序章 風の囁く岩山

メキシコ合衆国の夜間ハイウェイを走る長距離トラックの運転手たちの間には、決して口にしてはならない名前と、暗黙のうちに共有されている数々の掟が存在する。広大なソノラ砂漠の熱砂を切り裂く一本道、麻薬カルテルの抗争地帯を迂回する迂回路、そして山肌を削り取って作られた断崖絶壁の難所。路肩に無数に並ぶ、事故死者を弔う小さな祠や白い十字架(カピージャ)にヘッドライトの光が反射するたび、ドライバーたちはダッシュボードに飾られたグアダルーペの聖母や、旅人の守護聖人であるサン・ユダ・タダイのメダイに指を触れ、無言で十字を切る。

メキシコ国内で数百万人の読者を抱える怪談・実体験証言サイト「イストリアス・デ・テロール(historiasdeterror.com)」には、そうした荒涼たる夜の道路で起きた、生々しい手記が膨大な数で蓄積されている。

その中でも、北西部のバハ・カリフォルニア州、アメリカ合衆国との国境に沿って東西に走る連邦道路二号線の難所「ラ・ルモロサ(La Rumorosa)」を巡る体験談は、閲覧者たちから特別な戦慄をもって受け止められ続けている。

標高差千メートル以上。コロラド砂漠の熱気を孕んだメヒカリの盆地から、太平洋側の冷涼な風が吹き抜けるテカテやティフアナの高地へと一気に駆け上がるその山岳地帯は、地球上のものとは思えない異様な相貌を持っている。見渡す限りの赤褐色の山肌を覆い尽くすのは、巨大な花崗岩の丸石(ボルダー)が無秩序に積み重なった奇怪な巨石群である。

植生はほとんどなく、ただ風化した岩石の巨人たちが、折り重なるようにして谷底を見下ろしている。

そして、この地名「ラ・ルモロサ」の由来となった現象がある。

太平洋からの気流と砂漠からの熱風がこの狭い渓谷で衝突するとき、複雑に入り組んだ巨石の隙間を抜ける風が、まるで何百人もの人間が低く囁き合い、あるいは苦痛に満ちたうめき声を上げているかのような、独特の不気味な鳴動音を絶え間なく響かせるのだ。「ルモロサ(ざわめくもの、囁くもの)」と呼ばれるその風の音は、古来より先住民クミアイ族の間でも、異界の精霊たちの話し声として畏怖されてきた。

かつて、ガードレールもなくヘアピンカーブが連続していた時代、ここは「死の道路」と呼ばれ、ブレーキを焼き切らせた無数の大型トレーラーが谷底へと転落していった。現在の近代的な有料高速道路が建設された後も、急勾配の谷底には、何十年も前に転落したトラックの残骸が、赤錆びた鉄の骨組みとなって今なお回収されることなく放置されている。

深夜、この峠道で立ち往生したドライバーたちが遭遇するのは、単なる風の悪戯ではない。

時速八十キロで走るキャビンの助手席側ステップに飛び乗ってくる、油まみれの青白い影。

壊れた車載無線機から漏れ聞こえる、何十年も前に死んだ運転手からの「妻に手紙を届けてくれ」という懇願。

そして、路肩の闇の中から、自らの失われた四肢を探すようにして這い上がってくる、乾いた死者たちの息遣いである。

第一章 メヒカリの重油の夜

マテオ・エルナンデスが、愛車である二〇一八年製ケンワース・T680の巨大な運転席によじ登った時、メヒカリの工業団地の外気温計は、真夜中であるにもかかわらず摂氏三十八度を指していた。

三十三歳になるマテオは、ティフアナとメヒカリの間を往復する冷凍食肉の個人長距離ドライバーだった。この道に入って十年、彼の浅黒い肌は容赦のない砂漠の陽光で乾き、両目の周りには、夜間運行の疲労と強風による砂塵が刻み込んだ細かなシワが張り付いていた。

今回の積荷は、メヒカリの近代的な食肉加工工場から積み込まれた、二十二トンの冷凍豚肉だった。翌朝の午前六時までに、ティフアナのアメリカ国境に近い巨大な冷蔵倉庫へと届けなければならない。

キャビンの中には、全開にしたエアコンの冷風が唸りを上げていたが、ダッシュボードのプラスチックは昼間の熱を吸い込んで、触れれば火傷しそうなほど熱を持っていた。

計器盤の中央には、真鍮で作られたグアダルーペの聖母の小さな小像と、裏面に「我が旅路を守りたまえ」と刻まれた聖ユダ・タダイのメダイが、両面テープでしっかりと固定されていた。

「おい、マテオ」

隣のバースで荷積みを終えた同僚のカルロスが、冷たいペットボトルの水を片手に、開け放たれたマテオの窓を見上げて声をかけてきた。

「今夜は風がひどいらしいぞ。山の上じゃ時速八十キロの突風が吹いてるって、無線で言ってた。空荷のトレーラーが一台、さっき横転して車線を塞ぎかけたそうだ」

「こっちは二十二トンの肉を積んでる。風で煽られる心配はないさ」

マテオは苦笑しながら、タコグラフの記録紙をセットした。

「重いのは風には強いが、ブレーキには地獄だぞ。特にあの『ラ・ペディサ(小石の坂)』の下りはな」

カルロスは声を落とし、周囲のトラックの排気音に紛れさせるように言った。

「知ってるだろ。風の強い新月の夜には、ラ・ルモロサには『別のもの』が出る。……もし路肩で誰かが手を振っていても、絶対にブレーキを踏むなよ。

助けを求めているように見えても、そいつらはもう、三十年も前に助からなかった連中なんだからな」

マテオは肩をすくめて見せたが、カルロスの濁った瞳の真剣さに、胸の奥に小さな冷たい棘が刺さるのを覚えた。

クラッチを踏み込み、重いシフトレバーをローに入れる。

十五リッターの直列六気筒ターボディーゼルが、腹の底を揺さぶるような重低音を響かせて唸りを上げた。

ケンワースの巨体は、夜の闇の中へ、ゆっくりと滑り出した。

メヒカリの街を抜けると、ナトリウム灯のオレンジ色の光列は急速に途切れ、視界は完全な暗黒へと呑み込まれていった。

前方にそびえ立つのは、星の光すら遮る巨大な黒い影——バハ・カリフォルニアの山脈だった。

平坦な砂漠の直線道路が終わりを告げ、有料道路の料金所を通過すると、道は突如として急激な登り坂へと姿を変えた。

連邦道路二号線、ラ・ルモロサの区間に入ったのだ。

第二章 巨石のうめき声

標高が上がるにつれ、窓の外を流れる大気の感触が劇的に変化していった。

メヒカリのあのまとわりつくような熱気が消え去り、代わりに窓ガラスの隙間から、冷たく乾燥した山の風がヒューヒューと鋭い笛のような音を立てて侵入し始めた。

車の外気温計の数字が、三十八度から二十五度、二十度、十五度へと急速に落ち込んでいく。

ヘッドライトの強力なハイビームが、行く手を照らし出していた。

道路の両側に迫るのは、何千、何万もの奇怪な巨石群だった。

丸みを帯びた巨大な花崗岩が、まるで巨人が積み木を手当たり次第に投げ出したかのように、絶妙なバランスで斜面に積み重なっている。その陰影は、ライトの光が当たる角度によって、悶え苦しむ人間の顔や、巨大な獣のうずくまる姿に見えた。

ゴオオオオッ……。

突風がトラックの左側面を叩きつけた。

二十二トンの積荷を背負っているにもかかわらず、キャビン全体がミシリと軋み、ステアリングがわずかに右へと取られた。

マテオは両手でハンドルを固く握り締め、背筋を伸ばした。

風の音が、変質していた。

ただの空気の摩擦音ではない。

岩と岩の狭いスリットを空気が通り抜ける際、低周波の振動が発生し、それが重なり合って、まるで遠くで何十人もの男たちが、言葉にならない低い声で呻き合っているかのような音響空間を作り出していた。

ルモロサの囁き。

マテオはこの道を何百回と走ってきた。風の音には慣れているはずだった。

しかし、今夜の音には、いつもと違う何かが混ざり合っていた。

ザザッ……ザザザッ……。

ダッシュボードに据え付けられたCB無線機が、突然、激しいホワイトノイズを吐き出した。

チャンネルは十九番——長距離トラックの緊急連絡用チャンネルに固定されていた。

『……こちら……五十二号車……応答せよ……』

ノイズの底から、声が聞こえた。

それは、ひどく歪み、何重ものエコーがかかった、男のかすれ声だった。

『……エアーが……抜けた……ブレーキが……効かない……』

『……誰か……前を……開けてくれ……突っ込むぞ……!』

マテオは眉をひそめ、無線のマイクを手に取った。

「こちらケンワースのエルナンデス。五十二号車、どこにいる? 下り車線か?」

返事はなかった。

ただ、耳膜を切り裂くような金属の擦れる悲鳴と、何かが粉々に砕け散る鈍い破壊音が、スピーカーから一瞬だけ響き、そしてプツンと途絶えた。

再び、ザーッという冷たいノイズだけが残された。

「……いたずらか」

マテオは舌打ちし、マイクをホルダーに戻した。

悪質なドライバーが、過去の有名な事故の無線録音を面白半分に流すことがある。

しかし、その直後、トラックの足回りから、微小な異音が響いた。

チリチリチリ……。

金属が過熱した時に生じる特有の音。

インパネの中央にある、トレーラーのブレーキ温度警告灯が、不吉な黄色に点滅を始めた。

「嘘だろ……まだ下りに入ってもいないのに」

マテオは速度を落とし、ギアを落としてエンジンブレーキを強めた。

前方に、急カーブを知らせる黄色い矢印の反射板が連続して現れた。

そのカーブの外側、崖っぷちの路肩には、コンクリートで作られた小さな祠が三つ、赤や青のペンキで塗られて並んでいた。

かつてその場所で転落死したドライバーたちの慰霊碑だった。

ヘッドライトの光が、その祠の前を一瞬だけ照らし出した。

そこに、誰かが立っていた。

第三章 路肩の影と手紙

マテオは無意識にブレーキペダルを踏み込みそうになり、直前で踏みとどまった。

急制動をかければ、この重量のトレーラーは一瞬でジャックナイフ現象を起こして横転する。

徐行しながら、その人影の真横を通り過ぎる。

それは、オレンジ色の蛍光反射ベストを着た男だった。

頭には薄汚れたキャップを被り、油まみれの青いオーバーオールを着ていた。手には、赤い布が巻かれた停止棒のようなものを持っている。

故障車の誘導員か。

しかし、その男の顔を見た瞬間、マテオの背中の毛穴が一斉に開いた。

男の顔には、生きた人間の表情というものが完全に欠落していた。

皮膚は引き裂かれ、乾いた赤土と黒い重油が混ざり合って顔面の半分を塗り潰していた。

そして、その両目。

見開かれた眼球には光が宿っておらず、ただ白濁した二つの穴が、トラックのキャビンに座るマテオの目を、正確に追尾していた。

男の手が、ゆっくりと持ち上がった。

その手には、泥と血で汚れた一通の白い封筒が握られていた。

男の唇が、音もなく動いた。

『……届けてくれ……』

キャビンを通り過ぎる一瞬の出来事だった。

次の瞬間、バックミラーを覗き込むと、そこにはただ暗闇の中で赤く光る反射板と、荒れ狂う風に揺れる枯草があるだけだった。人影など、どこにもいなかった。

「……幻覚だ。疲れてるんだ」

マテオは荒い息を吐きながら、ハンドルを強く握り直した。

居眠り運転の前兆だ。次の退避スペース(ミラドール)を見つけたら、車を停めて顔を洗い、強いコーヒーを飲むべきだった。

しかし、その時、ドンッという衝撃が車体を揺らした。

路面の段差を越えた衝撃ではなかった。

キャビンの助手席側、外側の乗降用ステップに、何かが飛び乗ってきたかのような、重く鈍い衝撃だった。

サスペンションがギシリと軋む。

続いて、カツン、カツン、と、金属のステップを硬い靴底が踏みしめる音が聞こえた。

時速五十キロで走っているトラックの、ドアの外側で。

マテオの心臓が喉元まで跳ね上がった。

首を右に向ける。

助手席の窓ガラス。

厚い強化ガラスの外側は、夜の暗黒と吹き荒れる砂塵が渦巻いていた。

しかし、そのガラスの表面に、ペタ、と何かが押し当てられた。

人間の手のひらだった。

油と赤土にまみれた五本の指。

指先は激しく擦り減り、爪の隙間から黒いオイルが滲み出ていた。

その手が、走行風の猛烈な圧力に耐えながら、ガラスの表面を爪先でカリカリと引っ掻き始めたのだ。

キーーーーッ……。

耳を塞ぎたくなるような、鋭利な金属音。

ガラスに爪が食い込むはずがなかった。それなのに、車内には確かに、ガラスが削り取られるような生々しい音が響き渡っていた。

『……開けてくれ……』

声が聞こえた。

風の音の隙間から、キャビンの密閉された空間の内側へ直接染み込んでくる、掠れた男の声。

『……寒いんだ……谷の底は……寒くてたまらないんだ……』

ダッシュボードに置かれたグアダルーペの聖母の像が、小刻みに震え始めた。

車内の温度が、エアコンをつけているにもかかわらず、息が白くなるほどの異常な冷気へと急降下していった。

そして、エンジンの回転数が、唐突に息絶えるように落ち始めた。

ボボボボッ……プスン。

インパネのチェックランプが一斉に点灯し、パワーステアリングのアシストが完全に失われた。

燃料供給が途絶したのだ。

「動け! 頼むから動いてくれ!」

マテオは叫びながら、重くなったステアリングを力任せに右へ切り、惰性で転がるトレーラーを、カーブの先にあった未舗装の展望退避エリアへと滑り込ませた。

車輪が砂利を激しく跳ね上げ、トラックは崖っぷちのコンクリートブロックの手前、わずか五十センチの位置で停止した。

完全な静寂が訪れた。

エンジンの唸りが消え去った後、キャビンを包み込んだのは、吹き荒れるラ・ルモロサの強風の音と、外側のステップから聞こえる、重い呼吸の音だけだった。

第四章 断崖のミラドール

ヒュー……ッ、ヒュー……ッ。

助手席のドアの外側から、湿り気を帯びた摩擦音が聞こえていた。

肺が押し潰された人間が、必死に酸素を吸い込もうともがくような音。

マテオは動くことができなかった。

指先が凍りついたように冷え、シートの背もたれに身体が吸い付けられたように重い。

カチャリ。

助手席の外側のドアハンドルが、下へと押し下げられた。

鍵は内側からロックされていた。

しかし、外側からの凄まじい力によって、ドアの鋼板がミシリと軋み、隙間から氷のように冷たい山の風が吹き込んできた。

その風とともに、あの匂いが車内に充満した。

焼けたディーゼルオイルの匂い。

破裂したタイヤの焦げたゴムの悪臭。

そして、何十年も太陽の光を浴びずに谷底の泥に埋もれていた肉が放つ、耐え難い死臭だった。

ガタガタガタッ!

ドア全体が激しく揺さぶられた。

まるで、巨大な鉄のバールを持った怪力の手が、キャビンをこじ開けようとしているかのような衝撃。

マテオは恐怖の限界の中で、ダッシュボードの引き出しから、護身用の大型マグライトを掴み出した。

このままキャビンの中に閉じこもっていれば、ドアを破られるか、寒さと恐怖で心臓が止まる。

外に出て、メインブレーカーと燃料コックを確認し、エンジンを再始動させるしかなかった。

彼は運転席側のドアノブを掴み、蹴破るようにして外の暗黒へと身を躍り出させた。

ドォッ!

猛烈な突風がマテオの全身を打ち据えた。

時速八十キロを超える冷風が、彼の巨体を崖下へと押し流そうとする。

彼は反射的にトラックの燃料タンクのステップを掴み、姿勢を低くした。

外気温はすでに摂氏四度まで落ち込んでいた。

空を見上げると、満天の星々が、奇怪な巨石の稜線を冷酷に照らし出していた。

マテオはマグライトのスイッチを入れ、車体の前方を回り込んで、助手席側へと光を向けた。

誰もいなかった。

ステップの上にも、ミラーの支柱にも、人影は存在しなかった。

しかし、助手席の窓ガラス。

埃にまみれたそのガラスの表面に、くっきりと残されていた。

赤土と黒い油で汚れた、何重もの掌の跡。

外側からガラスを力任せに叩き、爪を立てた跡が、ガラスの全面を覆い尽くすようにして残されていたのだ。

マテオの喉がカラカラに渇いた。

彼は後ずさりし、退避エリアの端、キャニオンを見下ろす断崖の縁へと近づいた。

風が、谷底から吹き上げていた。

その風の唸り声の中に、微かな、しかし規則正しい金属音が混ざり合っていた。

キィィン、キィィン。

鉄と鉄がぶつかり合う音。

マテオは恐る恐る、マグライトの光軸を数百メートル下の漆黒の谷底へと落とした。

強力な光条が、闇を切り裂いて谷底の岩肌を照らし出した。

そこにあったのは、墓場だった。

折り重なる巨石の隙間に、何台ものトラックの残骸が、まるで巨大な昆虫の死骸のように転がっていた。

ねじ曲がったシャーシ、破裂した車輪、引き裂かれたアルミコンテナのパネル。

三十年前、四十年前、五十年前。このラ・ルモロサの旧道から転落し、回収されることもなく朽ち果てていった鉄の残骸たち。

そして、その最も新しい残骸——十数年前に落ちたと思われる、白いキャブオーバー型トラックの潰れた運転席の窓から。

何かが、這い出していた。

光の輪の奥、谷底の巨石の上を、蠢く影があった。

一人ではなかった。

三つ、五つ、十の影が、赤錆びた鉄屑の隙間から、折れ曲がった手足を泥炭のように引きずりながら、這い上がってきていたのだ。

彼らは全員、あの油まみれのオーバーオールや、破れたネルシャツを身に纏っていた。

ある者は首が完全に真横に折れ曲がり、ある者は片腕を失い、ある者は頭蓋骨の半分を露出しながら、重力を無視するようにして、垂直に近い花崗岩の崖を、蜘蛛のような異様な速度で登り始めていた。

ザザザザザッ!

爪が岩肌を掻きむしる音が、強風の唸り声を突き破って這い上がってきた。

登ってくる影たちの胸元には、一様に、あの白い封筒が握りしめられていた。

『……持って行ってくれ……』

声が、谷底全体から地鳴りのように湧き上がった。

それは一人の声ではなかった。

過去半世紀の間に、この山道で家族への帰還を果たせなかった、数十人の男たちの絶望の叫びが、重なり合って大気を震わせていた。

『……家に……帰りたい……』

『……カテリーナに……子供たちに……届けてくれ……!』

『……お前のトラックに乗せろ……!』

彼らはマテオを殺そうとしているのではなかった。

彼らはただ、目の前にある動くトラックに、生者の熱を持つその鉄の巨体にすがりつき、この凍てつく岩の檻から連れ出してほしいと、狂乱の叫びを上げているのだ。

しかし、その執念の質量は、生きた人間を一瞬で押し潰すほどの破壊力を持っていた。

影たちの先頭が、すでに崖の縁、ガードレールの支柱に手をかけていた。

骨が剥き出しになった指先が、冷たいコンクリートの角を握り潰すようにして引き裂いた。

マテオの全能が、警報を鳴らした。

ここで捕まれば、自分もまた、あの谷底の錆びた鉄屑の一部となる。

彼は背を向け、ケンワースの運転席へと全力で駆け戻った。

ステップを駆け上がり、ドアを開けてキャビンへ飛び込む。

ドアを叩きつけるように閉め、内側のロックを肘で押し下げた。

ドスン!

車体後方の冷凍コンテナの鋼板を、重い何かが叩く音が響いた。

サスペンションが軋み、二十二トンの車体全体が横揺れを起こす。

屋根の上に、何かが着地した。

ドサリ、という湿った重み。

続いて、天井の薄い内張りを通して、何十本もの爪が鉄板を狂ったように引っ掻く音が響き渡った。

バリバリバリバリッ!

フロントガラスの外側。

ボンネットの上に、あの最初の反射ベストの男が降り立った。

膝の関節が真後ろに折れ曲がった足で、震えるボンネットの上に直立し、その白濁した両目をフロントガラスに密着させていた。

男の開いた口から、黒い重油がガラスの上に吐き出され、視界を黒く塗り潰していく。

男の右手が、フロントガラスを力任せに殴りつけた。

ドォン!

二重強化ガラスに、蜘蛛の巣状の白いヒビが一気に広がった。

冷気が刃のように室内に吹き込んでくる。

(回れ! 回れ!)

マテオは絶叫しながら、イグニッションキーを捻り続けた。

スターターモーターがギャリギャリと悲鳴を上げる。

しかし、燃料ラインにエアが噛んだエンジンは、点火の兆候を見せなかった。

フロントガラスに、二度目の打撃が加えられた。

ピキッ、と音を立てて、ガラスの内側のフィルムが裂け、男の油まみれの指先が室内に侵入しかけていた。

マテオの視界の端に、ダッシュボードの聖母の像が飛び込んできた。

そして、その横に置かれた、トラック運転手仲間から譲り受けた、一本の小さな工具。

緊急時用の高圧パーツクリーナーのスプレー缶。

主成分は、極めて揮発性の高い高純度アルコールと石油系溶剤だった。

マテオの中で、何かが弾けた。

恐怖が、生存のための剥き出しの怒りへと反転した。

「母なるグアダルーペよ!」

マテオは叫びながら、左手でダッシュボードのライターを擦った。

ボッ、と黄色い炎が立ち上がる。

彼は右手でパーツクリーナーのノズルを押し込み、ライターの炎の向こう側へと、高圧の溶剤を一気に噴射した。

ゴオオオオオッ!

キャビンの中で、長さ一メートルを超える猛烈な火炎の槍が炸裂した。

熱波がマテオの前髪を焦がし、室内の酸素が一瞬で焼き尽くされる。

マテオは炎の切先を、割れたフロントガラスの隙間から、外の男の顔面へと向けて叩きつけた。

ボウッ!

男の着ていた油まみれの反射ベストが一瞬にして発火した。

オレンジ色の火炎が男の全身を包み込み、黒い煙が夜空へと吹き上がった。

ギャアアアアアッ!

耳をつんざくような絶叫が、フロントガラス越しに響き渡った。

火だるまになった男の影が、ボンネットから転がり落ち、アスファルトの上でのたうち回った。

熱気によって、凍結しかけていたエンジンの吸気ダクトのセンサーが息を吹き返した。

マテオは祈るようにキーを右へ回し、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。

ドロォォォォンッ!

黒煙の爆発とともに、十五リッターのディーゼルエンジンが咆哮を上げた。

すべてのシリンダーが火を噴き、巨大なファンが猛烈な勢いで回転を始めた。

ターボチャージャーが甲高い金属音を響かせ、圧縮空気が燃焼室へと雪崩れ込む。

マテオはシフトレバーをローへ叩き込み、クラッチを蹴るように繋いだ。

巨大な駆動輪が砂利を激しく噛み、ケンワースが跳ね起きるように急発進した。

屋根の上にしがみついていた影たちが、慣性の法則によって次々と後方へと振り落とされていく。

ドサッ、ドサッ、という重い着地音。

マテオはステアリングを切り、トラックを本線へと強引に割り込ませた。

ヒビだらけのフロントガラスの隙間から、冷たい山の風が吹き込み、キャビンに満ちていた煙を吹き飛ばしていく。

ギアをセカンド、サード、フォースへと叩き込む。

時速四十キロ、六十キロ、八十キロ。

エンジンブレーキの警告灯は赤く点灯したままだったが、マテオは一度もアクセルを緩めなかった。

バックミラーを見上げる。

後方の暗黒の中、道路の上に、火だるまになった一つの光点と、その周りに群がる無数の影たちが、遠ざかっていくのが見えた。

彼らはもはや追ってこなかった。

ただ、吹き荒れるラ・ルモロサの強風の中に立ち尽くし、遠ざかるトラックの赤いテールランプを、じっと見つめ続けていた。

下り坂が終わりを告げ、前方にテカテの谷の穏やかな灯りが見え始めた時、マテオの喉から、震えるような長いため息が漏れ出た。

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