序章 低地の夜とドロッピング

オランダとベルギーの国境地帯には、目に見える境界線というものがほとんど存在しない。北ブラバント州の南端からベルギーのアントウェルペン州へと続くカームトハウトの湿原(カームトハウトセ・ハイデ)に足を踏み入れれば、そこにあるのはただ、氷河期が残した白い砂丘と、紫色の枯れ草に覆われた広大なヒース、そして黒い泥炭の池が織りなす、起伏の乏しい低地の荒野ばかりである。

両国の十代の若者たちにとって、この平坦な荒野は、一つの共通した記憶と結びついている。

オランダ語圏の学生・生徒向けオンラインコミュニティには、学校生活や受験の悩みに混ざって、毎年のように秋から冬にかけて盛り上がる定番の話題がある。林間学校(ウェルクウィーク)やスカウト合宿の夜に行われる伝統行事、「ドロッピング(Dropping)」の体験談スレッドである。

ドロッピングとは、オランダおよびベルギーのフランデレン地域で古くから行われている、一種の過酷な度胸試しだ。夜半過ぎ、生徒たちは目隠しをされるか窓を遮光されたワゴン車の荷台に押し込められ、土地勘のない深い森や原野の真ん中へと運ばれる。そこで突如として降ろされ、スマートフォンを取り上げられた状態で、古い方位磁針と簡素な地図のコピーだけを頼りに、数キロ先にある宿泊所へと自力で歩いて戻らなければならない。

街灯一つない夜の湿原、霧が立ち込める泥炭池の縁、迷路のように入り組んだ砂道。掲示板の「実話に基づく怪談」の専用スレッドには、教師たちの悪ふざけや単なる悪天候の遭難を遥かに超えた、異様な報告が数多く書き残されている。

方位磁針の針が狂ったように回転を始めた場所。

霧の奥から聞こえてくる、低周波の電気的な唸り音。

そして、何もないはずの荒野の真ん中に突如として現れる、白く発光する鉄条網と、そこにしがみつく無数の黒焦げた影。

低地諸国の若者たちが夜の闇の中で出会うそれらの現象は、単なる子供騙しのフォークロアではない。かつて第一次世界大戦の時代、中立国オランダとドイツ占領下のベルギーを暴力的に引き裂いた、高圧電流の張り巡らされた国境線の記憶が、今なお大地の裂け目から放電を続けている証拠であった。

第一章 砂とヒースの境界線

ブラム・フェルフーフェンがワゴン車のスライドドアから冷え切った外気の中へと放り出されたのは、金曜日の午後十一時四十分のことだった。

オランダのブレダにある中等教育学校(ハボ)の最終学年に通う十七歳のブラムは、国境を挟んだベルギー・アントウェルペンの提携校との合同秋季合宿に参加していた。宿泊施設はベルギー側の町エッセンの近郊にあるスカウト小屋だったが、合宿三日目の夜、指導員の教員たちは予告通り、生徒たちを四人一組のグループに分け、遮光カーテンで外が見えないミニバンの後部座席に詰め込んだ。

「ルールは知ってるな」

車を運転していたベルギー人の体育教師ファン・ダイクが、エンジンを切ると同時に笑いながら振り返った。

「携帯電話とスマートウォッチは全部カゴの中だ。持っていっていいのは、この赤いセロファンを貼った懐中電灯が一本、オイルコンパスが一つ、それから縮尺二万五千分の一の白黒地図のコピーが一枚だけだ。目的地はキャンプ場の裏手にある給水塔。

制限時間は三時間半。午前三時を過ぎても戻らない奴らは、捜索隊を出して翌朝のトイレ掃除をやらせるからな」

容赦なくドアが閉まり、車のテールランプの赤い光が砂埃の中に小さく消えていった。

残されたのは、ブラムと、同級生でオランダ人のダーン、そしてベルギー側から参加していたルーカスとマティアスだった。静寂が一瞬にして四人を飲み込んだ。

空を見上げると、低地特有の重い鉛色の雲が低く垂れ込め、月も星も見えなかった。周囲を囲んでいるのは、背の低いエリカとギョリュウモドキの群落、そして白い砂が露出した荒涼とした内陸砂丘だった。風が吹くたびに、カサカサと乾いたヒースの茎が擦れ合う音が響き、どこか遠くの湿地から、渡り鳥の湿った鳴き声が聞こえてくる。

「……最悪だな。完全にカームトハウトの奥地だ」

ルーカスが吐く息を白く凍らせながら、首に巻いたマフラーを引き上げた。アントウェルペン出身のルーカスは、幼い頃から家族とこの自然公園にハイキングに来ていたため、多少の土地勘があるはずだった。

「ルーカス、現在地はわかるか?」

ブラムが赤い光の懐中電灯を灯し、折り畳まれた地図のコピーを広げた。赤い光は夜間視力を奪わないためのものだが、陰影の乏しい等高線を識別するのは容易ではなかった。

「確実じゃないが、おそらくスタッペルスフェン(泥炭湖)の北側の砂丘地帯だ。このまま南東へ向かって歩けば、国境の防火帯を横切って、一時間半ほどでベルギー側の舗装された自転車道に出るはずだ」

四人は歩き始めた。スニーカーが深い白砂に沈み込み、歩くたびに体力が削られていく。気温はすでに摂氏二度近くまで下がっていた。

オランダの十一月の湿気を含んだ冷気は、防水ヤッケの布地を通り抜け、皮膚の表面から体温を容赦なく奪っていく。

三十分ほど歩いたところで、砂丘が途切れ、足元が黒く湿った泥炭混じりの土へと変わった。行く手に、巨大な水たまりのような黒い水面が広がっていた。スタッペルスフェンの支流、あるいは名もない湿地帯の窪地だった。

水面からは、まるで煙幕を焚いたかのように、白く濃密な霧が音もなく立ち上り、ヒースの原野を舐めるように広がっていた。

「ヴィッテ・ヴィーヴェン(白い女たち)だな」

ダーンが寒さに震えながら、冗談めかして言った。オランダやフランデレンの古い伝承にある、霧の中に現れて旅人を泥炭の底へ誘い込む幽霊のことだった。

「馬鹿言うなよ、ただの放射冷却の霧だ」

ブラムはそう答えたものの、足元を這い回る霧の動きに、言いようのない不気味さを感じていた。霧は風に流されているのではなかった。まるで意思を持った巨大な生き物のように、地面の窪みを選びながら、四人の足首のあたりをじわじわと這い上がってきていたのだ。

第二章 碍子と針金

砂道は次第に不明瞭になり、やがてヒースの藪の中に完全に消え失せた。

「おい、ルーカス。道がなくなってるぞ」

最後尾を歩いていたマティアスが不安そうに声を上げた。ルーカスは足を止め、胸ポケットから方位磁針を取り出した。赤い懐中電灯の光を当てる。

その瞬間、ルーカスが短く息を呑んだ。

「……おかしいな」

「どうした?」

ブラムが横から覗き込んだ。透明なプラスチックカプセルの中で、緑色に塗られた磁針が、南東を指すのではなく、まるで狂った時計の秒針のように、小刻みに左右へ四十度も五十度も激しく揺れ動いていたのだ。

「近くに高圧電線でもあるのか? 地中の送電ケーブルとか」

「この自然公園の真ん中に電線なんか通ってるわけがないだろ」

ルーカスは磁針を水平に構え直したが、針の振動は収まるどころか、次第に回転するような不穏な動きを見せ始めた。

その時、ブラムの鼻孔を、奇妙な臭気がかすめた。湿った泥と枯草の匂いの中に、混ざり込んできた異質な刺激臭。

オゾンの匂いだった。夏の雷雨の直前、あるいは電気製品がショートした瞬間に漂うような、ツンとした鋭い匂い。それと同時に、動物の毛が焦げたような、油臭いタンパク質の焼けた匂いが微かに風に乗ってきた。

ジジ……ジジジ……。

耳鳴りのような音が、空気の底から湧き上がっていた。それは風の音ではなかった。変電所のトランスが放つような、五十ヘルツの重く湿った低周波の唸り音。

「おい、何か聞こえないか?」

ブラムが足を止めると、他の三人もしんと静まり返った。唸り音は、霧の立ち込める前方の藪の中から、確実に響いていた。

ブラムは懐中電灯の赤い光条を正面に向けた。十メートルほど先の霧の中に、黒い棒のようなものが等間隔で林立しているのが見えた。

木製の杭だった。松の丸太を粗削りにした、高さ二メートルほどの杭が、ヒースの原野を真っ直ぐに二分するようにして、延々と連なっていた。四人は恐る恐るその杭へと近づいた。

現代の牧草地を囲むような簡素な柵ではなかった。杭の中央部と上部には、握り拳ほどの大きさがある、白く艶のある磁器製の碍子(がいし)がしっかりとボルトで固定されていた。そして、その碍子を経由して、三本の太い鉄条網が、ピンと張り詰められた状態で水平に渡されていた。

表面は赤黒く錆びついていたが、驚くべきことに、その鉄条網の周囲の空気だけが、まるで陽炎のようにユラユラと歪んでいた。

「これ……なんだ?」

ダーンが手を伸ばそうとした。

「触るな!」

ルーカスが叫び、ダーンの腕を力任せに引き戻した。その直後だった。

バチッ!

青白い火花が、碍子の根元から弾け飛んだ。鋭い破裂音とともに、肉眼でもはっきりと見える紫色の放電の光条が、湿った霧の粒子を貫いて空中に走った。四人は転がるようにして後ろへ飛び退いた。

「嘘だろ……電流が通ってるのか? こんな錆びた針金に!?」

マティアスが叫んだ。ルーカスの顔は、懐中電灯の赤い光の下で、完全に土気色に変色していた。彼は震える指で、目の前に伸びる杭の列を指差した。

「……ドードドラートだ」

ルーカスの声は、掠れて途切れ途切れだった。

「死の針金……僕の曾祖父が、昔よく話してくれた。第一次世界大戦の時、ドイツ軍がベルギー人を逃がさないために国境中に張り巡らせた電気の壁だ。二千ボルトの高圧電流が流れていて、触れた人間は一瞬で内臓まで黒焦げになったって……」

「待てよ、ルーカス」

ブラムは混乱する頭を抑えながら言った。

「その壁は、百年前のものだろ? 戦争が終わった千九百十八年に、全部撤去されたはずだ。現存してるのは博物館の復元模型だけだって、歴史の授業で習ったぞ!」

「じゃあ、この音は何なんだよ!」

ルーカスが感情を爆発させるように叫んだ。ジジジジジ……! 唸り音は次第に音量を増し、今や四人の足元の湿った黒土そのものが、かすかに振動しているかのように感じられた。

空気中の静電気が急激に高まり、ブラムの腕の産毛が、フリースジャケットの袖の中で一斉に逆立つのがわかった。

そして、鉄条網の向こう側——ベルギー側の濃霧の底から、音が近づいてきた。

第三章 青白い放電

ザッ、ザッ、ザッ。

深い砂を踏みしめる足音が、規則正しく響いていた。足音は一つではなかった。複数の重い足取りが、鉄条網の向こう側の闇から、こちらへ向かって一直線に歩み寄ってくる。

「先生たちか……?」

ダーンが震える声で呼びかけた。

「おい! ファン・ダイク先生! 冗談ならもうやめてください!」

返事はなかった。足音は鉄条網の手前、わずか五メートルほどの位置でピタリと止まった。

霧が、微風に撫でられてサッと裂けた。そこに、立っていた。

青白い、かすかな燐光を全身から放つ人影だった。それは現代の登山服を着た教師などでは決してなかった。擦り切れたツイードのチョッキに、泥だらけのリネンのシャツ。

頭には平たい鳥打帽を目深に被り、足には分厚い木靴を履いていた。その手には、自転車の古タイヤのゴム管を幾重にも巻き付けた、四角い木製の枠のようなものが握られていた。

越境枠(パッスールスラーム)。密輸業者や脱出を試みる若者たちが、高圧電線に触れずに隙間を潜り抜けるために自作した、絶縁用の木枠だった。

その人物は、男だった。年齢はブラムたちとそう変わらない、十九か二十歳前後の青年。しかし、その姿を見た瞬間、四人の喉から呼吸の音が完全に失われた。

男の顔の右半分は、見るも無惨に炭化していた。高電圧のアーク放電を至近距離で浴びたのか、皮膚は黒い炭のようになって剥がれ落ち、耳介は溶けて消失し、剥き出しになった頬骨の白い破片が露出していた。そして、残された左半分にある眼球は、白濁して完全に煮え爛れていた。

その男は、鉄条網の向こう側に立ち尽くし、動かない目で、じっとオランダ側の地面を見つめていた。

男だけではなかった。

男の背後の霧の中から、次々と影が滲み出してきた。手織りのショールで赤子を固く抱きしめた若い母親。つぎはぎだらけのオーバーオールを着た十代前半の少年。

彼らは全員、一九一〇年代のベルギーの農村の衣服を身に纏い、その身体のどこかに、電流によって焼き切られた黒い壊死の痕跡を刻み込んでいた。

彼らは歩いて柵を越えようとはしなかった。彼らは、ただ鉄条網の前に立ち、絶望的な沈黙の中で、目の前の針金を見つめていた。

バチバチッ!

青白いアーク放電が、男の持っていた木枠の角に引火したように炸裂した。強烈な閃光が、夜の湿原を一瞬だけ白昼のように照らし出した。その光の中で、男の黒焦げになった唇が、ゆっくりと横に引き裂かれた。

声が聞こえた。それは空気の振動ではなく、耳の奥にある骨を直接叩くような、擦れ切れたオランダ語のアントウェルペン方言だった。

『……向こうへ……行かせてくれ……』

男の手が、木枠を捨て、前へと伸ばされた。その指先は、二千ボルトの電圧を帯びた鉄条網の、わずか数センチ手前まで迫っていた。

『……オランダへ……中立の……自由の国へ……』

「やめろ!」

ブラムは叫ぼうとした。だが、声は喉の奥に張り付いて音にならなかった。

男の指が、錆びた針金に触れた。

閃光が爆発した。

ドォン、という、落雷が直撃したかのような重低音が大気を震わせた。男の身体が、目に見えない巨大な力で針金に吸い付けられた。二千ボルトの交流電流が肉体を貫通する。

男の服の繊維から一瞬にしてボッと黄色い炎が噴き上がり、髪の毛がパチパチと音を立てて縮れ、火花となって飛び散った。

凄まじい悪臭が広がった。生きている人間の肉と脂肪が、超高熱で急速に炭化していく、吐き気を催すような強烈な油脂の焦げ臭。

しかし、男は叫ばなかった。叫び声を上げるための肺も喉も、電流の最初の一撃で瞬時に凝固していたのだ。男の身体は、電線に掴まったままガタガタと激しく痙攣し、青白いアークの光条が、男の目窩や口の隙間から幾筋もの槍となって夜空へ突き抜けていった。

そして、その痙攣する男の顔が、ゆっくりと、オランダ側にいるブラムの方へと回された。

煮え爛れた白い眼球の奥に、青い火花が宿っていた。炭化した顎が激しく震え、歯の隙間から、黒い灰の混ざった煙が煙突のように吹き出した。

『……手を……貸してくれ……!』

男の焼け爛れた左腕が、針金から離れ、信じられない軌道を描いて前へと伸びてきた。その指先が、空間の境界線を突き破り、ブラムの胸元へと真っ直ぐに迫ってくる。

電離した空気が、パチパチとブラムのヤッケの表面で静電気を放ち、胸のジッパーの金属スライダーが、ジリジリと皮膚を火傷させそうなほどの熱を帯び始めた。

「逃げろッ!」

ブラムは後ろへ倒れ込みながら叫んだ。四人は背を向け、泥炭の土を蹴って狂乱の疾走を始めた。

背後から、バリバリバリという、雷鳴のような放電音が連続して響き渡った。一人だけではない。鉄条網の前にいた無数の影たちが、一斉に針金へと手を伸ばし、自ら電流に飛び込んでいたのだ。

幾重にも重なる閃光が、背後の霧を紫と白の狂気の色に染め上げ、四人の走る影を湿原の砂の上に長く、歪に投げ出していた。

「見るな! 立ち止まるな!」

ルーカスが先頭を走りながら叫び続けた。足元が泥に取られ、ダーンが激しく転倒した。

「痛えっ!」

「立て! 早く立て!」

ブラムとマティアスがダーンの両脇を掴み、強引に引きずり起こした。ダーンの膝は泥にまみれ、恐怖で過呼吸を起こしかけていた。

足首に絡みつくヒースの根を力任せに引きちぎりながら、彼らはただ、磁針の狂ったコンパスを捨て、霧の薄い方向へと闇雲に足を動かした。

どれほどの時間、走り続けたのか。肺が焼けつくように痛く、喉の奥から血の味が広がっていた。冷気の針が顔面を容赦なく突き刺し、スニーカーの中は泥水でぐっしょりと冷え切っていた。

突如として、足元の感触が硬くなった。ガタン、と靴底が平らなアスファルトを捉えた。

目の前に、白いペンキで描かれた自転車のマークが浮かび上がっていた。整備された舗装路——境界自転車道だった。

四人はその場に崩れ落ちるように膝をついた。荒い呼吸の音だけが、夜の静寂に響き渡る。

ブラムは恐る恐る振り返った。背後には、ただ静まり返ったカームトハウトの湿原が広がっているだけだった。青白い閃光も、あの耳をつんざく放電の轟音も、跡形もなく消え去っていた。

木製の杭も、鉄条網も、影の群れも存在しない。ただ、冷たい秋の霧が、何事もなかったかのように紫色のヒースの海を静かに撫で回しているだけだった。

しかし、ブラムの着ているヤッケの袖口には、確かにあの臭いが残っていた。オゾンの冷たい刺激臭と、消えることのない、何かが焦げ付いた微かな煤の匂いが。

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