序章 石造りの梁と冷たい夜風
ピレネー山脈の東端が地中海へと落ち込む手前、ルシヨン平野のただ中に広がるペルピニャンの旧市街は、今なおカタルーニャの古い骨格を色濃く残している。
赤煉瓦と川石を漆喰で固めた分厚い外壁、夏の日差しを避けるために切り詰められた狭い石畳の路地、そして頭上に並ぶ木製の鎧戸。かつてマヨルカ王国の宮廷が置かれ、一六五九年のピレネー条約によってフランス王国へと編入されるまで、この街は幾重もの戦争と国境の移動を、その硬い石肌に刻み込んできた。
エレーヌが、フォワ通りにある三階建ての古い邸宅を相続したのは、二〇〇二年の春のことだった。
亡くなった祖母が遺したその建物は、いわゆるオテル・パルティキュリエ——かつての貴族や富裕な商人の館の典型的な構えを備えていた。通りに面した重厚な木の大扉をくぐると、外からは窺い知ることのできない吹き抜けの中庭があり、丸い敷石を敷き詰めたパティオを囲むようにして、頑丈な切石の階段が上の階へと伸びている。
夫のピエールとともにその大扉を初めて開けた日、エレーヌは埃っぽい空気の中に漂う古い蜜蝋と冷えた石灰の匂いに、深い安らぎを覚えていた。
二人はともにペルピニャンで生まれ育ち、この迷路のような旧市街の空気を知り尽くしていた。
天井を支える太い梁には、手斧で削り出された波打つ木肌がそのまま残り、壁の厚みは六十センチを超えていた。夏は外の酷暑を遮り、冬は薪ストーブの熱を逃がさない。
「少しずつ直していけばいい。ここは私たちの城になる」
荷解きの手を止め、ピエールは埃まみれの作業着のまま笑った。
二人が最初に寝室に選んだのは、通りに面した二階の大きな部屋だった。
窓の外には、フォワ通りの緩やかに湾曲した石畳が見下ろせる。幅四メートルほどの路地を挟んで、向かいの建物の窓がすぐ目の前に迫っていた。
飼い始めて一年になるイングリッシュ・コッカー・スパニエルのテオも、新しい家に興奮したように中庭を駆け回り、やがて二人のベッドの足元にある古びたウールのラグの上で、丸くなって寝息を立て始めた。
引っ越しを終えて三日目の夜だった。
季節は五月に入り、地中海からの湿った風が、昼間の熱気を街の路地に閉じ込めていた。
エレーヌは深い眠りの中にいた。
疲れ切った身体がシーツの奥へと沈み込み、車の音も途絶えた、深夜二時過ぎのことだった。
カチン。
鋭く、硬い音が鼓膜を叩いた。
夢と現の境目で、エレーヌの意識がぴくりと跳ね上がった。
聞き間違いではなかった。
金属と金属が、強い力でぶつかる音だった。
続いて、ぎりぎり、という鈍い軋みが響いた。太い鉄のバールで、錆びついた蝶番や錠前を力任せにこじ開けようとしているかのような、執拗で不快な音だった。
「……ピエール」
エレーヌは暗がりの中で囁いた。
隣の夫の身体は、すでに強張っていた。
「起きているわね。今の、聞こえた?」
ピエールは返事をしなかった。ただ無言で上半身を起こし、暗闇に目を凝らしていた。
ガツン、ガツン、ガツン。
今度は続けざまの打撃音だった。
誰かが重い鉄の金槌を持ち、建物の骨組みをめがけて容赦なく振り下ろしているかのような衝撃だった。壁の内側の石がかすかに震え、寝室の空気がびりびりと鳴った。
足元で丸くなっていたテオが、身を起こした。
犬は吠えなかった。ただ、垂れた長い耳の付け根をぐっと持ち上げ、暗い窓の方を見つめたまま、喉の奥でかすかな息を漏らしていた。
「泥棒だ」
ピエールがベッドを抜け出した。
床板を鳴らさないよう爪先で歩き、暖炉の脇に置いてあった真鍮の火かき棒を握りしめた。
「一階の扉じゃない。窓だ。誰かが外の鎧戸をこじ開けようとしている」
エレーヌも早鐘のような心臓を抱えながら、夫の後に続いた。
音はまさに、通りに面した二枚折りの木の鎧戸のすぐ向こうから響いていた。何者かが外壁に取りつき、窓枠の鉄金具に道具を引っ掛けて揺さぶっているとしか思えなかった。
ピエールが息を詰め、掛け金を外して内側のガラス窓を押し開けた。
そして、鎧戸の隙間から、夜のフォワ通りを見下ろした。
エレーヌも夫の肩越しに覗き込んだ。
路地には、街灯の黄色い光が頼りなく落ちていた。
濡れたように光る石畳の上には、人影はおろか、野良猫の姿すらなかった。
向かいの建物の窓はすべて固く閉ざされ、闇に沈んでいる。
二階の窓の下には、よじ登れるような雨樋も足場もなく、平らな石壁がただ垂直に切り立っているだけだった。
フォワ通りは、完全な静けさの中にあった。
風すら吹いていなかった。
「……誰もいない」
ピエールが呟いた。
「外には誰もいないのよ」
エレーヌは、自分に言い聞かせるように繰り返した。
だが、二人が窓を閉め、寝室の中央に戻ったまさにその瞬間、背後の壁の中から、もう一度、かつん、と小さな金属の先で石を引っ掻くような音がした。
第一章 壁の中の金槌
怪異というものは、一度きりの劇的な出来事として訪れるよりも、毎日の暮らしの中に執拗に入り込み、当たり前の日常を少しずつ侵していくとき、最も残酷な毒を持つ。
その夜を境に、音は毎晩のように鳴るようになった。
時間は決まって深夜一時から四時のあいだ、街がいちばん深く眠る刻限だった。
最初は週に二、三日だったものが、初夏を迎える頃には、ほとんど毎晩のことになっていた。
音の性質はいつも同じだった。
重く、乾いた、紛れもない金属の衝突音。
壁の中に埋め込まれた鉄骨を叩いているような音、あるいは、窓の蝶番を太いペンチで捻じ切ろうとしているような軋み。
不思議なことに、音がどこから来るのか、二人の感じ方は微妙に食い違っていた。
「絶対に壁の中だ」
ピエールは朝の食卓で、目の下に濃い隈を浮かべながら言い張った。
「外の窓じゃない。この建物の壁は、昔の石積みと漆喰のあいだに隙間がある。そこに古い水道管か、使われなくなった煙突の鉄蓋が残っていて、それが水圧か建物の歪みで鳴っているんだ」
「いいえ、違うわ」
エレーヌは首を振った。
「音は、あの木の鎧戸から聞こえてくるのよ。蝶番の金具のところ。誰かが外側から、細い鉄の棒で格子を叩いているの。私にはそうとしか思えない」
ピエールは昼間の明るいうちに、建物を隅々まで調べた。
配管工を呼んで壁の中を通る給排水管を点検してもらったが、ウォーターハンマーを起こすような異常は見つからなかった。
屋根裏に登り、梁の継ぎ目や瓦を留める金具を調べ、中庭の雨樋の詰まりも掃除した。
ペルピニャンには、ピレネーを越えて吹き下ろす「トラモンターヌ」と呼ばれる強い北西風がある。地元の家々は、この風で瓦や鎧戸が激しく鳴ることに慣れていた。
ピエールも最初は、風の仕業だと信じようとした。
だが、その考えはすぐに崩れた。
風がぴたりと止み、中庭のオリーブの葉一枚揺れない蒸し暑い夜でも、あの音は寸分違わず、午前二時の闇を引き裂いて響いたからだ。
眠れない夜が重なるにつれ、二人の神経は擦り減っていった。
日が暮れ、夕食を終えて時計の針が深夜に近づくにつれ、家の中の空気が目に見えて重くなった。
寝室に入って明かりを消すことが、耐え難い恐怖になった。
いつ鳴るのか。今夜もまた、あの音が始まるのか。
暗闇の中で息を潜め、天井を見つめて待つ時間は、音そのものを聞く瞬間よりも辛かった。
何より不気味だったのは、テオの様子だった。
ふだんは郵便配達人にも近所の猫にも激しく吠え立てる犬だったが、深夜にあの金属音が響くときだけは、一声も鳴かなかった。
ただベッドから滑り降り、窓と壁の境目に歩み寄ると、前足を揃えて座り込むのだった。
そして、まるでそこに誰かが立って自分を見下ろしているかのように、耳を持ち上げ、壁の一点をじっと見つめ続けた。
「テオ、おいで。見ちゃ駄目」
エレーヌが震える手で抱き寄せようとしても、犬の身体は硬く固まり、視線はその場所から離れなかった。
引っ越してから一年が過ぎた二〇〇三年の春、二人は耐えかねて、暮らしの場を一階に移す改装に踏み切った。
二階の寝室を物置にし、かつて馬具の手入れ場や倉庫として使われていた中庭沿いの一階の部屋を、新しい寝室に作り替えたのだ。
分厚いヴォールト天井に守られた一階なら、通りの窓からも遠く、静かに眠れるはずだった。
だが、その期待は最初の夜に打ち砕かれた。
午前二時十五分。
今度は、一階の寝室の石壁のすぐ向こう——中庭に面した古い鉄格子の窓枠から、あの金属音が響いた。
まるで音そのものが二人の引っ越しを知っていて、壁の中を滑るように移動し、寝床の真横へ先回りしたかのようだった。
「もう耐えられないわ」
エレーヌはシーツを頭から被り、耳を塞いだ。
「この家は、私たちを眠らせない気なのよ」
ピエールは無言で起き上がり、ウイスキーのボトルをあおった。
二人のあいだから、会話が少しずつ消えていった。
誰かが押し入ってくるわけではない。身体に危害を加えられるわけでもない。
ただ、毎晩繰り返される規則正しく無機質な打撃音だけが、二人の心の継ぎ目を、楔のように少しずつ押し広げていった。
第二章 粗塩の器と消えない光
人は過酷な環境にも、やがて歪な形で慣れていく。
音の正体が分からないまま、引っ越すほどの余裕もなかった二人は、音を消すのではなく、「音から気を逸らす」ための工夫をいくつも編み出した。
まず試したのは、別の音で覆い隠すことだった。
寝室のテレビは、夕方につけてから翌朝家を出るまで、音量を絞ったまま一晩中つけっぱなしにされた。画面の青白い光が、石の天井に絶え間なく揺れる影を落としていた。
ベッドの脇にはパソコンが置かれ、冷却ファンを唸らせながら動き続けた。枕元では二台の携帯電話が、深夜のラジオ番組を低く流し続けていた。
静けさこそが、いちばんの敵だった。
部屋を機械の音で満たしておけば、あの金属音が鳴った瞬間でも、衝撃をいくらか和らげることができたからだ。
しかし、どれほど機械の音を重ねても、壁の奥から響くあの硬い打撃音は、奇妙なほどはっきりと耳の奥へ入り込んできた。
それは耳から入ってくる音というより、骨を伝って直接頭を揺さぶるような、質の違う振動だった。
ある日、市場で買い物をしていたエレーヌは、近所に住む信心深い老婦人に、思わずこの数年の悩みを打ち明けた。
老婦人はエレーヌの青ざめた顔をじっと見つめ、声を潜めて言った。
「古い家には、前に住んでいた人の強い思いが石に染みついていることがあるのよ。清めなくちゃ駄目。粗塩を使いなさい。白い器に山盛りにして、窓という窓、扉という扉の裏に置くの。見えない境目を作るのよ」
エレーヌはその足でスーパーマーケットへ行き、カマルグ産の粗塩を何袋も買い込んだ。
台所から小皿をかき集め、塩を山型に盛ると、家じゅうの窓辺に置いていった。
とりわけ、あの金属音がいちばんよく聞こえる通り側の鎧戸の裏には、ピエールに頼んで小さな棚板を取り付けてもらい、三つの小皿を等間隔に並べた。
白い塩の山が、暗い部屋の隅で小さな道標のように並んでいるのを見て、エレーヌは久しぶりにかすかな希望を抱いた。
「これで、少しは静かになるかもしれない」
その夜もまた、午前二時を回ると同時に、かつん、という金属の音が始まった。
それも、まるで塩の器を嘲るかのように、皿を置いたまさにその窓枠から、ぎりぎりと激しい軋みが立て続けに響いた。
翌朝、エレーヌが恐る恐る器を確かめると、塩には何の変化もなかった。
黒ずむことも、崩れることもなく、ただ地中海の湿気を吸って、冷たく固まっているだけだった。
境目など、最初から存在していなかった。
夫婦のあいだには、奇妙な諦めが漂い始めた。
夜中に音が始まっても、二人はもう窓辺へ駆け寄ることも、火かき棒を手に取ることもなくなった。
「……また始まったわね」
暗闇の中でエレーヌが呟くと、
「ああ、今夜もだ」
ピエールが短く答え、寝返りを打つ。
二人はテレビの光を見つめながら、打撃が止むのを待つだけだった。
それはもはや恐怖というより、終わりの見えない鈍い頭痛を抱えて生きるような、日々の重荷になっていた。
だが、エレーヌの胸の奥には、ひとつの疑問が澱のように沈んでいた。
この音は何を求めているのか。
なぜ、毎晩同じ場所を叩き続けるのか。
入ってこようとしているのか。それとも、この家の内側から外へ出ようとして、冷たい壁を叩き続けているのか。
その問いは、ある晴れた夏の午後、思いがけない形で彼女の前に差し出されることになった。
第三章 ロジュ広場の観光案内
二〇〇三年の夏は、ヨーロッパ全土が記録的な猛暑に襲われた年だった。
ルシヨン平野の気温は連日のように四十度近くまで上がり、ペルピニャンの石畳はフライパンのような熱を放っていた。
七月のある午後、買い出しに出たエレーヌは、強い日差しを避けるように、旧市街の中心、ロジュ広場の建物の日陰を歩いていた。
かつて海事裁判所が置かれていた十四世紀末のゴシック建築「ロジュ・ド・メール」の前には、パラソルを広げたカフェが並び、冷えたロゼワインやパナシェを楽しむ観光客で賑わっていた。
広場の中央を通り抜けたとき、エレーヌの耳に、聞き慣れた通りの名が飛び込んできた。
「……そのフォワ通りでは、今もこの話が語り継がれています」
立ち止まって振り返ると、青いバインダーを手にした中年の男性ガイドが、二十人ほどの観光客を連れて足を止めていた。
ガイドは広場の敷石を指差しながら、芝居がかった抑揚で語り続けていた。
エレーヌは引き寄せられるように、観光客の輪の後ろに身を滑り込ませた。
「この美しいロジュ広場は、かつて処刑の場でもありました」
ガイドの声が、午後の乾いた空気の中に響いた。
「言い伝えによれば、一六六二年の五月十二日、この場所で、一人の若い貴族の女性が斬首されました。名はテレサ・ド・ベアルン。まだ二十歳を過ぎたばかりだったといいます」
エレーヌの背筋を、冷たい汗が流れた。
ガイドが語っているのは、まさに彼女たちが暮らしているフォワ通りの話だった。
一六五九年のピレネー条約でこの地がスペインからフランスへ移った直後、ペルピニャンの街は、新しい王と古い言葉の狭間で揺れていた。
その不穏な時代、フォワ通りに住んでいたテレサには、二人の恋人がいたという。
一人は、通りの向かいに住む貴族、ドン・エマヌエル・デ・サン=ディオニス。
もう一人は、アルル=シュル=テックの修道院の修道士、ドン・ラモン・デ・モンファルだった。
サン=ディオニスはやがて恋敵の存在を知り、テレサの頬を打った。
その一打が、惨劇の引き金になったとされる。
「一六六一年の十二月二十日、サン=ディオニスは、自宅の中庭で死んでいるのが見つかりました」
ガイドは声を低く落とした。
「遺体には五十二か所もの刺し傷があり、頭は金槌で打ち砕かれていたそうです。修道士は姿をくらまし、残されたテレサが、殺しを命じた疑いで捕らえられました」
エレーヌは息を呑んだ。
頭を打ち砕いた、金槌。
毎晩、寝室の壁の奥から響いてくる、あの硬く執拗な打撃音の感触が、一瞬で頭の中を満たした。
「彼女は無実を訴え続けました」
ガイドの言葉が続いた。
「拷問にかけられても、首を横に振り続けたといいます。それでも判決は覆らなかった。処刑の朝、彼女に付き添ったのは、黒い長衣に尖り頭巾をかぶった『サンシュ信心会』の兄弟たちでした」
受難節の行列で知られるサンシュ信心会は、古くから、死刑囚の最期に付き添い、祈りを捧げ、遺体を引き取って葬る役目を担ってきた。
兄弟たちの唱える『ミゼレーレ』——「神よ、わたしを憐れんでください」と始まる詩篇の低い合唱が広場に響く中、テレサは首を打たれたという。
「フォワ通りでは今でも、夜になると彼女の家のあたりで物音がする、と言う人がいます。無実を訴えて、扉を叩いているのだと……」
観光客たちから小さな溜息が漏れ、一行は次の目的地、カスティエ門のほうへ歩き去っていった。
エレーヌは広場の日差しの中に、一人取り残されていた。
全身の震えが止まらなかった。
家に帰ったエレーヌは、仕事から戻ったピエールに、広場で聞いた話をすべて打ち明けた。
ピエールは腕を組み、長い沈黙のあとで静かに言った。
「……ただの古い言い伝えだよ。観光客を喜ばせるための怪談だ」
だが、その声には、いつもの確信の響きがなかった。
その夜、二人は暗闇の中で、また始まったあの金属音を聞いた。
ガツン、ガツン、ガツン。
それはもう、ただの不快な物音には聞こえなかった。
冷たい鉄の道具を振るう手の感触。閉ざされた重い扉を叩き続ける指先。三百四十年という時を越えて、何かが直接、石の壁を揺らしているように思えた。
テレサが本当にサン=ディオニスを殺させたのか、それとも嫉妬と噂のあいだで罪を着せられたのか——それを確かめる手立ては、今のエレーヌにはなかった。
だが、ひとつだけ感じられることがあった。
この家で鳴っているものは、生きている人間を傷つけようとしているのではない。
それはただ、終わらない夜の底に閉じ込められ、どこへも行けない何かが、出口を求めて壁を叩き続けている——途方もない孤独の繰り返しなのではないか、と。
第四章 海辺の町の司祭
伝説を知ったからといって、音が鎮まるわけではなかった。
それどころか、年月とともに、夫婦の体力と気力は確実に削られていった。
二〇一六年。エレーヌがこの家を相続してから、十四年が過ぎていた。
かつて中庭を駆け回っていたテオはすっかり年老い、白く濁った目で一日の大半を寝床に横たわって過ごすようになっていた。
それでも深夜、あの金属音が始まると、老犬は痛む関節を軋ませながら起き上がり、耳を持ち上げて壁を見つめた。その姿を見るたびに、エレーヌの胸は締めつけられた。
「ピエール、もう終わりにしましょう」
秋風が吹き始めた十月のある朝、エレーヌは言った。
「神父様に、この家に来ていただくの」
ピエールは反対しなかった。若い頃の合理主義の意地も、十四年という歳月の前ではすっかり擦り減っていた。
二人が頼ったのは、街の大聖堂の司祭ではなかった。
知人を通じて紹介された、ペルピニャンから車で三十分ほどの、海辺の町の教区を預かる司祭だった。
奇跡や悪魔祓いを吹聴するような人物ではなく、教区の人々の病や暮らしに黙って寄り添ってきた、物静かな聖職者だという話だった。
十一月のある曇った午後、司祭は小さな革の鞄を提げて、一人でフォワ通りの家を訪れた。
質素な黒い服の上に、擦り切れたウールのコートを羽織っていた。
大扉を開けて中庭に迎え入れたとき、司祭の足がふと止まった。
司祭は中庭を囲む高い石壁を見上げ、胸の前に手を当てて、ゆっくりと息を吸った。その顔から血の気が引いていくのを、エレーヌは見逃さなかった。
「神父様、大丈夫ですか」
ピエールが駆け寄った。
「……少し、空気が冷たいですね」
司祭は掠れた声で答え、それ以上は何も言わなかった。
司祭は鞄から紫色のストラを取り出して首にかけ、小さな銀の容器に入った聖水と、古びた祈祷書を手にした。
派手なことは何ひとつ行われなかった。
司祭は低く、澄んだ声で祈りを唱えながら、一階の部屋から順に、聖水に浸した小枝で部屋の四隅を清めていった。
「主よ、この家と、ここに住む者たちを祝福し、平安をお与えください」
だが、二階へ続く切石の階段を登り始めたとき、司祭の足取りが急に重くなった。
額には汗が浮かび、手すりを握る指先が白く強張っていた。
「神父様、もうやめて、座ってください」
エレーヌが声を上げたが、司祭は首を横に振った。
「大丈夫です。最後まで務めさせてください」
司祭は手すりに身体を預けるようにして、かつて夫婦が眠っていた二階の寝室へ足を踏み入れた。
十四年間、毎晩のように金属音が鳴り続けてきた、通りに面した木の鎧戸の前だった。
窓の外では、冬の気配を含んだ冷たい雨が降り始めていた。
司祭は祈祷書を閉じ、聖水の容器をピエールに預けると、震える右手をそっと伸ばした。
そして、何千回となく打撃音を響かせてきた鎧戸の分厚い木枠に、手のひらを当てた。
まだ、昼間だった。
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