序章 農道に揺れる光

午前三時を回った製糖所の北門の警備所には、湿った熱帯の夜気が重く沈んでいた。

アルゼンチン北西部、アンデスの東の麓に広がるオラン県の平野は、三月に入っても真夏の暑さが抜けない。トタン屋根は昼間に吸い込んだ熱をじりじりと吐き出し、蛍光灯のまわりでは、翅の大きな蛾がいくつも狂ったように回っていた。

詰所の木のベンチに腰掛けていた五十代の女性警備員ミルタは、金属のボンビージャから、ぬるくなったマテ茶の最後の一口を吸い上げた。

ずず、という乾いた音が、狭い部屋に響いた。

向かいのパイプ椅子に座っていた年配の警備員エステバンが、煙草の灰を空き缶に落としながら、暗い窓の外へ目を向けた。

「おい、ミルタ。あれを見ろ」

エステバンが指さした先——遮断機の向こう、北へまっすぐ延びる赤土の農道の奥で、小さな光が揺れていた。

懐中電灯の光だった。

だが、その揺れ方が異様だった。

見回りの警備員が足元を照らしながら歩くような、規則正しい揺れではない。上下に激しく跳ね、左右に大きくぶれながら、ものすごい速さでこちらへ近づいてくる。

「誰だ、こんな時間に走ってるのは。見回りのトラックはどうした」

ミルタは眉をひそめ、腰のベルトから重い懐中電灯を抜いて立ち上がった。

この季節、サトウキビの刈り入れは行われていない。

五月に始まる「サフラ」と呼ばれる収穫と製糖の季節まで、何千ヘクタールもの畑では、人の背丈を越えて伸びたサトウキビが、ただ風に揺れているだけだ。畑の奥に置かれた収穫機や給水ポンプを見張る夜番が何人か配置されている以外、深夜の農道に人がいるはずはなかった。

光はみるみる大きくなり、やがて遮断機の数十メートル手前から、喉が裂けるような荒い息づかいが、夜気を裂いて届き始めた。

照明の輪の中に飛び込んできたのは、黄色い反射ベストを着た若い男だった。

「開けてくれ! 頼む、開けてくれ!」

男は叫びながら、閉じた鉄のゲートに体当たりするように倒れ込んだ。

ミルタたちが詰所から駆け出すと、男は鉄パイプの柵に爪を立てたまま、砂利の上に崩れ落ちた。

全身から汗が噴き出し、作業ズボンの膝から下には、泥と赤土がびっしりとこびりついていた。

顔からは血の気がすっかり引き、蝋のように白くこわばっていた。

「マテオじゃないか。どうした、第六区画の収穫機の番をしていたはずだろう」

エステバンが男の肩を揺さぶった。

マテオと呼ばれた二十一歳の若者は、引きつるように首を振り、背後の暗闇を指さそうとした。

だが、右腕はがくがくと震え、指先は宙を虚しく引っかくだけだった。

目は大きく見開かれ、唇は寒くもないのに、がちがちと鳴り続けていた。

「……いたんだ」

泡を噛むような、掠れた声だった。

「後ろに……ずっと、後ろにいたんだ。帽子をかぶった奴が……鎖を引きずって、畑の中から……」

若者はそれ以上言葉を続けられず、胃液を地面に吐き出すと、子供のように丸まって震え始めた。

ミルタの懐中電灯の強い光が、ゲートの向こうの闇をひと薙ぎした。

赤土の一本道の両側には、背の高いサトウキビが黒い壁のように続き、その葉がかすかに揺れているだけだった。

だが、その夜風に乗って、焦げた硫黄のような、何かが腐って乾ききったような匂いが、詰所の前まで低く漂ってきたのを、二人は確かに感じていた。

第一章 休みの季節

サルタ州オラン県は、ボリビアとの国境に近い、亜熱帯の肥えた低地にある。

西には雲に包まれたアンデスの前山が壁のように連なり、東にはチャコ地方の乾いた森が広がる。その間の広い平野を、何世代にもわたって支配してきたのが、見渡すかぎりのサトウキビ畑と、巨大な煙突を空に突き立てた製糖所——インヘニオだった。

十九世紀の終わり、ヨーロッパから持ち込まれた蒸気機関と精糖の設備によって、北西部の平野は「砂糖の国」に変わった。

毎年五月になると、近くの山村や先住民の村から何千人もの季節労働者が集められ、家族総出でサトウキビを刈り倒し、葉を落とし、荷車に積み込んだ。

その仕事は過酷だった。昼は四十度を超える暑さ、夜は湿地から湧く蚊と熱病。圧搾の重い鉄のローラーに腕を挟まれる者、疲れ果てて畑に倒れる者が後を絶たなかった。

労働者たちは権利を求めて組合をつくり、何度もストライキを打った。一九六六年には、軍事政権のもとで隣のトゥクマン州の製糖所が次々と閉鎖され、多くの人が職を失った。その後の軍政の時代には、北西部の製糖地帯でも、声を上げた組合員や若い労働者が連れ去られ、行方の分からないままになった。

誰が彼らを連れ去ったのか。当時、それを語る記録はなかった。

ただ、この土地の人々のあいだでは、百年以上前から語り継がれてきた古い怪物の名が、恐れとあきらめをこめて囁かれ続けていた。

——エル・ファミリアール。

製糖所の持ち主が、富を保つために悪魔と契約を結び、その見返りとして、毎年、働く者の命をひとつずつ差し出しているのだという。

悪魔の遣わすその怪物は、赤い目をした大きな黒い犬の姿をとることもあれば、つばの広い黒い帽子をかぶった、ひどく背の高い男の姿で現れることもある。

それが近づくとき、夜の中には必ず、重い鉄の鎖を引きずる音が響く。狙われた者はサトウキビの茂みの奥へ引きずり込まれ、二度と戻らない。

学者たちは、それを、過酷な労働を押しつけ、逆らう者を黙らせるために使われてきた恐怖の物語だと説明した。

だが、この緑の海の中で泥にまみれて生きてきた人々にとって、ファミリアールは、ただのたとえ話ではなかった。

マテオが、製糖所の下請けの警備会社で働き始めたのは、二〇一九年の初めのことだった。

高校をやめ、町の自動車修理工場で雑用をしていたが、長引く不況で仕事を失った。病気がちな母と二人の幼い妹を養うために、彼は、時給のわずかにいい夜番——セレーノの仕事に応募した。

収穫のない季節の夜番は、退屈と孤独の繰り返しだった。

日が暮れると軽トラックで畑の奥まで運ばれ、畑の角の空き地に停められた収穫機の番を言いつけられる。高価な大型機械のバッテリーや軽油が、夜のうちに盗まれるのを防ぐための見張りだった。

詰所などない。

大きなタイヤの陰に置いたプラスチックの折りたたみ椅子に座り、蚊取り線香を焚き、魔法瓶の冷たいマテ茶をすすりながら、ただ夜が明けるのを待つ。

「おい、マテオ」

最初の夜、持ち場へ向かう前に、エステバンが彼の肩を叩いて言った。

「夜中に機械のまわりで妙な音がしても、畑の中へ探しに入るなよ。明かりを消して、じっとしていろ。……とくに、鎖の擦れる音が聞こえたら、振り返らずに走れ」

マテオはその言葉を、新入りをからかう古株の冗談だと思った。

二〇一九年のいま、悪魔の飼い犬などいるはずがない。スマートフォンを取り出せば、画面にはブエノスアイレスの流行りの音楽や、ヨーロッパのサッカーの試合が鮮やかに流れている。

闇の奥の古い怪物など、昔の貧しさが生んだ幻にすぎないと、彼は本気で思っていた。

その夜、北門の詰所で夜勤についていたミルタは、休憩のたびに、腰の後ろに差した古いナイフの柄を、確かめるように指で触れていた。

祖父の形見のファコンだった。

祖父は若い頃、毎年五月になると山の村から下りてきて、この製糖所の畑でサトウキビを刈った。刈り入れの季節が終わると、村へ帰るトラックの荷台で、孫たちに畑の夜の話をして聞かせた。

鎖の音を聞いたら、刃を十字に構えろ。弾は効かない、ナイフの十字だけが効くのだ、と。

子供の頃のミルタは、それを笑って聞いていた。けれど、この詰所で夜を過ごすようになってから、なぜか、そのナイフを家に置いてくる気になれなくなっていた。

第二章 降ってくる石

その夜、空に月は出ていなかった。

低く垂れこめた湿った雲が星の光をすっかり覆い隠し、サトウキビ畑は、平らな黒いインクの海のようになっていた。

マテオの持ち場は、精糖工場から北へ四キロほど離れた、第六区画の角の空き地だった。

まわりは、人の背丈を越えて伸びたサトウキビの壁に、三方を囲まれている。

その空き地の真ん中に、鋼鉄の巨大なカマキリのような収穫機が、腕を折りたたんだまま、冷たく黙って停まっていた。

午前二時を回っていた。

スマートフォンの電池はもう切れ、予備の電池も空になっていた。

マテオは退屈に耐えかねて立ち上がり、伸びをしながら、遠くの幹線道路を行き交う長距離トラックの、にじんだヘッドライトの明かりを眺めていた。

風はぴたりと止まっていた。

湿った夜気が首筋にまとわりつき、汗が作業着の背中を重く濡らしていた。

ぱちん。

鋭く、硬い音が耳を打った。

マテオの身体がびくりとこわばった。

収穫機の運転席のガラスに、何かが当たった音だった。

虫か、枯れ枝が落ちたのだと思った。

だが、頭の上に木はない。まわりにあるのは、柔らかなサトウキビの葉だけだった。

ぱらぱら、ぱらぱら。

今度は続けざまだった。

空から乾いた小石の群れが降ってきたように、機械の屋根とガラスを、無数の小さな粒が叩いた。

マテオは息を呑んで椅子から飛びのいた。

懐中電灯をつけて、機械の足元を照らした。

赤土の上に、親指ほどの大きさの、角のとがった川砂利が十いくつも転がっていた。

このあたりの畑の土は、きめの細かい赤い粘土で、こんな砂利が自然に転がっているはずはなかった。

「誰だ!」

マテオは声を張り上げた。

「そこにいるのか! 軽油を盗みに来たんなら、警察を呼んだぞ!」

声は、サトウキビの壁の中に吸い込まれ、何も返ってこなかった。

自分の心臓が肋骨の内側を叩く音だけが聞こえていた。

いたずらだ、とマテオは自分に言い聞かせた。

近くの集落の悪ガキどもが、新入りの夜番を怖がらせて面白がっているに違いない。

彼は懐中電灯の光を水平にして、空き地のまわりをぐるりと照らした。

サトウキビの葉が、光の輪の中で白く浮かび上がる。

誰もいなかった。

茂みの際まで照らしても、人の影も、葉を押し分けた跡もなかった。

そのときだった。

どうん!

すさまじい音が響き、収穫機の巨体がわずかに軋んだ。

子供の頭ほどもある泥まじりの石が、マテオの頭のすぐ上をかすめ、運転席を守る鉄の格子に叩きつけられたのだ。

格子が大きくへこみ、錆と塗料のかけらがマテオの顔に飛び散った。

人が手で投げられるような重さの石ではなかった。

それが、見えない何かから放たれたように、ほとんど水平に近い軌道で飛んできたのだ。

マテオの膝から、すっと力が抜けた。

恐怖が、背骨を駆け上がった。

これは人間じゃない。いたずらでも、泥棒でもない。

何かが、闇の奥から、はっきりと自分を狙って石を投げている。

第三章 つば広の帽子

マテオは懐中電灯を握りしめたまま、収穫機の大きな後輪の陰に身を縮めた。

息を殺し、耳を澄ませた。

音が、近づいてきていた。

じゃら……。

じゃらり……。

重く太い鉄の輪が、擦れ合う音だった。

何十キロもある無骨な鉄の鎖が、乾いた赤土の上を引きずられ、石を噛みながら近づいてくる音。

その音には、一定の間があった。引きずられ、持ち上げられ、また地面に落ちる。じゃらり、じゃらり。

マテオは震える手でレンズを覆い、光をぎりぎりまで絞って、指の隙間から前を覗いた。

音の出どころは、収穫機の正面、二十メートルほど先の、サトウキビの壁が途切れて農道へ抜ける切れ目だった。

そこに、立っていた。

最初は、立ち枯れた木の影かと思った。

だが、その輪郭はあまりに高く、あまりにまっすぐだった。

背丈は、二メートル半を優に超えていた。

全身を、泥を吸って黒ずんだ、分厚い布のようなもの——古いポンチョのようなもので覆っている。

そしてその頭には、つばの広い黒いフェルトの帽子を、目深にかぶっていた。

帽子の影に隠れて、顔は見えなかった。

目も、鼻も、口も、そこにはないかのように、真っ黒な空洞があるだけだった。

ただ、その空洞の奥から、針の先ほどの濁った赤い光が二つ、まっすぐにマテオの隠れているタイヤの陰を射抜いていた。

布の隙間から、太い鎖が一本、地面に垂れていた。

錆びた鉄の輪がその足元でとぐろを巻き、影が前へ出るたびに、じゃらり、と鈍い音を立てて土を削った。

マテオの喉がひきつり、息が吸えなくなった。

逃げ場はなかった。

背後には巨大な機械があり、左右には、踏み込めば方向を失うサトウキビの壁が迫っていた。

影は、ゆっくりと、しかし確かに近づいてきた。

十メートル。

八メートル。

影が、立ち止まった。

そして、顔のない頭を、わずかに仰向けた。

声が響いた。

人の喉から出る言葉ではなかった。

巨大な圧搾の石臼が、噛み合わずに擦れ合うような、耳の奥をじかに引き裂く叫びだった。

地鳴りのような低い響きが夜気を震わせ、マテオの胸を内側から押しつぶした。

言葉の意味は分からなかった。

けれど、その叫びに込められた意思だけが、頭の中にじかに叩き込まれた。

——よこせ。

マテオは叫んだ。

自分の声だったのか、恐怖で喉が勝手に鳴ったのか、分からなかった。

彼は懐中電灯を放り出し、タイヤの陰から飛び出した。

影の立っている切れ目を避け、空き地の反対側の、別の農道の入り口へ、転がるように身を投げた。

背後で、どん、というすさまじい音が弾けた。

振り返る余裕はなかった。

だが、あの巨大な収穫機が、巨人の拳で殴られたように、ぎしぎしと悲鳴を上げて揺れたのが分かった。

マテオは走った。

あたりは真っ暗だった。明かりのない夜道では、足元の窪みさえ見えなかった。

何度も溝に足を取られ、膝を打ち、手のひらを石で擦りむきながら、それでも立ち上がり、手足を狂ったように動かし続けた。

背後から、あの音がついてきていた。

じゃら……じゃら……。

どれほど必死に走っても、鎖の擦れる音は、いつも背中の十メートルほど後ろにいて、少しも離れなかった。

吐く息が肺の奥で血の味に変わり、心臓が破れそうに痛んだ。

だが、足を止めれば、あの冷たい鉄の輪が首に巻きつき、二度と戻れないサトウキビの根元へ引きずり込まれる。

その恐怖だけが、痺れかけた足を、前へ、前へと動かし続けていた。

第四章 詰所

暗い農道を何キロ走ったのか、マテオ自身にも分からなかった。

やがて、目の端に、黄色いナトリウム灯の光がにじんで見えた。

製糖所の北門の警備所だった。

遮断機の前に倒れ込んだマテオをミルタとエステバンが抱き起こしたのは、まさにその限界の瞬間だった。

二人は取り乱したマテオを詰所の狭い部屋へ引きずり込み、頑丈な木の扉を閉めて、太い鉄の閂を差し込んだ。

「落ち着け、マテオ! 水を飲め!」

ミルタがコップを押しつけたが、マテオの手はひどく震え、水は半分以上床にこぼれた。

エステバンは腰の拳銃を抜き、弾を確かめた。

だが、六十を過ぎた古参の警備員の手もまた、かすかに震えていた。

「エステバン、見たのかい」

ミルタが扉の覗き窓から外を見つめたまま尋ねた。

「いや、姿は見えん。……だが、匂いがする」

エステバンが鼻をひくつかせた。

閉じた扉の隙間から、あの硫黄と腐れの混じったような匂いが、じわじわと部屋に入り込んできていた。

外で、異変が起きた。

詰所のすぐ裏の、頑丈な金網のフェンスが、ぎしぎしと軋み始めたのだ。

何かが、その巨体を金網に押しつけ、押し破ろうとしているような、重い力がかかっていた。

同時に、トタン屋根の上から、ばたばたと激しい揺れが伝わってきた。

風ではない。何かが屋根の端をつかんで、力まかせに揺さぶっているような揺れだった。

「銃は効かないよ」

ミルタが低い声で言った。

彼女の祖父は、若い頃、サフラの季節ごとにこの製糖所の畑で働いた男だった。

「じいさんがよく言ってた。ファミリアールに鉛の弾を撃ち込んでも、油を吸った海綿みたいに、弾を呑み込んじまうだけだって」

エステバンは銃を下ろさなかったが、引き金にかけた指は固まっていた。

外の金網が、めきっ、と音を立てて、支柱ごと傾いた。

遮断機の黄色い棒が、見えない力で根元からへし折られ、アスファルトの上に転がり落ちる鈍い音が響いた。

マテオは床にうずくまり、両耳を塞いで震えていた。

頭の中で、あの石臼の擦れ合うような叫びが、いまも鳴り続けていた。

それは、門を越えて、すぐそこまで来ていた。

自分を連れていくために。

ミルタは、ふと床に目を落とした。

扉の下の、わずか数ミリの隙間だった。

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