序章 起きたあとの音

ルークは寝袋から腕を抜き、床へ掌をついた。

何かが倒れた。

そう思ったが、目を開ける前に聞いた音を、もう一度頭の中で鳴らすことができなかった。硬いものだった。少なくとも、布が落ちる音ではない。

寝袋の縁に膝が引っかかった。身体を起こそうとすると、足だけが残される。彼は座り直し、暗い部屋を見回した。

カメラの小さな表示灯が見えた。

動いている。

その一点を確かめると、少し落ち着いた。自分が眠っていた時間も、機械は見ていたはずだった。

第一章 明るいうちに入る

家へ着いたときには、まだ空に明るさが残っていた。

車から機材を下ろしていると、向こうの建物の前を人が歩いていった。仕事を終える人たちだった。昼間ならここに見学者がいて、話し声や足音が重なっているのだろう。

ルークは大きな鞄を肩へ掛け、玄関の前に立った。

プヒヌイ・ハウス。

十九世紀の住居が移築され、今は歴史村の中にある。誰も住んでいないのに、人の暮らしを見せるための部屋が残っている。

そのことが、ルークには少し不思議だった。

空き家なら、空になっている。

ここは違う。

椅子があり、ベッドがあり、食卓がある。人がいないことだけが、昼間の展示では目立たないようになっている。

同行したサラが、入口で靴の底を確かめた。

「泥、ついてない?」

ルークも自分の足を見た。

怖い場所へ入るという気分で来たのに、最初にすることが床を汚さないための確認だった。その小さな現実に、彼は少し安心した。

サラは今夜泊まらない。

機材を置くのを手伝い、最後の確認をして帰る。朝になれば迎えに来る。それまで、ルークが一人で残る。

単独で過ごす夜の段取りと施設側の許可は、事前に整えていた。立ち入れる場所も、触れてはいけないものも分かっている。だが、それを理解したことと、夜中に一人で歩けることは別だと、玄関を越えてから思った。

正面の階段が目に入った。

下から見上げると、上の階のすべてが見えるわけではない。手すりの向こうに明るい壁があり、その先は曲がっている。

サラが先に上がった。

段板が鳴った。

一段目と次の段では、音が違った。彼女が上まで行く間、ルークは階段を見ていなくても、おおよそどこにいるか分かった。

「よく聞こえるね」

彼が言うと、上から返事が来た。

「今のは、覚えておいて」

ルークは頷いた。

今夜この音が聞こえたら、誰かが階段を上がったのだと思うだろう。

けれど、今ここにいる二人が帰ったあと、同じ音を別のものが出す可能性もある。木材の動きか、荷物か、自分の聞き違いか。

その違いを確かめるために来た。

そう考えると、見上げていた階段が、少しだけ扱えるものに思えた。

第二章 四角く切り取る

カメラを置く作業には、思ったより時間がかかった。

床へ置けば低すぎる。

三脚を伸ばせば、通るときに足を引っかけそうになる。

窓を入れれば外からの光が強くなり、窓を外せば、その前を通ったものが見えなくなる。

サラが画面を見て、ルークがカメラを動かした。

「もう少し左」

彼は三脚の頭を回した。

「そこまでじゃない」

戻した。

二人で同じものを見ているはずなのに、少し、という言葉の幅が違っていた。

ルークは階段を広く入れたかった。

上下を誰かが移動すれば分かるようにする。段の一部だけを映しても、どちらから来たのか分からない。なるべく広く、なるべく先まで。

そのために画面の中の階段は小さくなった。

近づけば細部は見える。

遠ざかれば全体が見える。

どちらを選んでも、もう片方を失う。

他の部屋でも同じことを繰り返した。

寝る場所。

廊下。

上階の部屋。

機材を増やすたび、家の中に自分たちの持ち込んだものが増えた。ケーブル、鞄、予備の電池、三脚の影。

最後には、何かが動けば分かる家というより、自分が何かを動かさないように歩かなければならない家になっていた。

サラが一階の部屋へ戻り、画面を切り替えた。

ルークは上の階から降りてきた。

「映ってる?」

「映ってる」

彼が手を上げると、小さな画面の中でも手が上がった。

奇妙な安心感があった。

この家で自分がどこにいるか、別の場所から確かめられる。

もし音がすれば、映像を見ればいい。

眠ってしまっても、あとで戻ればいい。

ルークは一度、空いた画面を指した。

「ここ、何もないね」

部屋の角と、家具の一部だけが映っていた。

「何もないところを見るためのものだから」

サラはそう言った。

彼は笑った。

その返事は、今夜の仕事を正しく言い表しているように思えた。

何もない場所を長く見続ける。

何かが起きるかもしれない。

起きなければ、それも記録になる。

頭では分かっていた。

だが、鞄の中へ一晩分の荷物を詰めたときから、ルークのどこかには、何かが起きてほしい気持ちがあった。

第三章 持ってきたもの

懐中電灯を置いたのは、準備の終わり頃だった。

予備として持ってきたものだった。夜中に使うつもりの灯りは別にある。

動くかどうか見るために、小さな物を置いておく。

そういう試みがあることは知っていた。物が動かなければ何も言えないし、動いても、それだけで原因が分かるわけではない。

それでも、何もない空間へ問いかけるより、置いたものが同じ場所にあるか確かめる方が、自分には向いている気がした。

上の階の椅子を選んだ。

展示物を動かすつもりはなかった。自分の持ち物だけを、そっと座面へ置く。

ルークは指を離し、しばらく見た。

そのままだった。

彼は少し身体を引いた。

まだ、そのままだった。

下からサラが呼んだ。

「終わった?」

「もう少し」

ルークは持っている携帯電話で、その場所を撮ろうとした。だが、ちょうどサラが別の確認を求めてきたので、いったん下へ降りた。

あとでやればいい。

そう思った。

下では、録音機の表示を二人で確認した。動いていなければ、静かな一夜だったのか、ただ記録できなかったのか分からなくなる。

サラは機材に触れながら、必要なことを一つずつ言った。

電池。

残りの容量。

時刻。

足を引っかけないこと。

気分が悪くなったら、続けないこと。

最後の一つで、ルークは軽く笑った。

「怖くなったら、でしょ」

サラは顔を上げた。

「怖いのも、気分が悪いのに入る」

彼は笑うのをやめた。

途中で出ることを、失敗のように考えていたのかもしれなかった。

ここへ来た以上、朝までいる。

一人になると決めた以上、一人で耐える。

誰もそんなことを求めていないのに、自分で勝手に条件を増やしていた。

サラが帰る前、二人で家の中をもう一巡した。

ルークは、そのとき見た部屋の明るさを覚えておこうとした。どこに何があり、どの隅が暗く見えるか。

サラは特別なことを言わなかった。

玄関で靴を履き、朝の時間を確認し、車の鍵を取り出した。

「じゃあ、また朝に」

「うん」

扉が閉まった。

車の音が遠ざかるまで、ルークは入口の近くにいた。

音が消えてからも、しばらく同じ場所に立っていた。

第四章 返事を待つ身体

一人になって最初にしたのは、上着を脱ぐことだった。

動き回っていたので、少し暑かった。暗い家に泊まるという言葉から想像していた寒さはない。

椅子へ座り、水を飲んだ。

机の上には、持ってきた食べ物とノートがあった。機材の画面を見れば、それぞれ別の部屋が映っている。

どこにも人はいない。

ルークはその画面を順番に見た。

見終わると、最初へ戻った。

何も変わっていない。

その繰り返しが、すぐに退屈になった。

退屈になるのが、少し意外だった。

怖さと好奇心で、一晩くらいあっという間に過ぎると思っていたのだ。実際には時計を見て、まだこれしか経っていないのかと思う時間の方が長かった。

彼は立ち上がり、廊下を歩いた。

自分の足音を聞いた。

戻って同じところを歩くと、同じようには鳴らなかった。足の置き方が違うのか、体重の掛け方が違うのか。

音を覚えておけばよいという最初の考えが、少し頼りなくなった。

部屋へ戻ると、どこかで小さく物音がした。

ルークは振り返った。

壁と家具がある。

何も動いていない。

彼は耳を澄ませた。

もう一度鳴ってくれれば、場所が分かるかもしれない。

だが、同じ音は続かなかった。

その代わり、少し離れたところで別の音がした。

彼は笑った。

人がいるなら、こちらが顔を向けた瞬間だけ黙っているような間だった。

そう考えた途端、音の聞こえ方が変わった。

ただの物音ではなく、誰かが立ち止まった音になる。

続かないことが、いない証拠ではなく、隠れた証拠のように思えてしまう。

ルークはノートへ、音がした、と書いた。

何の音かは書かなかった。

どこからかも、断言しなかった。

その短い一行は、自分が感じたものに比べると、ひどく頼りなかった。

もっと詳しく書きたかった。

誰かが床を擦ったようだった。

こちらの動きを待っていたようだった。

すぐ近くにいたようだった。

だが、それらは音そのものではない。

彼はペンを置いた。

怖いと思ったことを、書いてはいけないわけではない。

そこで別の行に、小さく書き足した。

少し気になっている。

第五章 上へ続くもの

階段に座ると、一階の部屋とは家の見え方が違った。

上にも下にも行ける。

どちらから来ても、途中で分かる。

最初は、見張るには悪くない場所だと思った。

だが、しばらくすると逆になった。

一階を見れば、上の階が背中に残る。

上を見れば、下の廊下が見えなくなる。

身体をどちらへ向けても、もう片方が気になった。

ルークは数段上がり、腰を下ろした。

手すりの影が壁へ落ちている。

一定の間隔に見えた線が、見つめていると揃わなくなる。暗いところが少し広くなり、別の場所が狭く見える。

彼は目を閉じた。

開くと、また元の影だった。

疲れているのかもしれない。

それを考えることは、今夜の調査を台無しにすることではなかった。自分が何を見やすく、何を見間違えやすいかも、その場に持ち込まれている。

そう思おうとした。

だが、目を開けたときに何かがそこへ立っていたらどうするのか、という考えも同時にあった。

彼は一度だけ、声をかけた。

「誰かいますか」

自分の声が家の中へ出ていった。

返事はなかった。

質問をしたあとで、ルークは、答えの形を何も決めていなかったことに気づいた。

声なら分かる。

人影でも分かる。

物音はどうだろう。

質問の直後に床が鳴れば、返事だと思うかもしれない。少し遅ければ偶然だと思うかもしれない。その時間の幅を、誰が決めるのか。

彼はもう一度訊かなかった。

座ったまま待った。

向こう側に何かがいるなら、こちらの言葉が分かるとは限らない。

そう考えかけ、そこで止めた。

相手がいるという前提を、また勝手に置いていた。

しばらくして、上の方で軽い音がした。

ルークは顔を上げた。

先ほどまでとは違い、今度は立ち上がった。

階段を上がる。

自分の足音が大きい。

何かが動いていても、その音で聞こえなくなるだろうと思った。

上の階に着き、許可された範囲を確かめた。

何も変わっていないように見えた。

椅子の上の懐中電灯にも目をやった。

あった。

彼はそれを見て、安心した。

そして、動いていないことを少し残念にも思った。

その二つの気持ちが同時にあることを、誰かに説明できるだろうかと思った。

第六章 眠る準備

時間が経つにつれ、ルークは家の中を歩かなくなった。

怖いからではなかった。

少なくとも、そのつもりだった。

何度も同じ場所を歩いて音を増やすより、座っていた方がいい。疲れた状態で影を見続けるより、少し休んだ方がいい。

どちらも正しい理由に思えた。

だが、廊下の奥へ行きたくない気持ちが混ざっていないとは言えなかった。

彼は食べ物の包みを開けた。

口の中が乾いていて、思ったより飲み込むのに時間がかかった。

水を飲む。

画面を見る。

ノートを見る。

記録した言葉は少なかった。

一晩を過ごせば、頁が埋まると思っていた。実際には、音がした、確認できず、という短い記述が幾つか並ぶだけだった。

その余白を見ると、自分が何もしていないように感じた。

だが、詳しく書けばよいわけでもない。

何も分からなかった数分間を、言葉で長くすることはできる。怖さも、期待も、身体の感覚も書ける。

それでも、何が起きたのか分かるようにはならない。

ルークはノートを閉じた。

眠ろうと思った。

朝には片づけて出なければならない。昼間の家へ戻すために、自分の荷物を全部持ち帰る必要がある。

寝袋を広げると、思ったより場所を取った。

展示の家具を動かさないようにし、ケーブルから離し、起きたときに三脚を蹴らない向きを選ぶ。

横になるだけなのに、幾つも条件があった。

彼は靴を揃え、すぐ届くところへ自分用の灯りを置いた。

横になってから、もう一度身体を起こした。

機材を確かめる。

動いている。

録音も続いている。

画面の中の部屋は、どれも変わらない。

彼は今度こそ横になった。

床に近くなると、家具の脚が大きく見えた。

椅子に座っていたときには、机の下はただの暗い場所だった。今は、その暗さが自分と同じ高さにある。

天井を見た。

上には部屋がある。

椅子がある。

その上に、自分の置いた物がある。

眠っているあいだに何かが起きても、記録は残る。

ルークはその考えを、毛布のように身体へ掛けた。

目を閉じる前、カメラの表示灯が見えた。

小さな光だった。

それでも、暗い部屋で自分以外に起きているものがあるように思えた。

第七章 落ちてきたもの

音で目が覚めた。

寝袋から腕を抜き、身体を起こす。

部屋の形を思い出すまで、少し時間がかかった。

自宅ではない。

床に寝ている。

機材がある。

ルークは最初に三脚を見た。

倒れていない。

手近な荷物も、そのままだった。

では、どこで何が倒れたのか。

彼は灯りを取り、寝袋から出た。

上着を着ようとして、袖へ腕がうまく入らなかった。布を裏返しかけ、面倒になって肩へ掛けた。

階段の方へ行く。

自分の足音が、さっきまでより大きく聞こえた。

眠っている間に家が静かになったのか、それとも、目が覚めたばかりで音に慣れていないのか分からなかった。

灯りを上へ向けた。

段が順番に見える。

手すりの影が動く。

途中で、光が小さなものに当たった。

ルークは一段だけ上がり、もう一度照らした。

見覚えがあった。

似たものではない。

自分が持ってきたものだった。

彼はすぐには近づかなかった。

寝起きの頭でも、そこにあるはずがないということは分かった。

さっきまで、二階の椅子の上にあった。

ルークは階段の途中から見上げた。

そして、置いた物がここにあることより先に、椅子のところを誰も見ていなかったことを思い出した。

落ちていたのは、予備の懐中電灯だった。

ルークはそれに触れず、しばらく立っていた。

二階から持って下りた覚えはない。

寝る前には使っていない。

自分の手にある灯りとは別のものだ。

彼は自分の指を見た。

握っている方を確かめる必要などないのに、確かめた。

それから上の階へ行った。

階段が鳴った。

今はその音が、誰かに居場所を知らせているように感じられた。

椅子の座面は空いていた。

何も載っていない椅子だった。

物があったときには、懐中電灯だけを見ていた。なくなると、座面の広さや縁の形が急に気になった。

滑ったのだろうか。

転がったのだろうか。

最初から不安定だったのか。

ルークは椅子へ手を伸ばしかけ、止めた。

触る前に記録しなければならない。

そう思い、携帯電話を出した。

写真を撮る。

空の椅子が写った。

それが何を証明するのかは分からなかった。

彼は写真を確認しながら、夕方ここを撮らなかったことを思い出した。

あとでやればいい。

そう考えて下へ降りた。

そのあと、別の確認をした。

すべては普通の準備の流れだった。

怖いものが邪魔をしたわけではない。

誰かが手を止めさせたわけでもない。

自分が後回しにしただけだった。

ルークは階段を下り、落ちている灯りの位置も撮った。

画面の中には、確かに物がある。

だが、どこから来たのかは写らない。

どんな力が加わったのかも写らない。

彼はそのとき、初めて強く怖くなった。

上に何かがいた、と決まったからではなかった。

何かが起きたあとへ、遅れて立っている。

その遅れを、もう取り戻せない。

そのことが怖かった。

第八章 寝ている自分

朝までの残りの時間を、ルークはうまく覚えていなかった。

機材を見た。

ノートへ書いた。

何度か時計を確かめた。

眠ろうとしたのか、ただ目を閉じていたのかも曖昧だった。

外が明るくなったとき、窓の色が変わった。

部屋の家具が、光を当てなくても見えるようになる。

それだけで家は別の場所になった。

ルークは荷物をまとめた。

自分の物を一つずつ数える。持ち込んだ数と持ち帰る数を合わせる。夜の出来事とは関係のない、確かな作業がありがたかった。

サラが来た。

彼女は玄関で声をかけ、いつもと同じように入ってきた。

その声を聞くまで、ルークは、自分が人間の声を待っていたことに気づかなかった。

「どうだった?」

彼は、話すことがある、と答えた。

その場ですべて説明しようとはしなかった。

寝不足で、言葉が順番に出てこなかった。落ちていた、と言い、置いてあった、と言い、途中で自分がどちらの場所を指しているのか分からなくなった。

サラは先に荷物を運ぼうと言った。

ルークは頷いた。

家を出る前に、階段を見た。

朝の階段だった。

昨日の夕方と同じように、人が上り下りするためのものに見えた。

帰ってから、彼はすぐに映像を見たかった。

だが、画面を開く前に眠ってしまった。

次に目が覚めたとき、自分の部屋の天井があった。見慣れた染みと、いつもの明るさがある。

一瞬、あの夜が夢だったように思えた。

鞄が床にあった。

予備の懐中電灯も入っている。

ルークは鞄を見てから、起き上がった。

映像の中には、自分がいた。

寝袋へ入る。

身体の向きを変える。

しばらく動く。

やがて動かなくなる。

自分が眠りに入るところを見るのは、思ったより嫌だった。

自分の身体なのに、その先の時間を知らない。

画面の中の男は目を閉じていて、ルークがこれから何を聞こうとしているのか知らない。

彼は再生を止めた。

机の上へ両手を置いた。

大きな音がした辺りだけを見るつもりだった。

だが、その前がある。

音で起きるまでの間に、家の中で何が聞こえていたのか。

ルークは少し前へ戻した。

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