序章 赤土の尾根と白い風
海抜七百メートルを超えるアサートン高原の冬は、熱帯特有の緩慢な暖かさを跡形もなく奪い去る。
太平洋から湿った東風が吹き寄せ、海岸沿いの山脈を駆け上がるとき、気流は急激に冷やされ、赤い火山灰土の丘陵地帯へ重たい乳白色の底霧となって流れ込む。地元の人々はそれを単に高原の霧と呼ぶが、その実態は地表を舐めるように這う雲の塊に近かった。
エイダ・マシューズが夕方の搾乳を終えたのは、午後五時を少し回った時刻だった。
すでに西の空は鈍い鉛色に濁り、放牧地の向こうに連なる熱帯雨林の樹冠が、暮れ残る薄明の中に黒々としたぎざぎざの稜線を浮かび上がらせていた。気温は八度まで下がっている。ゴム長靴のつま先からじんじんと冷気が這い上がり、厚手のウールシャツの上から羽織ったオイルスキンのベストをすり抜けて、肩の筋肉を硬く強張らせた。
搾乳場から集乳室へと続くコンクリートの通路を、エイダは重い鉄製のデッキブラシで洗い流していく。牛たちの糞尿と生乳が混ざり合った独特の生温かい匂いが、霧の水分を含んだ大気の中に閉じ込められ、逃げ場を失って低く漂っていた。パイプラインからバルククーラーへと送り込まれる生乳の、規則正しい吸排気のリズムだけが静まり返った牛舎に反響している。
三千リットルの保冷タンクの側面には、内部を巡る冷媒のせいでびっしりと水滴が結露していた。
「集乳車はまだ来ないのか」
事務所の引き戸を開けて、父のコリンが顔を出した。古びたキャスケット帽の鍔の下から、疲労の色が濃い灰色の目を覗かせている。
「途中のハイウェイでトレーラーが立ち往生しているらしいわ。マランダの農協を出たのが三十分前だって。ここへ着くのは七時を過ぎる」
エイダがホースのノズルを締めながら答えると、コリンは短く舌打ちをした。
「この霧だ。マランダへ抜けるカーブで事故でも起こさなきゃいいがな。……エイダ、俺は一度町へ行ってくる。トラクターの燃料フィルターの予備が切れてるんだ。明日の朝の給餌までに交換しておかないと、セルが回らん」
「今から? もう丘の下は見えないくらい真っ白よ」
「ヤングバラの給油所までなら十分で行ける。舗装路を外れなきゃ大丈夫だ。バルククーラーの攪拌モーターのランプだけ見ていてくれ。乳温が四度を超えたら警報が鳴る」
コリンはそれだけ言い置くと、キーを回してピックアップのエンジンを始動させた。薄暗い敷地の砂利を跳ね上げ、二条のヘッドライトが濃密な白い煙のような霧を切り裂きながら、私道を下っていった。その明かりも、百メートルも進まないうちにぼんやりとした黄色い滲みへと変わり、やがて完全に闇の底へ呑み込まれて消えた。
エイダはホースを壁のフックに掛け、吐息を白く染めながら立ち尽くした。
エンジン音が遠ざかると、世界から一切の輪郭が剥ぎ取られたような静寂が降りてきた。
耳を澄ますと、遠くの放牧地で草を食むホルスタインたちの、反芻する湿った顎の擦れ合いだけが微かに聞こえる。だがその姿はもう見えない。牧柵の白い木杭すら、手前の三本を残して乳白色の帳の向こうへと溶け去っていた。
風が止んでいた。
冷気が足首を撫でるように動き、どこか遠くで、古い木立の梢が軋む乾いた音が響いた。
それはこの高原で生まれ育ったエイダにとって見慣れた冬の夕暮れのはずだった。しかし今夜の霧は、普段よりも濃く、そしてどこか冷酷な重みをもって、足元の赤土に沈殿しているように思えた。
第一章 シルバーアッシュの境界標
ヤングバラという地名は、この地を開拓した入植者たちの言葉ではない。
古くからこの高原の雨林に暮らしてきた先住民ヤディニの言葉で、シルバーアッシュと呼ばれる大木を指す音に由来している。灰白色の滑らかな樹皮を持ち、空へ向かって真っ直ぐに幹を伸ばすその巨木は、かつて密林を覆い尽くしていたが、十九世紀末に入植者たちが斧を打ち込み、牧草地へと変えていった。
マシューズ家の農場は、一八九一年に祖父の代がクイーンズランド植民地政府から払い下げを受けた四十エーカーの土地が基盤になっている。
当時の記録によれば、原生林を切り倒して焼き払い、板壁の粗末な小屋を建て、樹皮を剥いで屋根を葺いた。赤土の粘土質は肥沃だったが、雨季には底知れぬ泥濘となり、冬には海岸部では考えられない冷気が開拓民の肺を痛めつけた。鉄道がヤングバラの駅まで敷設され、木材と生乳の出荷が本格化するまでの二十年余り、この高原は外界から隔絶された陸の孤島に等しかった。
エイダが事務所の電気ポットで濃い紅茶を淹れていると、壁に掛けられたセピア色の古い航空写真が目に入った。
一九五〇年代、ティナルー湖が農業用ダムとしてせき止められる直前に撮影された農場の全景だ。マシューズ家の敷地の北端は、深い熱帯雨林の残存地塊に接している。そこには今も、開拓初期に建てられ、やがて放棄されて朽ち果てた古いサイロの石組みと、板材の残骸が埋もれていた。
子供の頃、エイダはその北の境界へ行くことを固く禁じられていた。
「あそこには近づくな」
父のコリンはいつもそう言っていた。
「古い井戸の跡がある。草に覆われていて落とし穴になっているんだ。それに、昔の有刺鉄線が錆びてシダの下に埋まっている。破傷風になりたくなければ、フェンスの切れ目から先へは一歩も入るな」
だが、農場で働く古参の雇い人だった老人は、放牧地の杭を打ち直す作業の合間に、まったく別の理由をエイダに耳打ちしたものだった。
「古い境界にはな、名も残っていない入植者の家族の墓があるんだよ。鉄道が通る前、一八九〇年代のひどい冬のことだ。あの一角に入植した一家の母親が、霧の夜にいなくなった子供を探しに雨林へ入ったきり、戻らなかった。
春になって見つかったのは、倒木の下に落ちていた灯油ランタンの破片だけだったそうだ」
老人の話は、どこまでが真実でどこからが退屈な牧場暮らしの余談なのか判然としなかった。
高原の開拓史には、そうした遭難の記録が幾つも埋もれている。鬱蒼とした雨林は昼間でも薄暗く、ひとたび霧が立ち込めれば東西南北の感覚は容易に狂う。絞め殺しのイチジクの気根が複雑に絡み合い、シダの葉が視界を遮る密林の底で方向を見失えば、わずか数十メートルの距離であっても元の開墾地へ戻ることは不可能だった。
大人になるにつれ、エイダはその話を半ば忘れかけていた。
現代の農場には四輪駆動車があり、衛星測位の端末があり、強烈なハロゲンライトがある。自然の猛威は依然として警戒すべきものだったが、それは泥濘へのスタックや電牧の漏電といった、機械と電気のトラブルとして処理される日常の範疇にあった。
午後六時。
事務所の壁に設置された電牧システムの警告ブザーが、かすかに短く鳴って止まった。
エイダはカップを置き、計器盤を見上げた。第三放牧区の電圧を示す指針が、規定の八千ボルトから六千ボルトへとわずかに低下している。
漏電か、あるいは何かがフェンスのワイヤーに接触した証拠だった。
放牧地の境界に沿って張られた電線に、折れたユーカリの枝が引っかかることは珍しくない。だが、もし牛がフェンスを押し倒して外へ出ようとしているのだとすれば放置はできなかった。特に第三区の北側は、あの雨林の境界へと続く下り傾斜になっている。
エイダはため息をつき、ランタン型の大型充電式投光器を手に取った。
分厚いオイルスキンのフードを目深に被り、事務所の引き戸を引いて外へ出た。
外気は肌を刺すほど冷え込んでいた。息を吸い込むと、肺の奥まで冷たかった。
霧はすでに地表から数メートルの高さまで完全に満ちており、投光器の強力な白いビームを照射しても、光はわずか三歩先で乱反射して巨大な光の繭を作るばかりだった。光を強めれば強めるほど、かえって自分自身の視界が白い壁によって遮られてしまう。
エイダは投光器の光量をあえて落とし、地面の泥を斜めに照らすように構えた。頼りになるのは、足元に刻まれたトラクターのタイヤ痕と、赤土の感触だけだった。
第二章 乳白色の帳
放牧地のゲートへ向かう道は、昼間の記憶とはまるで別の地形のように思えた。
砂利を踏みしめる乾いた音が、湿った濃密な大気に吸い込まれて奇妙にくぐもる。五メートル進むごとに、背後の搾乳場の明かりが急速に薄れ、やがて完全に見えなくなった。空間の広がりを示す基準点がすべて消失し、エイダはまるで自分が乳白色の溶液の底を一人で歩いているような錯覚に囚われた。
「ヘイ、ガールズ。ヘイ」
エイダは声を出しながら歩いた。牛たちに自分の接近を知らせるための、日頃からの習慣だった。通常であれば、暗がりの中から重たい鼻息や、耳を振るパタパタという音が返ってくるはずだった。
しかし、返答はなかった。
電牧のワイヤーに沿って第三放牧区の北端へ近づくにつれ、地面の傾斜が急になっていく。放牧用の改良牧草であるキクユグラスの絨毯が途切れ、土が露出し、湿った黒い腐植土と赤土が混じり合う独特の匂いが鼻を突いた。熱帯雨林の縁に達したのだ。
投光器の光を足元へ滑らせたエイダは、息を呑んで立ち止まった。
電牧の最上段のワイヤーが外れ、支柱のプラスチック碍子が粉々に砕けていた。
地面のぬかるみには、深くえぐられた二股の蹄の跡が残されている。
「四十四番……」
エイダの脳裏に、先週導入したばかりの若い未経産牛の姿が浮かんだ。まだ環境に慣れておらず、群れから離れがちだった神経質なホルスタインだ。夕方の給餌の際、どこか落ち着かない様子で北の境界フェンスを見つめていたのを思い出す。
蹄痕は、切れたワイヤーを越えて、雨林へと続く暗い茂みの中へとまっすぐに伸びていた。
「嘘でしょう」
エイダは呟いた。
このまま雨林の奥へ逃げ込まれ、倒木や蔓に絡まって身動きが取れなくなれば、古い井戸の跡に落ちて脚を折る危険がある。骨折した牛は屠殺するしかない。
ポケットから携帯電話を取り出したが、画面のアンテナピクトは一本も立っていなかった。深い霧の層と谷あいの地形が電波を完全に遮断している。父の帰りを待つ時間はない。
牛がパニックを起こしてさらに奥へ暴走する前に、せめて視界の届く範囲で足止めをしなければならなかった。
エイダは腰のホルダーから予備のハンドライトを抜き、点灯させた。
雨林の境界面は、巨大な壁のように立ちはだかっていた。
ツリーフェーン(木生シダ)の巨大な葉が傘のように広がり、その隙間からシルバーアッシュの太い幹が、霧の闇の中へ白い骨のようにそびえ立っている。一歩足を踏み入れると、地面の感触が劇的に変わった。厚く積もった落葉がスポンジのように沈み込み、靴底に冷たい泥水が染み出してくる。
植物の葉の表面に凝結した霧の滴が、時折、大きな塊となって頭上のフードを濡らした。
「おい、戻れ。戻りなさい」
エイダは低く、しかし通る声で呼びかけた。
茂みの奥から、枝が折れる微かな音が聞こえた。距離にして三十メートルほど先だろうか。牛の体重が下草を押し潰すような重々しい気配だった。
「四十四番?」
エイダは足元の露出した木の根を跨ぎ、慎重に前へ進んだ。外套の袖に、棘を持つ蔓植物の鋭い爪が引っかかり、嫌な引き裂き音を立てる。それを引き剥がしながら目を凝らしたとき、前方の霧の層が、わずかに黄色く揺らいだ。
光だった。
最初は自分の投光器の照り返しかと思った。しかし違う。光はエイダの手元から放たれているのではなく、十数メートル前方の、濃密なシダの茂みの向こう側から漏れ出していた。
それは白く鋭い現代のLEDの光線ではなかった。
油が燃えるような、赤みを帯びた、鈍く温かみのある橙色の灯りだった。小さな火の玉のように、霧の粒子を柔らかく照らし出しながら、前後にゆっくりと揺れている。まるで誰かが、手提げのランプを腰の高さに下げて歩いているかのように。
エイダの全身の皮膚に、冷たい粟粒が立った。
こんな夜更けの雨林の奥に、誰がいるというのか。密猟者か。あるいは、隣の農場の誰かがフェンスの異常に気づいて見回りに来たのか。
だが、その光の揺れ方はあまりにも静かで、下草を掻き分ける音すら伴っていなかった。
第三章 灯りの揺らぎ
「誰ですか」
エイダは投光器をその光へ向けた。
しかし、強力なビームを当てた瞬間、その橙色の灯りは霧の中にふっと溶けるように輪郭を失い、ビームを外すと、再び同じ場所で頼りなげに揺らめいた。光の背後に、ぼんやりとした人影が浮かび上がっている。外套を羽織った背中。
頭部には布のようなものを巻き、前かがみの姿勢で、ゆっくりと雨林の奥へ向かって歩いているように見えた。
「エイダ」
声がした。
低く、霧の湿り気を含んだその声は、木々の間を縫うようにして直接エイダの耳朶を打った。エイダはその場に凍りついた。
「……お父さん?」
それは紛れもなく、父のコリンの声に聞こえた。少し掠れた、語尾を低く落とす独特の抑揚。町へ行ったはずの父が、早く用件を済ませて戻り、異常に気づいて探しに来てくれたのだろうか。
「お父さんなの? そっちへ行っちゃ駄目、古いサイロの跡があるのよ」
エイダが叫ぶと、前方の灯りがピタリと止まった。そして、ゆっくりとこちらへ振り返る気配があった。
「こっちだ」
声が再び響いた。
「エイダ。こっちへおいで」
安堵感が胸を満たしかけた。エイダは足をもつれさせながら、灯りに向かって泥濘を踏み出した。
「四十四番が逃げたの。フェンスが切れてる。電牧の碍子も壊れてて……」
言いながら歩み寄るが、なぜか距離が縮まらない。エイダが三歩進むと、灯りも同じ速度で三歩分、霧の奥へと退いていく。足元にはぬかるんだ窪地が続き、いつの間にか、周囲の木々は見たこともないほど太い原生林の巨木へと変わっていた。
頭上を覆うツリーフェーンの葉が外からのわずかな光すら遮断し、世界は完全にその橙色の灯火一つだけに支配されていた。
奇妙だった。
父が来ているのだとすれば、なぜピックアップのヘッドライトの明かりが見えないのか。なぜ充電式のハンドライトではなく、そんな古いオイルランタンのような心もとない灯りを持っているのか。それに、あの作業着の擦れる音も、泥を跳ね上げる重い長靴の音も聞こえない。
聞こえるのは、ただ木の葉から滴り落ちる水滴の音と、自分自身の乱れた呼吸音だけだった。
「お父さん、止まって! ライトを点けて!」
エイダが足を止めて叫んだ。前方の灯りが、再び静止した。
距離はおよそ十メートル。霧の膜の向こうに、その人物の輪郭が今度は少しだけ明瞭に透けて見えた。
背丈は父よりもずっと低い。肩幅は狭く、着ているのは父の愛用しているオイルスキンのベストではなく、足首まで届くような、擦り切れて泥にまみれた長いスカートのような裾だった。頭を覆っているのもキャスケット帽ではない。
湿気で重く垂れ下がった、粗末な木綿のスカーフだった。
その輪郭が、ゆっくりとこちらを向いた。掲げられた真鍮の角型ランタンのガラス越しに、揺れる小さな炎がその人物の胸元を照らし出している。
エイダの喉がひくりと引き攣った。
声が聞こえた。先ほどと同じ、穏やかで、愛しげで、切迫した呼び声だった。だが今度は、その響きに含まれる言葉が、エイダの鼓膜の奥でまったく異なる意味を結んだ。
それは父の声ではなかった。
耳が記憶している親しい者の響きを借りて脳が勝手に補正していただけの、まったく見知らぬ、酷く古い響きを持った女の掠れ声だった。そして女が呼んでいたのは、エイダの名ではなかった。
「エドワード」
女はそう呼んでいた。
息を呑んだ。指だった。
ランタンを掲げている女の右手が、霧の裂け目から露わになっていた。それは手袋をはめていなかった。雨林の泥にまみれ、寒さで土気色に変色し、爪の間に黒い土をびっしりと詰まらせた、痩せこけた指先だった。
皮膚は水気を吸ってふやけ、所々が赤紫色の霜焼けで破れていた。その指が、狂おしいほどの力でランタンの細い真鍮の取っ手を握りしめている。
「エドワード。寒かったでしょう。どこへ行っていたの」
女の顔は、濃密な霧とスカーフの影に隠れて判然としなかった。しかし、その影の奥にある二つの窪みだけが、燃えるような執念を宿してエイダを見つめていた。
それはエイダの姿を見てはいなかった。ただ、霧の中に浮かぶ若い人間の輪郭を、百三十年前にこの森の底で見失った我が子の姿だと信じ込み、疑うことすら忘れてしまっている眼差しだった。
エイダの背筋を、氷水を流し込まれたような戦慄が駆け抜けた。
害意ではない。呪い殺そうという悪意でも、憎悪でもない。ただひたすらに我が子を探し求め、冷え切った夜の森を永遠に彷徨い続ける母親の、底知れぬ狂気と安堵がそこにあった。
だからこそ、抗いようのない恐怖だった。捕まれば最後、自分はこの女の「見つかった子供」として、二度と戻れない過去の暗がりへと連れ去られてしまう。
「違う」
エイダは掠れた声を出した。
「私は、違う」
女が一歩、前に踏み出した。地面の落ち葉は音を立てなかった。ただ、女が動いた瞬間、周囲の大気が凍りつくように冷たさを増し、ランタンの灯油の饐えた匂いと、百年の時を経て腐敗した泥の匂いがエイダの鼻腔を直撃した。
「さあ、家へ帰りましょう。お父さんが暖炉に火を熾したわ。ジャガイモも煮えているのよ。手をお出し」
泥まみれの指先が、エイダの胸元へ向かってまっすぐに伸ばされた。その皮膚から立ち上る冷気だけで、エイダのジャケットの襟元に霜が降りるのが見えた。
逃げなければならない。だが、足が動かなかった。恐怖のあまり膝の関節が固定され、まるで地面の赤土が泥の手となって長靴の底を掴んで離さないかのようだった。
第四章 終わらない夜の足跡
女の手が、エイダの左肩に触れようとした。
その刹那、エイダの手の中で激しい電子音が鳴り響いた。手首のストラップでぶら下がっていた投光器のバッテリー残量警告ブザーだった。けたたましい高周波の電子音が、静寂に閉ざされた雨林の空気を切り裂いた。
女の輪郭が、水面に落としたインクのように微かに波打った。伸ばされた指先が虚空を掻き、エイダの肩をかすめた。触れられた部分のオイルスキンが、まるで液体窒素を浴びせられたかのように白く凍りつき、バリバリと音を立てて硬化した。
強烈な痛みが肩の皮膚を貫いた。その激痛が、エイダの麻痺していた神経を強制的に覚醒させた。
「いや!」
エイダは叫び、手にした投光器を無我夢中で前方の空間へ投げつけた。重たいプラスチックの塊は、女の胸元を正確にすり抜け、その背後のシダの葉を激しく揺らして泥の中へと落ちた。手応えはまったくなかった。
水滴のカーテンを突き破ったのと同じだった。
エイダは反転した。
足元の腐植土を蹴り飛ばし、来た道を狂ったように走り出した。どちらが北でどちらが南か、視覚的な情報は一切遮断されていた。霧は先ほどよりも密度を増し、ハンドライトの光すら手元の指先を照らすのがやっとだった。
背後から、あの声が追ってきた。
「エドワード! なぜ逃げるの!」
声はもはや穏やかな響きを失っていた。絶望と、狂乱に満ちた叫びとなって、四方八方の木々の幹に反響した。
「走っちゃ駄目! そっちは谷よ! エドワード! 母さんはここにいるわ!」
足音が聞こえるわけではなかった。ただ、背後の気温が異常な速度で低下していくのが分かった。吐く息が即座に氷の粒となって襟元にへばりつく。
振り返らなくても分かった。あの女が、擦り切れたスカートを引きずり、橙色のランタンを振り乱しながら、霧の粒子そのものとなって背後に迫っているのだ。
鋭い枝がエイダの頬を裂いた。温かい血が滲み出たが、痛みを感じる暇はなかった。右足が巨大な木の根に引っかかり、エイダは前のめりに激しく転倒した。
冷たい赤泥が顔の半分を覆い、口の中に鉄の味と土の匂いが広がった。ハンドライトが手から滑り落ち、数メートル先の下草の中で虚しく上空を照らしている。
起き上がろうとしたエイダの手が、泥の中に埋もれていた硬いものに触れた。
滑らかな、風化しかけた木材の感触だった。それは地表に突き刺さった、角柱の杭だった。指先で手探りすると、木材の表面に深く刻み込まれた文字のような窪みがあった。
それは祖父や父が立てた牧柵の杭ではなかった。もっと古い、手斧で荒削りされた硬い木——シルバーアッシュの心材で作られた、百年前の標柱だった。そしてその杭の周囲には、錆び果てて脆くなった古い有刺鉄線が、何重にも絡みついていた。
「見つけた」
頭上から、冷酷なまでに優しい声が降ってきた。冷気が頭頂部を包み込み、毛髪が逆立つ。橙色の光が、エイダが倒れ込んでいる泥の窪みを丸ごと照らし出した。
見上げると、女が立っていた。スカーフの奥から垂れ下がった濡れた黒髪の間から、狂気と愛情に歪んだ白い顔が覗いていた。女の唇は寒さで紫色に変色し、歯がガチガチと激しく打ち合わされていた。
女は膝をつき、エイダの顔を覗き込もうと、両手を伸ばしてきた。
「さあ、立ちなさい。もうどこへも行かせないわ」
氷の指が、エイダの首筋に触れようとした。
エイダは叫び声を呑み、泥の中から掴み出した古い有刺鉄線の束を、両手で力任せに引き抜いた。錆びた鉄の棘がエイダの手のひらを裂き、鮮血が噴き出した。だがその痛みを梃子にして、エイダは鉄線の塊を、自らと女の顔の間に力任せに押し立てた。
何かが起きたわけではなかった。聖なる光が放たれたわけでも、悪霊が悲鳴を上げて退散したわけでもない。ただ、エイダの手から溢れ出した生々しい血の匂いと、現実に存在する冷たい鉄の感触が、狂乱した時空の歪みをわずかに押し戻したようだった。
女の手が、有刺鉄線の手前でピタリと静止した。その濁った瞳が、エイダの流す血の色を、そしてエイダの歪んだ顔の輪郭を、凝視した。
「……エドワード?」
女の声に、迷いが生じた。
「エドワードなの? あなたは……」
その顔に浮かんだのは、怒りではなかった。自分の腕の中にいるはずの存在が、求めていた我が子ではないという事実に直面した、底知れぬ困惑と、そして耐え難いほどの落胆だった。
「違う……」
女は震える唇で呟いた。
「あなたは、私のあの子じゃない」
その瞬間、エイダは泥を蹴って転がるように身を起こした。標柱の位置が分かれば、方角は割り出せる。この古い開拓境界の標柱は、農場の北東の角、傾斜が最も緩やかになる尾根筋に沿って打たれていたはずだった。
エイダは有刺鉄線のラインに沿って、泥濘の斜面を四つん這いになりながら駆け上がった。手のひらの傷から血が滴り、赤土の上に点々と黒い染みを作っていく。
背後から、もう呼び声は聞こえなかった。ただ一度だけ、霧の底から、この世のものとは思えない深い嗚咽が響いた。それは我が子を取り戻せなかった母親の、そして永遠に終わることのない捜索へと再び送り返された魂の、果てしのない絶望の呻きだった。
エイダは振り返らなかった。ただ前へ、上へと這い登り続けた。
やがて、冷たいプラスチックの感触が指先に触れた。電牧の白いフェンスだった。第三放牧区の、折れていない二段目のワイヤーだった。
エイダはフェンスを潜り抜け、牧草地のキクユグラスの上へ倒れ込んだ。遠くで、ブザーの音が聞こえていた。事務所の攪拌機の警報ではなく、ピックアップのクラクションの、短く断続的な反復だった。父が町から戻ってきたのだ。
終章 朝のサイロ
午前七時。
東の空から差し込んだ冬の陽光が、アサートン高原を覆っていた濃霧の天幕を、端から黄金色に焼き払っていった。標高七百メートルの澄み切った大気の中に、昨日までの陰鬱な白の世界が嘘のように晴れ上がり、遠くのバートル・フリア山の青い山影が鮮やかにその姿を現していた。
集乳ローリーの巨大なステンレスタンクが、朝日に輝きながらマシューズ農場の私道をゆっくりと下っていく。運転手は遅れたことを幾重にも詫び、エイダの包帯が巻かれた両手を見て眉をひそめたが、深い追求はしなかった。有刺鉄線で手を切る酪農家など、この高原には珍しくもなかったからだ。
「フェンスは直しておいた」
コリンが工具箱をピックアップの荷台に放り込みながら言った。目の下に濃い隈が張り付いている。
昨夜、泥まみれで放牧地の縁に倒れ込んでいたエイダを発見したとき、父は何も聞かなかった。ただ黙ってエイダを担ぎ上げ、温かいシャワーを浴びさせ、傷口を消毒した。
「四十四番も見つかったよ。古いサイロの石組みの脇で、朝露に濡れて突っ立っていた。怪我はひとつもない。……ただ」
コリンは煙草を取り出し、ライターで火をつけた。煙が冷たい朝の空気に白く溶けていく。
「あそこにあったシルバーアッシュの古い標柱だがな。根元が腐って倒れかけていた。昔の入植者の境界杭だ。
……お前にも昔、話したことがあったな。あそこには昔、小さな家があったんだ。百二十年以上前、最初の冬を越せなかった家族のな」
「……知ってるわ」
エイダは短く答えた。手のひらの包帯の上から、ずきずきと脈打つ痛みが伝わってくる。昨夜の出来事を警察に話すことも、歴史協会に報告することも、彼女はしなかった。
話したところで、精神の失調か、低体温症による幻覚として処理されるのが関の山だった。
朝食を終えたエイダは、一人で第三放牧区の北端まで歩いた。昨夜の悪夢のような泥濘は、冷たい朝の風に吹かれて表面を乾かし始めていた。新しく張り直された電牧ワイヤーの向こう側、雨林の縁に、巨大なツリーフェーンが朝露を浴びて静かに葉を広げている。
その足元、赤土と黒い腐植土の境界に、エイダは立ち止まった。
そこには、二組の足跡が残されていた。
一つは、昨夜エイダが履いていた作業用長靴の、深い溝が刻まれた大きな泥の窪み。そしてもう一つは、そのすぐ脇に並ぶようにして残された、細く、小さな、底の平らな古い革靴の跡だった。踵の角が削れ落ち、爪先が丸まったその歩行痕は、雨林の奥からまっすぐに伸びてエイダの足跡の直前で立ち止まり、そして再び、鬱蒼としたシダの茂みの奥へと引き返していた。
その歩幅は狂おしいほど狭く、立ち止まり、躊躇い、そしてまた彷徨い歩いた形跡を克明に留めていた。
エイダはポケットに手を入れた。朝の陽光が頭上から降り注いでいるというのに、足元から立ち上る空気だけは、どこか冷たく湿っていた。
祈りの言葉は浮かばなかった。塩を撒くことも、花を手向けることもしなかった。そんな生半可な慰めで鎮まるような夜ではないことを、エイダは肌で知っていた。
牛舎の方から、朝の搾乳を待つ牛たちの低い鳴き声が風に乗って聞こえてきた。エイダは足跡の縁にしゃがみ、指先で小さな革靴の踵の形をなぞってから、そっと手を離した。
その日の夕方、搾乳を終えて外へ出ると、谷の底から白いものが、また、ゆっくりと持ち上がり始めていた。

まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。