序章 墨痕と狐仙楼

大学の講義棟の裏手、銀杏の落葉が石畳を黄色く埋め尽くす晩秋のベンチで、陸偉(ルー・ウェイ)はいつも一人、毛筆の手習い帳を膝に広げていた。

端正な鼻梁に銀縁の眼鏡をかけ、古びた綿の長衫に似た上着を好んで纏う彼の指先には、常に微かな松煙墨の匂いが染み付いていた。早口で騒ぎ立てる都会の学生たちの群れにあって、彼の物腰は驚くほど物静かで、言葉遣いは宋代の文人を思わせるほど雅やかであった。誰もが彼を、江南の水郷か北京の古い学者家筋の生まれだろうと思い込んでいた。

だが、実際の彼の故郷は、見渡す限りの黒土と原生林が地平を覆う、中国東北部——黒竜江省の山深い農村であった。

「うちの家系は代々、土着の巫女(シャーマン)なんだよ」

ある夕暮れ、学食の片隅で湯気の立つ粗末な豆腐スープを啜りながら、陸偉は自嘲気味にそう打ち明けた。

東北地方の農村には、太古の狩猟採集民の精霊崇拝と道教が習合した「出馬仙」と呼ばれる巫術の伝統が、今なお根強く息づいている。山野の霊獣を神仏の眷属として祀り、その霊魂を自らの肉体に憑依させて病気の治療や吉凶の予言を行う家系であり、民間では親しみを込めて、あるいは底知れぬ恐れを込めて「看事(カンシー=事を見る者)」と呼ぶ。

陸偉の家では、祖母の代から「胡三太爺(コサンタイヤ)」と呼ばれる狐仙が祀られていた。

祖父が若い頃、雪山で柴刈りをしていた折に罠にかかった老いた白狐を助け出し、その狐が恩返しとして一族の守護霊となったのだという。

その噂は寒村の境を越えて省全体へと広まり、近隣の農民ばかりか、省都や遠く北京の高官までもが、ナンバープレートを黒い布で覆い隠した正体不明の高級車に揺られて、深夜の陸家に列をなした。訪れた客が敷居を跨いだ瞬間、祖母の口からはその者の過去の悪行、隠された私財、前世の因果が、帳簿を読み上げるように寸分の狂いもなく語られたという。

だが、幼少期の陸偉にとって、その神秘の館は息の詰まる牢獄に他ならなかった。

家中を絶え間なく満たす黄色い紙線香の饐えた煙、夜な夜な客間から響く見知らぬ他人の嗚咽と平伏の音、そして中庭の奥に建てられた小さな朱塗りの祠——「狐仙楼」から漂う、獣の脂と腐敗が混ざり合ったような異様な冷気。

彼は物心ついた頃から、その非日常のすべてを激しく嫌悪していた。大学進学を機に家を飛び出したのも、祖母が世を去り、巫業が伯母へと引き継がれた際、父親を説得して祠から遠く離れた街へと居を移させたのも、前近代の迷信の泥濘から逃れたい一心ゆえであった。

第一章 立卓の箸と、冷たき手

陸偉がその強固な理性の防壁を粉々に打ち砕かれることになったのは、大学二年生の冬、彼の祖父が急逝した折のことであった。

東北の古い習俗では、死者が冥府の関門を通過したとされる初七日の夜、遺族は霊媒を招き、死者の魂をその肉体に降ろして最後の言葉を交わさねばならない。これを「請仙(チンシエン)」という。

父親は涙を流して霊媒の手配を懇願したが、長年その手のペテンを憎悪してきた陸偉は、真っ向からこれに反対した。

「死んだ人間が他人の口を借りて喋るなど、物理的にあり得ない。どうしても呼ぶというなら、俺が同席してそのインチキを白日の下に晒してやる」

陸偉は親戚の手前を慮り、出馬仙を継承した実の伯母ではなく、隣村で「走陰婆(ゾウインポー=冥府通いの老女)」として知られていた、全く面識のない別の老婆を呼び寄せた。

老婆が指定した祈祷部屋は、窓という窓に隙間なく黒布が張り巡らされ、昼間であるにもかかわらず一筋の光すら侵入を許さない土間であった。部屋の中央には一本の白い蝋燭が揺らめき、粗末な筵が敷かれている。

部屋の敷居を跨いだ瞬間、陸偉の皮膚の表面を針で撫で回されたような悪寒が走った。

異様な「冷気」であった。外の気温は零下五度ほどであったが、締め切られたその土間の空気は、まるで急速冷凍機の中に放り込まれたかのように、吐き出す息が一瞬で凍りついて胸元に落ちるほど冷え切っていた。

後に彼が知己の超心理学の文献で知ったことであるが、世界各国の怪異現象の調査において、真の霊的干渉が発生する特異点では、周囲の空間から突発的に十度以上の熱量が奪い去られるという。

老婆は筵の上に胡坐をかき、目の前の素焼きの鉢に半分ほど冷水を注ぎ入れた。

そして、水面に三本の竹箸を無造作に浮かべた。

箸は水流のままに浮遊し、互いに触れ合うこともなく円を描いている。

老婆は濁った眼を白く反転させ、喉の奥から聞いたこともない鳥の啼き声のような呪言を呟き始めた。

「……爺様が降りてきたら、この三本の箸が水の中で直立する。立ったらすぐ話しかけなされ。死人の魂を背負うのは骨が軋む、長くは持たんよ」

陸偉は腕組みをし、冷笑を浮かべてその手元を凝視していた。

(手品だ。水底に磁石を仕込んでいるか、あるいは水銀を垂らして比重を狂わせているに違いない)

だが、老婆の祈祷の声が激しさを増し、土間の空気がキーンという耳鳴りのような高周波を帯び始めた、まさにその刹那であった。

ピチャリ……。

水鉢の表面に微細な波紋が広がった。

浮いていた三本の竹箸が、何の見えない糸で引っ張り上げられたかのように、突然水面に対して垂直に跳ね上がったのである。

三本の箸は、底にも側面にも触れず、鉢の真ん中でピタリと身を寄せ合い、まるで凍結した池に突き刺さった杭のように、完全に直立して静止した。

物理の法則を嘲笑う光景に、父親は悲鳴を上げて筵の上に平伏し、号泣しながら祖父の名を呼び始めた。

だが、陸偉の疑心暗鬼は止まらなかった。

「茶番だ!」

彼は怒声とともに二歩進み出ると、水鉢の縁に手を伸ばし、その直立している三本の竹箸を、力任せに鷲掴みにしたのである。

その瞬間——陸偉の全身の血液が、逆流した。

彼の手のひらが捉えた感触は、乾いた竹の木肌などでは断じてなかった。

それは、氷水の中に何日も漬け込まれていたかのような、骨張った、節くれだった「人間の手首」であったのだ。

皮膚は冷たく湿り、指先には土の匂いが染み付き、万力のような力で陸偉の握りこぶしを逆に握り返してきた。手首の皮膚の下で、停止した血管が軋む生々しい肉の感触。

陸偉は恐怖のあまり指を開こうとしたが、見えない凍結した手が彼の骨を締め上げ、離すことができない。

そして、暗闇の筵の上から、老婆の声ではない、低く嗄れた老人の呼気が漏れ出した。

それは、陸偉が幼い頃から毎晩耳にしてきた、あの祖父の懐かしい、しかし底知れぬ冥府の泥を吸い込んだ声そのものであった。

『……小偉か。なぜ、爺の手をそんなに強く掴むんじゃ』

陸偉の膝が崩れ落ちた。

全身の毛穴から冷汗が噴き出し、彼は生まれて初めて、自らの理性の傲慢さを呪いながら、泥の床の上に額を打ち付けて慟哭した。

見えない祖父の手は、やがて彼の指先を優しく撫で、彼が幼少期に裏山で迷子になった際、祖父と二人きりで交わした秘密の約束の言葉を、一言一句違わずに語り聞かせたのであった。

第二章 病舎の錯乱と、伯母の煙管

祖父の降霊事件を境に、陸偉の心には不可逆の亀裂が刻まれた。だが、彼が自らの運命を受け入れざるを得なくなった決定的な凶変は、大学四年生の秋、彼の人生の最も輝かしい季節に訪れた。

当時、彼には同じ大学で知り合った、湖南省出身の恋人がいた。

野に咲く百合のように清楚で、聡明で、天真爛漫な笑顔を絶やさない美しい女性であった。二人は卒業後の将来を誓い合い、北京の出版機関への就職も内定していた。

だが、ある新月の夜、女子寮の三階の廊下から、耳を劈く金切り声が響き渡った。

駆けつけた陸偉が目にしたのは、髪を振り乱し、両手の爪で自らの喉元を引き裂きながら、窓のサッシへとよじ登ろうとしている恋人の姿であった。

彼女の瞳孔は極限まで散大し、口の端から白い泡と鮮血を垂れ流しながら、聞いたこともない東北地方の粗野な方言で、男のような濁声を張り上げていた。

『死ね! みんな落ちろ! 私がここで首を吊ったとき、誰も助けてくれなかったじゃないかッ!!』

三人がかりで彼女を取り押さえ、大学病院の精神科救急病棟へと運び込んだが、当直医の下した診断は「急性統合失調症による重度の解離状態」という冷酷なものであった。大量の抗精神病薬を点滴されても彼女の狂乱は治まらず、拘束衣の中で四肢を激しく痙攣させ、虚空を睨みつけては獣のような唸り声を上げ続けた。

彼女の両親は絶望のあまり倒れ伏し、医師団は隔離病棟への長期収容を宣告した。

現代医学の無力さを前にした陸偉の脳裏に、あの幼い頃に逃げ出した「故郷の祠」の光景が電撃のように閃いた。

「精神病じゃない……何かが、彼女の中に入り込んでいる」

陸偉は恋人の両親を必死で説得し、半狂乱の彼女を車の後部座席に縛り付けると、千数百キロ離れた黒竜江省の山林にある伯母の家へと車を走らせた。

二昼夜にわたる不眠不休の疾走の末、夜明けの霧が立ち込める伯母の古い瓦屋根の屋敷に辿り着いたとき、恋人の呼吸はすでに微弱となり、皮膚は土気色に変色していた。

出迎えた伯母は、すでに五十代半ばを迎えていたが、その眼光は鶴のように鋭く、手には使い古された真鍮の煙管(キセル)を握っていた。

伯母は車から引きずり降ろされた恋人の顔を一瞥するなり、煙管の煙をその眉間に吹きかけ、冷ややかに言い放った。

「……首の周りに、青黒い縄目が二重に巻き付いているね。三年前、この娘の通う学び舎の古井戸か裏階段で、男に裏切られて首を括った若い女の浮遊霊だよ。怨念が深すぎて成仏できず、一番魂の薄いこの娘の肉体を乗っ取って、道連れに飛び降りようとしていたのさ」

伯母は恋人を居間の板敷きに寝かせると、壁に掲げられていた「胡三太爺」の神鏡の前に立ち、朱砂の粉末を指先に取って自らの眉間に叩きつけた。

伯母が長煙管を三度、空に向かって打ち鳴らした瞬間——居間の空気が一変した。

伯母の背筋がグニャリと不自然に湾曲し、その細い両目が釣り上がり、口元に老練な野生の獣を思わせる、狡猾で威厳に満ちた笑みが浮かんだのだ。

出馬——すなわち、狐仙の降臨であった。

『……哀れな餓鬼よ。他人の肉体を奪いて陽光を浴びんと欲するか』

伯母の口から発せられたのは、地中深くから響くような、性別を超越した重厚な声であった。

伯母が恋人の胸元に真鍮の煙管の雁首を押し当て、一言、短く叱咤した。

『去(い)ねッ!』

バチィィッ!!

目に見えぬ雷火が弾けたような衝撃が走り、恋人の身体が板敷きの上で弓なりに跳ね上がった。

彼女の口から、冷たい灰色の煙のような呼気が大量に吐き出され、次の瞬間、彼女は糸の切れた操り人形のように脱力して昏睡へと落ちていった。

翌朝、目を覚ました彼女は、何事もなかったかのように正気を取り戻していた。しかし、自らに何が起きたのかの記憶は完全に失われており、ただ原因不明の底知れぬ恐怖に怯えるばかりであった。

彼女はその月のうちに大学を休学し、逃げるようにして海外の大学へと留学していった。

二度と、彼女から陸偉へ連絡が来ることはなかった。怪異の傷跡は、二人の青春の契りを、いとも容易く引き裂いて消え去ったのである。

第三章 五仙の修練と、人間の器

恋人を失った喪失感の中、陸偉は数週間にわたって伯母の家に留まり続けた。

中庭の狐仙楼から立ち上る線香の煙を見つめながら、彼は自らの血脈に刻まれた逃れようのない因果の構造を、伯母の口から学び取っていった。

「東北の五大仙——胡(狐)、黄(イタチ)、白(ハリネズミ)、柳(蛇)、灰(ネズミ)と呼ばれる霊獣たちはね」

ある夜、囲炉裏の炭火を煙管の先で突きながら、伯母は静かに語った。

「世間の人間が思い込んでいるような、最初から雲に乗る神仙なんかじゃないんだよ。彼らは山林の中で百年、二百年と日月幽玄の精気を吸い、ようやく知恵の扉を開いた下等な獣の霊に過ぎない」

伯母の説明によれば、動物の肉体は五行の気が偏っており、どれほど山中で座禅を組み、妖力を蓄えたところで、その身一つでは永遠に真の大道(解脱)へ至ることは叶わない。

彼らが真の神仙となるために不可欠なもの——それこそが、生きた人間社会の中で積むべき「福報(徳の負債の返済)」であった。

「人間に憑依し、その身体を仮の宿として借り受け、苦しむ人々の怨敵を調伏し、病を癒し、迷いを解く。そうして何千、何万という人々の感謝の祈りを集めて初めて、彼らの積んだ功徳の帳簿は満たされるのさ。……出馬の巫女なんてものはね、神仏の代理人でも何でもない。

仙家が徳を積むための、ただの肉の乗り物に過ぎないんだよ」

陸偉は煙を見つめ、長年の疑問をぶつけた。

「……功徳が満ちたとき、その狐仙たちは、天へ昇って神仙になるのか?」

伯母は小さく首を横に振った。

「いいや。神仙にはなれない。……彼らが功徳の果てにようやく手に入れるのはね、『人間の肉体に生まれ変わる権利』なんだよ」

「人間に……?」

「そうだ」伯母の声は、深く澄み渡っていた。

「人間というこの器こそが、三界の中で唯一、陰陽五行の気を完全に備え、己の意志で天へと昇る修練を許された、最高の神殿なんだ。動物たちは何千年もの苦行を経て、ようやくこの脆くて短い人間の肉体という切符を手に入れる。……あんた、街を行き交う群衆の顔を、じっと観察してみたことがあるかい?

」

伯母は自らの細い指先で、空中にいくつかの輪郭を描いた。

「世の中にはね、生まれつき異様に尖った顎と吊り目を持つ者、猿のように落ち着きなく手足を動かす者、牛のように重い瞼と分厚い唇を持つ者がいるだろう。あれは単なる遺伝の造形じゃない。前世において何百年も山野を這い回り、ようやく人間の皮を被ることを許されたばかりの、霊獣たちの転生したばかりの姿なんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、陸偉の胸の中で、長年頑なに閉ざされていた何かが、音を立てて崩れ去った。

科学が説く進化論の冷たい無機質さの向こう側に、数万年の時をかけて泥から人間へ、人間から天へと這い上がろうとする、広大無辺なる「魂の階梯」の風景が広がっていたのだ。

「人間になれたこと自体が、天文学的な奇跡なんだ」

陸偉は自らの手のひらを見つめ、呟いた。

「なら……その奇跡の器を手に入れた人間は、なぜ神仙になろうとしないんだ? なぜ、現世の金や名誉という塵芥に塗れて、自らの魂を再び獣の淵へと堕落させてしまうんだ……」

その冬、大学を卒業した陸偉は、内定していた国家機関の職を辞退した。

スーツを脱ぎ捨て、身の回りの書物だけをトランクに詰め込むと、彼は北京の喧騒を離れ、各地の名山旧刹を巡る果てしない雲水の旅へと出立したのである。

第四章 終南の白雲と、漆黒の宿業

それから五年の歳月が流れた頃、私は陝西省の省都・西安から南へ五十キロメートル、大秦嶺山脈の懐に抱かれた霊峰・終南山(しゅうなんざん)の麓へと向かうバスに揺られていた。

風の噂に、陸偉が終南山の山中に庵を結び、世俗の縁を一切断ち切って隠棲生活に入ったという便りを受け取ったからであった。

終南山は、老子が『道徳経』を著した聖地であり、唐代よりあまたの道士や仏僧が修行のために岩穴に籠もった、中国最大の「隠士の山」である。現在でも数千人に及ぶ求道者たちが、電気も水道もない山腹の洞窟や草庵で、自給自足の修練を続けている。

小雨煙る険しい山道を徒歩で三時間ほど登り詰めた、標高千二百メートルの断崖の突端。

赤松の巨木に囲まれた小さな石垣の上に、泥と板切れで築かれた一軒の粗末な庵が佇んでいた。

庭先には小さな茶畑と薬草の畝が広がり、軒下には薪が整然と積まれている。

引き戸を開けて現れた陸偉の姿を目にした瞬間、私は危うく彼をかつての学友だと見失いそうになった。

彼の肉体は削ぎ落とされたように痩躯を極め、伸ばした黒髪は頭頂で木製の簪(かんざし)によって小さく束ねられていた。粗末な麻の道袍を纏い、足元には手編みの藁草履。だが、その皮膚は青白く透き通り、あの銀縁眼鏡の奥にあった神経質な光は消え失せ、底なしの静水のように澄み渡った双眸が、私を静かに見つめていた。

「よく来てくれたね」

陸偉の声は、深山を渡る秋風のように涼やかであった。

土間の囲炉裏で沸かされた湧水で、彼が手ずから摘んだ野性の茶を振る舞われながら、私たちは数年ぶりの再会を言祝ぎ合った。

彼の生活は、徹底した清貧そのものであった。日の出とともに起き、経文を誦し、畑を耕し、夕暮れには石の上に座して山霧の彼方に沈む太陽を呼吸する。現金は一銭も持たず、麓の村人が残飯や古着と引き換えに求めてくる、わずかな祈祷や漢方の調合だけで命を繋いでいた。

だが、その浮世離れした静謐のただ中にあって、唯一、不穏な影を落としている存在があった。

庵の土間の隅、平らな青石の板の上に、一頭の「漆黒の猫」が蹲っていたのだ。

痩せこけ、毛並みは濡れたカラスのように鈍い光を放ち、その両目は、濁った琥珀色の光を宿していた。

私が視線を向けた瞬間、黒猫は音もなく背中の毛を逆立て、牙を剥き出しにして喉の奥から「フシューッ!」という激しい威嚇の呼気を叩きつけてきた。

その眼差しには、野良猫の警戒心などを遥かに超越した、まるで太古の怨敵を前にしたかのような、骨の髄からの「憎悪」が燃え盛っていた。

「……随分と気性の荒い猫を飼っているんだな」

私が呟くと、陸偉は湯呑みを置き、寂しげな微笑を浮かべた。

「拾ったんじゃない。向こうから、ここへ取り立てに来たんだよ」

その夜、私は板の間に薄い綿布を敷いてもらい、旅の疲れから深い眠りに落ちていた。

深夜二時を回った頃であったろうか。

大腿部に走った、焼夷弾を撃ち込まれたかのような凄絶な激痛に、私は絶叫して跳ね起きた。

月光が青白く照らし出す闇の中。

私の右の大腿部の上に、あの黒猫が覆いかぶさっていた。

猫の両前足の鋭利な爪が、私のジーンズの布地を貫通し、筋肉の深層にまで深々と食い込んでいた。さらに猫は、自らの牙を私の肉へと突き立て、傷口を力任せに抉り開けていたのだ。

鮮血が噴き出し、敷布を瞬く間に真っ赤に染め上げていく。

私が痛みに狂って猫を振り払おうとした瞬間、猫は音もなく宙へ跳び去り、梁の上から冷たい眼差しで見下ろしていた。

駆け寄ってきた陸偉は、叫び声を上げることもなく、手際よく薬草の粉末を私の傷口に塗り込み、清潔な麻布で固く縛り上げた。

傷は骨膜に達するほど深く、血は容易には止まらなかった。

痛みに歯の根をガタガタと鳴らしながら、「あの化け物を今すぐ叩き殺してくれ!」と激昂する私に対し、陸偉は静かに首を横に振り、私の血に染まった手を自らの両手で包み込んだ。

「恨んじゃいけないよ」

陸偉の声には、底知れぬ哀憐が滲んでいた。

「あの子はお前の肉を求めたんじゃない。……前世の負債を取り戻しただけなんだ」

「前世だと……? 何の冗談だ!」

陸偉は窓の外、青白い月光に照らされた険しい終南の峰々を指差した。

「因果の理はね、人間の記憶が消え去っても、肉体の皮膚の下に寸分の狂いもなく刻まれ続けているんだ。……前世において、お前はある地方の山林を支配する頭目であり、あの子は北の尾根に棲む山猫の主であった。お前が山を越える際、山火事を放ち、あの子の棲み処と腹の中にいた三匹の仔猫を焼き殺したことがあったのだよ」

私の思考が凍りついた。

「今夜のこの一撃で、肉の裂傷と流れた血をもって、あの子がお前に対して抱き続けていた千年の怨嗟の帳簿は、ようやく相殺された。……もし今夜、お前があの子を殺し、あるいは憎しみを返せば、この因果の車輪は来世においてさらに巨大な惨劇となってお前の喉首を絞めに来るだろう。冤冤相報何時了(怨みと怨みの報復はいつ終わるのか)。

……ここで断ち切るんだよ」

陸偉は梁の上の黒猫を見上げ、静かに合掌した。

猫は一度だけ低く啼くと、暗闇の中へと姿を消した。

その夜、痛みに耐えながら眠れぬ夜を過ごす私に向かって、陸偉は囲炉裏の残り火を見つめながら、自らの孤独な魂の深奥をぽつりぽつりと語り明かした。

「終南山にはね、仙人になれると信じ込んで、一袋の乾パンと一瓢の水を抱えて洞窟に籠もり、そのまま誰にも看取られずにミイラとなって朽ち果てていく人間が、毎年何十人もいるんだよ。……私にも分からない。この肉体を脱ぎ捨てた先に、本当に神仙の世界があるのかどうか。

だがね……もしこの世に仙人がおらず、因果の救済もないのだとしたら、人間が生きるこの現世という場所は、あまりにも残酷で、あまりにも退屈な泥沼ではないか」

翌朝、夜明けの光の中を、私は足を引きずりながら山を下りた。

見送りに立った陸偉の背後、庭の片隅の青石の上で、あの黒猫が丸くなり、静かに目を閉じていた。

それが、生身の陸偉と交わした、最後の別れとなったのである。

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