序章 百四十六キロ地点
ラジオが途切れたのは、道路脇の里程標が「一四六」を示した直後だった。
歌声が突然遠のき、代わりに砂を噛むような雑音が車内を満たした。運転手はダイヤルを回したが、どの周波数にも人の声はなかった。
そのとき、黄色い地平線の上に、一人の男が立っていた。
男は道路を歩いているのではなかった。
進行方向に背を向け、道路と直角に交わるように、何もない荒野から何もない荒野へ横切ろうとしていた。
第一章 禿頭の運転手
男の本名を、私は長いあいだ知らなかった。
皆が彼を「禿子(トゥーズ)」と呼んでいたからである。
中国語では、文字どおりなら禿頭の男という意味になる。もっとも、私が知り合った頃の彼には、まだ耳の上にかなりの髪が残っていた。
本人も気にする様子はなかった。
「禿げる前から禿子だったんだ。今さら本当に禿げたところで、何が変わる」
そう言って、日に焼けた頭を叩いて笑った。
彼は十代の終わりに軍へ入り、新疆の葉城で自動車兵になった。
除隊後も故郷へは戻らなかった。部隊で覚えた整備と運転以外に、食べていく術を持たなかったからだという。
葉城は、新藏公路の北端にあたる。
そこから南へ向かう国道は、崑崙の山腹を這い上がり、いくつもの達坂を越え、酸素の薄い阿里高原へ入っていく。現在こそ舗装と通信設備が整えられた区間も多いが、禿子が走り始めた頃は、路肩の崩落、凍結、落石、燃料不足のどれか一つで、人間が簡単に死ぬ道だった。
古い車では、エンジンを止めること自体が賭けになる。
一度止めたら、次に始動する保証がない。標高五千メートル近い場所では、運転手が眠るときもエンジンをかけたままにすることがあった。
だが排気が車内へ入れば、そのまま目を覚まさない。
「道が人を殺すんじゃない」
禿子はよく言った。
「道で、もう大丈夫だと思った瞬間に死ぬんだ」
私が十八歳だった夏、運転免許を取ろうとしていた私は、彼に運転を教えてもらうため、町の食堂で酒を奢った。
羊肉の串と落花生を並べ、安い白酒を一本空ける頃には、禿子の目は赤くなっていた。
私は以前から聞いてみたかったことを口にした。
「南疆を何十年も走っていたら、変なものを見たこともあるでしょう」
彼は煙草に火を点けた。
紫煙の向こうで細められた眼だけは、酔っていなかった。
「変なもの、とは何だ」
「幽霊とか、狐とか」
禿子は笑わなかった。
「お前たちは、最初から名前を決めたがる。幽霊を見た、狐に化かされた、神仙に会った、とかな」
彼は小さな杯を指先で回した。
「だが、ああいう土地では、何を見たのか最後まで分からんことのほうが多い。人に見えたものが人でなかったのかもしれんし、化け物だと思って逃げた相手が、生きた人間だったかもしれん」
「どちらが怖いんです」
「決まっているだろう」
禿子は酒を飲み干した。
「区別できないことだ」
それから彼は、若い頃に出会った一人の男について語り始めた。
第二章 沙漠へ横切る影
一九九〇年代半ばの秋だったという。
禿子は新疆東部で積んだ測量機器と生活物資を、南疆の葉城まで運ぶ仕事を引き受けた。
普段走る新藏公路とは違い、その行程は乾燥した盆地と塩鹼地を延々と抜けるものだった。若羌方面を経由したと記憶しているが、彼自身、正確な場所を後には語れなくなっていた。
荷主が指定した道と、実際に彼が通った道が一致していたかも分からない。
当時は現在ほど道路標識が整っていなかった。前年まで使えた道が砂に埋まり、地元の運転手が轍を付けた迂回路が、いつの間にか本線として使われていることもあった。
地図に線が引かれていても、現地には道がない。
反対に、地図では空白になっている場所に、何十台もの車が通った跡がある。
運転手は方位磁針と山の形、燃料計、そして前の車が残した轍を信じるしかなかった。
その日の午後、空は白く濁っていた。
晴れてはいたが、青空は見えなかった。細かい砂塵が上空に薄い膜を作り、太陽は磨りガラスの裏に置かれた電球のようだった。
車窓の外には黄色と灰色しかない。
低く固まった塩の殻。風に削られた土の突起。枯れた紅柳の根。遠くに揺れる、山とも雲とも判別できない黒い影。
長時間その景色を見ていると、車が進んでいるのか、それとも巨大な地面のほうが後ろへ流れているのか、分からなくなる。
禿子は眠気を防ぐため、窓を少し開けた。
入り込んだ風は熱く、細かい砂を含んでいた。奥歯がざらついた。
助手席には水筒と道路地図、それに分解したラジオが置かれていた。朝から受信状態が悪く、音楽は何度も雑音に呑まれていた。
百四十六キロの里程標を過ぎた直後、ついに人の声が完全に消えた。
禿子はラジオの電源を切った。
静かになった車内で、エンジンの振動と荷台の軋みだけが続いた。
そのとき、前方に人影が現れた。
最初は、枯れた木かと思った。
だが近づくにつれ、黒い点は二本の脚を持ち、一定の速度で動いていることが分かった。
一人の老人だった。
老人は道路に沿って歩いているのではない。左手の荒野から現れ、舗装されていない路面を横切り、そのまま右手の沙漠へ入ろうとしていた。
肩から四角い黒革の鞄を提げている。
灰色がかった人民服。黒縁の眼鏡。足元は黄色いゴム底の布靴。
当時でも、すでに古めかしい服装だった。
文化大革命期の記録写真から、そのまま歩き出してきたように見えた。
禿子は速度を落とさず、長く警笛を鳴らした。
老人は立ち止まり、こちらを見た。
そして右手を肩の高さまで上げ、ゆっくりと一度振った。
助けを求める者の動作には見えなかった。
まるで知り合いの車が来ることを、前から知っていたかのようだった。
禿子は老人を通り過ぎた。
そのまま数百メートル走ったところでブレーキを踏んだ。
長距離運転手の間には、道路上で困っている者を見捨てないという暗黙の了解があった。一台の車を見送れば、次の車が来るのは数時間後かもしれない。場所によっては翌日になる。
バックミラーを見ると、老人は再び歩き始めていた。
追ってくるのではない。
道路を横切り、何もない方角へ向かっていた。
禿子は舌打ちし、車を後退させた。
窓を開けると、熱い風が吹き込んだ。
「老師傅、どこへ行くんだ」
老人は立ち止まった。
眼鏡のレンズには、白い太陽が二つ映っていた。
「向こうだ」
彼は沙漠の奥を指した。
「向こうって、どこだ。道も集落もないぞ」
老人は指を下ろさなかった。
「隊の者が待っている」
第三章 保密単位
近くに壊れた車があるのだろうと、禿子は考えた。
だが地平線まで見渡しても、車体らしい影はなかった。煙も上がっていない。
老人の服にも、長く歩いた形跡がなかった。
黄色い靴には白い土が付いていたが、衣服は驚くほど清潔だった。額には汗が浮かんでいるものの、顔は乾いていた。
「車が故障したのか」
「そうとも言える」
「何人いる」
老人は答える前に、少し考えた。
「まだ何人かいる」
まだ、という言葉が禿子の耳に残った。
「どこで故障した」
「遠くではない」
「水はあるのか」
老人は肩の鞄へ視線を落とした。
「水を探している」
禿子は車を降りようとした。
「だったら場所を教えろ。水と工具を積んでいる。全員を町まで連れていくのは無理でも、状況くらい見てやれる」
老人は急に強い口調で制した。
「来てはいけない」
その声だけが、見た目よりはるかに若かった。
老人自身も驚いたように口を閉じ、それから穏やかな調子へ戻った。
「小同志、親切はありがたい。ただ、我々の仕事には規則がある。外部の人間を現場へ入れることはできない」
「何の仕事だ」
「地質調査だ」
「石油か。鉱物か」
老人は首を横に振った。
「保密単位だ。詳しいことは話せない」
禿子は思わず笑った。
秘密機関の人間が、連絡手段も持たず、一人で沙漠を歩いている。その不釣り合いさが、酔漢の大法螺のように聞こえたからである。
「それほど大事な部門なら、無線くらいあるだろう」
「ある」
「救援を呼べばいい」
「もう呼んでいる」
「いつ来る」
老人は空を見上げた。
「座標さえ分かれば、軍区から直升機が来る」
その一言だけは、冗談を言う者の口調ではなかった。
禿子は助手席の扉を開けた。
「とにかく乗れ。ここに置いていくわけにはいかん。前に人のいる場所がある。電話を借りればいい」
老人はしばらく車内を見つめていた。
助手席の水筒。古い地図。油に汚れた軍手。ダッシュボードに貼られた色褪せた写真。
それらを一つずつ確認するように眺めたあと、ようやく頷いた。
「では、途中まで頼む」
老人が乗り込むと、車体がわずかに沈んだ。
少なくとも、禿子にはそう感じられた。
老人の身体は痩せていた。にもかかわらず、助手席へ置かれた重量は、人間一人分よりずっと重いように思えたという。
第四章 進まない距離計
老人は黒革の鞄を膝の上に置き、両手で抱えた。
鞄は古く、角が白く擦れていた。金具の部分には細かい砂が詰まっている。
禿子は水筒を差し出した。
老人は礼を言ったものの、口を付けようとはしなかった。
「飲まないのか」
「仲間に残しておきたい」
「水筒ごと持っていく気か」
老人はようやく笑った。
「いや。自分が飲めば、その分だけ仲間のところへ持っていけなくなる気がするだけだ」
意味の分からない答えだった。
禿子は車を発進させた。
日が傾き、地面の凹凸が長い影を作り始めていた。
「名前は?」
禿子が尋ねると、老人は聞こえなかったふりをした。
「何年くらい調査をしているんだ」
「長い」
「家族は心配しているだろう」
老人は窓の外へ顔を向けた。
「心配させたままになっている」
「電話をしたほうがいい」
「できるなら、そうしたい」
会話はそこで途切れた。
しばらくすると、老人は運転席の前にある距離計を覗き込んだ。
「この車は、一キロ進むのにどのくらいかかる」
「道次第だ。ここなら一分か二分だろう」
「ずいぶん速いな」
禿子は横目で老人を見た。
自動車を初めて見る者のような言い方だった。
「調査隊にも車があるんだろう」
「あった」
「どんな車だ」
老人は両手を見つめた。
「何に乗っていたのか、時々分からなくなる」
その頃から、禿子は距離計がおかしいことに気づいた。
老人を乗せてから、少なくとも一時間は走っている。
ところが積算計の数字は、わずか十数キロしか増えていなかった。
速度計は時速五十キロ前後を示している。
タイヤが空転している感触もない。窓の外の土丘や枯れ木は、確かに後ろへ流れている。
禿子はメーターを指で叩いた。
針が小刻みに震えた。
「故障か」
老人が尋ねた。
「たぶんな」
禿子は答えた。
だが、燃料計は通常どおり減っていた。
十数キロしか進んでいないはずなのに、燃料は一時間分近く失われている。
日没も妙に遅かった。
太陽は地平線の上に留まり、沈みそうで沈まない。雲も動かなかった。
唯一動いているのは、車と、その両側を後ろへ流れる荒野だけだった。
ラジオの電源を入れると、低い雑音が戻ってきた。
その奥に、人の声のようなものが混ざっていた。
「……水……」
禿子は音量を上げた。
「……東へ……水を……」
老人が突然手を伸ばし、ラジオの電源を切った。
「聞かないほうがいい」
「今のは何だ」
「電波が混じっただけだ」
老人の手は震えていた。
彼は両手を黒革の鞄へ戻し、胸に抱き寄せた。
「人間は、聞こえた言葉に意味を与えすぎる。砂が擦れる音にも、亡くした者の声を聞く。だが、それを追いかけてはいけない」
「調査隊の仲間に、何かあったのか」
老人は答えなかった。
「さっき、まだ何人かいると言ったな。死んだ者がいるのか」
老人は眼鏡を外した。
目の周囲だけ、日焼けをしていなかった。
彼は布でレンズを拭きながら、独り言のように言った。
「人数は毎日数えている。だが、数えるたびに違う」
第五章 助手席の地図
日が傾いたまま、さらに時間が過ぎた。
禿子は前方の景色に見覚えがあることに気づいた。
三本に裂けた紅柳の枯木。
黒い岩が二つ並ぶ低い丘。
その手前に、半分砂へ埋もれたドラム缶。
三十分ほど前にも通った場所だった。
一本道を直進しているのに、同じ地点へ戻っている。
禿子はブレーキを踏んだ。
トラックが砂埃を巻き上げて停止した。
「降りろ」
老人は動かなかった。
「ここまでだ。あんたを乗せてから、道がおかしくなった」
「道は変わっていない」
「同じ場所を二度通った」
「二度とは限らない」
「どういう意味だ」
老人は窓の外にあるドラム缶を眺めた。
「最初に通ったのが、いつだったのか分からないということだ」
禿子は老人の襟元を掴もうとした。
しかし手を伸ばした瞬間、老人は黒革の鞄を開いた。
中には紙束、野帳、小さな金属製の採取箱、透明な袋に入れられた石片が詰まっていた。
武器はない。
老人は折り畳まれた地図を取り出した。
「現在地を教えてほしい」
地図は黄ばんでいた。
広げると、新疆の地形が描かれていたが、禿子が使っている道路地図とは違った。新しい道路も、建設された町も、いくつか記載されていない。
右下に、青いインクで発行年が印刷されていた。
一九七九年。
「古すぎる」
禿子は言った。
「新しい地図はないのか」
「これが新しい地図だ」
老人は真顔だった。
禿子は自分の地図を取り出し、現在地と思われる一帯を示した。
老人は二枚を並べ、長い時間見比べた。
その顔から、ゆっくり血の気が引いていった。
「この道路は何だ」
老人は禿子の地図にある一本の線を指した。
「国道だ」
「いつ造られた」
「俺が知るか。少なくとも何年も前からある」
「この印は」
「給油所」
「ここに給油所があるのか」
「あったはずだ」
老人は黙り込んだ。
やがて自分の地図を丁寧に畳み、鞄へ戻した。
「小同志、今は何年だ」
禿子は冗談だと思った。
老人の顔には笑みがなかった。
「何年に見える」
「答えてほしい」
禿子が年を告げると、老人は眼鏡を外した。
手で顔を覆い、しばらく動かなかった。
肩が震えていた。
泣いているのかと思ったが、指の間から声は漏れなかった。
やがて老人は眼鏡をかけ直した。
「そうか」
それだけ言った。
「何なんだ。あんたはいつからここにいる」
「分からない」
「調査隊はどこだ」
「分からない」
「自分の名前は分かるのか」
老人は答えかけて、口を閉じた。
「名前を言えば、君が私を知っている可能性がある」
「知るわけがない」
「それでも、言わないほうがいい」
「なぜだ」
老人は沈みかけた太陽を見た。
「名前を呼ばれれば、自分がどちら側にいるのか、決まってしまう気がする」
第六章 着かない夕暮れ
禿子は再び車を走らせた。
老人を降ろす気にはなれなかった。
恐怖はあったが、それ以上に、この人物を一人で残せば取り返しのつかないことになるという感覚があった。
距離計は相変わらず進まない。
同じ枯木を三度見た。
四度目に通ったとき、枯木の根元に人影が立っていた。
人民服を着た若い男だった。
手に赤い旗を持ち、トラックへ向かって振っていた。
「仲間か」
禿子が尋ねた。
老人は前方を見たまま答えた。
「止まるな」
「助けを求めている」
「あれは我々の隊員ではない」
「知っている顔なのか」
「知らない。だが、さっきはいなかった」
トラックが人影へ近づいた。
男は二十代ほどに見えた。
顔が土埃で汚れ、唇がひび割れている。赤い旗を振りながら、何かを叫んでいた。
速度を落とした瞬間、男の声が窓越しに聞こえた。
「隊長!」
老人は身体を硬くした。
「止めるな!」
禿子はアクセルを踏み込んだ。
人影の横を通過する。
バックミラーの中で、若い男は旗を下ろした。
追ってはこなかった。
ただ、その顔だけがトラックの動きを追い、真横を向き、やがて人間の首ではあり得ない角度まで後ろへ回った。
禿子は鏡から目を逸らした。
「今のは何だ」
「見ていない」
「隊長と呼んだぞ」
「聞いていない」
老人の声は掠れていた。
「俺を巻き込むな」
「そのつもりはなかった」
「なら本当のことを言え」
長い沈黙のあと、老人は黒革の鞄から一冊の野帳を取り出した。
「我々は、湖盆を調べていた」
「湖なんてどこにある」
「昔はあった。今は乾いている」
老人は野帳の表紙を撫でた。
「土壌、生物、鉱物、水脈。まだ誰も十分に調べていない場所だった。外国人の記録ばかりが残り、自分たちの土地を自分たちで調べていなかった。それが悔しかった」
「羅布泊か」
禿子はその名を知っていた。
沙漠の運転手なら、誰でも知っている。
乾いた湖。
風で動いたと語られる湖岸。
楼蘭の遺跡。
核実験場。
行方不明者。
真偽の判別できない噂が、何層にも堆積した場所。
老人は「羅布泊」という言葉を聞くと、膝の上の鞄を強く抱いた。
「君は、そこを知っているのか」
「名前くらいは」
「なら、ここから遠いか」
禿子は答えられなかった。
現在地が分からなくなっていた。
羅布泊と葉城、新藏線、崑崙、若羌。頭の中ではそれぞれの方角を理解している。だが窓の外に広がる地形は、そのどれにも正確には一致しなかった。
方位磁針を取り出すと、針が細かく震えていた。
北を指さず、車の進行方向を追うように回り続けている。
「もしかすると、道を間違えた」
禿子は言った。
「引き返す」
「戻ってはいけない」
「なぜだ」
「さっきから、同じ場所を回っているのは車ではない」
老人は窓の外を見た。
「我々のほうへ、あの場所が何度も追いついてきている」
第七章 水を探す者
太陽の下端がようやく地平線に触れた。
その瞬間、ラジオが勝手に点いた。
雑音の中から、何人もの声が重なって聞こえた。
数字を読み上げる声。
風速を報告する声。
水を求める声。
誰かに座標を知らせようとする声。
そして、遠くで回転翼が空気を叩くような音。
老人は目を閉じた。
「迎えが来た」
「直升機か」
「分からない」
「音はする」
「何年も、その音だけを聞いている」
ラジオの声が一瞬鮮明になった。
『東へ、水を探しに行く』
老人の唇も、同じ言葉を動かしていた。
禿子はラジオを叩き切った。
「もういい。あんたを葉城まで連れていく。病院でも公安でも、どこでもいい。生きている人間のいる場所へ行く」
老人は穏やかに首を横へ振った。
「私は、そこへ行けない」
「行ける。車に乗っているだろう」
「もう長く乗りすぎた」
老人は前方を指した。
黄昏の荒野に、舗装路から分かれる細い轍が現れていた。
それまで、何度通っても存在しなかった道だった。
轍は右手の塩鹼地を横切り、黒い山影へ向かっている。
「そこで降ろしてほしい」
「駄目だ」
「仲間がいる」
「また同じことを言うのか。誰もいない」
「いる」
老人は初めて声を荒らげた。
「待っている者がいる。私だけが車に乗って、十何年も先へ出ていくわけにはいかない」
禿子は息を呑んだ。
老人はすぐに表情を戻した。
「すまない。君には関係のないことだ」
「十何年とは、どういう意味だ」
「君が教えてくれた」
老人は微笑んだ。
「だが、まだ信じてはいない。君の話した年代が間違っているのかもしれないし、私の記憶が間違っているのかもしれない。あるいは、時間というものが、こういう場所では我々が思うほど一枚の布ではないのかもしれない」
車が分岐へ近づいた。
禿子はハンドルを握りしめた。
「降ろしたら、あんたは死ぬぞ」
老人は静かに答えた。
「小同志、人間は誰でも死ぬ。問題は、自分がどこで死んだのか分からないまま歩き続けることだ」
第八章 黒い鞄
禿子は分岐を通り過ぎようとした。
その瞬間、エンジンが止まった。
速度計の針が落ち、ハンドルが重くなった。トラックは惰性で数十メートル進み、白い塩の地面の上で停止した。
キーを回しても、始動しない。
老人は扉を開けた。
外から吹き込んだ空気は、日中の熱気が嘘のように冷たかった。
「待て」
禿子も車を降りた。
風はなかった。
それなのに、周囲の地面を薄い砂が流れていた。足首ほどの高さを、煙のように一定方向へ移動している。
老人は黒革の鞄を肩に掛けた。
「世話になった」
「せめて水を持っていけ」
禿子は水筒を差し出した。
老人は受け取らなかった。
「それは君に必要になる」
「俺には車がある」
「夜になれば分かる」
老人は右手を差し出した。
禿子は反射的に握り返した。
冷たい手だった。
死体の冷たさではない。
深い井戸から汲み上げた水のような、土の奥に長く閉じ込められていた冷たさだった。
「若いのに立派な仕事をしている」
老人は言った。
「これからも努力しなさい。国に必要とされる人間になりなさい」
「昔の幹部みたいなことを言うな」
禿子が苦笑すると、老人も少し笑った。
「昔の人間だからな」
老人は手を離した。
細い轍へ入り、黒い山影へ向かって歩き始めた。
禿子は何度か呼び止めた。
老人は振り返らなかった。
灰色の人民服は夕闇に溶けていったが、黄色い布靴だけは、しばらく白い地面の上を動いているのが見えた。
やがて、それも消えた。
その直後、太陽が沈んだ。
長いあいだ地平線に貼り付いていた赤い円が、何かに糸を切られたように一気に落ちた。
世界は数秒で暗くなった。
同時に、エンジンが自分から始動した。
禿子が運転席へ戻ると、距離計の数字が激しく回転していた。
老人を乗せてから失われていた距離を、一度に取り戻そうとしているようだった。
十キロ、二十キロ、五十キロ。
数字は機械音を立てて増え続け、やがて百キロを超えたところで停止した。
時計は午後九時四十二分を示していた。
禿子の感覚では、老人と過ごしたのは二時間か三時間だった。
時計の上では、七時間以上が経過していた。
助手席には誰もいない。
ただ、座席の上に細かな白い砂が残っていた。
その中央に、一枚の紙が落ちていた。
野帳から破ったらしい小さな紙片だった。
鉛筆で、短い文章が書かれていた。
「東へ水を探しに行く。日没までに戻る」
署名はなかった。
第九章 写真の男
禿子は老人を置き去りにしたことを後悔した。
エンジンが動くなら、追うこともできる。
彼はトラックを方向転換させ、分岐へ戻った。
しかし、細い轍は消えていた。
路面の両側には、ひび割れた塩鹼地が続いているだけだった。
禿子は道路を外れ、老人が歩いていったと思われる方向へ車を進めた。
前照灯の光が、白い地面を切り裂いた。
人影はない。
足跡もなかった。
風が吹いて消したのではない。老人が降りた場所にも、その先にも、最初から一つの足跡も付いていなかった。
禿子は半時間近く探した。
それ以上進めば、今度は自分が戻れなくなる。
燃料計も危険な位置まで下がっていた。
彼は車を道路へ戻し、葉城を目指した。
以後の行程について、禿子の記憶は曖昧だった。
途中で検問所を通ったはずだが、誰と話したか覚えていない。給油した記録は残っていたが、給油所の景色を思い出せなかった。
明け方、葉城へ到着した。
荷受人に遅延を責められた。予定より丸一日近く遅れていたという。
禿子は反論しなかった。
荷物を下ろしたあと、公衆浴場へ行った。
熱い湯に長く浸かり、大広間の長椅子で毛布を被った。周囲に人がいる場所でなければ眠れなかった。
目を閉じるたび、夕日の下を歩く黄色い靴が見えた。
数日後、禿子は営業所の古い運転手たちへ話した。
全員が一度は笑った。
だが、走行日時と場所を説明すると、最年長の運転手だけは黙り込んだ。
その男は禿子を倉庫の裏へ連れていった。
「あの辺りで人を乗せるな」
「知っているのか」
「知らん。ただ、昔から、調査隊の人間を見たという話がある」
「どんな人間だ」
「水を探している」
老運転手はそれ以上話さなかった。
禿子も、しばらくすると老人の件を口にしなくなった。
紙片だけは捨てられなかった。
運転免許証と一緒に、財布の奥へ折り畳んで入れていた。
それから十年以上が過ぎた。
インターネットが町の生活へ入り、古い事件の記事や写真を誰でも見られるようになった頃である。
ある夜、禿子は運輸会社の休憩室で、若い同僚が開いていた記事を何気なく覗き込んだ。
画面には、羅布泊の写真が表示されていた。
乾いた湖盆を進む車列。
測量器具を扱う隊員。
沙漠に立つ記念碑。
そして、黒縁眼鏡をかけた一人の科学者。
禿子は同僚の肩を掴んだ。
「この人は誰だ」
「彭加木だよ。知らないのか」
同僚は画面をスクロールした。
彭加木。
中国科学院新疆分院副院長。
一九八〇年、羅布泊総合科学考察隊を率いて干上がった湖盆を縦断。
六月十七日、庫木庫都克の野営地から一人で水源を探しに出たまま失踪。
大規模な捜索が行われたが、所在は確認されなかった。
記事には、失踪前の写真が何枚も掲載されていた。
人民服。
黒縁眼鏡。
痩せた頬。
強く結ばれた口元。
写真によって顔つきは少しずつ違っていた。それでも禿子は、画面を見た瞬間に分かったという。
あの日、助手席に座っていた老人だった。
ただし一つだけ、写真と記憶には違いがあった。
失踪時の彭加木は五十五歳。
写真の人物も、それに近い年齢に見える。
だが禿子が乗せた老人は、もっと老けていた。
六十代後半、あるいは七十代に見えた。
もし一九八〇年から一九九〇年代半ばまで、あの沙漠の夕暮れを歩き続けていたのだとすれば、写真より老いていて当然だった。
禿子は休憩室を飛び出し、車に置いていた財布を取りに戻った。
奥から、あの紙片を出した。
「東へ水を探しに行く。日没までに戻る」
同僚は記事に掲載された、彭加木が残したとされる書き置きの内容を確認した。
公開資料で知られている文面とは、完全には一致しなかった。
だが「東へ行くこと」と「水を探すこと」は同じだった。
禿子は二枚を何度も見比べた。
筆跡鑑定などできない。
古い紙片が本当にあの日のものなのかも証明できない。
それでも、鉛筆の文字が画面上の複写と似ているように見えた。
翌日になると、紙片は変色していた。
白かった紙が急に黄ばみ、触れれば崩れそうなほど乾いていた。
禿子は透明な袋へ入れた。
その晩、袋の内側に細かな砂が溜まった。
第十章 二つの可能性
「じゃあ、本当に彭加木だったんですか」
私が尋ねると、禿子は煙草の灰を落とした。
「分からん」
「写真を見て、同じ人だと思ったんでしょう」
「思ったことと、事実は違う」
「紙も残っている」
「紙なら誰にでも書ける」
酔っているはずの禿子は、そこだけ妙に慎重だった。
彼は二つの可能性を考えていた。
一つは、一九八〇年に失踪した人物が、沙漠の中で死ぬことも外へ出ることもできず、十数年後まで歩き続けていたというもの。
もう一つは、禿子のトラックが一時的に、一九八〇年の羅布泊近くへ入り込んだというものだった。
だが後者には矛盾がある。
もし禿子が過去へ入り込んだのなら、老人が現在の年を聞いたとき、写真より老けていた理由を説明できない。
もし老人だけが未来へ出てきたのなら、彼を呼んだ若い隊員や、古い地図には何の意味があったのか。
そもそも、問題の場所は羅布泊から遠く離れていた可能性が高い。
禿子の話す経路と彭加木の失踪地点は、地図上では容易に重ならない。
「酔っていたんじゃないですか」
私は言った。
「運転中にか」
「眠っていたとか」
「それはあるかもしれん」
禿子はあっさり認めた。
単調な荒野では、運転手が目を開けたまま夢を見ることがあるという。
前方の道を見て、ハンドルを握り、障害物を避けながら、それでも意識の一部だけが眠っている。
一分の夢を、数時間の記憶として受け取ることもある。
「老人を見たのも夢だったと?」
「そう考えれば楽だ」
「でも、紙は」
禿子は財布から透明な袋を取り出した。
黄ばんだ紙片が入っていた。
袋の底には、白い粉のようなものが溜まっている。
「これは塩だ」
彼は言った。
「どこにでもある」
私は袋越しに紙を眺めた。
鉛筆の文字は薄れ、すでに半分ほど読めなくなっていた。
ただ、「水」という一文字だけが、異様にはっきり残っていた。
第十一章 夜の食堂
禿子によれば、新疆の長距離運転手が語る時間の異変は、羅布泊周辺だけに限らない。
長く同じ道を走っていると、ときどき、昨日までなかった建物に出会う。
深夜、何時間も対向車を見ていないときに限って、前方に裸電球が現れる。
近づくと、小さな食堂がある。
看板には「麺」「熱湯」「修車」と書かれ、入口には煤けたカーテンが掛かっている。
中では若い夫婦が働いている。
夫は鍋を振り、妻は客に茶を注ぐ。
料理は特別に美味いわけではないが、温かい。
運転手がどこから来たのかを尋ねても、夫婦は自分たちの話をしない。
食事代を払って外へ出ると、車のエンジンがよく回るようになる。
燃料も、なぜか思ったほど減っていない。
気に入った運転手は、帰路でも同じ店に寄ろうとする。
しかし数日後、そこにあるのは崩れた土壁と、屋根の落ちた廃屋だけだ。
近くの住民に聞けば、食堂は二十年前に閉じたと言われる。
経営していた若い夫婦は、冬の夜に一酸化炭素中毒で亡くなったとも、沙暴で行方不明になったとも語られる。
ところが、さらに十年か二十年が経ち、運転手自身が白髪になった頃、同じ場所で再び灯りを見ることがある。
店へ入ると、夫婦は若いままだ。
妻は昔と同じ上着を着て、夫は同じ欠けた碗へ麺を盛る。
彼らは運転手が年老いたことに気づかない。
あるいは気づいても、言わない。
「俺も、その食堂へ一度入った」
禿子は言った。
老人を乗せた事件から、さらに何年か後のことだった。
冬の夜、新藏線から葉城へ戻る途中だった。
雪混じりの風が吹き、車の暖房は壊れていた。眠気と寒さに耐えられなくなった頃、谷間に一つの灯りが見えた。
小さな食堂だった。
店内には石炭ストーブがあり、若い女が湯を沸かしていた。
奥では、夫らしい男が羊肉を切っている。
禿子は麺を注文した。
女は彼の顔を見るなり、こう言った。
「今日は一人なのね」
禿子は、その店を訪れるのは初めてだと答えた。
女は不思議そうな顔をした。
「前は、眼鏡のおじいさんと一緒だったでしょう」
禿子は箸を置いた。
「いつの話だ」
「少し前よ」
「何年前だ」
女は笑った。
「年なんて数えていないわ。道を走る人は、そんなものを気にしないでしょう」
禿子は老人の外見を尋ねた。
女の説明は一致していた。
灰色の人民服。
黒縁眼鏡。
黄色い布靴。
四角い黒革の鞄。
老人は食事を取らなかったという。
湯を一杯もらい、鞄の中に入っていた小さな金属箱へ注いだ。
そして禿子が眠っているあいだに、店を出ていった。
「どちらへ行った」
禿子が尋ねると、女は窓の外を指した。
その先に道はなかった。
暗い山の斜面に、雪が降っているだけだった。
禿子は勘定を置き、すぐ車へ戻った。
翌朝、同じ場所を探した。
食堂はなかった。
雪の中に、焼け落ちた柱が数本立っていた。
路肩で羊を連れていた老人に尋ねると、その建物は自分が子供の頃から廃墟だったという。
ただし、昔は食堂だった。
経営していた夫婦の名を、禿子は聞かなかった。
「怖かったんですか」
私が尋ねた。
禿子は首を振った。
「その頃には、怖いという感じではなかった」
「では、何を思ったんです」
「腹が減った」
彼は真顔で答え、それから笑った。
「麺を半分しか食っていなかったからな」
終章 戻らない客
あの夜から何年も経ち、私は免許を取り、南疆を離れた。
禿子とは、しばらく連絡を取っていた。
道路は少しずつ変わった。
未舗装だった区間にアスファルトが敷かれ、携帯電話の電波が届く場所も増えた。新しい給油所や宿泊施設が造られ、若い運転手は衛星測位の画面を見ながら走るようになった。
禿子はそれを便利だと言った。
同時に、どこか寂しそうでもあった。
「今の運転手は、迷わなくなった」
あるとき彼は電話で言った。
「いいことじゃないですか」
「そうだ。いいことだ」
「事故も減る」
「そうだな」
それから少し間を置き、彼は続けた。
「ただ、迷わなければ入れない場所もある」
禿子は五十代の終わりに長距離輸送を辞めた。
視力が落ち、夜道で距離感を掴めなくなったためだという。
退職前の最後の冬、彼はもう一度、あの食堂を見た。
場所は以前と違っていた。
葉城からそれほど遠くない国道沿いで、周囲には新しい建物もあり、携帯電話の電波も届いていた。
それでも、夜の雪の向こうに裸電球が灯っていた。
禿子はトラックを止めた。
入口には煤けたカーテンが掛かっている。
中では、若い夫婦が働いていた。
女は禿子を見ると、前と同じように言った。
「今日は一人なのね」
禿子は店へ入らなかった。
「眼鏡の老人は来たか」
入口に立ったまま尋ねた。
女は湯気の向こうで首を横に振った。
「まだ戻っていない」
「いつからだ」
「水を探しに行った日から」
店の奥にある卓上には、黒い革鞄が置かれていた。
禿子は取りに入ろうとした。
だが、その瞬間、背後の国道を大型車が通過した。
強い前照灯が食堂を白く照らした。
光が過ぎ去ると、建物は消えていた。
目の前には雪に覆われた空き地があった。
石炭ストーブも、若い夫婦も、黒革の鞄もない。
ただ、禿子の足元に一枚の紙が落ちていた。
食堂の注文票だった。
上には「羊肉麺 一碗」と書かれている。
客の人数は二名。
一人分の欄には、禿子が若い頃使っていた名が記されていた。
もう一人分の欄は空白だった。
その下に、鉛筆で小さく、
「湯だけ」
と書かれていた。
日付はなかった。
勘定も記入されていなかった。
禿子はその紙を、例の紙片と一緒に透明な袋へ入れた。
だが春になって袋を確かめると、注文票だけが消えていた。
封は破れていなかった。
残っていたのは、黄色く乾いた最初の紙片と、袋の底に溜まった白い砂だけだった。
私が最後に禿子と会ったとき、彼はその袋をまだ財布に入れていた。
文字はほとんど消えていた。
「これも、じきに読めなくなる」
禿子は言った。
「読めなくなったら、どうするんです」
「そのまま持っている」
「何が書かれていたのか分からなくなっても?」
「字を覚えているうちはな」
食堂を出ると、葉城の夜には乾いた風が吹いていた。
遠くの空に、崑崙の稜線が黒く沈んでいた。
禿子は道路の向こう側に立ち、迎えの車を待っていた。
一台のトラックが近づいてくる。
前照灯が彼の身体を照らす直前、私はなぜか、彼があの日の老人と同じように見えた。
道路に沿って進むのではなく、道路を横切り、砂の向こう側へ帰ろうとしている人間の姿に。
車が通り過ぎた。
舞い上がった砂で、しばらく何も見えなくなった。
砂煙が消えたあと、禿子はまだそこにいた。
彼は片手を上げ、笑っていた。
その背後には、暗い道路が延びていた。
どこまでも続いているようにも、百メートル先で途切れているようにも見えた。
そして道路の遥か奥、灯り一つないはずの荒野に、裸電球のような黄色い光が一度だけ点いた。
光の下を、黒い鞄を提げた誰かが横切った。
足元だけが白く浮かび、すぐに闇へ消えた。

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