序章 短い脚
椅子の四本の脚のうち、一本だけが床に届いていなかった。
アルニが座ると、食卓の下で小さな音がした。重心を右へ動かすと止まり、左の肘をつくと、もう一度鳴った。厚く折った紙が脚の下に挟まれていたが、端が潰れて薄くなっている。
皿を運んできた友人の妻が、その音に気づいた。取り替えようかと訊かれ、アルニは首を振った。食べているあいだくらい、片側へ体重をかけていればいい。
向かいの子供用の椅子には、小さな靴下が片方置かれていた。友人はそれをポケットへ入れ、台所の奥へ娘を迎えに行った。三人分の食器は同じ模様で、アルニの皿だけが白かった。それも、数週間なら気にならないはずだった。
第一章 借りる部屋
友人のヨウンとは、同じ職場で知り合った。昼休みに並んで座り、同じ会社に文句を言ううちに、勤め先が変わっても連絡を取る仲になった。アルニが前の住まいを出ることになったときも、理由を長く説明する前に、空いている部屋があると言ってくれた。
二人で住んでいた部屋を、一人で借り続けることはできなかった。相手の荷物が先に消え、そのあと、相手が置いていったものまで片づける日が来た。食器棚に残った蓋のない保存容器を、捨てていいかどうか訊くためだけに電話するのは嫌だった。
部屋の明け渡しと、新しい部屋の入居日はうまく繋がらなかった。ヨウンは、その隙間を埋めてくれたのだ。
「片づくまで使えばいい」
友人はそう言って、衣類の袋を持ってくれた。
家の奥にある小部屋には、窓とベッドと、扉の外れた棚があった。以前は物置にしていたらしく、壁には何かを立てかけていた四角い跡がある。ヨウンの妻のエルサは棚の一段を空け、残りにはまだ自分たちのものがあるので、必要なときに声をかけると言った。
アルニの持ち物は、衣類と仕事の靴、洗面道具、二冊の本だった。袋を床へ置くと、引っ越しは終わった。自分の暮らしがこんなに軽かったことに、少し驚いた。
娘のリーナが戸口から顔を出した。片手に布の犬を持ち、もう片方の手を扉の縁に添えている。アルニが挨拶すると、犬を自分の背中へ隠した。
「その部屋、使っていい?」
子供にも訊いておいた方がいいと思った。
リーナは母親を見てから頷いた。返事をもらうまでの短い間、アルニは、背中に隠された犬の方に断られる気がしていた。
最初の晩、彼は自分の使った皿を洗い、流し台を拭いた。食卓の椅子がまた鳴ったので、脚の下の紙を取り出した。何かの封筒だった。住所が書かれていた側は内側へ折り込まれ、読めなかった。
紙を折り直して戻すと、椅子はしばらく静かになった。
家の中には、ヨウンたちが意識せずに使っている道順があった。冷蔵庫を開ける人がいれば、食卓の端を回る。洗濯物の籠が廊下に出ていれば、足先を斜めに向ける。
子供が寝たあとは、居間の扉を引き切らない。閉まり際の音が大きいからだった。
アルニはそれを一つずつ覚えた。聞かなくても動けることが増えると、泊めてもらう礼を少しずつ返せている気がした。
困ったのは、夜中の水だった。寝室から台所へ出るには、夫婦の寝室の前を通らなければならない。床の一枚が鳴る。昼のうちに場所を確かめても、夜になると足がそこへ吸い寄せられた。
三晩目から、寝る前に水を部屋へ持ち込むようになった。コップを置く場所がなく、本の上へ載せた。輪染みがつくと思いながら、その本を読み返すことはもうない気もした。
第二章 朝に戻る
一度目に目が覚めたとき、部屋の形が分からなかった。
前の住まいでは、ベッドの右側に窓があった。ここでは左にある。カーテンの隙間から入る細い明かりを、開いた扉だと思った。誰かが廊下から覗いているのだと、先に身体が決めてしまった。
起き上がろうとして、腕に力が入らなかった。
その数秒のことを、翌朝のアルニは長く説明できなかった。夢の中で起き上がろうとしたのか、本当に目を開けていたのか。声を出したつもりだったが、口が動いた感触はなかった。
次に分かったときには、横向きになって布団の端を握っていた。
水を飲んだ。窓は窓に戻った。扉は閉まっている。棚の白い箱は動いておらず、床の袋も倒れていなかった。
家を移ったばかりだからだ、と考えた。
朝、リーナが食卓へ匙を運んできた。一度に全部を持てないので、一本ずつ置いては戻る。アルニの前へ置くはずの匙を床に落とし、拾ってから、どうすればいいか彼の顔を見た。
彼は受け取り、台所で洗った。昨夜、部屋の輪郭が分からなくなったことが、この明るい流し台からはとても遠く思えた。
ヨウンに眠れたかと訊かれ、眠れたと答えた。
その返事を嘘だとは思わなかった。明け方には眠った。夢を見たくらいで、朝食を用意してくれた人に余計な話をすることもない。
週末、三人が買い物へ出たあいだに、アルニは部屋を探した。家賃だけで選ぶと遠くなり、通勤を考えると、次の給料まで待たなければならなくなる。連絡の返ってこない物件もあった。
気に入った部屋に限って、すでに入居者が決まっていた。
ヨウンから、パンを買って帰るが何か欲しいものはあるかと連絡が来た。彼は何も要らないと答え、そのあとで食器用の洗剤を頼んだ。個人的な欲しいものを言うより、家の不足を見つける方が楽だった。
三人が帰ってくると、廊下が急に狭くなった。買い物袋、子供の脱いだ上着、ヨウンの濡れた靴。エルサが袋を持ち替えるために手を伸ばし、アルニは何も言われる前に受け取った。
夕食には四枚の皿が並んだ。
誰も彼のために特別なことをしている様子はなかった。それがありがたかった。椅子が一度鳴ったが、その音は、皿を置く音や子供の声にまぎれた。
食後、ヨウンと二人で、棚の外れていた扉を取り付けた。部品を置いた小皿をリーナが持ち去りかけ、エルサが途中で止めた。笑い声が起きた。アルニも笑った。
扉がつくと、自分の衣類が見えなくなった。その小さな変化で、部屋が急に借り物らしくなくなった。彼はベッドの足元にあった袋を畳み、棚へしまった。
その夜は、横になる前から眠かった。
第三章 言い直したこと
朝になっても、水を飲み込むときの嫌な感じが残っていた。
アルニは洗面台の鏡に顔を近づけた。襟元を引いてみたが、他人に見せて分かってもらえるようなものはなかった。首へ指を当て、すぐに離した。昨夜のことを確かめるための手つきまで、昨夜に似てしまうのが嫌だった。
居間ではヨウンが、リーナの靴を探していた。昨日片づけた場所には片方しかないという。アルニは椅子の下を覗き、布の犬のそばから見つけた。立ち上がった拍子に、視界の端が暗くなった。
「顔色が悪いぞ」
ヨウンは靴を受け取りながら言った。
「少し、変な夢を見た」
それが最初の説明になった。
ヨウンは出かける上着を脱ぎ、食卓へ座った。急いでいるはずなのに、時計を見なかった。アルニは、その親切のためにかえって話しにくくなった。
夜中に起きたこと。身体がうまく動かなかったこと。部屋に誰かがいると思ったこと。そこまで話すと、ヨウンは頷いた。アルニが言葉を探しているあいだも、口を挟まなかった。
「いや、誰かがいたというのは、違うかもしれない」
アルニは自分で言い直した。
そこに人間が立っていたのを、明かりをつけて確かめたわけではない。夢だと言えば説明しやすい。けれど、夢という言葉へ全部を押し込むと、言い残したものが胸につかえた。
エルサが子供を連れて出ていった。扉の向こうでリーナが何かを言い、母親が聞き返している。その声が遠くなってから、アルニは続きを話した。
全部ではなかった。最後に思い出しかけた言葉だけは、喉元まで来ても出せなかった。相手がどう受け取るか以前に、自分が口にすると、それが昨夜あったこととして固まってしまいそうだった。
ヨウンは、今夜は居間で寝てもいいと言った。自分たちの寝室と替わってもいいとも言った。アルニは、そこまでしなくていいと答えた。
「何かあったら起こせよ」
「子供まで起きるだろ」
「起きたら、また寝かせる」
ヨウンの言葉は簡単だった。それを聞くと、少しだけ呼吸が楽になった。
仕事へ出てから、アルニは休憩のたびに昨夜を思い返した。窓の明かり。身体の重さ。相手の輪郭。思い出すたび、はっきりする部分と失われる部分があった。確かな記憶なら、何度確かめても同じ形で残るものだと思っていた。
夕方、帰り道で一度立ち止まった。
家へ帰りたくない、と考えたのではなかった。ヨウンたちの家へ帰って、何事もない顔で靴を脱ぐ自分を、うまく思い描けなかった。朝、話をしたのだから、夕方には何かが変わっているような気がした。
けれど、扉を開けると、エルサが濡れたタオルを畳んでいた。リーナは床に腹這いになり、紙の端へ色を塗っていた。ヨウンはまだ帰っていなかった。
「おかえり。先に食べる?」
そう訊かれて、アルニは靴を脱いだ。
第四章 四枚の皿
エルサは朝の話を知っていた。
食事の支度をしながら、部屋を寒く感じるか、布団が重すぎるかと訊いてくれた。アルニはどちらも否定した。椅子を一つ部屋へ入れて、着替えや水を置けるようにしてはどうかという提案には頷いた。
使っていない折り畳み椅子があるらしかった。エルサが取りに行くあいだ、彼はリーナの紙を食卓からよけた。家が描いてあった。窓は紙の折り目に沿って並び、屋根の片側は画面からはみ出している。
誰の家かと訊くと、リーナは自分の家だと答えた。
アルニは、何人住んでいるのかと続けそうになり、やめた。子供の絵の中へ、自分が欲しい答えを探しに行くべきではなかった。
代わりに、屋根の色を褒めた。リーナは違う色の鉛筆を取り、さっき塗ったところへ重ね始めた。
折り畳み椅子は、アルニの部屋の入口ぎりぎりを通った。エルサと二人で向きを変え、窓の下へ置く。彼は本の上に置いていたコップを移した。本の表紙には、予想した通り、丸い跡が残っていた。
「ヨウンが大げさに言ったなら、気にしないで」
エルサはそう言った。
「何を?」
「夜のこと」
彼女は返事を待つ間、棚の扉へ目を留めた。直してくれた礼を言い、蝶番を一度動かした。扉は滑らかに閉まった。
アルニは、ヨウンがどんな言葉で妻に伝えたのか訊かなかった。自分でさえ説明できなかったものが、別の人の説明を経て戻ってくるのが怖かった。
その晩、彼は食卓の椅子を直すことにした。
脚が短いのではなく、接合部が緩んでいるようだった。床へ逆さに置くと、座面の裏に古い修理の跡があった。金具が一つだけ新しく、別の角には乾いた接着剤が盛り上がっている。
ヨウンは工具箱を出してくれた。エルサは、この椅子は捨てようと思いながら使い続けているのだと言った。
「座れるからね」
彼女の言う通りだった。音がするだけで、座れる。アルニも、最初の晩にそう思った。
ねじを締めても、ぐらつきは少し残った。彼は脚の下の封筒を抜き、床の平らな場所で確かめ直した。リーナが近づいてきて、逆さになった椅子の脚へ、布の犬を載せようとした。
「今は駄目」
アルニの声が、自分で思ったより強く出た。
リーナは手を引っ込めた。泣きはしなかった。けれど、犬を抱えたまま母親のところへ行った。エルサは娘の頭へ手を置き、アルニの方は見なかった。
彼は工具を握ったまま座っていた。危ないから止めた。それだけのことだった。そう言おうとして、言い訳を聞いてほしい自分に気づいた。子供はもう別の遊びを始めている。
椅子を戻し、座ってみた。以前より音は小さかった。
夕食のとき、アルニは子供の皿を先に運んだ。リーナは何も気にしていない様子で、彼へ匙を渡した。彼は受け取り、今度は落とさずに置いた。
食事が終わっても、誰も夜の話をしなかった。アルニはしばらく食卓に残った。自分の皿の周囲だけを拭き、次に卓上全体を拭いた。何か仕事をしていれば、まだ部屋へ戻らなくても不自然ではなかった。
第五章 部屋の下見
翌日、返事の来なかった物件の一つから連絡があった。
仕事を終えて見に行くと、階段の幅が狭く、上着の袖が壁に触れた。部屋の窓からは隣の建物が見えた。流し台の縁に欠けがあり、棚の内側には、前の住人が何かを剥がした跡が残っていた。
担当の男が設備の説明をするあいだ、アルニはベッドをどちら向きに置くか考えていた。窓の位置を忘れないようにしたかった。どこにいても、窓が左か右かくらい、目を閉じて分かるようになりたかった。
家具は少なかった。食卓も椅子も、自分で用意する必要がある。
彼は空いた床に立ち、何も載っていない窓枠へ手を置いた。よその家を見ているのに、急いで帰らなくていいことが不思議だった。
「すぐには決められませんか」
男に訊かれて、明日まで待ってもらった。
家へ戻ると、ヨウンが廊下の電球を替えていた。踏み台の上から片手を伸ばし、古いものをアルニへ渡す。アルニは何も考えずに受け取り、掌に残った温かさを感じた。新しい明かりがついて、壁の細かな傷まで見えた。
「どうだった」
部屋のことだった。
アルニは、悪くなかったと答えた。少し狭いが、通える距離だとも言った。ヨウンは踏み台を畳みながら、無理に決める必要はないと言った。
「ここを出なきゃって焦ってるなら、それは違うぞ」
「分かってる」
「本当に?」
アルニは頷いた。
友人は、言葉通りのことを言っている。それは分かった。居候が長引いたからといって、追い出すために遠回しな話をする男ではない。だからこそ、急いで決めたい理由を口にすると、その好意を拒むように聞こえそうだった。
夕食は少し遅くなった。リーナが眠そうにしていたので、エルサが先に連れていった。ヨウンは翌日の仕事の電話を受け、食卓にはアルニ一人が残った。
四枚の皿のうち、子供の皿には食べ残しがあった。エルサの皿にも、娘へ取り分ける途中で冷めたものが残っている。アルニは皿を重ねようとして、まだ食べるかもしれないと思い、手を止めた。
何を片づけてよいか、急に分からなくなった。
廊下で子供の声がした。母親が短く答える。アルニには言葉が聞き取れなかった。よその家庭の夜には、いつも、聞こえても自分には意味のない小さな会話があった。それでいいはずだった。
ヨウンが電話を終えて戻った。
「決めたか」
アルニは、明日連絡すると答えた。それから、昨夜ではなく、その前の夜について、もう少し話したいと言った。
ヨウンは椅子を引いた。修理した椅子が、床の上で小さく鳴った。アルニは気づいていたが、今度は脚の下へ手を伸ばさなかった。
「あのとき、最後まで話してなかった」
友人は頷いた。
「何かをされたことより、そのあとが……」
彼は口を閉じた。朝から何度も考えた言い方が、目の前に友人がいると使えなくなった。怖かった、と言うだけなら簡単だった。何が怖かったのかを伝えるには、あの言葉まで言わなければならなかった。
エルサが戻ってきた。子供は寝た、と言い、自分の皿へ手を伸ばした。冷めてしまった食事を前に、彼女は二人の様子を見た。
「夜の話?」
アルニは頷いた。
「あれが何を言ったか、覚えているんだ」
エルサの手が止まった。
「それなら、私にも聞かせて」
エルサは、怖がるどころか、答え合わせを待っているように見えた。
「家族を守っている、と言った」
エルサは息を吐いた。アルニの期待していた息の吐き方ではなかった。張りつめていたものが緩むように、肩が少し下がった。
「そう」
彼女はそれだけ言った。
アルニは、自分が言う順番を間違えたのだと思った。
あの夜、彼は首を圧迫される感覚で目を覚ました。誰かがいる。そう思い、夢とも現実ともつかないまま抵抗した。やがて力が抜け、相手も離れたように感じた。そのあと、言葉だけが残った。家族を守るためにいるのだ、と。
実際に何かを掴んだのかさえ、朝には確信できなかった。だが、怖かったことまで薄めて話したつもりはなかった。
彼は今、その一連のことを、できるだけ順序通りに言い直した。誰かがいると思っただけではない。息ができないと感じた。止めようとした。そのあとに、守っていると言われたのだ。
ヨウンは両手を食卓に置いていた。エルサは匙を皿へ戻した。
「分かるわ」
彼女は言った。
「でも、あなたを困らせるためにいるとは、思えないの」
アルニは、もう一度説明しようとした。けれど、同じ言葉しかなかった。彼女は聞き逃していない。聞いたうえで、彼とは違うところへ辿り着いている。
食卓の向こうに、子供用の椅子があった。空いた座面には、乾いたパンの欠片が一つ残っていた。
守っている家族。その言葉の中に、この家で暮らす自分が入っているのかどうか、アルニには分からなかった。
それを訊けば、ヨウンは入っていると言うだろう。エルサも頷くかもしれない。だが、二人が答えてくれることと、あの夜に感じたものがどう考えているかは、繋がらなかった。
「怖かったんだ」
結局、彼は最初から使えたはずの短い言葉を言った。
ヨウンが頷いた。エルサは、しばらく何も言わなかった。それから立ち上がり、湯を沸かし始めた。話が終わったからなのか、話し続けるためなのか、アルニには分からなかった。
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