序章 極夜の針路と、骨の上に敷かれた道

オホーツク海の氷結した灰色の波頭を背負う港湾都市・マガダンから、西の彼方——サハ共和国の首都ヤクーツクを目指して北東シベリアの山脈を縫うように延びる二千キロメートル余りの未舗装路。

ロシア連邦道路R504、通称「コルイマ街道(コルイムスキー・トラクト)」。

現地の人々が、畏怖と呪詛を込めて「骨の道(ドローガ・ナ・コースチャフ)」と呼ぶその街道は、人間が居住可能な地球上の最北限にして、真冬には気温が零下五十度から六十度へと急降下する、絶対零度の死の回廊である。

一九三二年から一九五三年までの二十年余り、スターリン体制下のソ連において金やウラン、スズの極北採掘を担った強制収容所群——ダリストロイ(極北建設総局)に送り込まれた何十万人もの囚人たちが、ツルハシと手押し車だけでこの道を切り拓いた。

冬になれば鉄のように硬化する永久凍土の地盤にあって、飢えと極寒、壊血病で命を落とした囚人たちの遺体を埋葬する墓穴を掘ることは不可能であった。建設を急ぐ監督官たちは、斃れた囚人たちの遺体をそのまま路盤の砂利の底に敷き詰め、その上から砂利と雪を固めて道を通した。

すなわち、この街道の上を走る車輪は、文字通り数十万の無名の死者たちの肋骨と頭蓋骨の層を踏み躙りながら前進しているのだ。

ロシアには、この街道を往復する屈強な長距離トラック運転手(ダリノボイシク)や、金鉱山の季節労働者(ヴァフトヴィク)たちが、飾りのない無骨な体験談を書き残す文化が根付いている。

その膨大な記録の中に、二〇一九年の厳冬、ある元石油タンクローリー運転手によって書き残された長い手記が存在した。

題名は、「カドイクチャンの分岐点、零下五十二度のノック(Случай под Кадыкчаном. -52°C)」。

それは、廃墟となった炭鉱都市の入り口で、彼が一台のカマズ(KAMAZ)のキャビンの中で耳にした、決して人間の肉体が立てるはずのない、凍りついた爪の音の記憶であった。

第一章 アルクティカ(極北軽油)と、車窓の氷花

二〇一七年の十二月、マガダンの運送会社で大型車両のハンドルを握って三年目を迎えていた私——アレクセイは、二十八歳の若さで、最も過酷とされる内陸部の金採掘拠点(アルテリ)への燃料輸送部隊の一員に選ばれた。

牽引するのは、三軸全輪駆動の頑強なロシア製トラック「カマズ・43118」。背負ったタンクには、冬のコルホーズや鉱山機械の生命線となる、マイナス六十度まで凍結しない超低流動点軽油——「アルクティカ(極北用ディーゼル)」が一万リットル満載されていた。

私の車両の助手席に乗り込んだのは、この道三十年のキャリアを持ち、街道のすべてのカーブと事故死した仲間の名を知り尽くしていると豪語する古参運転手、ヴャチェスラフ——愛称スラヴァであった。

五十五歳の彼は、アザラシの毛皮の帽子を目深に被り、無精髭に覆われた口元から常に強いマホルカ(粗悪な葉煙草)の煙を燻らせていた。

「いいか、小僧」スラヴァはキャビンに乗り込むなり、凍てつく鉄のダッシュボードを拳で叩いた。

「コルイマで生き残りたければ、三つの掟を体に叩き込め。第一に、どんなことがあってもエンジンを止めるな。アイドリングを切れば、十五分で冷却水が凍り、一時間でオイルがタールになり、二時間でお前の心臓が止まる。

第二に、峠の精霊(ホジャイン)にウォッカを捧げるのを忘れるな。そして第三に……」

スラヴァは濁った灰色の瞳を細め、フロントガラスの向こうの暗黒を見据えた。

「夜、道端に立っている『歩行者』が見えても、絶対にブレーキを踏むな。……あの連中はな、乗せても礼は言わん。ただ、お前の温かい血液の温度を奪いに来るだけだ」

マガダンを出発して十時間、車列は標高千メートルを超えるヤブロネヴィ峠を越えた。

外界の気温計は、すでに零下四十八度を指していた。

空気が凍結し、微細な氷の粒子となってヘッドライトのハイビームを乱反射する。現地で「星の囁き(シェレスト・ズヴョースト)」と呼ばれる、呼気が瞬時に凍りついてシャラシャラと擦れ合う冷気の中で、カマズの六つの巨大なスパイクタイヤは、凍てついた砂利を噛んで軋んだ悲鳴を上げ続けていた。

キャビンの窓ガラスは、内側からフェルトで目張りを施した特製の二重ガラスであったが、それでも隅から徐々に真っ白な氷の結晶(氷花)が成長し、視界を針葉樹の葉のような紋様で侵食していく。暖房の温風を最大にしていても、ペダルを踏む足先と、ドア側の左肩からは、鉄板を通り抜けてくる絶対零度の冷気が骨の髄を削るように差し込んできた。

夜の十一時を回った頃、トラックはススマンの町を通過し、さらに北西——かつて十万人以上の囚人が炭鉱労働に従事し、現在では地図の上からも抹消されつつある廃墟都市、カドイクチャンの手前三十キロメートルの無人地帯へと差し掛かった。

その時であった。

ドスンッ! という重い衝撃音とともに、エンジンの回転数が不意に跳ね上がり、排気ブレーキの警告ランプが赤く点滅したのだ。

第二章 カドイクチャンの廃墟と、停止した排気熱

「クソッ、燃料パイプの凍結か!」

スラヴァが煙草を吐き捨て、シフトレバーを叩き込んだ。

トラックは息を整えるように激しくノッキングを繰り返し、路肩に寄せられた除雪の雪壁へと斜めに突っ込む形で停止した。

幸いにしてエンジンそのものは完全には息絶えていなかったが、回転数は極端に落ち込み、まるで喘息患者の気管のようにヒューヒューと苦しげな吸気音を漏らしていた。

車を停めた場所は、最悪の地点であった。

街道から右へと折れる細い旧道の分岐点。錆びついたトタンの標識には、薄れかけたキリル文字で【КАДЫКЧАН(カドイクチャン)】の文字が残されていた。

一九九六年の冬、地下の炭鉱で大規模なメタンガス爆発事故が発生し、六人の坑夫が犠牲となった。この事故を機に炭鉱は完全に閉鎖され、最盛期には一万人を数えたこの街の住民たちは、以後十数年をかけて一人、また一人と土地を去り、二〇一〇年までに完全な無人の廃墟と化した。

フロントガラスの曇りを拭い、ヘッドライトの光の届く先を凝視すると、闇の中に、窓ガラスをすべて失った五階建てのフルシチョフカ(ソ連時代の規格アパート群)の残骸が、巨大な墓石のように整然と立ち並んでいるのが見えた。

「アレクセイ、バーナーを取れ!」

スラヴァは躊躇することなく、座席の下から大型のガソリン式火炎放射バーナー(パヤルナヤ・ランパ)を引っ張り出した。

極北の運転手にとって、凍結した燃料タンクの底や配管を直接火炎で炙ってパラフィンを溶かすバーナーは、工具というよりも自らの生命を維持するための武器であった。

「俺が下へ潜って燃料フィルターを炙る。お前はキャビンに残ってアクセルを踏み続けろ。回転数を千二百から絶対に落とすな。いいな、絶対にだ!」

スラヴァは毛皮のコートの襟を立て、厚いミトンを嵌めると、キャビンの扉を力任せに押し開けた。

バシッ! という鋭い凍結音が響き、外の空気が車内へ雪崩れ込んできた。

零下五十二度。

肺胞に直接突き刺さるその大気は、空気というよりも、細かく砕いたガラスの粉末を吸い込んだかのように私の気管を痙攣させた。

スラヴァは雪の上に潜り込み、カマズの巨大な車体の下腹部へと姿を消した。

やがて、ゴオオオオッというバーナーの力強い燃焼音と、軽油の焦げる刺激臭が床板を通して伝わってきた。

私は運転席で両足を踏ん張り、重いアクセルペダルをミリ単位でコントロールしながら、エンジンの回転計を凝視していた。

針は千二百回転の目盛りの上で微細に震えている。

フロントガラスの外では、地吹雪(プラン)が渦を巻き、視界は十メートル先すら判然としなくなっていた。

ワイパーのゴムは冷気でプラスチックのように硬化し、ガラスの表面を引っ掻いて不快な軋み音を立てている。

カツン……。

不意に、音がした。

エンジンが唸る轟音の底から、確かに聞こえたのだ。

硬い何かが、カマズの後部——軽油を満載した鋼鉄製の燃料タンクの外壁を、指の関節で軽く叩いたような音。

私はバックミラーに目を走らせた。

トラックの背後は、巻き上げられた粉雪と排気ガスの白い煙で満たされていた。

だが、その煙のカーテンを切り裂いて、ヘッドライトの赤いテールランプの光の中に——「何者か」が立っていた。

第三章 零下五十四度の素足、白濁せる網膜

最初は、雪の吹き溜まりかと思った。

だが、それは明確な輪郭を持った「人間の身体」であった。

ボロボロに擦り切れ、綿の飛び出した灰色の綿入れの上着(テログレイクァ)。

ズボンの膝は大きく破れ、そこから覗く皮膚は、凍傷を通り越して陶器のように白く硬化していた。

そして、何よりも戦慄すべきは、その足元であった。

防寒靴(ヴァーレンキ)を履いていなかった。

男は、古びた麻布の切れ端(ポリチャンキ)を足首に巻いただけの状態で、廃タイヤのゴム底を針金で縛り付けた粗末な手製のサンダル——いわゆる収容所の「チュニ」を履いて、零下五十度を超える新雪の上に、直立していたのだ。

男の背中の中央には、白いペンキで雑にステンシルされた文字が刻まれていた。

【 Щ - 248 】

ソビエト内務人民委員部・グラグの囚人番号。

「……スラヴァ! おい、スラヴァ!!」

私は床板を蹴りつけ、車体の下の相棒に向かって叫んだ。

だが、下からはバーナーの激しい燃焼音と金属を叩くレンチの音が響くだけで、私の声は分厚い断熱材に吸い込まれて届かなかった。

人影が、動いた。

歩行ではなかった。

関節が凍結しているのか、男は膝を一切曲げることなく、棒杭が倒れ込むような異様な律動で、一歩、また一歩と、雪を蹴立ててトラックの前方へと回り込んできたのだ。

男が、助手席側のドアの真横に到達した。

外気温計のデジタル表示が、カタカタと音を立てて【 -54°C 】へと更新された。

窓ガラスの霜の隙間から、男の「顔面」が、キャビンの高さまでせり上がってきた。

息が止まった。

男の皮膚には、毛穴というものが存在しなかった。

顔面全体が、川底の泥炭のように青黒く変色し、頬の肉は骨に張り付くように干涸らびていた。

両の眼球は、極度の冷気によって水晶体が完全に白濁し、煮沸した魚の眼のように白く濁り切っていた。

睫毛と眉毛には、真っ白な樹氷のような氷の針がびっしりとこびりつき、裂けた唇の隙間からは、黒ずんだ歯茎と、凍結して動かない舌が覗いている。

男は、死んでいた。

一瞬で理解できた。この生き物は、何十年も前に生命活動を停止し、永久凍土の底で冷凍保存されていた肉塊そのものであった。

だが、その白濁した眼球は、カマズのキャビンの中で暖房の熱に包まれている私の顔を、寸分の狂いもなく正確に捉えていたのだ。

男が、右腕を持ち上げた。

五本の指先は、末端が壊死して骨が剥き出しになっていた。

その凍りついた爪が、助手席の二重ガラスの表面へと、ゆっくりと押し当てられた。

ギギ……ギギギギ……ッ!

ガラスをダイヤモンドで切り裂くような、耳を劈く高周波の摩擦音がキャビンの中に響き渡った。

男は爪を立てたまま、ガラスの表面に付着していた氷の花を削り落とし、自らの凍結した顔面を、窓の隙間に押し付けてきたのだ。

男の開かれた口腔から、音のない「言葉」が漏れ出していた。

声帯は震えていなかった。

だが、私の頭蓋骨の内側に直接、何十人もの男たちの掠れた怨嗟の声が、重なり合って雪崩れ込んできたのである。

『……あたたかい……なかへ……いれてくれ……おれたちの……ほねのうえを……はしるなら……そのひを……すこし……わけてくれ……!』

第四章 シャーシを伝う鶴嘴(つるはし)の律動

コン……コン……コン……。

突然、足元の鉄板から、鈍い衝撃が連続して突き上げてきた。

それは車体の下で作業をしているスラヴァのハンマーの音ではなかった。

音が、多すぎるのだ。

三箇所、五箇所、十箇所。

六つの車輪のサスペンション、板バネ、トランスファー、そしてタンクを支えるフレームのあらゆる金属部から、何十本もの鋼鉄の道具が、一斉に鉄を打ち据えるような激しい打撃音が湧き上がってきたのだ。

カツンッ! ガツンッ! カツンッ!

それは、硬化した凍土を砕く「ツルハシ(カイロ)」の音であった。

かつて数十万人の囚人たちが、死の一歩手前で氷の地盤に打ち込み続けた、あの絶望的な労働のリズム。

振動が板バネを伝い、運転席のシートのクッションを突き抜け、私の尾てい骨から背骨へと直接這い上がってくる。

私の歯の根がガチガチと激しく打ち鳴らされ、視界が二重、三重に揺れ始めた。

バックミラーに視線を落とした私は、発狂せんばかりの絶叫を上げた。

街道の闇の奥底——あのカドイクチャンの廃墟の黒い窓という窓から。

青白い影が、無数に這い出してきていたのだ。

一人や二人ではない。

数十、数百。

ボロボロの綿入れを着た影の群れが、雪原を埋め尽くし、煙突から吹き出す黒煙のような濃密な隊列を組んで、私たちのトラックを目指して雪の上を滑るように押し寄せてきていた。

彼らの手には、錆びついたツルハシやシャベルが握りしめられ、その眼窩はことごとく白く凍結し、開かれた口からは白煙のような冷気が噴流となって吹き上がっていた。

群れの先頭が、燃料タンクの側面に到達した。

バタバタバタッ! と、無数の凍りついた手のひらが、氷点下のタンクの外壁を狂ったように叩き始めた。

鉄板の向こう側で、一万リットルのアルクティカ軽油が、死者たちの冷気に当てられて急速に白濁し、パラフィンを析出させてゼリー状へと凝固していくのが肌で分かった。

エンジンの回転数が千回転を割り込み、九百、八百と落ち込んでいく。

針がゼロに達した瞬間、私たちはこの死者たちの列の仲間入りをすることになる。

「スラヴァッ! 戻れ! 殺されるッ!!」

私はクラクションを力任せに連打した。

ファーーーーンッ! という重低音の警笛が、極夜の谷間に木霊した。

その時、運転席の足元のフロアハッチが、下から力任せに跳ね上げられた。

煤と油で真っ黒に汚れたスラヴァの顔が、キャビンの中に飛び込んできた。

彼の眉毛と口髭は真っ白に凍りつき、その瞳には歴戦の運転手特有の、狂気じみた闘志の火が燃え盛っていた。

「小僧、ギアをローに入れろッ!」

スラヴァは手にしていた燃え盛るガソリンバーナーのノズルを、外ではなく、キャビンのダッシュボードの下——吸気管のエアクリーナーの開口部へと直接向けた。

「吸気口を直火で炙る! エンジンが吸い込む空気を強制的に熱するんだ! ブローしても構わん、クラッチを蹴っ飛ばせッ!!」

「でも、外に……外に奴らが!!」

私が叫ぶと、スラヴァは助手席の窓の外——あのガラスに顔を押し付けていた囚人番号【 Щ - 248 】の影を、血走った眼で睨み据えた。

スラヴァは懐から、半分ほど残っていたアルコール度数九十六度の医療用スピリタスの瓶を引き抜くと、キャップを歯で噛み千切り、激しく回るエンジンの吸気ファンに向かって豪快にぶち撒けたのだ。

「食らいやがれ、大地の主どもめッ!! 貴様らの墓標の上を、俺たちは今日まで走り続けてきたんだ! 道を開けろッ! さもなくば、その骨ごとミンチにして車輪の餌にしてやるぞッ!!」

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