序章 修理希望

修理希望箇所——玄関。

アンナはそこまで書いて、ペンを止めた。

故障内容の欄には、まだ何も書けていなかった。鍵が回らないわけではない。扉が閉まらないわけでもない。弟は、何かが壊れたとは一度も言っていなかった。

ただ、見てほしい、と言った。

台所の椅子に座る弟の前には、飲みかけの水があった。コップの底に小さな泡がつき、その一つがゆっくり剥がれて上がった。弟はそれを見ていた。アンナが何を書くのか、覗こうともしなかった。

第一章 二つの朝

アンナの一日は、弟の一日が始まる頃に終わった。

夜勤を終えて帰ると、隣の住まいから湯を沸かす音が聞こえることがあった。自分は靴を脱ぎ、弟は履く。その短い時間だけ、二人の暮らしが同じ場所で重なった。

一つの家を二つの住まいに分けて貸している建物だった。壁を隔てて近くにいても、互いの部屋へ行くには一度外へ出なければならない。窓から声をかけるには近すぎ、電話をするには大げさに思える距離だった。

それでも、アンナはよく電話をした。

買い物のついでに牛乳が要るか。届いた荷物を預かれるか。週末に車を使うか。弟からの返事はたいてい短く、急いでいるのかと思って電話を切ると、そのあとで長い説明が送られてきた。

会って話す方が早いのに、とアンナはいつも思った。

自分が引っ越してきたあとに、もう一方の住まいが空いた。弟へ知らせたのはアンナだった。一緒に住むのではなく、近くに住む。その違いが、二人にはちょうどよかった。

子供の頃は、弟が何を隠しているか、顔を見れば分かった。

割ったコップを片づけたあとでも、エミルはその棚の方を見ないようにしていた。宿題を忘れているときには、学校の話だけ妙に詳しくなった。アンナはそれを見つけることに慣れ、自分は弟をよく理解していると思っていた。

大人になってから、その習慣だけが残った。

エミルが口数を減らすと、何かを隠しているのだと思う。答えが遅いと、答えにくいことを訊いたのだと思う。疲れているだけのこともある、と気づくのは、たいてい言いすぎたあとだった。

その朝、弟はアンナの帰りを待っていた。

建物の脇へ車を停めると、自分の玄関ではなく、弟の方の扉が開いた。上着を着ていない。外の空気に肩を縮めながら、それでも中へ戻らずに立っていた。

「帰ってたの?」

アンナが訊くと、エミルは頷いた。

「ちょっと、見てほしいんだけど」

水道か、暖房かと思った。夜勤明けの頭では、修理という言葉が出る前から修理のことを考えていた。

弟の後ろへ続き、廊下を通った。ここへ入るのは初めてではない。細長い通路の先に台所があり、その奥から階段が上へ伸びている。部屋の使い勝手について、引っ越しのときには二人で散々話した。

アンナは上着を脱がず、台所の椅子を引いた。

「何があったの」

「夜、叩く音がした」

彼女は鞄から眼鏡を出した。仕事のあいだずっと掛けていたのに、車を降りるときにしまっていた。

「誰か来たの?」

「分からない」

「何時頃?」

「遅く」

弟はそこで水を飲んだ。

アンナはその答えを、夜中、という意味に受け取った。酔った誰かが家を間違えたのかもしれない。近くへ来た車が道に迷い、明かりのついた窓を見つけたのかもしれない。

どちらも、弟にとっては嫌なことだろう。

けれど、そのときのアンナには、自分が座っている台所まで嫌な場所に思える理由は、まだなかった。

第二章 傷のない金具

玄関の錠は、軽く回った。

アンナは外側から鍵を差し、施錠してから取っ手を下げた。扉は開かない。もう一度鍵を回すと、今度は開いた。

三回試した。

三回目には、何を確かめているのか自分でも分からなくなった。鍵が掛かることは一回で分かる。二回目からは、弟を安心させるための動作だった。

扉の縁には、塗装の剥げたところがあった。アンナは指で触れたが、いつできた傷か判断できなかった。古いものは古く見える。それ以上のことを、金具が教えてくれるわけではない。

「前からこう?」

後ろにいる弟へ訊いた。

「たぶん」

「写真を撮っておこうか」

「何の?」

アンナは振り返った。

弟は本当に分からない顔をしていた。彼女は、念のため、と答えた。何の念のためなのかは説明しなかった。

扉を開けたまま外へ出ると、家の前に停めた自分の車が見えた。窓に空が映っている。車体の下に昨日からの小石があり、後輪の近くに、誰かが踏んで平らになった草があった。

知らない足跡を探そうとして、やめた。

この場所は自分も弟も歩く。配達の人も来る。足跡が一つあったところで、昨夜の誰かのものとは分からない。

「窓からは見なかったの?」

戻って訊くと、エミルは少し考えた。

「最初は、下へ行ったから」

「そのあと」

「外には誰もいなかったと思う」

思う、という言い方が気になった。

アンナは、弟が何かを曖昧にしていると感じた。だが、夜中に人の気配を感じれば、普段ならできる確認を忘れることもあるだろう。自分ならどうするかを考え、まず声をかけるはずだと思った。

「声は?」

「掛けた」

「返事はなかった?」

弟は頷いた。

それなら、ますます悪戯らしかった。

アンナは台所へ戻り、鞄に入れていた小さなノートを出した。建物の管理を頼むときには、何がおかしいのかを短くまとめた方が話が早い。仕事でもそうしていた。起きたこと、確認したこと、まだ分からないこと。

三つに分ければ、たいていの困り事は扱いやすくなる。

けれど、修理希望箇所、と書いてから先が進まなかった。

鍵は動く。扉は閉まる。破損は分からない。知らない誰かが夜に叩いたらしいが、その誰かが残したものはない。

弟が欲しいものは、修理ではないのかもしれなかった。

「心配なら、今日はこっちへ来れば」

アンナが言うと、エミルは顔を上げた。

「寝るだけなら、ソファがあるし」

「大丈夫」

返事が早かった。

彼女は、それ以上勧めなかった。大丈夫ではない人が大丈夫と言うこともある。けれど、そう言い出すと、相手の返事を一つもそのまま受け取れなくなる。

ノートを閉じ、いったん寝てからまた来ると伝えた。

エミルは玄関まで送ってきた。

アンナは外へ出て、弟が扉を閉めるところを見た。そのあとすぐに、鍵の回る音がした。

第三章 昼の留守番

目が覚めたのは、思っていたより遅い時間だった。

カーテンの下に明かりが溜まっている。アンナは時計を見てから、携帯電話を手に取った。弟から連絡は来ていなかった。

安心したあとで、連絡がないことを安心の理由にしてよいのか考えた。

何かあれば連絡してくるだろう。

その言葉は、自分が眠っていた数時間を簡単に片づけてくれた。実際に弟が何をしていたかは知らない。寝ていたのか、出かけたのか、また何かを聞いたのか。

短い文を送った。

起きた。まだ見てほしいところはある?

返事はしばらく来なかった。

アンナは顔を洗い、湯を沸かした。台所の窓から、建物の前の道が見える。明るいうちは、何かが近づけば途中で見つけられそうだった。

夜に同じことができるとは限らない。

昨夜、自分がいなかったことを、彼女はようやく具体的に考えた。

職場で何をしていたかは、だいたい覚えている。休憩を取ったこと。同僚が忘れた食べ物を冷蔵庫へ戻したこと。朝方、時計の針が進むのを遅く感じたこと。

その時間、弟は隣の住まいで一人だった。

何かを聞き、誰かを呼び、返事を待った。

アンナはコーヒーを持つ手を止めた。自分が近くに住む理由の一つを、勝手に大きく考えていたのかもしれない。壁一枚向こうにいるから、何かあればすぐ分かる。そんなことは、起きていても保証できなかった。

弟から返事が来た。

今から少し出る。戻ったら連絡する。

それだけだった。

アンナは、何時に戻るのか訊かなかった。代わりに自分の洗濯物を畳んだ。袖を重ね、裾を折り、一枚ずつ積む。眠る前に頭へ残っていた弟の表情が、単調な作業のあいだに戻ってきた。

怯えている、というより、疲れて見えた。

説明することに疲れた顔だった。

何度も同じ話をさせただろうか。

そう思って朝の会話を辿ると、アンナが訊いたことばかり思い出された。何時。誰。どこ。鍵。窓。返事。

弟の話は、質問の間に細かく切られていた。

彼女はノートを開いた。

修理希望箇所——玄関。

その下に、弟がどうしてほしいのか、と書こうとした。けれど、それも仕事の覚え書きみたいで嫌になり、ペンを置いた。

夕方近く、エミルが帰ってきた。

窓越しに車が停まるのを見たが、すぐには出ていかなかった。弟は買い物袋を二つ持っていた。片方を地面へ置き、鍵を出す。扉を開けてから、袋を持ち直すまで少し間があった。

アンナには、その間が長く見えた。

弟が中を覗いていたのか、それとも袋の取っ手を掴み直していただけなのか、窓からは分からなかった。

連絡が来たのは、その数分後だった。

今ならいい。

アンナは靴を履き、ノートを持たずに外へ出た。

第四章 聞こえる場所

エミルは階段の上にいた。

台所へ入ると、上から名前を呼ばれた。声が近い。居間にいるとばかり思っていたが、階段のすぐ手前に座っているらしかった。

「そのまま、何か喋って」

弟が言った。

アンナは台所の入口で立ち止まった。

「何を?」

「何でも」

「聞こえる?」

「聞こえる」

そこで会話が終わった。

アンナは少し待ち、もう一度名前を呼んだ。弟が降りてきた。片手を手すりへ載せたまま、最後の数段をゆっくり下りる。

「何をしてたの」

「音を聞いてた」

卓上に、買ってきたものが出しっぱなしになっていた。パン、包み紙、畳まれていない買い物袋。冷蔵庫へ入れるものだけ片づけ、そのあとで階段へ戻ったようだった。

エミルは、自分が上にいるときに下の音がどう聞こえるか、知りたいと言った。

それなら付き合える、とアンナは思った。

彼女は流し台の水を出した。弟が上から止めてと言うまで流し、止めた。椅子を引く。戸棚を閉める。靴のまま廊下を歩く。

どれも、上にいる弟には聞こえた。

今度は場所を替わった。

アンナは階段を上がり、居間に立った。テレビの前に毛布が置いてある。畳んでいないのではなく、座っていた身体が抜けた形のまま残っていた。

下で椅子が動いた。

台所だと分かった。

水が流れた。

それも分かった。

戸棚が閉まった音は、階段のすぐ下から聞こえたように感じた。

「今のは?」

弟が訊いた。

アンナは戸棚と答えた。何を鳴らすか、先に知っていたから分かっただけかもしれない、とあとで思った。

「知らずに聞いたら、違うかもね」

下へ戻ってから、そう伝えた。

弟は黙っていた。

説明を見つけた、という気分になりかけていたアンナは、そこで口を閉じた。音の場所を間違えることがある。確かにそうだろう。だが、その一般的な話だけで、弟が聞いたものを片づけたことにはならない。

エミルは食卓へ腰を下ろし、買い物袋を小さく畳んだ。

「音だけじゃないんだ」

アンナは向かいへ座った。

「見たの?」

弟はすぐには答えなかった。

彼女の頭に、庭に立つ誰かの姿が浮かんだ。窓から見た人影。遠ざかる車。自分には説明しにくい相手だったのかもしれない。

だが、エミルは首を横に振った。

「人は、見てない」

袋を畳む手が止まった。

「だから、どう言えばいいか分からない」

アンナは、今度こそ質問をせずに待とうとした。

その沈黙は思ったより難しかった。

目の前で困っている人がいれば、訊けばいい。答えやすいように選択肢を出せばいい。彼女はずっと、そうすることが助けになると思っていた。

けれど、弟が話そうとしているものの形を、自分の質問が先に決めている気もした。

水を飲むかと訊きそうになり、それもやめた。

エミルは袋を卓上へ置いた。

「もう少しあとで、話してもいい?」

アンナは頷いた。

第五章 帰宅の合図

その夜、アンナは休みだった。

夕食を一緒にしようと誘うと、エミルは少し迷ってから、何か持っていくと言った。

彼女の台所には、弟が買ったパンが来た。別々に暮らしているのに、同じ店で同じものを買っていたことが分かり、二人で笑った。

笑ったあと、アンナはほっとした。

弟も笑える。それを確認したかったのだと思った。

食事のあいだ、夜の話はしなかった。車の調子や、母親から来た電話のことを話した。母は二人が近くにいるのを安心しているらしい。エミルは、それを本人からも聞いたと言った。

「私が面倒を見ると思ってるのよ」

「逆かもよ」

「何をしてくれるの」

「重いものを持つ」

「最近、持った?」

エミルは少し考えた。

「パン」

アンナは笑い、それから笑いすぎたと思った。弟が普通のことを言うたび、大丈夫である証拠のように受け取るのはやめたかった。

食後、皿を洗っていると、後ろで椅子を引く音がした。

アンナは振り返った。

エミルは立っただけだった。

「帰る」

「お茶は?」

「また今度」

彼女は手を拭き、玄関まで一緒に行った。送るほどの距離ではない。弟の住まいは、すぐ隣だった。

けれど、その短い道を一人で歩かせることが、朝より気になった。

「入ったら、連絡して」

口にしてから、おかしなことを言ったと思った。

エミルもそう思ったのか、彼女を見た。

「見えてるだろ」

「ちゃんと帰ったか分かるから」

「数歩だよ」

それでも弟は、入ったあとに短い連絡をくれた。

帰った。

アンナはその二文字を見て、返事をしなかった。何か返すなら、何を言えばよいのか分からなかった。

しばらくしてから、自分の玄関へ行った。

鍵を掛けたかどうか、確かめたくなったのだ。

取っ手へ手を伸ばす直前に、動きを止めた。掛けたことは覚えている。弟を見送って扉を閉め、そのまま鍵を回した。

それでも、手を引くのに少し時間がかかった。

自分がこの状態なら、弟はどうなのだろう。

アンナは台所へ戻り、洗い終わった食器を拭いた。布巾が湿ってきても替えず、最後の皿まで拭き続けた。

夜が更けると、隣から何か聞こえないか、気にするようになった。

そのつもりで耳を澄ませると、家には音が多かった。冷蔵庫。配管。窓の外を通る車。何かが小さく鳴り、どこかで止まる。

弟の生活音なのか、建物の音なのか、自分の側で出た音なのか、区別できないものもあった。

彼女はテレビをつけた。

音量を上げてから、すぐに下げた。何かあったときに聞こえなくなるのが気になった。

結局、消した。

この夜は何も聞かなかった、と翌朝言えるだろうか。

何もなかった、と言うつもりはなかった。自分が確かめられるのは、自分に聞こえたものだけだ。それでも、弟に説明するときには、その違いを簡単に省いてしまいそうだった。

携帯電話を食卓の上へ置いた。

画面は一度も明るくならなかった。

第六章 間取りの訂正

翌日の午後、二人でもう一度、玄関を見た。

アンナが提案したのだった。

何かを交換すると決めたわけではない。ただ、気になる箇所を一緒に確かめて、必要なら管理している人へ連絡する。そのためには、弟が何を見て不安になったのか、そこだけでも知りたかった。

エミルは拒まなかった。

玄関の扉を開け、閉める。

外側へ出て、取っ手に触る。

内側へ戻り、金具を見る。

同じことをまた繰り返している、と途中でアンナは気づいた。

弟は手伝ってくれたが、何かが分かりそうな顔はしていなかった。アンナが指示すると動き、訊くと短く答える。

その様子は、修理に立ち会う人というより、別の誰かの作業が終わるのを待つ人に似ていた。

「これを替えたら、少しは安心できそう?」

アンナが訊いた。

エミルは扉ではなく、彼女の顔を見た。

「分からない」

「鍵ごと新しくするなら、今ある鍵のことも考えなくてよくなるでしょう」

そう言ってから、彼女は、自分が新しい心配まで付け加えていると気づいた。

合鍵を持った誰か。

弟はそんな話をしていなかった。

知らない人間の侵入を考えるなら、確かめることは他にもある。けれど、確かめれば確かめるほど、まだ調べていない箇所が増えていく。

アンナは手を下ろした。

「ごめん。先に決めすぎてる」

エミルは何も言わなかった。

台所へ戻ると、昨日と同じ椅子が同じ位置にあった。階段の下に、脱いだ靴下が片方落ちている。朝に運んだのだろう、食卓には上の部屋で使ったらしいコップが幾つも並んでいた。

アンナは椅子へ座らず、階段を見た。

「最初に聞いたとき、どこにいたの」

弟は上を指した。

「そこから、降りてきた」

「途中で止まった?」

エミルは頷いた。

彼女は数段上がってみた。台所の床が低くなり、食卓の上面が見えた。廊下側の扉も見えるが、玄関までは見通せない。

アンナはそこで、朝から自分が何を頭に描いていたかを知った。

外で誰かが叩く。

弟が階段を下りる。

廊下を歩く。

玄関を開ける。

その順序だった。

弟が実際にそう話したわけではなかった。

「ここ?」

振り返ると、エミルはもう少し下だと言った。

アンナは一段下りた。

見えるものが少し変わった。扉の金具の位置が近くなる。床に落ちていた靴下は、手すりの陰へ隠れた。

弟は台所の中央に立っていた。

「叩く音がして、ここまで来たのね」

エミルが頷いた。

「それで、何が見えたの?」

今度は、そのまま待った。

弟は扉の方へ目を向けた。アンナも同じ方向を見た。

自分の思い描いた話に、まだ何かが足りない。

それは、見知らぬ人物の姿でも、鍵の傷でもない気がした。

エミルが言った。

「姉さん、さっきから違う扉を調べてる」

「叩かれたのは、こっちだよ」

弟が示したのは、台所と廊下を隔てる扉だった。

アンナはその白い面を見た。

来るたびに通っていた。

買い物袋を持って入った。弟に呼ばれて立ち止まった。水の音を確かめるため、昨日もその前を歩いた。

玄関は、もっと向こうにある。

アンナの頭の中で、誰かが立つ場所が変わった。

庭から。

玄関の前から。

もう家の中にある、あの細い廊下へ。

弟は短く話した。深夜、上から下りる途中で、その扉が叩かれて揺れるのを見たという。呼んでも返事はなく、音が止んでから確かめても人影はなかった。玄関には鍵が掛かっていた。その後も二度、似た音を聞いたが、下へ行けなかった。

アンナは手すりを握った。

部屋の温度は変わっていない。

窓からの光も、食卓の影も、そのままだった。

それでも、さっきまで何度も行き来していた短い通路が、急に、ここから目を離してはいけない場所になった。

彼女は玄関を開け閉めしたときのことを思い出した。

自分は一人で外へ出た。

エミルは内側に残った。

それから自分が戻り、弟の前を通って台所へ入った。

あの通路を何かが占めていたら、逃げるためには、その前を通ることになる。

アンナはそこまで考えて、考えるのをやめようとした。

弟が感じた恐怖と、自分の想像を混ぜてはいけない。

だが、自分の足が階段から動かなかった。

「外は、鍵が掛かってたのね」

言ってから、もう聞いたことだと分かった。

エミルは頷いた。

その顔を見て、アンナはようやく、なぜ弟が錠の話に乗ってこなかったのか理解した。

彼にとって、鍵がきちんと掛かることは、安心させてくれる情報ではなかった。

第七章 開けたままの午後

アンナは階段を下りた。

一段ずつ足を置き、台所の床へ立った。弟が見ているので、急に足早になるのも、逆に慎重になりすぎるのも嫌だった。

扉は半分ほど開いていた。

彼女はその縁に触れた。木の表面は乾いている。塗装が厚くなったところに指が引っかかり、爪の先へ白い粉が少しついた。

「これ?」

もう一度訊く必要はなかった。

弟もそう思ったのか、返事をせずに頷いただけだった。

アンナは扉を閉めかけた。

どんな音がするか、確かめようとしたのだ。

途中で手を止めた。

エミルの肩が、わずかに動いたのが見えた。

「やめておく」

彼女はそう言い、扉を元の角度へ戻した。

自分が音を鳴らし、弟がまたそれを聞く。そのことで何か分かるのかもしれない。けれど、今すぐ確かめる必要があるのかは別だった。

アンナは食卓へ座った。

弟も座った。

二人の間に、洗っていないコップが幾つもあった。彼女はそれをよけず、空いている場所へ両手を置いた。

「怖かったね」

弟は俯いた。

アンナは、もっと早くそう言えばよかったと思った。何が起きたのか分からないままでも、その一言は言えたはずだった。

エミルはしばらく黙り、それから、別に何かを信じてほしいわけではないと言った。

「ただ、俺がどこにいたか、分かってほしかった」

アンナは頷いた。

さっき立った段を思い出した。

玄関の鍵が遠い。

窓も遠い。

手すりだけが近い。

知らない誰かが家の外にいるのなら、閉めておく扉がある。けれど、弟が感じたものは、その扉よりこちら側にあった。

自分はずっと、弟の話を家の外へ戻そうとしていた。

アンナは鞄を探し、ノートを持ってこなかったことを思い出した。

修理希望箇所——玄関。

あの一行を消したくなった。

けれど、台所の扉へ書き換えればよいわけでもなかった。

「今日は、どうしたい?」

彼女は訊いた。

エミルは考えた。

上で寝るか。彼女のところへ来るか。誰かに見てもらうか。

そうした選択肢を、アンナは今度は口にしなかった。

弟は、少しここにいてほしいと言った。

「何時まで?」

訊いてから、また急いだと思った。

エミルは小さく首を振った。

「今、少し」

彼女は頷いた。

湯を沸かそうと立ち上がることもせず、そのまま座った。

廊下側の扉は半開きだった。玄関は見えない。その途中にある壁だけが、細い四角に切り取られている。

二人はしばらく、それぞれ違う方を見ていた。

何も起きなかった。

アンナには、その何も起きない時間を急いで終わらせないことが、今できる唯一のことに思えた。

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