序章 熱帯の白い血
タイ南部のマレー半島を縦断する国道四一号線を南下し、スラートターニーを過ぎてナコーンシータンマラート県に入ると、車窓の風景は緩やかに、しかし決定的にその表情を変える。中央平野部のどこまでも平坦な水田地帯は消え去り、視界を塞ぐのは、濃密な熱帯雨林を抱くカオ・ルアン山脈の急峻な連峰と、その山麓を埋め尽くす果てしないゴム園の海である。
この地方の集落が本当の一日を始めるのは、太陽が昇る朝ではない。草木も眠る午前一時から二時にかけての、夜の底である。
ゴムノキ(トン・ヤーンパラ)から良質な天然ゴムの樹液を採取するためには、大気の温度が最も下がり、樹液の流出圧力が最高潮に達する深夜から未明にかけて作業を行わなければならない。男も女も、額に強力なヘッドライトを巻き、腰に蚊取り線香の缶をぶら下げ、鳥の嘴のように鋭く曲がった専用の刃物——ミート・ギート・ヤーンを握りしめて、漆黒のゴム林へと一人きりで分け入っていく。
整然と何千本、何万本と等間隔で植えられたゴムの木々は、夜になると、視界のすべてを同じ風景で塗り込める巨大な幾何学の迷宮へと変貌する。ヘッドライトの細い光条の外側には、墨を流したような完全な暗黒が広がり、足元には湿った泥と、腐敗した落葉の分厚い層が沈んでいる。
タイの大手インターネット掲示板群のオカルト系掲示板において、「実体験(プラソプカーン・チン)」という言葉で検索した際、バンコクの安アパートや高速道路の怪談と並んで、ひときわ異様な質感を持って語り継がれているのが、この南部ゴム園の深夜労働(ギート・ヤーン)にまつわる手記群である。
自分のヘッドライトの光の届かない隣の列から、規則正しく聞こえてくる樹皮を削る音。
真っ白な樹液を受け止めるはずのココナッツ殻の中に溜まる、赤黒い生温かい液体。
そして、木々の隙間を音もなく舞い踊る、関節の逆さまに折れ曲がった金色の影。
それらは、単なる夜間労働の過労が見せる幻覚ではない。かつて豊かな熱帯雨林であった山肌を切り拓き、単一の換金作物の樹海へと塗り替えていった人間たちの足元に、今なお息づく古代スリヴィジャヤの呪術と、タイ南部に深く根を張る伝統舞踊劇ノラーの祖霊たちが放つ、強烈な報復の息吹であった。
第一章 真夜中のヘッドライト
ウィワット・セーリポンが額に巻いたヘッドライトのスイッチを入れたのは、午前一時四十分のことだった。
カチリ、という硬い電子音とともに、白く冷たいLEDの光条が前方の闇を一直線に切り裂いた。光の輪の中に浮かび上がったのは、均等な間隔で立ち並ぶ、灰褐色のゴムの木の幹だった。樹皮には斜めに幾重もの古い切り込みが走り、傷口から流れ出たゴムの残骸が、まるで乾いた傷口の瘡蓋のように白くこびりついていた。
バンコクの旅行代理店で中国人ツアー客向けの案内業務をしていた三十歳のウィワットは、二〇二〇年代初頭の度重なる観光不況によって職を失い、家賃の滞納とクレジットカードの返済に追い詰められた末、父の故郷であるナコーンシータンマラート県ランスカ郡の山あいの村へと転がり込んできた。
彼を迎え入れたのは、亡き父の弟である叔父のサニットだった。六十歳になるサニットは、生涯をこのカオ・ルアン山麓のゴム園で過ごしてきた無口な男で、ウィワットの事情を聞くと、何も詮索せずに古い木造の高床式家屋の離れを提供し、一本の曲がり刃のナイフを手渡した。
「生きるためだ。樹液を削る技術さえ覚えれば、この山にいる限り飢え死にすることはない」
そう言ってサニットが教え込んだゴム採取の工程は、見た目以上に過酷で、神経をすり減らす職人技だった。
ゴムの木の外皮を、ミート・ギート・ヤーンと呼ばれる鳥の嘴のように湾曲した鋭利な刃物で、厚さわずか一ミリほどの薄さで斜め三十度の角度をつけて削り落とす。深すぎれば木の内側の形成層を傷つけて木を枯らしてしまい、浅すぎれば樹液の通る師管に届かず白い乳液は滲み出さない。一本の木を削るのに許される時間は十秒足らず。
それを一晩で五百本から六百本、暗黒の中で繰り返すのだ。
「いいか、ウィワット」
作業初日の夜、サニットは甥の目を真っ直ぐに見据えて、三つの厳格な掟を言い渡していた。
「一つ、作業中にヘッドライトの光を木の上、枝の茂みに向けてはならない。木の上には、見てはならないものがいる。二つ、自分の割り当てられた列以外の場所から樹皮を削る音が聞こえても、絶対に声をかけたり、見に行ったりしてはならない。
そして三つ——」
サニットは南側の谷底へ向かって下っていく斜面を指差した。
「谷の突き当たり、古井戸の跡がある第七区画には、絶対に足を踏み入れるな。あそこは昔、お前の祖母がノラーの道具を埋めた場所だ。あそこにある木は、決して削ってはならない」
作業が始まると、周囲の音は急速に消え失せていった。聞こえるのは、自らの荒い呼吸音と、足元で濡れたゴムの落葉を踏み砕くグチャリとした泥の音、そしてナイフの刃が樹皮を滑らかに削ぎ落とす、サクッ、サクッ、という乾いた摩擦音だけだった。
切り口の先端から、ミルクのように濃密で純白の液体が、一滴、また一滴と滲み出し、木肌に取り付けられた小さなブリキの雨樋を伝って、下部に固定されたココナッツの殻へとポタポタと滴り落ち始める。熱帯特有のまとわりつくような夜露と、生ゴムの放つツンとした酸っぱい発酵臭が、鼻腔を満たしていた。
最初の数日間、ウィワットは筋肉痛と睡眠不足で半狂乱になりながら、ただサニットの背中を追うように作業をこなした。しかし一週間が過ぎる頃には、手首の返し方ひとつで樹皮が滑らかに剥がれ落ちる感覚を掴み始め、暗闇の静寂の中に奇妙な没入感を覚えるようになっていた。
異変が起きたのは、十一月の新月の夜のことだった。
第二章 並行する削皮音
午前二時半を回った頃、カオ・ルアンの山頂から吹き下ろしてきた冷たい突風が、ゴム林の葉を激しくざわめかせた。
気温が急激に低下していた。薄手の作業シャツを通して、湿り気を含んだ山の冷気が皮膚を粟立たせる。
ウィワットはその夜、第四区画の作業を担当していた。サニットは反対側の斜面、二百メートル以上離れた第一区画に入っているはずだった。二人の間には何列もの広大な樹木が立ち並び、互いのヘッドライトの光すら見えない距離だった。
ウィワットは四十二本目の木の前に屈み込み、ナイフの切先を樹皮に当てた。
サクッ、サクッ、スッ。
手慣れたリズムでナイフを引き抜く。白い樹液が筋となって流れ出汁、ココナッツ殻の底にポタリと落ちた。彼が立ち上がり、隣の木へと歩み出そうとした、その瞬間だった。
サクッ、サクッ、スッ。
まったく同じ音が、右手の暗闇から響いた。
ウィワットの足が止まった。
音の発生源は、隣の第五区画だった。距離にしてわずか十メートルほど。規則正しい、熟練した手つきでゴムの樹皮を削り落とす刃物の音。
(サニット叔父さんか?)
しかし、叔父がこんな短時間で反対側の山から戻ってこられるはずがなかった。それに、叔父の削るリズムはもっと重く、独特の溜めがある。今聞こえた音は、驚くほど軽快で、まるで刃先が木肌の上を踊るように滑っているかのようだった。
サクッ、サクッ、スッ……ポタリ。
音が止まり、続いて、乾いた金属が擦れ合う微小な音が夜気に混ざった。
チャリン、チリン。
鈴の音だった。牛や水牛の首につけるような鈍い真鍮の鈴ではない。もっと細く、澄んだ、神社の鈴や儀礼の装飾具が触れ合うような微細な金属音。
ウィワットは息を殺し、右側の暗闇へと顔を向けた。ヘッドライトの光が、整然と並ぶゴムの木の幹を照らし出す。光の先、二列隣の木の影に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がっていた。
人影だった。
しかし、その人物はヘッドライトを着けていなかった。完全な暗黒の中、照明も持たずにゴムの木の前に立ち、両手を幹に押し当てていた。身に纏っているのは、作業着ではなかった。
赤と黄色の原色に染め抜かれた、無数のビーズとスパンコールが散りばめられた布地。肩から胸にかけて、幾重にも連なる真鍮の鎖が下がり、それが動くたびに、チリン、チリンと微小な音を立てていた。
そして、その両手の指先だった。
幹に触れている指先には、十本すべてに、金色に鈍く光る細長い爪が装着されていた。長さ十センチ以上もある、鳥の爪のように極端に反り返った真鍮の付け爪——ノラーの踊り子が舞台で身につける、あのレップ(舞踊爪)だった。
その鋭利な爪先が、刃物のようにゴムの樹皮へと突き立てられ、肉を裂くようにして、下へ向かってスーッと引き下ろされていた。
樹皮がめくれる、バリバリという生々しい音。剥ぎ取られた幹の傷口から、白い液体ではなく、赤黒いドロリとしたものが、滝のように幹を伝い落ちていた。
ウィワットの喉がカラカラに渇いた。足が泥に縫い付けられたように動かない。
人影が、ゆっくりと首を回した。首の関節が、まるで乾いた竹をへし折るような、パキパキという硬い音を立てていた。
頭上には、金属で作られた高く尖った黄金の冠——トゥート・ノラーが載せられていた。冠の周囲に垂れ下がった無数のガラス玉が、ヘッドライトの光を浴びて乱反射する。その冠の影の下にある顔。
顔面の皮膚は完全に削ぎ落とされ、赤茶色の筋肉の繊維と、剥き出しになった白い頭蓋骨の顎骨が露出していた。眼球のない二つの暗い洞穴が、ヘッドライトの光の直線上にあるウィワットの目を、正確に捉えていた。
唇のない歯列が、カチカチと打ち合わされた。
『……帰ってきたのかい……』
その声は、耳から入ってきたのではなかった。ウィワットの後頭部の骨の芯を、直接冷たい指先で引っ掻かれたような、湿った老婆の声だった。
『……血を……継ぐ者が……帰ってきたのかい……』
人影の足首につけられた無数の鈴(プロン)が、ジャラジャラと激しく鳴り響いた。その影が、地面に足をつけることなく、重力を無視した優雅な舞踏の所作を保ったまま、一瞬にして二メートル、四メートルと、ウィワットの間近へと滑り寄ってきた。
「うわああああっ!」
ウィワットの喉から悲鳴が弾け飛んだ。彼はナイフを取り落とし、泥だらけの地面を転がるようにして背後へ逃げ出した。枝が顔を打ち、棘のある雑草が服を引き裂いたが、振り返る余裕など微塵もなかった。
第三章 ココナッツ殻の濁水
夜明けの光が、カオ・ルアンの山並みを白く縁取り始めた午前六時、ウィワットは高床式家屋の階段の下で、泥まみれのままガタガタと震えていた。
手首や首筋には、転倒した際についた無数の擦り傷があり、衣服は冷たい夜露と泥でぐっしょりと重くなっていた。
やがて、荷台にプラスチックの大型タンクを積んだサニットの耕運機が、ポンポンと黒煙を吐きながら戻ってきた。
サニットは荷台から降りると、ウィワットの異様な姿を一瞥し、眉間に深い皺を刻んだ。
「ナイフはどうした」
「……落としました。あそこに……誰かがいたんです」
ウィワットは掠れた声で、昨夜目にしたものを途切れ途切れに話した。暗闇で木を削る音。原色の衣装と黄金の冠。真鍮の長い爪で樹皮を引き裂いていた、皮膚のない老婆の影。
サニットは煙草を取り出し、マッチを擦った。立ち上る紫色の煙の向こうで、叔父の目は沈痛な色を帯びていた。
「第五区画だな」
「はい……あそこは、叔父さんの持ち分じゃないんですか」
「俺は昨夜、あそこには入っていない」
サニットは煙草を深く吸い込み、吐き出した。
「見に行くぞ。お前が落としたナイフも回収しなければならん」
二人は軽トラックに乗り、再びゴム園へと向かった。朝の光に照らされたゴム林は、昨夜の禍々しい悪夢が嘘のように、静謐な農業の現場に戻っていた。緑の梢の間から木漏れ日が差し込み、小鳥たちの甲高いさえずりが響いている。
しかし、ウィワットが逃げ出した現場——第五区画の四十三番目の木に近づいた瞬間、サニットの足がピタリと止まった。
ウィワットが落としたミート・ギート・ヤーンは、泥の上に転がっていた。だが、その目の前にあるゴムの木の幹は、見るも無惨な状態に破壊されていた。
通常の斜めの切り込みではない。人間の胸の高さから根元にかけて、鋭利な爪で幾重にも縦に引き裂かれたような、深く抉れた無数の傷跡。そして、幹に取り付けられていたココナッツの殻。
ウィワットは息を呑んだ。
殻の中に溜まっていたのは、白いゴムの乳液ではなかった。それは、赤黒く濁り、表面にドロリとした油のような膜を張った、強烈な鉄錆と腐敗の匂いを放つ液体だった。液体の底には、細かく千切れた何かの鳥の羽と、黄色いマリーゴールドの腐った花びらが沈んでいた。
サニットは無言でナイフを拾い上げ、腰の布で泥を拭った。それから、ココナッツの殻を木から外し、地面の草むらへと中身をぶちまけた。赤黒い液体が土に吸い込まれた瞬間、チリチリと白い泡が立ち、青々としていた下草が一瞬にして枯死するように黒ずんだ。
「ウィワット。お前の父親は、死ぬまでこの土地のことを話さなかっただろう」
サニットは立ち枯れた草を見つめたまま、低く呟いた。
「お前の祖母……メー・ノラー・ソムチットは、この地方で最も力のある舞踊師だった。ノラーの血筋(サーイ・ルアット)を継ぎ、神懸かりの儀礼を行う霊媒でもあった。彼女が舞えば、病人は床を払い、山林の荒ぶる精霊たちも鎮まったという」
サニットの視線が、南側の深い谷の奥へと向けられた。
「だが、ノラーの祖霊(クー・モー・ノラー)に仕えるということは、一生を縛られる契約を結ぶことと同じだ。定期的に舞台を開き、供物を捧げ、先祖の霊を自らの肉体に降ろして舞わなければならない。お前の父親は、その狂気じみた儀礼と、家系にまとわりつく霊の重圧を嫌悪して、すべてを捨ててバンコクへ逃げたんだ」
「父さんが……」
「二十年前、祖母が亡くなった時、俺たちは本来行うべき重大な儀式を怠った。ノラー・ロン・クロン——祖霊たちに一族の解散を告げ、神聖な契約を平和裏に解くための、三日三晩にわたる大規模な解願(ケー・ボン)の儀礼だ。それをやらずに、祖母の遺品であるトゥート(冠)や衣装、真鍮の爪を、第七区画の古い祠の地下に埋めて蓋をしちまったんだ。
そして、その上にゴムの苗木を植えて、山を金に変えようとした」
サニットは自嘲するように口元を歪めた。
「祖霊たちは、眠っていなかったのさ。自分たちを土の中に閉じ込め、利益ばかりを貪る俺たちを、暗闇の底からずっと見据えていたんだ。そして今、あの家系から逃げ出した男の息子であるお前が、この山に戻ってきた。
……血が、呼応しちまったんだよ」
第四章 霧の第七区画
その日の午後、ランスカ郡一帯の空は、西のマレー海峡から押し寄せてきた不吉な雨雲によって、昼間とは思えないほど暗く淀んでいた。
サニットはウィワットを連れて村の古い寺院へ赴き、高僧から清めの聖水(ナーム・モン)を分けてもらい、魔除けの経文が刻まれた鉛の小板を紐で巻いた護符——タクルットを受け取った。
「今夜はゴムを削るな」
寺からの帰り道、サニットは厳命した。
「新月の最後の夜だ。嵐が来る。今夜あの山に入れば、今度こそ命を吸い取られるぞ」
しかし、運命は狡猾だった。
夕刻、サニットの持病である重い高血圧が突発的に悪化し、叔父は激しい頭痛と眩暈を訴えて高床式の居間に倒れ込んだのだ。救急搬送の手配をし、近所の親類に付き添いを頼んだウィワットは、一人、嵐の近づく暗い家屋に取り残された。
時刻は深夜の零時半。雨はまだ降っていなかったが、山脈の尾根を覆う濃密な霧が、滝のように斜面を滑り降り、ゴム林全体を白い水槽の底のように沈めていた。
ウィワットは居間の壁に掛けられた、作業用のカレンダーに目をやった。そこには、翌朝に仲買人がゴムシートの引き取りに来る予定が赤ペンで記されていた。もし今夜の収穫を放棄すれば、サニットの医療費はおろか、来週の食費すら底をつく。
バンコクで借金取りから逃げ回り、ここでもまた逃げ出すのか。自分はいつまで、恐怖を理由に責任から背を向け続けるのか。
(叔父さんの区画だけでも、集めなければ)
ウィワットは高僧から授かったタクルットを首に掛け、ミート・ギート・ヤーンを握りしめた。ヘッドライトを点け、彼は一人、夜の霧の中へと足を踏み入れた。
ゴム園の中は、異様な静けさに満ちていた。風の音がピタリと止んでいた。大気中の湿度が飽和点に達し、吐き出す息と霧が混ざり合って、ヘッドライトの光をわずか三メートル先で乱反射させていた。
ウィワットは第一区画の木々を、無我夢中で削り進めた。刃先を当て、引き抜く。白い樹液が滴る。しかし、一本削るごとに、背後の空間が少しずつ歪んでいくような感覚があった。
どれほどの時間が経ったのか。腕時計を見ようとしたが、サファイアガラスの内側に水滴がびっしりと結露し、文字盤は判読できなかった。
ふと顔を上げた時、ウィワットは周囲のゴムの木の様子が変わっていることに気づいた。
幹が、異様に太い。植林されてから四十年以上は経過していると思われる、ねじくれた巨大な古木ばかりが林立していた。幹の表面には、規則正しい斜めの切り傷ではなく、まるで人間の手で狂ったように削られた、無数の古い傷跡が黒く化膿して盛り上がっていた。
足元を見ると、平坦だったはずの地面が、深いぬかるみへと落ち込んでいた。黒い泥炭の泥水が、長靴の縁を越えそうになる。
前方の霧の中に、苔むした崩れたレンガの構造物が見えた。
古井戸の跡。禁じられていた、第七区画だった。
ウィワットは息を呑み、踵を返そうとした。しかし、彼が歩いてきたはずの背後の道には、いつの間にか、生い茂ったトゲだらけの野生の竹藪が壁のように立ち塞がり、退路を完全に塞いでいた。
ピィィィィィィ……。
湿った霧の奥から、音が響いた。
風の音ではなかった。タイ南部特有の、木製の縦笛——ピー・ノラーの甲高く、引き裂かれるような鋭い音色だった。続いて、低く重い太鼓の地響きが、泥炭の底から直接、足の裏を伝って内臓を揺さぶり始めた。
ドォン、ドコドコ、ドォン。
トーンとタップと呼ばれる対の小太鼓が刻む、急速なテンポのリズム。それは、ノラーの舞台において、踊り子たちがトランス状態に陥り、神霊をその身に降臨させるクライマックスの楽曲——「チュート・チャット」の旋律そのものだった。
霧が、まるで劇場の幕が開くように、左右へと裂けていった。
古井戸の向こう側の泥濘の上に、青白い燐光が立ち上った。その光の中に、立っていた。
一人ではなかった。
泥の中から、次々と影がせり上がってきた。
五人、十人、二十人。古井戸を取り囲むようにして、円陣を描いて並んでいたのは、色鮮やかなノラーの正装を纏った踊り子たちの群れだった。
しかし、その姿は生者による美しい舞踏団とは程遠かった。彼らの手足の関節は、ことごとく外側へと裏返っていた。膝は真後ろへ曲がり、肘は上方へと反り返り、指先に装着された真鍮の長い付け爪が、まるで巨大な昆虫の触角のように、夜の空気の中でチリチリと細かく震えていた。
彼らが纏うビーズの装飾衣(クルアン・ルークパット)は、泥と乾いた血にまみれて黒ずみ、胸元からは腐食した骨が露出していた。そして、彼ら全員が被っている黄金の冠——トゥート・ノラーの尖塔の先端には、人間の干からびた眼球や、切り取られた耳介が、不気味な飾り結びのように突き刺されていた。
群集の中央、古井戸の石組みの上に立っていたのは、あの皮膚のない老婆の影だった。
メー・ノラー・ソムチット。ウィワットの祖母の亡霊だった。
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