序章 墨煙の南澳湾と、嵐の夜の吹筒仔
初夏が近づき、南シナ海から湿った生温かい風が吹き込む季節になると、広東省深センの東端に位置する大鵬半島・南澳(ナンパオ)の漁港には、どこからともなく夜釣りの小舟が集まり始める。
旧暦の立夏を過ぎ、芒種に至る五月末から六月中旬にかけての短い合間、この海域の浅い湾流には「吹筒仔(チョイトンチャイ)」と呼ばれる小さなイカの群れが潮に乗って押し寄せる。広東の言葉で「吹筒」とは筒状のヤリイカを指し、その幼生が「仔」である。集魚灯の強烈な白光を漆黒の海面に投げ込むと、光に惑わされた数千、数万の半透明な魚影が、海面すれすれを細い矢のように交錯し始める。
餌のついていない小さな擬似鉤を垂らし、手首を軽く跳ね上げるだけで、針の数だけ重みが乗り、銀色の飛沫とともに小イカが甲板へと跳ね上がる。
釣り上げた瞬間の吹筒仔は、激しい憤怒とともに真っ黒な墨を勢いよく吹き散らす。油断していれば顔面から胸元まで泥のような黒斑に染まり、まるで垢じみたモンゴルの長衣でも着せられたかのような無残な姿に成り果てる。だが、夜半を過ぎて潮が止まる頃、船頭が船尾の焜炉でその獲物を素早く捌き、ただ塩水で蒸し上げただけの白身を熱い白酒とともに胃の腑へ流し込む快楽は、何物にも代えがたい。
波の音に耳を傾け、甲板に腰を下ろして紫煙を燻らせながら、見知らぬ同乗者と取り留めのない身の上話を交わす。あの荒削りで自由な夜の海に集まる連中は、誰もが世俗の垢にまみれながら、どこか心の奥底に乾いた冒険の残滓を引きずっている者たちばかりであった。
私がその男——江蘇省淮安の出身で、かつて国家機関の中枢に身を置きながら早くに海を泳ぎ渡り、巨万の富を築いたという初老の釣り客と知り合ったのも、そうした南澳の船の上であった。
その夜の天候は最悪であった。夕暮れ時から驟雨が甲板を叩きつけ、風向が急変して波頭が白く砕け始めたため、沖へ出た漁船のほとんどが早々に港へ引き返していた。私たちが乗り合わせた木造船も釣りどころではなくなり、船頭は沖合の切り立った暗礁の陰に船を寄せ、錨を下ろして嵐が通り過ぎるのを待つことにした。
狭い船室の裸電球の下、外を叩く激しい雨音を聞きながら、男は手擦れした銀のシガレットケースから煙草を一本抜き取り、私に差し出した。
「あんたは文章を書く人間だそうだな。怪力乱神の類を好んで集めていると聞いた」
男の指先は、煙草の火を近づけた瞬間にわずかに震えていた。
「世間じゃ、長江や黄河の水怪といえば、ただの無知な農民が泥水を見て怯えた幻覚だと片付ける。だがね……私はあれの上に跨がったことがあるんだよ。八歳の夏、濁流の中で死にかけていた私の腹の下に滑り込んできたのは、冷たくて、重くて、呼吸をする一本の丸太だった」
第一章 洪沢湖の奔流と、息づく丸太
男の故郷は、江蘇省北部に広がる巨大な浅水湖——洪沢湖(こうたくこ)の東岸にあった。
淮河の吐き出す土砂が堆積してできたその平野は、古来より水害の常襲地であり、ひとたび上流で豪雨が続けば、住民たちは家財を捨てて堤防の天端や防風林の梢へと這い登るのが習わしであった。
男が八歳を迎えた昭和の終わり頃——文化大革命の混乱がようやく収まりを見せ始めた年の夏、その地方を彼の記憶の中で稀に見る鉄砲水が襲った。
真夜中、老朽化した上流の土堰堤が轟音とともに決壊した——と、男は語った。泥の塊のような水壁が平野を呑み込み、男が眠っていた煉瓦造りの生家は、土台ごと引き裂かれて濁流の中へと押し流された。寝台から冷たい水の中へと放り出された少年は、泥水を肺腑に呑み込みながら必死にもがいたが、逆巻く水流は容赦なくその小さな肉体を本流の渦へと引きずり込んでいった。
「水面にはあらゆるものが浮いていたよ。家畜の死骸、引き抜かれたポプラの巨木、屋根の残骸……そして、逃げ場を失って団子のように絡み合った無数のシマヘビの塊だ。泥水の下では、巨大な何かが身をよじって水底の泥を巻き上げ、時折、大人が何人も呑み込まれるような巨大な渦が口を開けていた」
力尽き、濁流に沈みかけた少年の太ももに、背後から音もなく一本の「黒い丸太」が擦れ違った。
少年は無我夢中で手を伸ばし、その丸太の表面にしがみついた。樹皮は濡れたゴムのように滑らかで、節くれ立った凹凸はなく、不思議なことに泥水の中にありながら、ほんのりと生温かい熱を帯びていた。少年はその丸太を両足で挟み込み、馬の背に跨がるようにしてしがみついた。
だが、奇妙なことはそこから始まった。
周囲の激流の中を、何百という木片や鋭利な瓦礫が猛スピードで流れていたにもかかわらず、その少年が跨がる丸太の周囲数メートルの水面だけは、あたかも不可視の油膜でも張られたかのように、波立ちが静まり返っていたのだ。流木も、動物の腐乱死体も、毒蛇の塊も、少年の数尺手前まで流れてくると、まるで見えない巨大な船首波に弾き飛ばされるかのように、不自然に左右へと進路を変えて避けていく。
「何かが、私を運んでいたんだ。丸太の内部から、トクン、トクン……という、巨大な、気の遠くなるほど遅い鼓動が、跨がった私の内股を通して直接響いてきた。それは水流に流されているのではなく、自らの筋肉の微細な波打ちによって、濁流の底を滑るように前進していたんだよ」
流されること小一時間、水勢がわずかに緩み、水没を免れた小高い自然堤防の斜面が前方に迫ったとき、少年が跨がっていた丸太が、突如として下から力強くしなった。
ボワンッ、と湿った空気の破裂音が響き、少年の身体はふわりと宙に放り出され、堤防の上の柔らかな草むらへと放り出された。
泥まみれになって咳き込み、這いつくばった少年が振り返った瞬間、水面から突き出ていた丸太の後端が、濁った飛沫を跳ね上げて身を翻した。
その黒々とした巨躯の前端——水面すれすれの暗がりの中に、二つの光点があった。
それは提灯の火のように赤く、鈍い燐光を宿しながら、泥水の中から少年を一瞥した。
丸太ではなかった。
それは、大人の胴回りよりも遥かに太い、濡れた鱗に覆われた未知の巨大生物の背中であった。怪異は少年の無事を見届けるように一度だけ身を震わせると、轟々たる濁流の底へと音もなく没し、二度と姿を現さなかった。
第二章 斬龍刀の架かる石橋と、走蛟の水利学
「その水怪に命を拾われたおかげかね」
男は煙草の灰を真鍮の灰皿に落とし、自嘲気味に目を細めた。
「私はその後、学業に異常な集中力を発揮するようになった。省の統一試験で三位の成績を取り、北京の清華大学へ進学した。卒業後は国家資産の管理部門に配属されたが、南巡講話の風に乗って真っ先に役所を飛び出し、民営化の波の中で資産を築いた。
金と時間が有り余る身分になったとき、私の脳裏を占領したのは、あの洪水の夜、私を背に乗せて運んだ怪物の正体だった」
男は私財を投じ、海洋学者、爬虫類の研究者、そして各地の古文書を読み解く民俗学者たちを私的に雇い入れ、中国全土の水怪記録の蒐集に乗り出した。
黄河の砂州に現れるという頭部の平たい「鉄頭龍王」、長白山の天池に潜む巨大な影、新疆カナス湖の湖怪、そして青海湖の水獣。
だが、男が自らの原体験と最も合致するものとして突き止めたのは、長江の中上流域——湖北、四川、貴州の山間部において、古くから人々の骨の髄まで染み付いている「走蛟(そうこう)」と呼ばれる自然信仰の深淵であった。
中国の古い伝承において、深山幽谷の鍾乳洞や地底の暗渠に潜む古蛇は、五百年を経て「蛟(こう)」となり、千年を経て「龍」になるとされる。
蛟は龍に似て角がなく、鱗の間に強い魚腥気を帯びている。山中で気の遠くなるような歳月を生き延びた蛟が、真の龍へと羽化昇天するためには、一生に一度だけ、山が崩れ、天が裂け、天地の気が濁流となって暴れ狂う「百年に一度の大洪水」に乗じて、山林を抜け出し、長江の奔流を経て東シナ海へと下らねばならない。
この命がけの降海行動を、民間では「走蛟」あるいは「出蛟」と呼ぶ。
「湖北や四川の山奥へ行くとね、明代や清代に築かれた古いアーチ型の石橋の裏側に、異様な仕掛けが残されているのを目にするはずだ」
男は手振りを交えながら、暗い船室の空中にアーチの弧を描いた。
「石造りの橋脚の中央、橋桁の真下の一番高い位置に、一尺から二尺ほどの鋼鉄の刀が、切っ先を真下の水面に向けて逆さに打ち込まれている。これを『斬龍刀』、あるいは『懸剣』と呼ぶんだ」
なぜ、橋の下に刀を仕込むのか。
山から下ってきた蛟は、直前に最後の脱皮を済ませているため、体表の新しい鱗はまだ柔らかく、極めて脆い状態にある。もし蛟がそのまま橋の下を通過しようとすれば、増水した水面によって持ち上がったその無防備な背筋を、逆さに吊るされた斬龍刀の刃先が深々と引き裂き、怪物はその場で絶命する。
先人たちは、橋という共同体の生命線を巨大な水怪の激突から守るため、風水と呪術を融合させたこの防衛装置を仕掛けたのだ。
だが、数百年を生きた怪異もまた、愚鈍ではない。
「橋の下に刃があることを知っている蛟はね、決して橋脚の間を潜ろうとはしないんだよ」
男の声が低くなった。
「石橋の手前に差し掛かると、蛟はその長大な身体を丸め、太い尾と胴体を使って橋桁の開口部を力づくで塞いでしまうんだ。水の抜け道を失った濁流は、一瞬にして堰き止められ、水位が跳ね上がる。そして水が石橋の欄干を越えて溢れ出した瞬間、蛟はその濁流の上に乗っかり、橋の天板の上を滑るようにして飛び越えていくのさ」
その通過の凄まじい質量と水圧によって、無数の古い石橋が耐え切れずにへし折れ、下流の村落はさらに壊滅的な洪水に見舞われる。
走蛟とは、大自然の精霊が天を目指す壮大な脱皮であると同時に、人間社会にとってはあらゆるインフラを粉砕していく悪夢の天災そのものであった。
そして、男がその「神話の現場」に直接立ち会うことになったのが、現代中国の治水史上、最大の惨劇として記録されている一九九八年の長江大洪水であった。
第三章 一九九八年・荊州の裂罅と皂莢の網
一九九八年の夏、長江流域を襲った豪雨は二ヶ月にわたって途絶えることがなく、全水系の大堤防が決壊の危機に瀕していた。
当時四十代半ばであった男は、四輪駆動車数台と強化ファイバー製の調査船、そして長江の古老たちを束ねた捜索隊を組織し、水害の最前線であった湖北省荊州(けいしゅう)の沿岸地域へと潜入していた。
荊州の市街地から遠く離れた、長江の支流が入り組む小高い丘陵地帯。
連日の豪雨による地滑りで半分が削り取られた赤土の山腹に、調査隊は息を呑むような大地の亀裂を発見した。
長さ数十メートル、幅十数メートルに及ぶ長大なクレバス。裂け目は地中深くへと口を開け、その内部には、誰が運び込んだとも知れぬ無数の丸太と枯れ枝が、幾重にも、幾十層にも整然と組み上げられていた。
「あれは巣だ」
同行していた地元の古老が、青ざめた顔で泥の斜面に平伏した。
「百年のあいだ、山の中で身を隠していた主が、大水に呼応して巣穴を破って這い出した跡だよ」
男がザイルを伝ってその縦穴の縁へと降り立つと、鼻腔を突いたのは、かつて洪沢湖の濁流の中で嗅いだものと寸分違わぬ、濃密な魚腥気と、雨上がりの蓮の葉が腐敗したような生々しい体液の臭気であった。丸太の表面や削られた岩肌には、硬い物質が擦れ合って研磨されたような深い溝が刻まれ、そこには乾きかけの粘りつく透明な分泌物が、べっとりと蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
怪物は、すでに出立していた。
調査隊は船を濁流へと滑り出させ、増水した支流を下流へと追跡した。
航路の途上、彼らは何基もの倒壊した古い石橋を目撃した。橋脚は水流によって押し流されたのではなく、まるで巨大な重量物に上から踏み潰されたかのように中央から真っ二つにへし折れ、冠水した橋面の上には、大量のヘドロとともに、獣の爪痕のような幅広の擦過痕が残されていた。
そして、支流が広大な遊水地——かつて一面の美田であったはずの、見渡す限りの泥の海へと合流する巨大な水湾に達したとき、船頭の古老が突然エンジンのスロットルを絞り、激しい声で叫んだ。
「これ以上進むな! 前を見ろ、何者かが『網』を打っている!」
前方の水面を見て、男は息を呑んだ。
広大な水湾の要所、水流が収斂する浅瀬の周囲を取り囲むように、無数の棘を持つ灌木——「皂莢(ソウカチ=サイカチ)」の生木が、特定の幾何学的な方位に従って、杭とともに水底へ何重にも打ち込まれていたのだ。
「サイカチだと……? あれが何の役に立つんだ」
男が問うと、古老は声を震わせながら指を差した。
「走蛟の主が最も恐れるのが、あのサイカチの鋭い棘だ。脱皮したばかりの柔らかい皮膚にあれが刺されば、傷口から気が漏れ出し、龍になるどころか化膿して命を落とす。……見ろ、水面下には牛の尿を染み込ませた頑丈な棕櫚縄が張り巡らされ、その下には手のひらほどもある鍛造の鉄鉤が無数に吊り下げられている。
あんな仕掛けを打てるのは、先祖代々、蛟を狩ることを生業にしてきた特殊な血筋の連中だけだ」
大水の彼方から、風に乗って奇妙な音が響いてきた。
ウゥゥゥ……モォォォ……。
それは、母牛を呼ぶ仔牛の鳴き声に酷似した、低く湿った人工的な呼子(笛)の音であった。
蛟は水牛の肉を最も好み、その鳴き声を聞けば盲目的に引き寄せられるという。
突如、水湾の中央で、巨大な水柱が爆発した。
ドォォン!
波頭を割って現れたのは、黒褐色の、水牛の頭部ほどもある巨大な頭部であった。
水面を蹴立て、うねるような巨大な背びれが泥水を切り裂いて突進してくる。怪異は呼子の音に引き寄せられ、怒り狂ったように渦を巻いていた。
「逃げろ! 罠だ、引き返せ!」
男は叫びそうになった。数百年の霊性を宿した神獣が、人間の浅薄な罠に落ちて命を奪われようとしている。
だが、古老は双眼鏡を覗き込みながら、首を横に振った。
「おかしい……いくら怒り狂っているとはいえ、あの百戦錬磨の主が、水中の鉄鉤の殺気に気づかぬはずがない。なぜ反転して深みへ逃げんのだ?」
古老がレンズのピントを合わせ直した瞬間、その喉から息が止まるような悲鳴が漏れた。
「……子供だ」
「何だって?」
「主の背中を見ろ! 首の根元の硬い鱗の隙間に……人間の子供がしがみついている!」
第四章 濁流を裂く赤子と、砕かれし巨角
男は古老の手から双眼鏡を引ったくり、自らの眼をレンズに押し当てた。
泥水を跳ね上げて前進する怪異の背中。
盛り上がった筋肉の結節点、頭部のすぐ後ろの背甲の上に、泥まみれの粗末なシャツを着た、五、六歳とおぼしき小さな幼子の姿があった。
子供は両腕を怪物の太い首輪のような鱗の間に深く差し入れ、必死にしがみついていた。
濁流が洗うたびに小さな身体が激しく揺れるが、怪異は自らの背びれをわずかに曲げ、その肉の壁で水圧を遮るようにして、子供の頭部を水面の上へと懸命に保ち続けていたのだ。
怪異は、自らの意思で罠の中へと飛び込んでいた。
その水湾を越えた先にある、水没を免れた唯一の小高い丘——そこに子供を送り届けるためには、このサイカチの棘と鉄鉤が張り巡らされた狭い浅瀬を力づくで突破する以外に道がなかったのだ。
グオオオオオオッッ!!
獣とも雷鳴ともつかぬ、地を揺るがすような咆哮が水面を薙ぎ払った。
怪異の巨躯が、サイカチの防壁へと真正面から激突した。
バリバリバリッ! と鋭い棘の枝がへし折れる音が響き、水面下に仕掛けられていた数百の鉄鉤が、獲物の突進に呼応して跳ね上がった。
肉の裂ける生々しい音。
鋼鉄の鉤爪が、脱皮したばかりの柔らかい腹部と背筋の皮膚へと深々と食い込み、泥水が一瞬にして赤黒い血煙で染め上げられた。
怪異は苦悶に身悶えし、巨大な尾を振り回して水面を叩きつけた。
しかし、その激痛の狂乱の中にあっても、怪物は決してその背中の子供を振り落とそうとはしなかった。
自らの肉を引き裂き、骨を軋ませながら、怪異は力任せに棕櫚の網を引きちぎり、血の航跡を描きながら浅瀬を突破していった。
「助けなきゃならない!」
男は半狂乱になり、調査船のエンジンレバーを押し倒そうとした。
かつて洪沢湖の泥水の中で、自分をあの背に乗せて救ってくれた「あの記憶」が、男の理性を完全に焼き尽くしていた。今、目の前で血を流している怪物は、他でもない、かつての自分の命の恩人そのものではないのか。
「馬鹿野郎、やめろ!」
船頭の古老が、手元にあった重い木製の櫂を振り抜き、男の後頭部を力任せに殴打した。
男の視界が暗転した。
倒れ込む男の耳の奥に最後に残ったのは、岸辺の岸壁に向けて、怪異が自らの頭部を激しく打ち付けたような、凄絶な「骨の破砕音」であった。
意識が戻ったとき、男は荊州の粗末な野戦病院のベッドの上にいた。
頭部には包帯が巻かれ、外では雨が止み、何日ぶりかの白茶けた陽光が差し込んでいた。
古老の姿はすでになく、あの水湾で何が起きたのか、怪物がどうなったのかを知る者は、誰一人として病院には残されていなかった。
男の胸には、ただ、神聖なる存在を見殺しにしてしまったという、鉛のように冷たい悔恨の澱みだけが沈殿したのである。
第五章 二〇〇四年・スマトラ沖の黄布と、言葉なき少年
その悔恨の結び目が、六年の歳月を経て、遠く数千キロメートルを隔てたインド洋の洋上で解かれることになろうとは、男自身、夢にも思っていなかった。
二〇〇四年十二月二十六日、マグニチュード九・一の巨大地震がスマトラ島沖を襲い、未曾有の大津波がインド洋沿岸諸国を壊滅させた。
壊滅的な被害を受けたインドネシアのアチェ州沿岸には、世界各国から軍の捜索隊や人道支援部隊が殺到していたが、その混乱のただ中にあって、巨額の資金力を武器に、民間の大型サルベージ船をチャーターして現地入りした奇妙な男がいた。
他でもない、あの男であった。
「四千メートル、五千メートルの超深海に眠る未知の巨大生物の遺骸が、津波の海底攪乱によって浅瀬に打ち上げられているという情報があったんだ」
男は煙草を灰皿の縁に押し付け、低く語り継いだ。
「アチェの沿岸は無法地帯だった。軍部や官僚に現金をばら撒けば、軍用のソナーも潜水装備も思いのままに手に入った。だが、私の船に、ある時期から奇妙な便乗者たちが乗り込んできたんだ」
それは、中国科学院(中科院)の付属機関を名乗る、十名ほどの調査員たちであった。
彼らは全員が無機質な作業服を着込み、高度な通信機と暗号帳を携え、外部との接触を極度に警戒していた。
そして、その奇妙な調査班の輪の中心に、一人の若い男がいた。
年齢は二十歳前後。
肩口まで伸びた手入れのされていない黒髪、浅黒く引き締まった皮膚、そして何よりも、一度として他者と視線を交わそうとしない、底知れぬ沈黙を纏った青年であった。
青年は船内において、一言も言葉を発しなかった。誰かが話しかけても、ただ静かに視線を外すだけであり、食事も乾パンと水を口にする程度で、ほとんどの時間を甲板の船首に座り込み、暗い外洋の水平線を見つめることだけに費やしていた。
そして、その青年の背中には、常に一本の「細長い荷」が背負われていた。
刀剣のようにも見えるその物体には、鞘(さや)がなかった。
何重もの古い杏黄色(きはだいろ)の絹布によって厳重に巻き固められ、太い麻紐で青年の胸元に直接括り付けられており、男が眠りにつく際も、決してその身体から離されることはなかった。
航海が二ヶ月を迎え、任務が完了に近づいたある満月の夜、男は船上で調査班の責任者である老研究員と酒を酌み交わした。
南シナ海の古酒を重ね、酩酊が互いの警戒の壁を溶かした頃、男は何の気なしに、あの一九九八年の荊州での悪夢のような体験を口にした。
「……サイカチの網と、水牛の鳴き声。あの時、濁流の中で血を流していた蛟の姿が、今でも夢に出てくるんだ」
老研究員の手が止まった。
彼は手にした白磁の盃を静かに甲板に置くと、じっと男の顔を見据え、信じがたい言葉を口にしたのである。
「……あの時、鉄の船で支流を追ってきた民間人がいたという記録があったが、あれは君だったのか」
男の心臓が跳ね上がった。
「知っているのか……?! あの蛟はどうなったんだ!」
老研究員は長い溜息を吐き、静かに頭を振った。
「あれは我々の班が担当した作戦だった。悪意があったわけではない。我々の目的は、あの成熟した個体を捕獲し、衛星発信機を取り付けてその生息圏と回帰ルートを特定することだったのだ。
……だが、あの主の気骨を、我々は完全に見誤っていた」
老研究員が明かした真実は、男の魂を震わせるに十分であった。
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