がつん、という鈍い手応え。
石ではなかった。
ジョゼはシャベルを放り出し、泥の中に両手を突っ込んだ。
泥をかき分けると、黒い布で何重にも固く縛られた、大人の両手ほどの大きさの包みが現れた。
「……何だ、これは」
ジョゼの声が裏返った。
布は長い湿気で半ば腐り、泥と黴に覆われていたが、それを縛っているのは太い黒い綿の糸だった。
パイ・アデマールはルシアナを手招きした。
「ルシアナ、そのまわりに粗塩を撒きなさい。素手で触れてはいけない」
ルシアナは震える手で籠から粗塩をつかみ、黒い包みのまわりに、円を描くように撒いた。
パイ・アデマールは腰からナイフを抜き、刃先で、布の結び目を一つずつ慎重に切っていった。
腐りかけた布が、ぱらぱらと剥がれ落ちていく。
本文の約77%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。