序章 大西洋の怒涛と、マルジナル通りの潮煙

ポルトガルの首都リスボンから、テージョ川の河口が広大な大西洋へと呑み込まれる海岸線に沿って西へ走る一本の幹線道路——「エストラーダ・マルジナル(海岸大通り)」。

南ヨーロッパの太陽が眩い白波を照らし出し、高級リゾート地であるエストリルやカスカイスへと続くその風光明媚な街道は、ひとたび陽が沈み、大西洋の沖合から湿った夜霧が立ち込めるや否や、世界で最も孤独で冷ややかな「地の果て」の顔を覗かせる。

黒々と盛り上がる大西洋のうねりが、花崗岩の断崖(ファレジア)へと激突し、爆発のような轟音とともに白い飛沫を夜空へと撒き散らす。潮風に乗って運ばれてくるのは、海藻の腐敗臭と、石灰岩を削る塩の鋭利な粒子、そしてポルトガルの人々が「サウダージ」と呼ぶ、二度と還らぬ過去への切断された憧憬と諦念の匂いである。

ポルトガルには、古城や廃墟、夜の高速道路で運転手たちを凍りつかせた怪異の数々を、無骨な文章で克明に記録し続けるオカルト愛好家たちのコミュニティが根付いている。

その記録の中でも、二〇一四年の八月、エストリルの海岸道路を夜な夜な走るある若者によって書き残された手記は、現地のオカルト愛好家たちの間で伝説的な悪寒をもって語り継がれている。

題名は、「サン・ジョアン・ド・エストリルの小城、波間の白い腕(O Castelinho de São João do Estoril e o chamamento da falésia)」。

それは、大西洋の荒波が足元を噛み砕く海沿いの断崖に建つ、中世の城塞を模した小さな廃屋のテラスにおいて、彼が自らの足首に感じた、凍りつくような冷たい指先と、暗黒の海へと身を投げさせようとする抗いがたい「引力」の記憶であった。

第一章 擬中世の城塞と、カスカイス線の終電

二〇一二年十月の末、リスボン大学の文学部でポルトガル近現代文学を専攻していた私——ディオゴは、週末の退屈を持て余していた高校時代からの悪友、工学部生のペドロとともに、カイス・ド・ソドレ駅からカスカイス行きの近郊電車に乗り込んだ。

車窓の外には、暗黒の大西洋が鏡のように黒く広がり、線路沿いの岩礁に砕ける白波が、街灯の薄明かりにぼんやりと照らされていた。

私たちの目的は、サン・ジョアン・ド・エストリル駅のすぐ真下、海沿いの崖っぷちに聳え立つ「カステリーニョ(小さな城)」への夜間潜入であった。

ネットのオカルト掲示板を読み漁っていたペドロが、熱っぽく語っていた都市伝説。

——エストリルの海岸道路のカーブに、お伽噺に出てくるような小さな石造りの城が建っている。

かつて裕福な名家の盲目の幼い娘が、霧の深い日に誤って城のテラスから崖下の荒波へと転落して命を落とした。

娘の死後、屋敷は修道会に寄付されたが、歴代の修道女や購入希望者たちは、例外なく夜な夜な現れる少女の亡霊を目撃し、あるいは「海へ飛び降りたい」という激しい精神的衝動に駆られて逃げ出した。

八〇年代には、ある著名な貴族階級のセレブリティが買い取りを検討して内見に訪れた際、海を見下ろすバルコニーの壁際で、崖下から手を差し伸べる盲目の少女の姿を目撃し、失神せんばかりの恐怖の中で契約を即座に破棄したという。

「ただの富裕層の買い渋りの口実さ」

電車の軋む車内で、私は冷めた笑いを浮かべていた。

「あんな波しぶきが直撃する塩害まみれの崖っぷち、修繕費がかかりすぎて誰も住みたがらないだけだ。幽霊のせいにすれば、物件を手放す格好の言い訳になるからな」

「なら、この目で確かめてみようぜ」

ペドロはバックパックから二本の強力なハロゲン懐中電灯を取り出し、挑戦的な笑みを返した。

「もし本当に少女の霊がいるなら、俺たちの論文の最高のネタになる。いないなら、海を見ながらビールを飲んで帰るだけだ」

サン・ジョアン・ド・エストリル駅で下車した私たちは、潮風が吹き抜ける無人の跨線橋を渡り、海沿いのマルジナル通りへと坂を下りた。

深夜一時を回り、海岸道路を走る車列は途絶え、大西洋の冷たい湿気が街路樹のヤシの葉を重く濡らしていた。

道路の海側、歩道と崖の境界に、その建造物は忽然と姿を現した。

城塞であった。

童話の絵本からそのまま切り抜いてきたかのような、高さ十数メートルの石造りの主塔、中世の要塞を模した鋸歯状の狭間胸壁(アメイア)、そしてアーチ状の細い銃眼。

外壁の砂岩は長年の塩気によって黒ずみ、至る所に苔と地衣類がへばりついていた。

建物の基礎は、直下の切り立った花崗岩の断崖に直接穿ち込まれており、満潮を迎えた海面が、城の真下わずか数メートルの位置で、ドォォン! ドォォン! と内臓を揺さぶるような激しい重低音を立てて砕け散っていた。

「……思っていたより、ずっと気味が悪いな」

ペドロが声を潜めた。

建物の周囲を囲む古い鉄格子の門扉には、太い錆びたチェーンが巻かれていたが、波打ち際に面したテラスの側壁——かつて庭園であった小道へと続く石垣の一角が、崩落によって人一人が通り抜けるのに十分な隙間を開けていた。

私たちは衣服を壁の茨に擦りつけながら、息を殺してその冷たい石の結界の内側へと滑り込んだのである。

第二章 アズレージョの盲目画と、手探りの衣擦れ

敷地内に足を踏み入れた瞬間、外界のマルジナル通りの気配は完全に遮断され、周囲は海鳴りと風の音だけの世界へと切り替わった。

テラスの敷石は、吹き上げられた潮飛沫で一面が濡れそぼり、氷のように滑りやすくなっていた。

懐中電灯の白い光条が、海に突き出た半円形のバルコニーを照らし出す。

手すりは低く、腰の高さまでしかない。手すりの向こう側は、街灯の光すら届かない漆黒の大西洋の虚空であり、見下ろすと、渦を巻く白波が、飢えた怪物の口腔のように暗闇の中で蠢いていた。

「中へ入ろう」

私は寒さに肩をすくめ、城の正面にあるアーチ状の木製扉へと歩み寄った。

扉は鍵が壊れており、手で押すと、ギィィィ……と錆びた蝶番が悲鳴を上げて内側へと開いた。

建物の内部は、外観のロマンチックな印象とは裏腹に、完全なる廃墟の様相を晒していた。

床の寄木細工(パルケ)は湿気で波打ち、天井の漆喰は剥落して木骨が剥き出しになっている。

だが、最も異様であったのは、エントランスホールの壁一面を覆い尽くしていた、ポルトガル伝統の装飾タイル——「アズレージョ」であった。

白地に深いコバルトブルーの顔料で焼き上げられた何百枚もの絵タイル。

描かれていたのは、聖母マリアの受胎告知や、荒海を渡る聖ニコラウスの奇跡といった、敬虔なカトリックの宗教画であった。

だが、埃と蜘蛛の巣を懐中電灯の光で払った瞬間、ペドロが短く息を呑んだ。

「おい、ディオゴ……見ろよ、このタイルの顔を」

私は息を止めて壁に近づいた。

聖母マリアの顔、幼子イエスの顔、そして海を見守る聖人たちの顔。

そのすべての人物の「両目」の瞳が、青い釉薬の上から、何者かの手によって削り取られていたのだ。

刃物か、鋭利な鉄の棒で執拗に削り落とされたのであろう、無数の白い傷痕。

聖人たちの顔面は、目のあるべき場所が白茶けた空洞となって剥き出しになり、まるで何十人もの盲目の聖像が、暗闇の中から一斉に私たちを凝視しているかのような錯覚を呼び起こした。

「誰かの悪戯だろ」私が虚勢を張った。「不法侵入したガキどもが傷をつけたんだ」

「違う」ペドロが首を横に振った。「削り跡の上に、百年分の埃が固まってる。……この家が放棄された最初から、こうだったんだ」

その時であった。

二階へと続く螺旋階段の上から、音が降ってきた。

サラ……サラ……サラ……。

布が、冷たい石の床の上を引きずられるような音であった。

続いて、コツン、コツン、と、小さな硬い棒の先で、壁のタイルを一定の間隔で叩くような規則正しい打撃音。

私たちは全身を硬直させ、階段の暗がりを見上げた。

風の音ではない。

それは、視界を奪われた人間が、自らの位置を確かめるために、壁や床を手探りで確認しながら歩行する時の——「盲杖(白杖)」の先端が石を突く音そのものであった。

コツン……サラ……コツン……サラ……。

音は、二階の回廊をゆっくりと巡回し、やがて、私たちが立つエントランスホールの吹き抜けの手すりの真上へと至った。

懐中電灯の光を上階へと向ける。

だが、階段の上には、誰もいなかった。

ただ、手すりの支柱の隙間から、細い埃の粒子が、まるで何者かがそこを通ったかのように、パラパラと私たちの足元へと落ちてきただけであった。

そして、その直後であった。

私の左手の甲に、ポタリと、冷たいものが落ちてきた。

雨水ではなかった。

指先で拭うと、それは生温かい体液のような粘り気を持った液体であり、鼻腔を突いたのは、濃厚な「海水と鉄の臭気」であった。

見上げると、二階の梁の影から、無色透明な潮水が、まるで濡れた人間の衣服から絞り出されたかのように、絶え間なく床へと滴り落ちていたのである。

第三章 引き波の呼気と、断崖の幻影

「出るぞ、ディオゴ!」

ペドロが私の腕を掴んだ。「ここは不味い。噂は本当だったんだ!」

私たちは背を向け、開け放たれていた木製扉から外のテラスへと飛び出した。

だが、脱出の行く手を阻んだのは、外界の異変であった。

わずか数十分の間に、大西洋からの濃霧(ネブリーナ)がテラス全体を完全に呑み込んでいたのだ。

視界は一メートル先すら見通せず、懐中電灯の強力なビームも、白濁した蒸気の壁に乱反射して白い靄の球体を作り出すだけであった。

足元からは、ドスゥゥゥンッ! という、断崖を粉砕せんばかりの怒涛の衝撃音が間断なく響き渡り、吹き上がる潮煙が私たちの顔面を冷たく濡らす。

侵入してきたあの石垣の割れ目が、霧の闇の中に完全に没して見当たらない。

「ペドロ! どこだ!」

私は叫んだ。数歩先を歩いていたはずの友人の姿が、霧の中に掻き消えていた。

返答はなかった。

ただ、波の砕ける重低音の合間を縫って、耳元で、風の音ではない「声」が響き始めた。

ヒュー……ハァ……ヒュー……。

それは、激しい水の中に引きずり込まれ、何度も息を詰まらせた者のような、湿った、痛ましい呼吸音であった。

声は、霧の向こう側——海に突き出たあの低い手すりの方向から、私を呼んでいた。

『……あたたかい……手を……ちょうだい……』

ポルトガル語であった。幼い少女の、舌足らずで、しかし信じがたい哀切を帯びた澄み切った声。

『……暗いの……ここは、とても深くて寒いの……お母さん……海は、青いんでしょう? 私を……あの青いところへ、連れていって……!』

私の両足が、自らの意志を離れて前へと動き始めた。

止まらない。

足首を、見えない冷たい水流が掴んで引っ張っているかのように、一歩、また一歩と、手すりの縁へと身体が引き寄せられていく。

同時に、私の脳髄を、麻薬のような甘美な「引力」が支配し始めた。

(落ちれば、楽になれる)

思考が、恐怖を塗り潰していった。

(あの冷たい波の中に身を投げれば、この重苦しい現実も、将来への不安も、すべてが泡となって消え去る。あの娘が待っている。あの娘の暗闇の中に飛び込んで、一緒に沈んでしまえばいいのだ)

手すりに、私の両手が触れた。

身を乗り出す。

足元には、数メートル下の漆黒の波間。

満潮の飛沫が私の顔面を叩き、唇にしょっぱい塩の味が広がった。

霧の切れ目、波が引いた瞬間の黒い海面の上に——私は目撃したのだ。

海の上に、直立していた。

白いレースのあしらわれた、十九世紀末の上品な夏用のドレスを纏った、七、八歳ほどの少女の姿を。

衣服は海水に濡れそぼって身体に張り付き、長い濡れた金髪が肩口にまとわりついていた。

そして、その顔面。

少女の両の瞼は、硬く、固く閉ざされていた。

だが、その閉ざされた皮膚の下から、二つの暗黒の眼窩が、手すりに身を乗り出す私の顔を、真っ直ぐに、吸い込むように見据えていたのだ。

少女が、自らの両腕を虚空へと伸ばした。

その手首から先は、人間の皮膚ではなく、激しく泡立つ白い波の飛沫そのものであった。

少女の唇が、音のない笑みを浮かべて開かれた。

『……おいで……一緒に、飛び込みましょう……!』

私の右足が、手すりを乗り越え、何もない虚空へと踏み出された、その刹那であった。

第四章 虚空の抱擁と、引き戻された襟首

ガシッッ!!

私のジャケットの後ろ襟に、焼けた鉄の鉤爪のような強烈な衝撃が食い込んだ。

全体重が喉元を圧迫し、私の身体は宙に投げ出される寸前で、力任せに後方へと引き戻された。

「ディオゴッ! 正気に戻れッ!!」

ペドロの怒声が、鼓膜を破らんばかりに響き渡った。

テラスの濡れた敷石の上に、二つの肉体が重なり合って叩きつけられた。

私は泥と塩水を肺腑に吸い込みながら、激しく咳き込んだ。

「離せ! 落ちる、あの子が呼んでいるんだ!」

私が錯乱して暴れると、ペドロは私の頬を素手で力任せに張り倒した。

パァンッ! という破裂音が霧の中に響いた。

鋭い痛みが、私の脳髄を覆っていた甘美な麻痺の膜を一瞬にして引き裂いた。

「見ろ! 下を見るなと言ったろ!」

ペドロが叫びながら指差した手すりの外側。

懐中電灯の光が捉えた波打ち際の花崗岩の岩肌に、蠢いていたもの——。

それは、白い波飛沫ではなかった。

何十、何百という、青白くふやけた「人間の腕」の影が、岩肌の隙間から無数に生え出し、手すりの高さを目指して、虚空を掻き乱すように蠢いていたのだ。

海が、呼んでいたのではない。

あの断崖の底で砕け散った無数の死者たちの記憶が、少女の哀しい亡霊を囮にして、生者の肉体をその底なしの墓場へと引きずり込もうと、手ぐすねを引いて待ち構えていたのだ。

「走れッ!!」

ペドロが私の腕を引っ張り上げた。

私たちは懐中電灯の光を前方に叩きつけ、霧の闇の中を狂ったように疾走した。

背後から、手すりの鉄パイプを何かが激しく揺さぶるガタガタという金属音と、耳を劈く少女の甲高い泣き叫び声が追いすがる。

『行かないで……! 一人にしないで……! 置いていかないでッ!!』

声は風となって私たちの背中を押し、衣服の裾を冷たい指先で引き留めようとした。

私たちは崩れかけた石垣の隙間へと飛び込み、茨に腕を引き裂かれながら、マルジナル通りのアスファルトの上へと転がり出た。

背後の小城が、霧のカーテンの向こう側へと一瞬にして没した。

舗道の上に膝をつき、激しい呼吸を繰り返す私たちの眼前を、深夜の長距離トラックが猛スピードで通過し、眩いヘッドライトの光と生温かい排気ガスの突風を浴びせかけていった。

文明の光。

生きた人間の世界の生々しい熱気。

私たちは互いの肩を掴み合い、声も出せずに震え続けたのである。

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