序章 更地を渡る潮風
二〇一八年の初夏、スマートフォンに送られてきた一枚の写真には、何の変哲もない四角い赤土の敷地が写っていた。
まわりを囲む灰色のブロック塀の向こうに、青く霞む港のクレーンと、造船所の大きなドックの骨組みが見えている。
重機に踏み固められた粘土質の土の上に、砕けたコンクリートの基礎のかけらと、錆びた細い鉄筋の切れ端が、まばらに散らばっていた。
写真の下には、弟のドヒョンからの一行だけのメッセージが添えられていた。
——今日、全部壊したって。
二十三年だった。
一九九五年の秋、私たち家族四人がそこへ移り住み、やがて逃げ出すように売り払い、別の持ち主の手を経て、とうとう更地に戻されるまでに流れた時間だった。
ソウルのオフィス街の喫茶店でその写真を見つめながら、私の指は無意識に、冷房で冷えたガラスのコップの縁をなぞっていた。
赤煉瓦の壁に、白いタイルを腰の高さまで貼りめぐらせた、堂々とした二階建ての家だった。
港を見下ろす丘の斜面に造られた新しい住宅地の中で、その家はひときわ新しく、誇らしげに建っていた。
だが、写真を見つめる私の鼻の奥によみがえってきたのは、新築の木の匂いでも、家族で囲んだ食卓の湯気でもなかった。
打ったばかりのコンクリートの、生々しい匂い。
冬の底冷えする夜、二階の廊下の奥から漂ってきた、湿った赤土の匂い。
そして、屋上へ続く内階段の踊り場に、いつも澱のように溜まっていた、まったくの暗がりの感触だった。
私は弟に返事をしなかった。
ただ画面を伏せ、深く息を吐いた。
私たち兄弟は、あの家を出てから二十年近く、あの家のことを一度も真剣に話し合ったことがなかった。
話してはいけない、と決めていたわけではない。
一度でもその蓋を開けてしまえば、心の底に押し込めてきたものが、また今の暮らしに染み出してくるのではないか。そういう怯えを、二人とも抱えていたのだと思う。
第一章 豚の頭と略式の告祀
あの家を建てたのは、父が三十代の最後を迎えた冬だった。
慶尚南道のその港町で、父は造船所向けの配管の金具を作る小さな下請けの町工場を営んでいた。
母は市場の片隅で干物や海苔を売る小さな店を持ち、毎朝夜明け前から港の競り場へ通っていた。
朝から晩まで油と潮風にまみれて働いた二人が、なけなしの貯金をかき集め、銀行から大きな借金をして手に入れたのが、山を切り開いて造成されたばかりの住宅地の角地だった。
当時、私は十四歳、中学二年生だった。
六つ下の弟のドヒョンは、小学校に上がったばかりで、黄色い帽子をかぶって毎日私の後をついて回っていた。
二階建ての家を建て、一階の二部屋を人に貸して毎月の家賃を得ながら、二階に家族四人で住む。
当時の韓国の地方都市で、汗水たらして働く人たちが思い描く、いちばん堅実で幸せな人生の設計図だった。
だが、基礎の杭打ちが始まる直前、母の叔母が、隣町から一人のムーダン(巫堂)を連れて現場へやってきた。
色鮮やかな韓服を着た小柄なその女性は、盛り土されたばかりの赤土の上に立つなり、手にした鈴を鳴らそうともせず、扇で口元を覆った。
「ここは駄目だ」
低く、乾いた声だった。
「터가 세다。——土地の気が強すぎる。人が家を建てて、落ち着いて根を張るような土じゃない」
母の叔母が青ざめた顔でわけを尋ねると、巫堂は足元の土を靴の先でつつきながら言った。
この尾根筋は、昔から山から海へ吹き下ろす荒い気の通り道で、この土地の神——トジュ(터주)の気性がひどく荒い。どうしてもここに柱を立てるというのなら、大きなクッ(굿)を開いて土地の神をなだめ、土を深く掘り返して清めなければならない、と。
だが、すでに工事業者に手付金を払い、一日遅れるごとに利息が膨らんでいく状態だった父は、その言葉を笑い飛ばした。
「学のない女のたわごとだ」
父は作業着の胸ポケットから煙草を取り出し、赤土の上に唾を吐いた。
「俺が朝から晩まで旋盤を回して稼いだ金で買った土地だ。幽霊だろうが神様だろうが、文句を言われる筋合いはない」
結局、親戚たちに強く頼み込まれて折れる形で、父は簡単な告祀(コサ、고사)だけを行った。
茹でた豚の頭を小さな机の上に据え、その口と耳に千ウォン札を何枚か差し込み、マッコリを敷地の四隅に撒く。白い紙を燃やして灰を宙に放ち、大工の棟梁が祈りの言葉を唱えるだけの、三十分足らずの儀礼だった。
巫堂が求めたクッも、土の入れ替えも、行われなかった。
一九九五年の十月、新しい二階建ての家ができあがった。
一階には近くの造船所で働く若い溶接工の夫婦が入り、二階に私たちが移り住んだ。
玄関の扉を開けると、真新しいセメントとニスを塗った木の、甘い匂いが満ちていた。
床暖房の配管に温水が通ると、黄色いビニールの床が心地よく温まり、冬の冷たい海風をすっかり忘れさせてくれた。
屋上には、広いコンクリートの平場があった。
母は田舎の実家から運んできた大小十数個の黒い甕を、屋上の北側の壁沿いにずらりと並べた。キムチや味噌、醤油を寝かせるための甕だった。
秋の終わりには、何百本もの真っ赤な唐辛子が青いビニールシートの上に広げられ、日の光を浴びて輝いていた。
貧しい借家暮らしからやっと抜け出し、自分たちの城を手に入れたのだという誇らしさが、家族みんなの胸を満たしていた。
あの巫堂の言葉など、誰もがすっかり忘れていた。
第二章 踊り場のざわめき
暮らしの歯車が狂い始めたのは、入居から二年が過ぎた、一九九七年の晩秋だった。
いわゆる「IMF事態」——アジア通貨危機が、韓国じゅうを呑み込んだ。
父の町工場が取引していた中堅の造船会社が不渡りを出し、連鎖倒産の波が、あっという間に地方の工業地帯をなぎ倒した。
手形は紙くずになり、父の手元には、資材の未払い金と、家を建てたときの借金の返済だけが残った。
母の干物の店も、客足がぱったりと途絶えた。
夜逃げする経営者の噂が、毎日のように路地を飛び交っていた。
家を守るために、両親は文字どおり死にもの狂いで働き始めた。
父は昼は廃品回収の仕事に出て、夜は遠く離れた工業団地の守衛として泊まり込んだ。
母も店をたたみ、朝から深夜まで、港の食堂の厨房で皿洗いの仕事を掛け持ちした。
二人が家に帰ってくるのは、日付が変わる頃か、明け方の数時間だけになった。
高校生になっていた私は、大学受験のための補習と自習室通いで、夜十時を過ぎるまで家には戻らなかった。
自然と、小学四年生になっていた十歳のドヒョンが、毎日、誰もいない広い二階で、一人きりで長い夕方を過ごすことになった。
学校から帰ったドヒョンは、薄暗い居間の真ん中に座り、テレビの音をいっぱいに上げて過ごしていた。
夜遅く、私が鉄の門を開けて階段を上がると、家の中からアニメの甲高い音楽や、バラエティ番組の笑い声が、廊下まで漏れ聞こえてくるのが常だった。
玄関を開けると、ドヒョンは決まって、敷いたままの薄い布団の上に正座して、テレビの画面を食い入るように見つめていた。
「ドヒョン、うるさいぞ。近所迷惑だ」
私がリモコンを取り上げて音を下げると、弟は青ざめた顔で私の腕にすがりついてきた。
「消さないで、兄さん。お願いだから小さくしないで」
「何が怖いんだ。宿題はやったのか」
「……聞こえるんだよ」
ドヒョンは声を震わせ、居間の奥の細い引き戸のほうを指さした。
その引き戸の向こうには、屋上へ上がる内階段があった。
この家には外階段のほかに、二階の住まいから直接屋上へ上がれる内側の階段がついていた。天気が崩れたとき、母が洗濯物や唐辛子を急いで取り込めるように、という父の心づかいだった。
そのコンクリートの階段には明かり取りがなく、昼間でも暗かった。
そして、階段が直角に折れる途中に、畳一枚ほどの踊り場があった。
「音がするんだ」
ドヒョンは膝を抱え、唇を噛んだ。
「あの階段の途中の、暗いところから。テレビを大きくしていないと、ずっと聞こえてくるんだ」
「どんな音だ。風だろう。隙間風が抜けてるだけだ」
「違うよ」
弟は首を横に振った。
「紙をね、爪でずっと細かく裂いてるみたいな音。かさかさ、かさかさって。……それから、誰かが喉の奥で、息を吸いながら笑ってるみたいな音」
私は鼻で笑い、弟の頭を軽く叩いて自分の部屋へ入った。
だが、その夜、部屋で教科書を開いていた私の耳にも、ふと、その音が届いた。
居間のテレビはもう消えていた。
静まり返った家の中で、確かに、かすかな擦れる音がしていた。
かさ、かさり、かさ。
乾いた硬い紙を、鋭い刃先で少しずつ削り取っているような、規則正しく、感情のない音。
外の風でも、冷蔵庫の唸りでもなかった。
音は、間違いなく、あの内階段の踊り場の奥から聞こえていた。
立ち上がって引き戸を開けようとした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
なぜか、その戸を開けてはいけないと、身体の奥が強く告げていた。
私は耳を塞ぎ、机のスタンドの明かりの下で、無理やりペンを動かし続けた。
第三章 甕の列
ドヒョンが十一歳になった冬、港町を寒波が襲った。
海から吹きつける湿った雪が赤煉瓦の壁を白く凍りつかせ、夜になると気温は氷点下まで下がった。
その頃から、弟の様子は目に見えておかしくなっていった。
朝起きてきても目を合わせようとせず、食卓のスープを匙でかき回すだけで、ほとんど口に運ばない。
担任の先生から母に、授業中に急にぼんやりと宙を見つめて、呼んでも返事をしないことがある、と連絡が入った。
だが、毎日の肉体労働で疲れきっていた両親には、子供の細かな変化に気を配る余裕が残っていなかった。
ある火曜日の深夜、二時を回った頃だった。
私はひどい寒気で目を覚ました。
部屋の引き戸が、細く開いていた。
廊下へ出ると、冷えきった空気が足首を撫でた。
床暖房の熱がすっかり断ち切られたような、氷室のような冷たさだった。
見ると、屋上へ続く内階段の引き戸が、開け放たれていた。
階段の闇の向こうから、重い鉄の屋上の扉が、風に煽られてぎい、ぎいと小さく軋む音が聞こえてきた。
「ドヒョン?」
私は階段へ駆け寄った。
踊り場の闇を駆け抜けた瞬間、腐った落ち葉のような、古い赤土の匂いが鼻を突いた。
階段を上りきり、鉄の扉を押し開けると、冷たい夜風が頬を打った。
真っ暗な夜空の下、雪の積もった屋上に、ドヒョンがいた。
薄い長袖の肌着とズボンだけの姿だった。
靴も履かず、裸足のまま、凍ったコンクリートの上にまっすぐ立っていた。
足は寒さで紫色になっていたが、身じろぎもしなかった。
ドヒョンは、母が並べた十数個の黒い甕の列の前に立っていた。
大人の胸の高さほどもある、黒い陶器の甕。
その列のいちばん端の、いちばん大きな甕の胴に、ドヒョンは両手をぴったりと押し当てていた。
そして、額を甕の冷たい釉薬に押しつけて、首を小刻みに左右に揺らしていた。
「ドヒョン! 何をしてるんだ!」
私が叫びながら駆け寄り、弟の肩をつかんで引き剥がそうとした瞬間だった。
ドヒョンが、振り返った。
その顔を見て、私の喉が凍りついた。
弟の目は見開かれていたが、どこにも焦点が合っていなかった。
口元は引きつって歪み、言葉にならない悲鳴を喉の奥に押し込めるように、歯をがちがちと鳴らしていた。
ドヒョンは私の腕を振りほどこうと、ものすごい力で暴れ始めた。
十一歳の痩せた子供とは思えない力だった。
「いやだ! 離して! 中に入りたくない! 蓋を開けないで!」
弟は夜空に向かって、喉が破れるような声を上げた。
「そこにいる! 甕の中に座ってる! 僕を入れようとしてる!」
騒ぎを聞きつけた父と母が、下から階段を駆け上がってきた。
父がドヒョンを後ろから抱きかかえ、母が泣きながら自分の上着を脱いで、弟の凍えた身体に巻きつけた。
三人がかりでドヒョンを居間へ連れ戻し、温かい床の上に寝かせて、熱い湯を飲ませた。
翌朝、目を覚ましたドヒョンは、ゆうべのことを何一つ覚えていなかった。
なぜ自分の足の裏が擦りむけているのか、なぜ手のひらに冷たい土がこびりついているのか、不思議そうに見つめるばかりだった。
父はその日、一日じゅう不機嫌だった。
「夢遊病だ」
夕食の席で、父は焼酎のグラスを乱暴に置いて、低い声で言った。
「育ち盛りの子供が、神経を昂ぶらせているだけだ。変な噂が立てば、下の店子が出ていってしまう。近所にも余計なことは言うな」
母はうつむいたまま、何も言わなかった。
だが、その日から、母は屋上に上がって甕の世話をすることをやめた。
屋上の鉄の扉には太い南京錠が掛けられ、鍵は父の工具箱の奥に隠された。
けれど、それで終わったわけではなかった。
扉を閉ざしたことで、あの冷たさとざわめきは、行き場を失った水のように、家じゅうの壁の中へ染み出していったのだ。
第四章 重なる金縛り
鍵を掛けたあとも、ドヒョンの夜歩きは収まらなかった。
夜中、鍵の掛かった内階段の引き戸の前に立ち尽くし、爪で木の板をがりがりと引っかき続けているのを、私は何度も見つけては連れ戻した。
弟の頬はこけ、顔色は土気色になり、学校を休みがちになった。
そしてその年の暮れから、私自身もまた、底の知れない夜の中に引きずり込まれるようになった。
それは決まって、午前三時前後にやってきた。
浅い眠りの中で、ふいに、部屋の空気が重く沈み込む。
耳鳴りが始まり、心臓の音が耳元で不快に響く。
金縛り——韓国で言う「カウィヌルリム」、鋏に押さえつけられることだった。
指一本動かせない。
瞼を開けることさえできない。
胸の上に、湿った赤土の塊をじかに載せられたような、息の詰まる重さが全身を押さえつける。
そして、聞こえてくるのだ。
あの内階段の踊り場の奥から。
かさ、かさり、かさ。
乾いた紙を裂くようなあの音が、階段を一段ずつ滑り下りてくる。
何かが重い腹を引きずりながら、板張りの廊下の上を、這って近づいてくる気配だった。
気配は私の部屋の敷居を越え、布団の足元までやってくる。
見えない何かが、私の足首をつかむ。
氷水に浸した布を巻きつけられたような、容赦のない冷たさだった。
その冷たさはゆっくりと脛を這い上がり、腿を締めつけ、胸の上へと移ってくる。
耳元で、湿った息づかいが聞こえた。
人の声ではなかった。
地の底の、何千年も日の光を見ずに澱んでいた岩の割れ目から、冷たい空気が漏れ出してくるような音だった。
『どけ』
言葉として聞こえたわけではなかった。ただ、その意思だけが、頭の内側にじかに焼きつけられた。
『ここは、お前たちの場所ではない』
私は叫ぼうとした。
喉の奥から息を絞り出そうとしたが、舌が固まって、声は泡のように消えた。
毎晩のように、それが繰り返された。
夜が来るのが恐ろしくてたまらなかった。
だが、私はそのことを、家族の誰にも打ち明けられなかった。
父は借金の返済で目を血走らせ、少しの物音にも怒鳴るようになっていた。
母は過労で倒れ、点滴を打ちながら食堂へ通っていた。
そしてドヒョンは、もう限界まで追い詰められていた。
もし私が「自分も同じものを見ている」と口にしてしまえば、この家を支えている細い糸が、ぷつりと切れてしまう。
家を捨てることは、この家族にとって破滅を意味していた。父の意地も、母の犠牲も、すべてが無駄になってしまう。
だから私は耐えた。
毎晩、胸を押しつぶされ、足首を冷たい手につかまれながら、窓の隙間から朝の光が差し込んでくるのを、歯を食いしばって待った。
私たちは同じ屋根の下にいながら、それぞれが一人きりの暗がりの中で、同じものに喉元を締めつけられていたのだ。
二〇〇一年、私はソウルの大学に合格し、家を出ることになった。
その翌年、父の工場がどうにか借金を整理できたのを機に、両親はあの家を、相場よりずっと安い値段で人に売った。
逃げるような引っ越しだった。
トラックに荷物を積み終えた日、母は屋上に並んでいたあの黒い甕を、一つも新しい家へ持っていこうとしなかった。
すべて金槌で叩き割り、瓦礫として処分させた。
それからあと、家族のあいだで、あの家の話が出ることは二度となかった。
ドヒョンもふつうの青年に育ち、地方の役所に勤めて家庭を持った。
すべて終わったはずだった。あの家は取り壊され、赤土の更地に戻ったのだから。
終章 焼酎の席
二〇二二年の冬、ソウル駅近くの薄暗い焼肉屋で、私とドヒョンは久しぶりに差し向かいで酒を飲んでいた。
私は四十を過ぎ、弟も三十代の半ばになっていた。
豚の三枚肉が鉄板の上で脂を跳ね上げ、換気扇がけたたましい音を立てて煙を吸い上げていた。
酒が進むにつれ、話は自然と、四年前に更地になった故郷のあの土地のことへ向かっていった。
「兄さん」
ドヒョンが焼酎のグラスを置き、目を伏せたまま言った。
「あの家のこと、覚えてるだろ」
「……ああ」
私はグラスに酒を注ぎ足した。
「お前が夜中に屋上へ上がっていったことか」
「あれね、夢遊病じゃなかったんだよ」
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