序章 石壁の蝋燭

ポルトガルの首都リスボンから北へ向かい、テージョ川を越えてコインブラ、ポルトを過ぎると、イベリア半島西岸の風景は劇的にその相貌を変える。南部の平緩なコルク樫の丘陵地帯とは異なり、ミーニョ地方やトラス・オス・モンテス地方の山々は、太古の花崗岩が剥き出しになった険しい稜線と、濃密な松やユーカリの深林によって覆われている。大西洋から湿った風が絶え間なく吹き込み、谷あいの石造りの村々は一年の大半を乳白色の冷たい雨霧に浸している。

この地方の古い街道を車で走っていると、道路脇の石垣や三叉路の片隅に、奇妙な石造りの小構造物が埋め込まれているのを目にする。

アルミニャス(Alminhas)。ポルトガル語で「小さき魂たち」を意味するその祠は、カトリックの教理における煉獄(プルガトリオ)で炎に焼かれ、現世の生者からの祈りを待ち焦がれている死者の魂を慰霊するために建てられた民俗信仰の祈祷所である。花崗岩をくり抜いたアーチの中には頑丈な鉄格子が嵌められ、その奥には、業火の中で合掌し天を仰ぐ男女の姿を描いた古いアズレージョ(絵タイル)が据えられている。

格子には細い隙間が穿たれ、道行く人々が小銭を落とせるようになっている。

通り過ぎる汝らよ、苦難にある我らを思い出せよ。石の枠には、擦り切れたポルトガル語でそう刻まれていることが多い。

サッカークラブのサポーターフォーラムとして発足しながら、いつしかポルトガル全土の奇怪な噂話や実体験を拾い上げる巨大な言論空間となった、ある老舗の電子掲示板には、「心霊体験」と題された長寿スレッドが存在する。

数千件に及ぶ書き込みの中には、深夜の山道でアルミニャスの前を通った際に体験した、説明のつかない出来事についての証言が少なからず含まれている。

その多くは、夜中に祠の前に黒いショールを被った人物が跪いていたというものだ。しかし、車を停めて声をかけると誰もいない。あるいは、祠の中に灯るはずのない蝋燭が揺らめいていたという類の話である。

だが、二〇一九年の初冬、そのスレッドの片隅に、単なる見間違いや幻覚の域を遥かに越えた、詳細で不穏な手記が投じられたことがあった。投稿主はハンドルネームを名乗ることもなく、ただ自らがミーニョ地方の山道で経験した一夜の出来事を、一切の誇張を交えずに書き綴っていた。

第一章 雨霧の地方道

ジョアン・シルヴァがその古い県道を走っていたのは、まったくの偶然による選択だった。

リスボンで電気通信設備の設計技師として働く三十一歳のジョアンは、その週末、ポルト近郊の故郷で行われた母方の祖母の七回忌のミサに参列していた。法要後の親族との長い食事会を終え、彼が北部の小さな町を出発した時には、すでに日曜日の午後九時を回っていた。翌朝の午前九時にはリスボン中心部のオフィスでクライアントとの全体会議が控えており、彼はその日のうちに南へ三百キロ以上の距離を走り抜ける必要があった。

通常であれば、快適な有料高速道路であるA1号線を使うのが当然だった。しかし、ギマランイスの南で起きた多重追突事故によって高速道路の本線が封鎖され、迂回を余儀なくされた。ナビゲーションの画面は、山間部の二次地方道を抜けて南の幹線道路へと合流するルートを示していた。

ジョアンの愛車である十年来のフォルクスワーゲン・ゴルフは、雨に濡れた狭いアスファルトの上を慎重に進んでいた。

ワイパーが規則正しくフロントガラスの水を払う。パパッ、パパッというゴムの摩擦音だけが、静まり返った車内に響いていた。

窓の外は、完全な墨色だった。街灯など一本もなく、両側から鬱蒼とした松と巨大な花崗岩の巨石が迫り、車のヘッドライトが切り拓くわずかな光の扇の中に、白く立ち込める霧が煙のように渦巻いていた。

標高が上がるにつれ、気温は急激に低下していった。車載のデジタル温度計は摂氏四度を示していた。ヒーターのファンを回していたが、窓ガラスの縁は内側から白く結露し、ジョアンは時折、手のひらでそれを拭わなければならなかった。

時刻は午前零時を過ぎ、日付が変わっていた。カーブが連続する下り坂に入った時、前方の視界を塞いでいた霧の塊が、ほんの一瞬だけ風に裂かれた。

道の左手、山肌を削って築かれた古い花崗岩の擁壁の中に、小さな窪みが見えた。ヘッドライトの白い光が、濡れた石のアーチを鋭く照らし出した。

アルミニャスだった。

ジョアンも北部出身の人間である以上、それが何であるかは子供の頃から知っていた。かつて祖母に手を引かれて歩いた村の小道にも、同じような石の祠があった。祖母は祠の前を通るたびに必ず立ち止まり、額と胸の前で十字を切って、小さな青銅の硬貨を鉄格子の隙間から落としていたものだった。

「苦しんでいる魂たちを通り過ぎてはならないよ」と、祖母はいつも言っていた。

だが、この真夜中の山道にある祠は、異様だった。

鉄格子の奥に、赤黒い光が灯っていたのだ。赤いガラスの覆いがついた、太い墓参用のキャンドル。その芯から伸びる小さな炎が、風もないのに細かく震え、炎に包まれる魂たちを描いたタイルの絵を歪に浮かび上がらせていた。

そして、その祠の真ん前に、誰かがいた。

ジョアンは息を呑み、無意識にブレーキペダルを踏んだ。タイヤが濡れた落ち葉を踏んで滑り、ABSの微小な振動が右足の裏に伝わった。

黒い服を着た人影だった。頭からすっぽりと黒い分厚い布を被り、泥だらけの路肩に両膝をついて、祠に向かって深く腰を屈めていた。手には何も持っておらず、ただ額を地面に擦り付けるような姿勢で、微動だにしない。

(こんな時間に、こんな場所で?)

周囲には人家の一軒も見当たらなかった。最寄りの集落からは少なくとも数キロは離れているはずだった。傘も差さず、雨合羽も着ていない。

冷たい霧雨が降り注ぐ中、濡れ鼠になった黒い布地が、ヘッドライトの光を吸い込んで重たく沈んでいた。

車を停めて声をかけるべきか、とジョアンの脳裏を一瞬の迷いがよぎった。事故の遭難者か、あるいは認知症を患って徘徊している老人かもしれない。しかし、徐行しながらその人影の真横を通り過ぎる瞬間、ジョアンの全身の毛穴が粟立った。

人影の足元、めくれ上がった黒いスカートの裾から覗いていたのは、靴ではなかった。泥にまみれた皮膚は、青白さを通り越して、川底の石のように鈍い灰色に変色していた。そして、その両足の指先は、人間のように前を向いているのではなく、関節が完全に裏返り、不自然な角度で外側へと折れ曲がっていた。

ジョアンは背筋に氷を突き立てられたような戦慄を覚えた。アクセルを踏み込んだ。前も見ずに、ただ一刻も早くその場所を離れたい一心でハンドルを握り締めた。

ゴルフのエンジンが唸りを上げ、濡れたアスファルトを蹴った。バックミラーを見ようとしたが、鏡の中には自分の青ざめた顔と、遠ざかっていく赤い蝋燭の微小な点しか映っていなかった。黒い人影は、ミラーの死角に消えていた。

第二章 小石の衝突音

あの異様な光景を目にしてから、五分ほど走った時のことだった。道路の傾斜がさらに急になり、谷底を渡る小さな石橋を渡ろうとした瞬間、甲高い金属音が車内に響き渡った。

キンッ。

小石を跳ね上げたような鋭利な音だった。それは床下からではなく、右側の助手席の窓ガラスに直接何かがぶつかったような音だった。続いて、ダッシュボードの警告灯が一斉に赤く点滅した。

ピーッ、という電子ブザーが鳴り響く。水温計の針が瞬く間にレッドゾーンの限界まで振り切れ、エンジンルームからバタバタという不穏な異音が立ち上り始めた。

「くそっ、頼むから動いてくれ」

ジョアンはステアリングを叩いた。だが、アクセルペダルを踏み込んでもエンジンの回転数は上がらず、車体は目に見えて減速していった。パワーステアリングが重くなり、ブレーキを踏むと車輪が重い鉄の塊のように軋んだ。

完全にオーバーヒートだった。冷却水のパイプが破裂したのか、あるいは先ほどの小石がラジエーターのフィンを直撃したのか。車輪が惰性で数メートル進んだ後、ゴルフは路肩のわずかな空き地に鼻先を突っ込むようにして停止した。

エンジンキーを回して切ると、それまで車内を満たしていた機械の振動が一瞬にして失われた。訪れたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。

屋根を叩く雨粒の音すらしない。いつの間にか雨は止んでおり、代わりに窓の外を、濃密な白い霧が音もなく舐めるように流れていた。

ジョアンはスマートフォンの画面をタップした。画面の左上には、絶望的な文字が浮かんでいた。圏外。アンテナのバーは一本も立っていなかった。

深い溜息を吐きながら、ジョアンは車載の工具箱と懐中電灯を取り出した。ボンネットを開けて確認するしかなかった。冷却水が冷めるのを待って水を補充できれば、次の集落まで自走できるかもしれない。

ドアを開けると、身を切るような冷気が車内に流れ込んできた。山の空気は澄んでいるはずだった。しかし、その夜の大気には、奇妙な異臭が混ざり合っていた。

消えた蝋燭の芯から立ち上る煤の匂い。そして、古い教会堂の地下納骨堂に漂っているような、湿った石灰と腐植土の冷たい匂いだった。

懐中電灯のスイッチを入れ、細い光条で路面を照らしながら、ジョアンは車の前方に回った。ボンネットのロックを解除しようと手を伸ばした時、彼の足先が、舗装の端に転がっていた硬い何かに当たった。

カラン、と乾いた金属音が静寂の中に響いた。

ジョアンは立ち止まり、懐中電灯の光を足元へ落とした。アスファルトと泥の境界線の上に、直径三センチほどの、黒ずんだ円形の金属片が落ちていた。

泥を拭い、拾い上げる。それは小石ではなかった。信じられないほど冷たく、指先が凍りつきそうなほど重みのある金属の塊だった。

硬貨だった。だが、現在使われているユーロ硬貨ではない。懐中電灯の光の下で泥を擦り落とすと、浮き彫りにされたポルトガルの国章と、かすれかけた文字が浮かび上がった。

二十エスクード。一九八〇年代に発行され、ユーロ導入とともに市場から姿を消した、真鍮と白銅の古いポルトガル通貨だった。

なぜ、こんな山奥の道路の真ん中に、数十年前の硬貨が落ちているのか。ジョアンはその硬貨を指先で弄びながら、先ほどの金属音を思い出した。走行中の車の窓にぶつかったのは、この硬貨だったのではないか。

その時、祖母が生前に語っていた言葉が、冷たい水のようにジョアンの脳裏に蘇った。

アルミニャスのお金を拾ってはいけないよ。あれは、死んだ人たちが神様に罪を許してもらうための身代金なんだから。もしあれを持ち去ったらね、その魂が背負っていた苦しみを、お前が代わりに背負うことになるんだよ。

ジョアンの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。彼は硬貨をその場に投げ捨てようとした。

だが、指が動かなかった。

まるで金属が皮膚に凍りついて癒着してしまったかのように、親指と人差し指が硬直していた。硬貨の表面から、じわじわと刺すような冷気が血管を通って手首へ、肘へと這い上がってくる。

そして、背後の霧の中から、音が聞こえてきた。

第三章 冷たい座席

ペタ、ペタ。

濡れた素足が、アスファルトを踏みしめる音だった。規則正しく、ゆっくりとした足取り。その音は、ジョアンが車を走らせてきた方角、あのアルミニャスがあった坂道の上から、確実にこちらへ向かって近づいてきていた。

ジョアンは硬貨を無意識にジーンズのポケットへと押し込み、懐中電灯の光を背後の暗闇へと向けた。

光の帯が、白い霧の粒子を乱反射させるだけで、十メートル先には何も見えなかった。だが、音は止まらなかった。

ペタ、ペタ、ペタ。

足音の間隔が狭まり、小走りのようなリズムへと変わっていく。それだけではなかった。足音の背後から、低くくぐもった、無数の人間の声が重なり合って聞こえ始めた。

ぶつぶつと呪文を唱えるような、速くて抑揚のない祈祷の声。主の祈り。アヴェ・マリア。幾重にも重なり合う男女の声は、どれも喉が裂け、息が擦れ切れたような乾いた雑音だった。

「誰だ!」

ジョアンは叫んだ。自分の声が、霧に吸い込まれて弱々しく響いた。

返事はなかった。ただ、足音が、霧の切れ目から急速に迫ってきた。

ジョアンはボンネットを閉める間もなく、運転席のドアへと飛び込んだ。ドアを引き寄せ、力任せに閉める。すべてのドアロックを押し下げた。

車内に入っても、あの異臭は消えなかった。それどころか、密閉された車内の中で、煤と腐食した蝋の匂いは一層濃密になっていた。

キーを回す。キュルキュルキュル、とスターターモーターが空しく回転するだけで、エンジンは火を噴かなかった。

「頼む、かかってくれ! 頼む!」

ジョアンは祈るように呟きながら、何度もキーを捻った。キュルルル……ガタッ。不吉な金属音とともに、セルモーターの回転が止まった。バッテリーの電圧計の針が急激に落ちていく。

その時、ダッシュボードの中央にあるカーラジオが、電源を入れてもいないのに突然青く発光した。

ザザッ……ザザザッ……。

激しいホワイトノイズがスピーカーから吹き荒れた。ボリュームのつまみは最小の位置にあった。それにもかかわらず、ノイズの音量はどんどん上がり、車内の空気をビリビリと振動させ始めた。

ノイズの底から、あの声が聞こえてきた。

『……聖なるマリア、神の御母よ……』

ノイズに混じって、老婆のような掠れた声が響く。

『……罪人なる我らのために……今も、死を迎える時も……』

声は一つではなかった。若い男の声、幼い子供の泣き声のような声が、次々とラジオのスピーカーから噴き出してくる。

『……祈りたまえ……』『……熱い……』『……ここから……出しておくれ……』

「やめろ!」

ジョアンはラジオの電源ボタンを狂ったように連打したが、青い液晶画面は消えず、不規則な周波数の数字が目まぐるしく回転し続けていた。

恐怖のあまり、ジョアンの呼吸は荒く乱れ、車内のフロントガラスが彼の吐息で急速に白く曇っていった。彼は震える手でガラスの結露を拭おうとした。

その瞬間、助手席のシートが、ギシ、と軋んだ。

何かが、そこに腰を下ろしたような重みだった。

ジョアンの全身の血液が、一瞬にして凝固した。首を右に向けることができなかった。視界の端で、助手席の暗がりに、黒い輪郭が沈み込んでいるのがはっきりと分かった。

凍りつくような冷気が、助手席の側から波のように押し寄せてくる。エアコンの吹き出し口からではない。助手席に座っている「何か」そのものが、氷点下の冷気を放っていた。

耳元で、カチリ、と小さな音がした。

助手席のシートベルトの金具が、目に見えない力で引き出され、カチリとバックルに差し込まれた音だった。

ジョアンの喉から、声にならない呻きが漏れた。彼は恐る恐る、右側へと視線を動かした。

助手席のシートの上に座っていたのは、人間のかたちをした闇の塊だった。

黒い毛織物のショールが深く被せられ、その奥にあるはずの顔面には、目も鼻も口も存在していなかった。ただ、古びたタイルの表面のように細かくひび割れた、灰色の乾いた皮膚だけがのっぺりと広がっていた。

そして、その顔面の中央、本来なら口があるはずの場所の皮膚が、メリメリと音を立てて裂けた。

裂け目の奥から、赤黒い炎のような光が漏れ出していた。それは、あのアルミニャスの祠の中で揺らめいていた、墓参用キャンドルの炎そのものだった。

ヒュウ、と空気が吸い込まれる音がした。裂けた口から、焦げた骨の粉末のような煙が細く吐き出され、車内の空気をさらに濁らせていく。

『……返しておくれ……』

その声は、ラジオのスピーカーからではなく、ジョアンの右耳のすぐ真横、数センチの距離から直接囁きかけられていた。

『……それは……私の……解放のための……銀貨だ……』

ジョアンのジーンズの右ポケットが、信じられないほどの熱を帯び始めた。先ほどまで氷のように冷たかったあの二十エスクード硬貨が、まるで真っ赤に熱した鉄の塊のように皮膚を焼き始めたのだ。

「あづっ……!」

ジョアンは悲鳴を上げ、ポケットに手を突っ込んだ。指先が火傷しそうなほどの激痛が走る。硬貨を引っ張り出そうとするが、金属が布地と皮膚に焼き付いたように張り付いて離れない。

助手席の黒い人影が、ゆっくりと腕を持ち上げた。ショールの裾から伸びてきたのは、皮膚が焼け爛れ、指骨が剥き出しになった右腕だった。その細く尖った人差し指が、ジョアンの胸元へと真っ直ぐに向けられた。

『……お前が……代わりに……祈るのか……』

窓の外の闇が、ざわめき始めた。

フロントガラスの向こう、霧の白壁を押し破るようにして、無数の人影が姿を現していた。十人、二十人ではない。道を埋め尽くすほどの黒い群衆が、車を取り囲むようにして立ち並んでいた。

彼らは全員、古い時代の農民が着るような粗末な服を纏い、手には何も持たず、ただ首を奇妙な角度に傾けて立ち尽くしていた。彼らの胸元には、例外なく小さな四角い穴が穿たれており、その穴の奥で、小さな赤い炎がチラチラと燃え盛っていた。

魂の行列(プロシサォン・ダス・アルマス)。

ミーニョの山奥で語り継がれる、煉獄の苦難から逃れる術を失った死者たちの群れだった。彼らは一歩一歩、音もなく車へと歩み寄ってきた。フロントガラスに、サイドウィンドウに、リヤガラスに。

無数の青白い手のひらが、ペタペタと車体の外側から押し当てられていく。

第四章 未了の祈願

ガラスが軋む音が、四方から響いた。ピキ、ピキッ、と細かい亀裂が走るような音が混ざる。彼らが車を破壊しようとしているのか、それとも中に入ろうとしているのか、ジョアンには判断がつかなかった。

ただ、助手席の影が放つ熱と冷気の狭間で、彼の意識は急速に朦朧とし始めていた。

『……払え……約束を……』

助手席の裂けた口が、激しく煙を吐き出しながら震えていた。

『……サン・ベントの丘まで……歩くはずだった……私の代わりに……祈りを……』

サン・ベント。ジョアンの頭の奥で、断片的な記憶が結びついた。ポルトガル北部において、サン・ベント・ダ・ポルタ・アベルタ(開かれた扉の聖ベネディクト)は、病気の治癒や奇跡を求めて巡礼者が集まる最も有名な聖地の一つだった。

多くの信者が、重い病に倒れた時、回復を願って聖ベネディクトに「巡礼の誓願(プロメッサ)」を立てる。治癒した暁には、生石灰の粉を撒いた巡礼路を裸足で歩き、蝋燭と喜捨を捧げるという誓いだ。

だが、もし誓願を立てた本人が、それを果たさずに死んでしまったらどうなるのか。果たされなかった約束は、魂を煉獄の底に縛り付ける鎖となる。祠に捧げられた施し銭は、遺族や通りがかりの巡礼者が、死者に代わって祈りを捧げてくれることを願って置かれた、魂の最後の叫びなのだ。

あの硬貨は、この女が死ぬ前に遺した、あるいは誰かが彼女のために供えた、未完の誓願の証だったのだ。

ジョアンはポケットの硬貨を、皮膚が剥がれる激痛に耐えながら、指先で無理やり引き剥がした。彼の指には、円形の酷い水ぶくれと火傷の痕が焼き付いていた。

掌の上に転がり出た二十エスクード硬貨は、赤黒く変色し、まるで小さな炭のように煙を上げていた。

「わかった!」

ジョアンは割れそうな頭を抱え、絶叫した。車内を揺るがす自分の声が、スピーカーのノイズを突き破った。

「私が果たす! 私がサン・ベントへ行く! あなたの名前で祈祷を捧げる! だから……だから離れてくれ!」

その叫びが車内に響き渡った瞬間。

ピタリと、すべての音が止まった。

ラジオのスピーカーから噴き出していた暴風のようなノイズが、プツンと途絶えた。フロントガラスを叩いていた無数の手のひらが、影のように掻き消えた。

ジョアンは息を呑み、助手席を見た。

そこには、誰もいなかった。シートベルトは引き出されたまま、空っぽの座席の上に斜めに垂れ下がっていた。座面の上には、白く細かい灰のような粉末が、手のひら一つ分ほど残されているだけだった。

車外の霧が、潮が引くように急速に薄れていくのが見えた。フロントガラス越しに、冷たい夜空に浮かぶ欠けた月が、青白い光を路面へと投げかけていた。

カチリ。ダッシュボードの中で、リレーの作動する乾いた音がした。メーターパネルの照明が正常なアンバー色に点灯し、水温計の針が中央の正常位置へとスルスルと戻っていった。

ジョアンは震える指でキーを捻った。ブルン、と軽やかな排気音を立てて、ゴルフのエンジンが一発で始動した。

ダッシュボードの時計は、午前二時四十五分を示していた。停止してから、わずか十分足らずしか経っていなかった。しかしジョアンにとっては、何時間もの暗黒の中に閉じ込められていたような疲労感が、全身の筋肉を重く押し潰していた。

ジョアンはギアをローに入れ、アクセルを静かに踏んだ。車は滑らかに動き出し、石橋を越えて坂道を登っていった。バックミラーには、もはや何も映っていなかった。

ただ、濡れたアスファルトが月の光を鈍く反射して、一本の銀色の帯のように闇の奥へと続いていた。

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