序章 漓江の夕煙と、土塊を弄ぶ老手
広西の山水は天下に甲たりと称されるが、その風光明媚な絵巻の裏側には、常に湿り気と獣臭を孕んだ暗い原生林の胎内が横たわっている。
漓江の水清く、天を刺す無数の奇峰(カルスト峰林)が夕暮れの紫煙に烟る陽朔の岸辺。観光客の喧騒が引き潮のように引き去った川原の片隅で、私はある初夏の夕暮れ、川の泥炭を無心に捏ね回す一人の老人の姿を見かけた。
老人は竹の骨組みに筵を掛けただけの粗末な小屋の軒先に腰を下ろし、夕闇の中で黙々と粘土細工を指先で捻り出していた。
屋台に並ぶ旅情慰めの土産物ではない。老人の指先から生まれていたのは、歪んだ樹木の洞に無数の蛇が絡みつく奇怪な塊や、巨大な嘴を裂いて天を睨む異形の鳥、そして水面から首をもたげる名もなき水怪の群れであった。
節くれ立った手のひらには、無数の生々しい傷跡が刻まれていた。毒牙によって抉り取られた肉の窪み、酸に焼かれたような斑点、そして硬く角質化した指の関節。
私が冷えた漓江ビールを二本買い求め、屋台で焼いた川魚の包みを差し出すと、老人は泥だらけの手を川水で無造作に洗い、歯の欠けた口元に深い笑みを刻んでそれを受け取った。
「あんた、蛇を捕ったことがあるかい」
老人の喉から漏れ出たのは、竹を割るような乾いた嗄れ声であった。
「世間の連中は、蛇をただの冷たい泥這いだと見下している。だがな、大江大水が渦巻くこの広西の深山には、人の寿命の何倍もの星霜を生き、骨を変じ、角を生やし、神仏に成り代わろうとする怪物が今も蠢いているんだ。……俺がこの両手で蛇を捕るのをやめたのは、もう三十年も昔のことだ。
あの山奥の血を流す石の木の上で、天を覆う翼と、二つの赤い提灯に出くわした……あの一夜の記憶が、今でもこの指先から離れねえのさ」
第一章 蛇花の眼光と、峡谷の双燈
老人は、物心がついた頃から師父の背中を追い、天秤棒一つで長江以南の山河を渡り歩く「蛇花子(蛇捕りの乞食)」として生きてきた。
五歩歩くうちに絶命すると恐れられる五歩蛇(ヒャッキダ)、山中で最も凶暴な過山風(キングコブラ)、幻の白蛇、枝に擬態する球蛇、牛を丸呑みにする巨蟒。あらゆる毒蛇の棲み処を知り尽くし、草の倒れ方一つで蛇の通り道(蛇道)を嗅ぎ分け、水面に浮く糞の油膜からその太さを言い当てるのが、彼の生業であった。
「陽朔はいい水が流れる土地だ」老人はビールの缶を傾け、遠い目で川面を見つめた。
「夏になると、漓江の川辺に小屋を掛け、捕れたての大白魚を澄んだ川水でそのまま煮込む。塩と野性の生姜を放り込むだけで、どんな名料理番の羹よりも美味い。竹鼠や野ウサギを捕まえて焚き火で炙り、夜風を浴びながら安酒を煽る。
……あの頃は、蛇捕りこそが天下一の気楽な稼業だと思い込んでいたよ」
だが、蛇捕りの古老たちの間には、決して口外してはならぬ秘中の掟が存在した。
蛇という生き物は、百歳を越えると頭頂部の肉が盛り上がり、米粒大の小さな突起を形成する。それが二百年、三百年と星霜を重ねるにつれ、その突起は小さな提灯のような深紅の球体へと肥大化し、夜の深い霧の中や川底の暗がりにおいて、妖しい燐光を放つようになるという。
「水の上に小さな赤い電球が見えたら、絶対に網を打つな」
それが、師父の遺した絶対の遺訓であった。それはもはや獣ではなく、大地の気を吸い尽くして「龍」へと脱皮せんとする霊物——蛟(こう)の兆春であるからだ。
事件が起きたのは、彼が四十歳を迎えた初秋の満月の夜であった。
漓江の本流から西へ大きく外れ、石灰岩の断崖絶壁が天を塞ぐ無人の狭隘な峡谷へと分け入った時のことである。川面には乳白色の濃厚な夜霧が立ち込め、数歩先も見通せない冷気が足首を浸していた。
ふと、霧の切れ間の川下から、微かな赤い光が揺らめき出た。
老人は目を凝らした。
電球ではない。
そこにあったのは、大人の頭ほどもある、燃え盛る二つの「紅提灯」であった。
提灯は水面から一丈ほどの高さを保ち、波を立てることもなく、左右にゆらゆらと不気味な弧を描きながら、峡谷の奥深くへと向かって滑るように前進していたのだ。
「二つの提灯だと……?」
老人の全身の産毛が一斉に逆立った。
頭頂の球が一つであれば数百年の大蛇。だが、二つの巨大な赤光が並んで蠢いているとすれば、その光の主たる怪物の質量は、一体どれほどの規模になるのか。
恐怖が背筋を刺した。しかしそれ以上に、一生涯を蛇に捧げてきた蛇花子としての狂気じみた業が、彼の足を前へと踏み出させた。
彼は腰の竹籠と捕蛇鎌を握り直し、息を殺してその二つの紅提灯の後を追い始めたのである。
提灯は急ぐ風もなく、川沿いの切り立った岩棚や湿地を縫うように奥地へと進んでいった。
老人は茨に肌を引き裂かれ、泥濘に足を取られながら、息を継ぐ間もなく追跡を続けた。
谷は次第に狭まり、両岸の絶壁が頭上で合一せんばかりに迫り狂う袋小路の最深部に達したとき、前方を漂っていた二つの提灯が、唐突にその歩みを止めた。
提灯は岩肌の前で数度旋回すると、信じがたい軌跡を描き始めた。
浮き上がったのだ。
まるで夜空へと放たれた孔明灯(天灯)のように、二つの赤い光塊は、垂直に切り立った絶壁を這い上がるようにして、虚空高くへと昇り始めたのである。
「化龍だ……! 蛇が天へ登っていく……!」
老人は膝を突き、その場に平伏しかけた。
だが、その刹那、谷を吹き抜けた冷たい突風が、濃密な夜霧の幕を一気に吹き払った。
雲間から差し込んできた冷酷な月光が照らし出した光景を目にした瞬間、老人の喉から、言葉にならない息の音が漏れた。
怪物は、空を飛んでいたのではなかった。
霧の晴れた峡谷の底——そこに、天を衝くように聳え立つ、想像を絶する「一本の巨木」が屹立していたのだ。
二つの紅提灯は、その巨木の幹を取り巻き、天空の梢を目指して螺旋を描きながら這い登っていた、胴回りが大樽ほどもある巨大な黒蛇の双眸そのものであった。
第二章 石化せる巨桑と、逆巻く群獣
その巨木は、古老たちの伝承にいう「神桑」の姿そのものであった。
樹種は間違いなく野生の桑の木であったが、そのスケールは植物学の常識を完全に破壊していた。
高さは数十丈、見上げる首が痛むほど遥かな雲霞の中に梢を没し、太い枝は四方八方に龍の爪のように屈折して張り出していた。
何よりも異様であったのは、川の激流に洗われ続けたその根元の姿であった。
長年の浸食によって土砂が完全に洗い流され、無数に絡み合った極太の根が、川の中央に一つの巨大な「島」を形成していたのだ。
老人は恐る恐るその根株の島へと近づこうとした。
だが、一歩足を踏み出しかけた瞬間、彼の足は氷のように硬直した。
行けない。近づくことすら叶わない。
網のように入り組んだ巨木の根の表面を、埋め尽くしていたもの——。
それは、大人の手首ほどもある無数の黒蛇と、体長一尺を超える巨大な竹鼠(山ネズミ)の群れであった。
数千、数万。
見渡す限りの生き物の絨毯が、黒々と波打っていた。
通常であれば、蛇と鼠は食うか食われるかの絶対の天敵同士である。だが、その根の上において、蛇は目の前の鼠を捕食しようとせず、鼠もまた蛇の牙に怯える素振りすら見せなかった。
鼠たちは狂乱したように樹皮に爪を立て、折り重なって上を目指し、足を踏み外した鼠が蛇の群れの真上へとボタボタと落ちてきても、蛇たちはただそれを踏み越えて、盲目的に樹幹の上へと這い登り続けていた。
草むらからも、川底の暗がりからも、周囲数里のあらゆる生き物が、何かに激しく引き寄せられるようにして、この一本の樹へと殺到していたのである。
老人は捕蛇鎌の柄を握りしめ、震える手で最も外側に露出していた一本の太い根の表面を確かめた。
異様であった。
樹皮の皺は、まるで磨き上げられた硬質な「魚の鱗」のように整然と重なり合い、鈍い青黒い光沢を放っていた。
老人は腰の鉈を抜き、その根の表面へと力任せに打ち下ろした。
ガギィィィンッ!!
夜の峡谷に響き渡ったのは、木を伐る鈍い音ではなく、鋼鉄の板に刃物を叩きつけたような甲高い金属音であった。
激しい火花が散り、鋼の鉈の刃先が粉々にこぼれ落ちた。
石であった。
この巨木の根、そして地上から数十メートルの幹の表面は、完全に鉱物へと変質した「珪化木(石化樹)」であったのだ。
大昔の地殻変動によって土中に埋没し、気の遠くなるような歳月をかけて地下水の二酸化ケイ素が細胞に沈着して石へと化す珪化木。本来であれば太古の化石として地底に眠っているはずのものが、なぜ地上に屹立しているのか。
さらに戦慄すべきは、天空高く見上げるその梢であった。
化石となった灰色の幹の上部——地上百メートルを超える枝先には、生き生きとした、瑞々しい「暗緑色の葉の群れ」が、風にざわめきながら青々と繁茂していたのである。
下半身は完全に死滅して硬い岩石と化し、上半身は生きながら青空の光を吸い続けている奇形の巨木。
それは大地の骨の上に根を張った、植物と鉱物の境界を越えた異形の生命体であった。
古い言い伝えには、千年を経た老樹はやがて石と化し、その精霊は雷雨の夜に龍となって飛び去ると語られてきた。だが、この樹が放っている気配は、神仏の瑞祥などでは断じてなかった。
それは、周囲数里の生命を呼び寄せ、その肉を貪り食うための、冷酷な「罠」の臭気であった。
第三章 紅葉の血漿と、降り注ぐ皮膜
月が天空の頂点へと達した。
白銀の光が垂直に峡谷を照らし出した瞬間、頭上の巨桑の梢に、信じがたい変異が起きた。
ざわざわ……ざわざわ……。
風もないのに、数万枚の樹葉が一斉に擦れ合い始めた。
月光を浴びた暗緑色の葉が、輪郭から徐々にその色を変じ始めたのだ。
緑が抜けて透明な水晶のように透き通り、続いて、その葉脈の奥底から、毒々しい深紅の液体が毛細血管を満たすように滲み出してきた。
わずか数分のうちに、巨大な樹冠全体が、夜空に浮かぶ燃え盛る「赤紅色の天幕」へと変貌を遂げたのである。
「血だ……!」
老人の喉から掠れた悲鳴が漏れた。
比喩ではなかった。
赤く染まった無数の葉の先端から、ポタ……ポタ……と、重い粘り気を持った液体が滴り落ちてきたのだ。
それは見る見るうちに太い奔流となり、樹幹の溝を伝って滝のように流れ落ち始めた。
石化した青黒い幹を、鮮血の衣が包み込んでいく。
甘酸っぱく、饐えた、濃厚極まる鉄錆の臭気が峡谷を満たした。
血の滝は網のような根を伝い、やがて漓江の清流の中へとドクドクと注ぎ込まれた。
月光の下、川の半分が、見る見るうちに赤黒い血の海へと染め上げられていく。
川面が沸騰したように泡立った。血の匂いに狂乱した大魚や川亀が水面に浮上し、水飛沫を上げて激しく身悶えした。
ドンッ! ドンッ! という鈍い衝突音が響く。水底の巨大な何かが、血を求めて老樹の石の根に狂ったように体当たりを繰り返しているのだ。
だが、真の恐怖は、頭上の枝から吹き降ろされた「風」とともに訪れた。
突如、山背から冷たい突風が吹き抜けた。
バサバサバサッ、と激しい音を立てて、頭上の紅葉の間から、無数の平たい物体が落ち葉のように舞い散ってきたのである。
その一つが、老人の足元——岩棚の上にペタリと音を立てて落ちた。
月光の下でそれを見下ろした老人は、自らの頭髪が根こそぎ逆立つような悪寒を覚えた。
それは、枯れ葉ではなかった。
大人の手のひらほどもある、乾燥しきった「竹鼠の毛皮」であったのだ。
頭部の肉はなく、内臓も、骨の一片すら残されていない。
まるで、生きたまま中身の肉と血をすべて吸い尽くされ、皮の内側から熱風を吹き込まれて風乾されたかのような、薄っぺらな一枚の皮膜。
頭上の枝を見上げると、そこには何百、何千という干涸らびた鼠の皮や、中身を失った蛇の抜け殻が、風鈴のように枝先にぶら下がり、夜風に揺れていたのである。
老樹は、生きていた。
石と化した下半身では、土から水分を吸い上げることができない。
ゆえにこの樹は、月に一度、その葉を血の色の擬似花へと変色させて芳香を放ち、周囲の山林から無数の蛇や鼠、鳥たちをその梢へと誘引していたのだ。
そして樹上に登った生類たちの肉体に目に見えぬ寄生根を突き立て、その血肉の最後の一滴までを吸い尽くして自らの養分としていたのである。
老人の額から冷汗が吹き出した。
もし先ほど、好奇心に任せてあの幹に手を掛け、上へと登っていたなら——今頃は自らの肉体もまた、あの枝先で風に揺れる「一枚の人間の皮」へと成り果てていたに違いないのだ。
第四章 雲を裂く巨翼と、千古の搏殺
だが、この夜の悪夢は、それだけでは終わらなかった。
ピタリと、風が止んだ。
赤黒く染まった漓江の波立ちが、何の前触れもなく鏡のように静止した。
樹上に群がっていた無数の蛇たちが、一斉に動きを止め、頭部を低く垂れて身を竦めた。
大気が凍結したような、逃れようのない「絶対の捕食者」の気配。
老人が顔を上げると、夜空の月が、急速にその光を失いつつあった。
雲ではない。
天の頂点、漆黒の空の裂け目から、月を丸ごと覆い隠すほどの巨大な「白銀の影」が、音もなく滑空してきたのだ。
ギィィィィィャァァァッッ!!
峡谷の花崗岩の岩盤を粉砕せんばかりの、耳を劈く猛禽の絶叫が炸裂した。
その凄まじい音圧に、老人は両耳を塞いで岩陰に倒れ伏した。洞窟の天井からパラパラと小石と砂埃が崩れ落ちる。
見上げた老人の網膜に焼き付いたのは、翼の差し渡しが十丈(約三十メートル)を超えようかという、神話の怪鳥——「大鵬(たいほう)」、あるいは太古の巨鷲の威容であった。
羽毛は月光を浴びて青白く発光し、両足に備わった鋼鉄の鉤爪は、牛の胴体をも一掴みに引き裂くほどの長さを誇っていた。
巨鷹は峡谷の上空を旋回すると、その巨大な嘴を開き、一直線にあの血桑の樹冠へと急降下した。
狙いは、樹上に犇めく無数の小動物などではなかった。
巨鷹の狙いはただ一つ——あの樹の最頂部、二つの紅提灯を灯して枝を巻き締めていた、あの「巨蛇」であった。
ドォォォォンッ!!
激突の瞬間、山が揺れた。
巨鷹の鉤爪が、大蛇の背筋の黒鱗へと深々と突き刺さった。
蛇は苦悶の咆哮を上げ、その長大な胴体を縄のように巨鷹の翼へと巻きつけ、絞め殺そうと万力の力を込める。
鳥と蛇。太古から続く宿命の天敵同士の、千古の死闘。
バキバキバキッ! 巨木の上部が激しく軋み、折れた大枝が雨あられのように川へと落下した。
大蛇の太い尾が石化した幹を叩きつけるたび、火花が散り、砕けた岩片が弾丸のように飛び散る。
巨鷹はその鋭利な嘴で、大蛇の頭頂部——あの赤く発光していた角のような肉瘤を、容赦なく滅多打ちに啄み始めた。
肉が裂け、黒い血飛沫が夜空へと撒き散らされる。
大蛇は狂乱し、全身を痙攣させながら、巨鷹の首根っこへとその毒牙を突き立てようと暴れ狂った。
二頭の神話の巨獣がもつれ合い、巨木の梢を薙ぎ倒しながら落下してきた、その時であった。
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