序章 巨石の荒野とサブレディット
英語圏には、超自然現象を扱うオンラインコミュニティが無数に存在する。しかし、その内実は大きく二つに分かれている。何百万もの登録者を抱える純粋な創作文学の実験場——投稿も閲覧も「すべてが作り話であっても、真実であるかのように振る舞う」ことを前提とした場がある一方で、明確にフィクションの投稿を禁じ、一般人の個人的な現実の体験談のみを厳格に選別するコミュニティも存在する。
そうした実体験専門のコミュニティのモデレーターたちは、派手なオチを持つ怪奇小説や、ネット上で拾い集めた都市伝説の転載を容赦なく削除する。残されるのは、文章の技巧に乏しい一般の市民が、混乱と恐怖に震えながら書き留めた、生々しい個人の手記ばかりである。夜勤を終えた看護師が病棟の廊下で見たもの、引っ越し先のアパートで子供が怯え始めた理由、あるいは代々受け継がれてきた古い家屋を改修した際に起きた不可解な現象。
とりわけ、英国やアイルランドといった古い国土に暮らすユーザーたちからの投稿には、他国の住宅怪談とは異なる、独特の重みと冷気が漂っている。
彼らの足元にある土地は、ローマ帝国の街道、中世の修道院、ペストの流行、そして幾度もの内戦の記憶が、地層のように幾重にも折り重なって堆積している。見渡す限りのヒースが広がるイングランド南西部のデヴォン州、ダートムーア国立公園の荒野(ムーア)などは、その最たる場所である。霧が立ち込めれば東西南北の感覚が一瞬にして失われる泥炭湿原(ボグ)と、太古の巨石奇岩(トール)が林立するその大地には、数百年前に人々が死者を運ぶために踏み固めた道、すなわち「死者の道(リッチ・ウェイ)」が今も網の目のように残されている。
二〇二二年の秋、この実体験コミュニティに投稿された一本の長大な手記は、オカルト愛好家のみならず、英国の建築史や民俗学に詳しいユーザーたちの間でも大きな議論を巻き起こした。投稿者は、都会の喧騒を離れてダートムーア西部の古い石造りコテージを借りた若いウェブデザイナーだった。彼は、居間の暖炉を掃除していた際、煙突の奥の石の隙間から「奇妙な古い革靴」を引き抜いてしまったのだという。
第一章 黒い花崗岩のコテージ
オリヴァー・ペンバートンがロンドンのパディントン駅から列車に乗り、エクセターを経由してダートムーアの西縁に位置するタヴィストックの町へ降り立ったのは、十月の初頭のことだった。
三十一歳になるオリヴァーは、完全リモートワークで働くフリーランスのウェブアーキテクトだった。コロナ禍以降、ロンドン市内の手狭なフラットでディスプレイの光に囲まれ続ける生活に疲弊していた彼は、半年間の契約で、静かで手頃な田舎の作業環境を探していた。不動産仲介サイトで見つけたその物件は、ダートムーア西部のピーター・タヴィー村からさらに数マイル荒野の奥へと入った、人里離れた一本道の脇に建つ石造りのコテージだった。
週百五十ポンドという安さの理由は、明白だった。建物は十八世紀初頭に建てられた古い農家、いわゆるダートムーア・ロングハウスの一部を改装したもので、壁は厚さ六十センチを超える巨大な花崗岩の割石で組まれていた。上水は敷地内の湧き水、下水は浄化槽、そして暖房設備はセントラルヒーティングではなく、居間にある巨大なイングルヌック暖炉と薪ストーブだけに頼っていた。
鍵を手渡してくれた初老の地主、アーサー・ペントリースは、泥だらけのランドローバーの運転席から、オリヴァーの軽装とノートパソコンのバッグを見て、いかにもデヴォンの農民らしい訛りで笑った。
「ロンドンの若者には骨が折れるかもしれんな。水道のパイプが凍らんよう、冬の間は夜もチョロチョロと水を出しておけ。薪は裏の納屋に二トンダンプ一杯分ある。
だが、火を絶やすなよ。一度この花崗岩の石壁が芯まで冷え切っちまったら、春が来るまで二度と温まらんからな」
車が去り、荒野に一人残されたオリヴァーは、重いオーク材のドアを開けて中に入った。
室内は、ひんやりとした古い石と、何百年分もの木煙の匂いが染み付いていた。天井は低く、黒く燻されたオークの太い梁が頭上を圧迫している。床には不揃いなスレート板が敷き詰められ、歩くたびに冷気が靴底を通して伝わってきた。
居間の中央には、大人二人が立ったまま入れるほど巨大な暖炉——イングルヌックが開口部を広げていた。上部には巨大な一本木のマントルピースが渡され、両脇には座って暖を取るための石のベンチが造り付けられている。
窓の外を見れば、見渡す限りの赤褐色のヒースと、枯れたハリエニシダの茂みが、鉛色の空の下で波打っていた。遠くの尾根の上には、風家した花崗岩の奇岩——グレート・ミズ・トールが、まるで太古の巨人の骨のように沈黙して聳えている。
携帯電話の電波は、一本か二本が辛うじて立つ程度だった。しかし、持ち込んだ衛星インターネットの受信機を窓辺に設置すると、驚くほど快適な通信速度が確保できた。
「これなら完璧だ」
オリヴァーは満足して呟いた。誰にも邪魔されず、コードを書き、疲れたら荒野を散歩し、夜は暖炉の火を見つめて過ごす。都会の喧騒に蝕まれていた神経が、ゆっくりと弛緩していくように感じられた。
だが、その平穏は、彼が暖炉に最初の火を灯そうとした時に、早くも崩れ始めた。
第二章 煙突の奥の子供靴
移住して三日目の夕方、ダートムーアの気候は急変した。大西洋から押し寄せてきた低気圧が荒野を覆い、バケツをひっくり返したような冷たい豪雨と、時折時速八十キロを超える突風がコテージの石壁を叩き始めた。
室内の気温は急降下し、呼気が白く濁るほどになった。オリヴァーは裏の納屋から乾燥したナラとトネリコの薪を運び込み、暖炉の鉄格子の上に丸めた古新聞と小枝を敷き詰めた。マッチを擦り、新聞紙の端に火を点ける。
オレンジ色の炎がパチパチと音を立てて燃え上がった。だが、その煙は煙突へと吸い込まれていかなかった。
ボフッ、という鈍い音とともに、真っ黒な煙の塊が暖炉の口から居間へと逆流してきたのだ。
「ゴホッ、ゲホッ!」
オリヴァーは激しく咳き込み、慌てて濡れた雑巾で火をもみ消した。部屋の中は一瞬にして濃密な灰色の煙で満たされ、オリヴァーは涙を流しながら窓を全開にして換気扇を回さなければならなかった。凍てつくような外気が吹き込み、部屋の熱を完全に奪い去っていく。
煙突が完全に詰まっている。鳥が巣でも作ったのか、あるいは煤が固着しているのか。
オリヴァーは懐中電灯を手に取り、ダウンジャケットを着込んだまま、暖炉の奥へと身を屈めて潜り込んだ。煙突の内腔を見上げる。上方は真っ黒な縦穴になっており、遥か頭上の開口部から、わずかに灰色の雨空が見えているはずだった。
しかし、地上から二メートルほどの高さ、石組みがわずかにくびれた棚のようになっている部分に、何かが引っかかっているのが見えた。
黒い、不定形の塊。
オリヴァーは暖炉の脇にあった鉄の火かき棒を伸ばし、その塊をつついた。ガサリ、と乾いた音がして、大量の黒い煤とともに、その物体が足元の灰の中にボトリと落下した。
煤煙の粉が舞い上がり、オリヴァーは顔を背けながらそれを拾い上げた。
鳥の巣ではなかった。厚手の布か、革のような感触だった。台所の流しへ持っていき、ブラシで慎重に表面の煤を払い落とす。
それは、靴だった。
大人のものではない。七歳か八歳くらいの手のひらに収まるほどの、小さな子供用の片足分の革靴だった。靴底は何層もの牛革を木釘で打ち止めた極めて古風な造りで、足首まで覆うブーツの形をしていた。
甲革は長年の乾燥と熱によって極度に硬化し、ひび割れ、まるで石炭のように黒ずんでいた。爪先の部分は、生前に履いていた子供の足の形に合わせて、親指のあたりが不自然に外側へと歪曲していた。
靴紐は失われていたが、履き口の内側には、摩耗して判読の難しい手書きの文字のようなインクの滲みが残されていた。
「誰かが悪ふざけで放り込んだのか?」
オリヴァーは眉をひそめた。しかし、あの煙突の狭い棚は、上から落としただけで引っかかるような場所ではない。明らかに、下から手を伸ばし、石と石の継ぎ目の隙間に、意図的に力任せに押し込まれていたような位置だった。
靴の内側に指を入れると、指先に奇妙な感触があった。ピンセットを持ってきて引き出してみると、中から出てきたのは、羊の毛を丸めた小さな毛玉と、錆びついて針が折れた真鍮の留め針が三本、そして乾燥してカチカチになった鳥の骨の破片だった。
気味の悪さが胸の奥に広がった。オリヴァーはその靴を生ゴミ用の黒いビニール袋に放り込み、口を固く縛って台所のゴミ箱の底へと押し込んだ。
再び暖炉に戻り、新聞紙に火をつけると、今度は煙は滞りなく煙突のドラフトに引かれ、勢いよく上方へと吸い込まれていった。赤々と燃えるトネリコの薪が、冷え切っていたイングルヌックの石を少しずつ温め始める。
オリヴァーは温かい紅茶を淹れ、ソファーに腰を下ろした。パチパチと爆ぜる薪の音を聞きながら、彼はようやく人心地がついたように思えた。
しかし、その夜の午前二時、彼は奇妙な物音によって目を覚ますことになった。
第三章 死者の道と霧の重圧
パタ、パタ、パタ。
二階の寝室のベッドの中で、オリヴァーは目を開けた。最初は、屋根を叩く雨粒の音かと思った。だが、雨はとっくに止んでいた。音は、階下の居間から聞こえていた。
スレートの硬い床の上を、何かが歩き回っている音。それは靴音ではなかった。靴下を履いた小さな足、あるいは、乾いた硬い革底が、床板の凹凸を撫でるように擦る音。
パタ、パタ……サッ、サッ。
音は不規則だった。一定の方向へ進むのではなく、暖炉の周りを円を描くようにぐるぐると歩き回り、時折、壁の前でピタリと止まる。
オリヴァーはベッドから抜け出し、スマートフォンのライトを点けた。足音を忍ばせて階段を降りる。古びたオークの踏み板がギシリと軋むと、階下の物音が一瞬にして途切れた。
居間のドアを押し開け、光を部屋全体に巡らせる。誰もいなかった。暖炉の中では、太い薪が赤い熾火となって、暗闇の中で静かに呼吸するように脈打っていた。窓の鍵はすべてかかっており、泥棒が入った形跡もない。
(ネズミか)
古い田舎家にはありがちな話だ。煙突の詰まりを取ったことで、屋根裏の小動物が活性化したのだろう。オリヴァーは自分にそう言い聞かせ、寝室へ戻った。
翌日の昼下がり、オリヴァーは日用品の買い出しを兼ねて、二マイルほど離れたピーター・タヴィー村の古いパブ「チャーチ・ハウス・イン」へと足を運んだ。十四世紀に建てられたというそのパブは、低い石造りのアーチと黒光りする梁を持ち、カウンターの奥では初老の店主がパイプの手入れをしていた。
ギネスのハーフパイントを注文したオリヴァーは、雑談のついでに、昨日の暖炉の出来事を切り出した。
「暖炉の煙突を掃除したら、奥の石の隙間から古い子供の靴が出てきたんですよ。誰が何のためにあんな場所に押し込んだんでしょうね」
パブの店主の手が、ピタリと止まった。カウンターの隅でエールを飲んでいた二人の地元の老農夫が、ゆっくりとこちらを振り返った。
店主はパイプをカウンターに置き、険しい表情でオリヴァーを見つめた。
「あんた……ペントリースが貸し出した、あのミズ・トールの麓のコテージに住んでるのか?」
「ええ、半年ほど契約して」
「その靴を、どうした」
「どうしたって……ゴミ袋に入れて、台所に置いてありますが」
店主は小さく天を仰ぎ、深く息を吐き出した。
「今すぐ戻って、元の場所に戻すんだ。一刻も早くな」
「え? なぜですか。ただのゴミでしょう」
店主は身を乗り出し、声を低くして言った。
「コンシールド・シューズ(Concealed Shoes)だ。あんた、ロンドン育ちだから知らんのも無理はないが、このデヴォンやコーンウォールの古い家ではな、かつて家を建てる時、あるいは大きな改修をする時、必ず煙突や床下に履き古した靴を隠したんだよ」
「魔除け……ですか?」
「ただの気休めの魔除けじゃない。『身代わりの罠』だ」
店主の濁った青い瞳が、オリヴァーの目を射抜くように捉えた。
「昔から、悪霊や彷徨う死者っていうのはな、家の中に侵入する時に、開口部を探す。窓やドアには鍵があるが、煙突だけは常に空へと口を開けているだろう? 奴らは煙突から降りてくるんだ。
だが、煙突の暗闇の中に人間の匂いが染み付いた靴が押し込まれていると、死者はそれを『そこに人間が潜んでいる』と錯覚する。そして、その靴の中に閉じ込められ、家の中に入れなくなるんだよ。特に、子供の靴はな、純粋な霊を捕らえるために一番効き目があるとされていた」
オリヴァーは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「特に、あんたの借りたあのコテージの前を通っている道だ」
カウンターの端にいた老農夫が、擦れ切れた声で口を挟んだ。
「あの道はな、ただの農道じゃない。かつてダートムーアの奥地に住んでいた信者たちが、リドフォードの聖ペトロック教会まで死体を運ぶために使っていた『リッチ・ウェイ(Lych Way)』の古い支線道なんだよ。中世の頃、この荒野全体で遺体を埋葬できる聖別された墓地は、リドフォードにしかなかった。
だから人々は、何マイルもの過酷な泥炭湿原を越えて、棺を担いで歩いたんだ」
老農夫は震える指で、窓の外の荒野を指差した。
「夜になると、今でもあの道を『運ぶ者たち』が通る。あのコテージは、その死者の通り道の真横に建っているんだ。煙突の靴はな、死霊たちが暖炉の火に引き寄せられて家の中へ雪崩れ込んでこないよう、百年前の住人が打ち込んだ楔(くさび)なんだよ。
それを引き抜いたってことは……あんた、門を開け放したのと同じだぞ」
第四章 濡れた棺の音
パブを出たオリヴァーは、早足でコテージへと戻った。老人の話をすべて鵜呑みにしたわけではなかった。しかし、昨夜聞いたあのスレート床を踏む乾いた足音の記憶が、心臓を冷たく締め付けていた。
早く靴を元の場所へ戻そう。そうすれば、少なくとも気味の悪さは解消されるはずだった。
コテージの重いオークのドアを開け、台所へと直行した。勝手口の脇に置かれた黒いゴミ袋。
オリヴァーはゴミ袋の結び目を解き、中を覗き込んだ。
「……嘘だろ」
袋の中には、空になった缶詰と、野菜の皮しか入っていなかった。昨夜、確かに放り込んだはずの、あの煤けた子供靴が、影も形もなくなっていたのだ。
オリヴァーはゴミ袋をひっくり返し、台所の床に中身をぶちまけた。ない。流しの下、冷蔵庫の隙間、食器棚の奥。
這いつくばって部屋中を探したが、靴はどこにも見当たらなかった。外から誰かが侵入した形跡はない。鍵はしっかりと閉まっていたのだ。
午後四時を回ると、ダートムーアの荒野は急速に夕闇へと沈んでいった。そして、恐るべき濃霧が、まるで生き物のように山肌から滑り降りてきた。窓の外は、わずか数メートルの距離すら見通せない、乳白色の壁によって完全に遮断された。
室内の気温が、暖炉の火を焚いているにもかかわらず、急激に低下し始めた。トネリコの薪は赤々と燃えているはずだった。しかし、炎からわずか五十センチ離れただけで、空気は冷凍庫のように冷え切っていた。
オリヴァーは居間のソファーに座り、ノートパソコンのキーボードを叩こうとしたが、指先がかじかんでうまく動かなかった。画面の右下、Wi-Fiのアイコンに「接続なし」の警告が表示された。衛星アンテナが、濃密な霧と磁気嵐のような電波障害によって、完全に通信を遮断されていた。
完全な孤立だった。
午後十一時四十分。暖炉の中で、パチリと火花が散った。その瞬間、煙突の奥から、風の唸り声とは明らかに異なる音が響いてきた。
ザリ、ザリ、ザリ……。
何かが、煙突の内側の石肌を擦りながら、ゆっくりと下方へと這い降りてくる音。煤がパラパラと落ちてきて、赤い熾火の上に落ち、小さな煙を上げた。
オリヴァーは息を殺し、ソファーから立ち上がった。足がすくんで動かなかった。
ザリッ、ボトッ。
暖炉の灰の中に、何かが落ちた。
煤煙が晴れた後、灰の上に転がっていたのは、あの黒い子供靴だった。台所のゴミ袋から消えていた靴が、煙突の奥から、自ら落ちてきたのだ。しかし、その靴は、オリヴァーが見つけた時とは異なっていた。
靴の表面は、まるで水底から引き揚げられたかのように、ぐっしょりと黒い泥水に濡れそぼっていた。そして、履き口から、ドクドクと、悪臭を放つ泥炭の泥水が溢れ出し、暖炉の床を汚していた。
その泥の匂い。何百年もの間、日光の届かない泥炭層の奥深くに堆積していた、腐敗した植物と冷たい鉄の匂い。
カツン、カツン、カツン。
外から音が聞こえた。コテージの正面、あの「死者の道(リッチ・ウェイ)」の石畳の上を、複数の人間が歩く音。
泥靴の足音。そして、ギシ、ギシ、ギシ、という、重い木材が軋む音。四人の男が、両肩に太いロープを掛け、水を含んで重くなった未乾燥の木箱——棺を担いで行進している時にしか生じ得ない、規則正しい同期した軋み音だった。
足音は、コテージの正面でピタリと止まった。
静寂が訪れた。死のような、絶対的な無音。
そして、コテージの重いオーク材の玄関ドアに、何かが接触した。
ノックではなかった。ドスン、と、巨大な長方形の角が、ドアの木肌に重々しく打ち当てられたような音。
『……下ろせ……』
低く、嗄れた男の声が、ドアの隙間から染み込んできた。それは一人ではなかった。
『……肩が……抜ける……重すぎる……』『……休ませろ……火がある……温もりがある……』
ガタガタガタッ!
ドアノブが、激しい勢いで上下に揺さぶられた。施錠された鍵のデッドボルトが、外側からの凄まじい圧力で軋み、枠の漆喰が白い粉となって床にこぼれ落ちた。
「来るな! ここは個人の家だ!」
オリヴァーは絶叫し、暖炉の脇にあった鉄の火かき棒を両手で構えた。だが、音は玄関からだけではなかった。
今度は、頭上の屋根板からだった。何十人もの濡れた足が、スレート屋根の上を踏み鳴らし、煙突の開口部へと殺到する音が響き渡った。
暖炉の開口部から、凍てつくような冷風が突風となって吹き荒れた。燃えていた薪が一瞬にして吹き消され、黒い灰が竜巻のように居間全体に舞い散った。
暗黒の中で、煙突の縦穴から、無数の細い影が雪崩れ込んできた。
それは煙ではなかった。泥まみれの、痩せこけた無数の腕だった。指先には爪がなく、皮膚は白くふやけ、関節が不自然に折れ曲がった腕の群れが、煙突の暗がりから天井へ、壁へと、蜘蛛のように這い出してくる。
そして、暖炉の奥の闇の中から、濡れた黒い頭部が、ゆっくりと逆さまに垂れ下がってきた。
垂れ下がってきたその顔面には、皮膚が存在しなかった。
泥炭湿原の酸性土壌によって完全に脱色され、黒褐色に変色した革のような肉が、頭蓋骨の輪郭に直接へばりついていた。見開かれた眼窩の奥には、白濁した泥水が溜まり、そこから細い水滴がポタポタと灰の上に落ちていた。その唇のない口隙が、横へと裂けるように開いた。
『……お前の……足を……よこせ……』
声は、冷たい水が耳の奥に流れ込んできたかのように響いた。
『……歩けないのだ……道が……遠すぎる……リドフォードは……まだ先か……』
黒褐色の手が、暖炉の石枠を掴んだ。石灰岩の角が、ミシリと音を立てて砕ける。その怪異の背後、煙突の奥からは、さらに何重もの呻き声と、泥炭の底から湧き上がるような冷気の奔流が渦を巻いていた。
逃げ場はなかった。玄関ドアの外には棺を担ぐ者たちが立ち塞がり、背後の窓は濃霧に包まれ、頭上からは無数の死者の腕が降り注いでいる。
オリヴァーの視線が、足元の灰の中に落ちている、あの黒い子供靴へと吸い寄せられた。
靴の履き口から溢れ出していた泥水が、まるで磁石に引き寄せられるように、暖炉から這い出そうとしているその怪異の指先へと向かって、細い筋を描いて流れていた。
(身代わりの罠だ)
パブの店主の言葉が、閃光のようにオリヴァーの脳裏を貫いた。靴は、死霊の足を捕らえるための罠なのだ。足のない者、歩くことに疲れ果てた死者たちに、「ここに足がある」と錯覚させ、その中に魂を封じ込めるための器。
オリヴァーは火かき棒を投げ捨て、素手で灰の中に飛び込んだ。熱い灰が手のひらの皮を焼き、激痛が走ったが、彼は構わず、泥まみれの子供靴を鷲掴みにした。
靴は、氷のように冷たかった。掴んだ瞬間、煙突から垂れ下がっていた顔面の視線が、オリヴァーの手元へと凍りついた。
『……私の……靴……』
怪異の口から、今度は幼い少女のような、甲高く掠れた悲鳴が漏れた。
『……返して……私の……足を……!』
無数の腕が、一斉にオリヴァーへと向かって殺到してきた。冷気の刃が彼のシャツを引き裂き、背中や肩の皮膚に無数の凍傷のミミズ腫れを刻み込んでいく。
オリヴァーは痛みに絶叫しながら、暖炉の奥へと上半身を突っ込んだ。煙突の内腔。懐中電灯の光もない暗黒の中、彼は手探りで、石組みの棚の隙間を探した。昨日、自分が火かき棒で靴を抉り出した、あの石と石の継ぎ目。
指先が、冷たい石の裂け目に触れた。
「戻れッ!」
オリヴァーは渾身の力を込め、濡れそぼった子供靴を、その石の隙間へと力任せに押し込んだ。靴の革が、狭い石の間にギチギチと軋みながらめり込んでいく。
その瞬間、靴の中に残されていた真鍮の留め針が、オリヴァーの親指の腹に深々と突き刺さった。鮮血が噴き出し、冷たい牛革の表面を真っ赤に染め上げた。
生者の血が、乾いた古い革へと吸い込まれていく。
キィィィィィィィン!
耳膜を切り裂くような金属的な高周波が、煙突全体に反響した。押し込まれた靴が、まるで生き物のように収縮し、周囲の煤と泥を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
暖炉から這い出しかけていた黒褐色の頭部が、目に見えない巨大な力で後方へと引き戻された。
『……あ……あぁ……』
絶叫を残し、無数の腕が、天井や壁から剥ぎ取られるようにして煙突の穴へと吸い込まれていく。
オリヴァーはさらに両手で靴の踵を殴りつけ、石の奥深く、二度と抜けない深さまで押し込んだ。
ドォン!
玄関ドアを外側から叩いていた衝撃が、最後の一撃を最後に、ピタリと止んだ。屋根を踏み鳴らしていた無数の足音も、風が止むように消え去った。
居間を吹き荒れていた灰の竜巻が、重力に従ってサラサラと床へと落ちていく。完全な静寂が、戻ってきた。
暖炉の奥からは、もはや冷気は噴き出していなかった。ただ、湿った石と、古い革が焦げるような、微かな匂いが漂っているだけだった。
オリヴァーは暖炉から転がり出ると、灰にまみれた床の上に大の字に倒れ込んだ。右手からは血が滴り落ち、全身の震えが止まらなかった。窓の外を見ると、あれほど濃密だった霧が嘘のように晴れ渡り、ダートムーアの冷たい夜空に、数千の星々が無言の光を投げかけていた。
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