序章 黄浦江の夕立

二〇一七年九月十五日の午後五時を回った頃、上海の空は前触れもなく昼の光を失った。

浦西の古い街並みから黄浦江を挟んで東を望むと、対岸の陸家嘴にそびえ立つ超高層ビル群の足元から、急速に鉛色の濃い霧が湧き上がっていた。湿度は九十パーセントを超え、生温かい川風がアスファルトの熱気を巻き上げて人々の肌にまとわりついていた。

地上六百三十二メートルの上海中心大厦、その隣に並ぶ上海環球金融中心と金茂大厦——いわゆる「陸家嘴の三件套」と呼ばれる巨塔たちの頂部は、あっという間に垂れ込めた漆黒の積乱雲に呑み込まれ、姿を消した。

やがて、雨が落ちてきた。

熱帯のスコールを思わせる大粒の雨滴が、オフィス街を行き交う無数の傘を叩き、道路を瞬く間に茶色い川へと変えていく。

地下鉄二号線の陸家嘴駅の出入口には、足止めを食らった会社員たちが幾重にも群がっていた。誰もがスマートフォンを掲げ、ビルの谷間に落ちる紫色の稲妻を撮影しようとしていた。

その直後だった。

東方明珠電視塔の巨大な球体の斜め上空、およそ四百メートルから五百メートルほどの濃密な雲の切れ間に、異様なものが現れた。

ビルから漏れる明かりと、雲間を走る連続した放電の光の中に、直立した黒い影が浮かんでいた。

鳥でも、風に飛ばされた工事用のシートでもなかった。

それは四肢を持った人間の輪郭を保ちながら、猛烈な突風の吹き荒れる中空に、糸で吊るされたかのように完全な静止を保っていた。

ピシッ、という大気を引き裂く乾いた炸裂音が響いたかと思うと、一本の青白い雷光が天頂から垂直に落ち、その浮遊する影の頭頂部を直撃した。

影は消えなかった。

それどころか、雷撃を受けるたびに、その輪郭は周囲の空間を巻き込むように大きく歪み、まるで水中に落とした墨のように膨張と収縮を繰り返した。地上からは、それが苦悶に身をよじっているようにも、あるいは自ら進んで天からの打撃を受け止めているようにも見えた。

目撃した者の多くは、ほんの十数秒の出来事だったと言う。

最後の一際激しい閃光が黄浦江の水面を白く染め抜いた瞬間、影は弾け飛ぶように掻き消え、あとには低く轟く重い雷鳴だけが残された。

その夜、中国のソーシャルメディアに、地上から撮影されたという十秒足らずの手振れ動画が一斉に出回った。

画面には、嵐の空に浮かぶ影と、直撃する雷光が不鮮明に記録されていた。

「陸家嘴で誰かが渡劫している」

生き物が長い修行を経て天へと昇る際、天罰としての雷撃を耐え抜かねばならないとされる試練——「天劫を渡る(渡劫)」という仙侠小説でおなじみの言葉が、瞬く間に検索ランキングの上位へ駆け上がった。

その夜のうちに、地元メディアと上海警察の公式アカウントが説明を出した。拡散された動画は、あるスマートフォン向けゲームの創作広告から、後半のゲーム画面を切り落としたものだという。人々の関心は、日々の目まぐるしい都市の喧騒の中へとたちまち埋没していった。

だが、噂はそこで終わらなかった。

あの影の男の名は王逸。東北の長白山で千年を修行した大蛇の化身で、上海に潜み、陸家嘴の摩天楼を盾にして雷劫を越えようとしたのだ——そんな尾ひれのついた話が、それから何年にもわたって、ネットの片隅で繰り返し語られることになった。

そして、あの夕暮れ、黄浦江のほとりで直接その光を目撃したと語る者たちの胸の奥には、広告の切り抜きという説明では拭い去ることのできない、奇妙なしこりが残されていた。

空気が焦げたような強烈なオゾンの匂い。

雷が落ちる瞬間に足の裏から突き抜けていった、心臓を直接握り潰されるような重低音の振動。

そして何より、あの嵐の空に漂っていた、ある種の圧倒的な哀切と尊厳の気配。

あれから数年が過ぎ、私はある奇妙な縁から、その「王逸」という男が上海で暮らしていたとされる痕跡を辿ることになった。

それは仙侠小説のような派手な神話ではなく、急速に変貌を遂げる巨大都市の片隅で、ただひっそりと人間として生き、そして自らの宿命と対峙しようとしていた、ある孤独な魂の静かな記憶だった。

第一章 亭子間の冷たい部屋

黄浦区の、豫園からほど近い一角に、古い石庫門の弄堂が肩を寄せ合う路地があった。

赤煉瓦と灰色の石材を組み合わせた「石庫門」と呼ばれる伝統的な集合住宅が密集し、狭い路地の上には洗濯竿が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。

二〇一九年の暮れ、再開発に伴う立ち退き作業が進むその一画で、私は長年この弄堂で居民委員会の世話役を務めてきた趙という六十代の男性から話を聞く機会を得た。

「王逸という名前を聞いても、最初はピンとこなかったんだ」

趙氏は、引っ越し用の段ボール箱が積み上がった薄暗い板の間で、ぬるくなった緑茶をすすりながら述懐した。

「わしらはあの青年を『小王』とだけ呼んでいたからな。あの二〇一七年の騒ぎのあと、派出所の人間がわざわざ訪ねてきて、二階の亭子間を間借りしていた青年のフルネームが王逸だと知らされた。ただの形式的な確認だと言っていたが、目の色が普通じゃなかった」

趙氏によれば、王逸がその石庫門の亭子間——台所の上、階段の踊り場脇に設けられた北向きの小部屋——に越してきたのは、二〇一五年の三月、ちょうど冬の寒さが抜けきらない啓蟄の頃だったという。

紹介したのは、東北地方との乾物取引を手がけていた古い知人だった。

「身元は確かだ、静かで手のかからない男だから部屋を貸してやってくれ」と言われ、趙氏は四畳半ほどの狭い部屋をあてがった。

現れた青年は、二十代半ばに見えた。

背が高く、痩せ型で、いつも仕立ての良い、だがひどく時代遅れの薄灰色のウールコートを着ていた。顔立ちは端正だったが、皮膚が異様なほど白く、血色がなかった。

「何より印象に残っているのは、彼の冷たさだ」

趙氏は自分の前腕をさすりながら言った。

「敷金をやり取りするとき、指先が触れたんだ。まるで冷凍庫から出したばかりの保冷剤に触れたみたいに、骨の髄まで冷え切っていた。風邪でも引いているのかと聞いたら、生まれつき体温が低い体質なんです、と掠れた声で笑っていた」

王逸の暮らしぶりは極めて質素で、周囲の住人たちの目にはどこか奇妙に映った。

彼は近所の青果市場で、決まって同じものばかりを買っていた。白菜、大根、豆腐、そして大量の鶏卵。豚肉や牛肉、魚介類には一切手を伸ばさず、肉屋の前を通るときは決まって足早に鼻を覆っていた。

唯一の贅沢といえば、市場の片隅で売られている産みたての鶏卵を、生のまま飲むことくらいだった。

「冬になると、彼は部屋からほとんど出てこなくなった」

趙氏の妻も、当時の記憶を鮮明に覚えていた。

「石庫門の冬は底冷えがするけれど、彼はエアコンを最高温度の三十度に設定して、部屋の中に一日中閉じこもっていた。食事も摂らず、ただ布団の中で丸くなっているようだった。最初は重い病気でも患っているのかと心配して、生姜湯を持って上がったことがあるの。

そうしたら彼、部屋の隅の薄暗いところで毛布にくるまりながら、じっと動かずに天井を見つめていた。その瞳がね、猫みたいに光を反射していて、思わず息を呑んだわ」

だが、王逸は決して不気味なだけの存在ではなかった。

近所の老人たちが重いプロパンガスのボンベを階段の上まで運ぶのに苦労していれば、どこからともなく現れて、音もなく片手でそれを持ち上げて運んでくれた。壊れた水道管の修理や雨漏りの補修など、水回りの手入れに関しては驚くほど手先が器用で、しかも一切の礼を受け取ろうとしなかった。

近所の子供たちが路地で遊んでいると、紙を器用に折って蛇や鳥の形を作り、黙って手渡すこともあった。

彼は夜になると、弄堂の共同の水場の前に佇んでいることが多かった。

蛇口からぽたぽたと落ちる冷たい水滴を、何時間も飽くことなく掌で受け止め、指の間を滑り落ちる感触を確かめていた。

「一度だけ、理由を聞いたことがあるんだ」

趙氏は懐かしむように目を細めた。

「『水が好きなのか』ってね。彼は少しだけ悲しそうな顔をして答えたよ。『水の中にいるときだけが、自分が重さから解放されていた時間だったんです。

陸の上は、重すぎる。空気が皮膚を擦るだけで、痛くてたまらない』……詩人のようなことを言う男だと思ったが、今にして思えば、あれは比喩なんかじゃなかったのかもしれない」

王逸の部屋の机の上には、常に数冊の気象学の専門書と、電気工学、とりわけ高圧送電や避雷設備に関する分厚い技術書が積み重ねられていた。

そして年に二回、春先と秋の深まる頃、彼は郵便局へ足を運び、吉林省延辺の山間の村へ宛てて、送金と防寒具の小包を送り続けていた。

差出人の欄には、ただ流麗な筆跡で「王」とだけ記されていた。

第二章 地上五百メートルの風

王逸が上海に現れた目的は、単に都会の喧騒に隠れ住むことだけではなかった。

彼の足跡は、黄浦江を渡った対岸、世界有数の超高層ビルがひしめく陸家嘴の心臓部にも残されていた。

二〇二一年の秋、私は陸家嘴のある超高層ビルで長く設備管理に携わっていた元技術者の何氏と接触することができた。定年退職を迎えていた何氏は、当初は守秘義務を理由に口を閉ざしていたが、二〇一七年のあの夕方のことを尋ねると、勤め先の名を伏せることを条件に、重い口を開いた。

「陸家嘴の超高層ビル群は、言ってみれば巨大な避雷針の集合体です」

何氏はノートパソコンの画面に、建物の断面図を表示させながら説明した。

「高さが数百メートルにもなる建物には、年に何度も雷が落ちます。電流は数万アンペア、大きなものでは十万アンペアを超えることもある。それを安全に地面へ逃がすため、建物の頂部には避雷設備が設けられ、外壁を支える鉄骨の骨組みそのものが巨大な導電路として働く。

そして地中深くの接地極から、雷電流は一瞬で大地へと拡散されていく」

何氏によれば、二〇一六年の夏頃から、陸家嘴周辺のビルの設備管理の現場に、外部の清掃業者や設備点検の下請けとして時折出入りする、一人の奇妙な作業員がいたという。

それが王逸だった。

高所恐怖症の者なら足を踏み入れることすらできない、地上数百メートルの外壁のゴンドラ作業や、暴風が吹き荒れる屋上の点検通路での作業を、彼は常に平然とした顔で引き受けた。命綱を装着してはいたが、その身のこなしは足場に吸い付くように滑らかで、どれほど突風が吹き荒れても体幹が微動だにしなかった。

「彼はよく、屋上の避雷設備の接地抵抗の測定値を気にしていた」

何氏は眉をひそめた。

「普通の下請け作業員が気にするような数値じゃない。接地抵抗が何オームか、落雷のとき電位がどれくらいの速さで下がるか、建物の角でどんなコロナ放電が起きるか……専門の電気技術者ですら即答できないような質問を、静かな口調で投げかけてきた。まるで、空から落ちてくる雷を、どこで、どのように受け止めるべきかを精密に計算しているかのようだった」

中国の古い伝承において、蛇が長い年月を経て「蛟」へと化すとき、山を下り、増水した川に乗って海を目指す「走蛟」が起きるとされる。

その旅路は暴風雨と洪水を伴い、天はその不遜な変化を阻むために、容赦のない雷火を浴びせる。これが雷劫である。山野で雷を浴びれば、巨木は裂け、身を隠す場所のない生き物は黒焦げになって命を落とす。

生き残る見込みは万に一つもないと言われていた。

「もし、あの古い言い伝えが本当だとしたら」

何氏は声を落とした。

「あいつは、自然の山の中で雷を受けるのを諦めたんじゃないか。人間が建てた、この地上で最も念入りに作られた避雷の仕組み——何万アンペアもの雷を吸い込み、大地へと逃がす鋼鉄とコンクリートの巨塔を、自分の盾として使おうとしたんじゃないだろうか」

陸家嘴の三件套が形成する巨大な電界の歪み。

三本の超高層ビルが天に向かって尖頭を突き出すとき、その周囲は、雷を引き寄せる巨大な避雷空間となる。

千年の年月を生き延びた異形の知性は、人間の技術が作り上げたその不可視の防護網に、己の生死を賭けた活路を見出していたのかもしれない。

二〇一七年に入ると、王逸の行動には明らかな焦りの色が混じり始めた。

彼は天気図の気圧配置を食い入るように見つめ、東シナ海を北上する台風の進路を追い続けていた。

そして九月十五日、南から流れ込む湿った空気と、北からの冷たい空気が、上海の上空でぶつかり合った。

百年に一度の、完璧な嵐の舞台が整ったのだ。

第三章 九月十五日の雷劫

その日の午後四時半、何氏は勤め先のビルの最上部に近い機械階で、気象レーダーと避雷設備の監視モニターの前に座っていた。

気圧計の数字が目に見える速さで下がり、ビルの揺れを抑える制振装置の巨大な錘が、唸りを上げてゆっくりと動き始めていた。

外は漆黒の闇だった。

雲の底が展望台の高さまで垂れ下がり、ガラス窓の外は濃密な霧と横殴りの雨に覆い尽くされていた。窓枠の金属部分が、青白く淡く発光しているのが見えた。セントエルモの火だった。

一方、地上では、傘を差した趙氏が、浦東側の東昌路の渡船場へと続く歩道に立っていた。

浦東での用事を終え、対岸の金陵東路へ渡るフェリーに乗ろうとしていたところで、不意に強烈な胸騒ぎを覚えたのだという。

空を見上げると、陸家嘴のビル群の合間、雲の裂け目から、異様な光が漏れ出していた。夕焼けの赤ではない。水銀灯を割ったような、冷たく鋭利な青紫色の燐光だった。

午後五時十分。

何氏のビルの屋上に、第一撃が落ちた。

ドォン、という爆発音が躯体全体を伝わり、機械室のモニターが一瞬ブラックアウトした。

記録計には、六万アンペアという値が残っていた。

だが、それは序曲に過ぎなかった。

二撃、三撃、四撃。

ひとつの雷雨で、同じ建物に数分おきに雷が落ち続けることは、まずない。しかしその時、天からの落雷は、まるで一本の太い光の杭となって、陸家嘴の中心へと休むことなく叩きつけられ続けた。

雷鳴はもはや個別の音として聞き分けられず、巨大な機関銃が連続発射されているかのような、耳を劈く轟音の壁となって大気を震わせていた。

何氏は監視カメラの映像を切り替えた。

東方明珠の尖塔と周囲の超高層ビルの間、高空四百五十メートル付近を映していたカメラが、ノイズまみれの画面の中に、信じがたいものを捉えていた。

暴風雨の渦巻く虚空に、何かがいた。

それは最初、人間の形をしていた。

灰色のウールコートはすでに吹き飛び、白く輝く皮膚を露わにした細身の男が、空中に直立していた。

しかし、上空から落ちる青白い雷撃がその頭頂を貫くたびに、その輪郭が激しく震え、引き裂かれ、内側から全く別の骨格が露わになっていった。

人間の腕に見えたものは、節を失って滑らかな曲線を描き、背骨は異常な長さへと伸びていく。

皮膚の表面に、無数の菱形の文様が青白く浮かび上がった。

それは光を反射する金属の板のように硬く、雷の直撃を受けるたびに激しい火花を散らして、周囲の空気を焼き焦がしていた。

地上にいた趙氏は、息を止めて立ち尽くしていた。

周囲の通行人たちも足を止め、悲鳴を上げることすら忘れて空を見上げていた。

雲の中に浮かび上がったのは、巨大な、純白のうねりだった。

ビルの輪郭と比べても、その長さは数十メートル、あるいは百メートル近くに達しているように見えた。

それはビルの避雷設備が導く雷の通り道に沿うように、空中に巨大な螺旋を描きながら、天に向かって鎌首をもたげていた。

天からの光が、白銀の鱗を容赦なく打ち据える。

鱗が弾け飛び、火の粉のような飛沫が雨の中に散っていくのが見えた。

その存在は、逃げようとはしていなかった。

尾を激しくくねらせ、空気を鞭打つように旋回しながら、自ら光の柱の渦中へと飛び込んでいた。

それは破壊を求める悪鬼の姿ではなかった。

ただ自らの運命の軛を断ち切り、より高い次元の生命へと変わろうとする、極限の闘争だった。

五回目の落雷の瞬間だった。

何氏の目の前で、外壁を走る接地導体の継ぎ目から、青いアークが噴き出した。

設計の想定をはるかに超える電流が、鋼鉄の塔を駆け下りていた。

次の雷撃は、ビルには落ちなかった。まっすぐに、その巨体の眉間へと突き刺さった。

空間が白濁した。

世界中のすべての音が吸い取られたような、絶対的な静寂が一瞬だけ訪れた。

そして直後、天が裂けるような絶叫が、人の声とも獣の咆哮ともつかぬ重低音となって、上海の街全体を揺るがした。

その白銀の巨体は、最後の雷光を全身に受け止めながら、空中で激しく身を捩った。

胴体の中央から、まるで眩い太陽のような黄金色の光の球がせり上がり、喉元を通り、口元から虚空へと吐き出された。

内丹——千年の修行の精華が、天の光と衝突して、激しい閃光を放った。

光が収まったとき、空には何もいなかった。

雨雲は急速に薄れ、ビルの谷間には、ただ湿った風と、鼻を突くオゾンの臭気だけが漂っていた。

落ちてきたのは、一片の肉片でも、巨体の残骸でもなかった。

地上で立ち尽くしていた趙氏の足元に、天からひらひらと、一枚の紙のようなものが舞い落ちてきた。

拾い上げると、それは手のひらほどの大きさがある、半透明の薄い膜だった。

魚の鱗よりも遥かに硬く、ガラスのように澄み渡り、縁が微かに淡い虹色に輝いている。

それは、脱皮したばかりの生き物が残す、真新しい抜け殻の一片だった。

趙氏はそれを無意識にポケットへ滑り込ませた。

周囲では、サイレンを鳴らしたパトカーが次々と交差点へと滑り込み、メガホンを持った警察官たちが、空を指差す人々に歩道から離れるよう呼びかけ始めていた。

「立ち止まらないでください。道を空けてください」

事務的な声が、雨上がりの夕暮れの街に響き渡っていた。

第四章 白き山への帰路と黒い車

あの嵐の夕方を境に、王逸という男は上海から完全に姿を消した。

亭子間には、着替えも、机の上の本も、すべてそのまま残されていた。

翌日、趙氏の元へ二人の男がやってきた。

彼らは警察の制服を着ていなかった。ありふれた濃紺のジャケット姿で、身分証を示すこともなく、ただ淡々とした事務的な口調で、部屋の鍵を求めた。

「部屋の中のものは、すべてこちらで引き取ります」

男たちの一人が言った。感情の起伏を一切感じさせない、冷たい声だった。

趙氏が「あなた方はどこの所属なのか」と尋ねると、もう一人の男が短く答えた。

「知る必要のないことです」

彼らは二時間ほどかけて部屋を隅々まで調べ、王逸が残した書類や衣類を黒いプラスチックのケースに詰めて運び出した。

男たちが乗り込んだのは、どこにでもある黒いセダンだった。ナンバーにも変わったところはなかった。それでも、路地を出ていくその車を見送りながら、近所の古老の一人が、趙氏の耳元で小さく囁いた。

「……七四九だ。まだ残っていたのか」

七四九局。

一九八〇年代、超常現象や人体の「特異功能」の研究が盛んに語られた時代に生まれたとされる、伝説上の特殊機関の通称である。実在を裏付けるものは何もないが、民間の怪異や説明のつかない生き物を密かに調べる部隊として、その名はネットや巷で囁かれ続けている。

あの男たちが本当にその「七四九」だったのか、王逸の存在を前から知っていたのか、あるいはあの嵐の夕方の騒ぎを聞きつけて来ただけなのか——それは誰にも分からない。

王逸のその後の足取りについて、唯一の手がかりが得られたのは、上海から北へ二千キロ以上離れた、吉林省の長白山麓においてだった。

二〇二三年春、私は王逸が送金を続けていた宛先である、安図県の山あいの小さな集落を訪ねた。

鬱蒼としたチョウセンゴヨウと白樺の森に囲まれたその村の奥に、トタン屋根の質素な木造家屋があった。

家の中には、東北地方独特の「出馬仙」の香堂が設えられていた。赤い布に金文字で「柳仙之位」と大書された位牌が、奥の壁に掲げられている。

そこで一人で暮らしていたのは、八十歳を超えるという劉老人だった。仙家と呼ばれる動物の霊の声を人に取り次ぐ、いわゆる「弟馬」の家の、最後の一人だった。

老人は、私が差し出した上海の石庫門の写真と王逸の名を前にして、濁った瞳を細め、深く息を吐いた。

「あの子はな、百年前、この山の奥の、氷の張った谷で死にかけていたところを、わしの祖父に助けられたんだ」

劉老人は、炉の炭を火箸で突つきながら、静かに語り始めた。

「その頃から人の姿に化けることはできたが、決して人を害することはなかった。ただ天に昇り、龍になることだけを願って、何百年もこの冷たい山の中で修行を続けていた。だがな、山は切り開かれ、木は伐られた。

松花江にも鴨緑江にも大きなダムができて、川は塞がれた。蛇が海へ下る道は、みんな人間に断ち切られてしまったんだ」

王逸が上海へ向かったのは、繁栄する人間の大都市に憧れたからではない。

この国でいちばん大きな川の果て——長江が海と出会う河口へと向かうことが、彼に残された、ただひとつの道だったのだという。

「二〇一七年の九月十五日の夕暮れだった」

老人は香堂の香炉を見つめた。

「香炉に立てていた三本の線香がな、風もないのに、真ん中から同時にぽきんと折れたんだ。そして、位牌の奥から、かすかな啜り泣きのような音が聞こえた。……あの子は天劫を越えた。だが、代償はあまりにも大きすぎた」

老人の話によれば、嵐の夕方からほどなくして、村の入り口に、所属を示す文字のない三台の黒い車両が現れたという。

車両からは作業服の男たちが降り立ち、金属探知機のような機材を携えて、村の裏手の森へと入っていった。

数日後、森の奥深く、残雪の消えない断崖の麓で、男たちが何か重いコンテナを車に積み込むのを、キノコ採りの村人が目撃していた。

王逸が長白山の懐に戻り着いたのか、それとも途上で力尽き、その身柄を押さえられたのか、真相は霧の彼方にある。

ネットの噂の中には、彼の内丹は取り出され、鉛の容器に封じられたと語るものもある。だが劉老人は、その問いに首を振るだけだった。

「あの子がどこへ行ったかは、山だけが知っている。だがな、奪うことなどできんよ。千年の修行を経て天の雷を耐え抜いた命の重みを、人間の都合で作った鉄の箱なんかに閉じ込めておけるはずがないんだ」

終章 手帳の奥の切符

二〇二二年の冬、あの弄堂は重機によってすべて取り壊され、瓦礫の平地となった。

跡地にはやがて、ガラス張りの高層住宅と商業施設が建つ予定だという。街から古い湿り気とカビの匂いは消え去り、黄浦江の川風だけが、新しく舗装された広い道路を吹き抜けていた。

立ち退きの前日、趙氏が荷物を整理していたとき、かつて王逸が住んでいた亭子間の床板の隙間から、古い薄い手帳が一冊見つかった。

趙氏はそれを、約束どおり私に手渡してくれた。あの夕方に拾った、半透明の抜け殻の一片と一緒に。

手帳の頁のほとんどは湿気で張り付いて読めなくなっていたが、最後の見返しに、二枚の紙片が挟み込まれていた。

二〇一五年三月の日付が入った、長距離列車の硬座——普通座席の切符だった。一枚は長白山の麓の二道白河駅から長春駅まで。もう一枚は長春駅から上海駅まで。実名制の印字欄には、どちらにも「王逸」の二文字が並んでいた。

二枚目の切符の隅には、爪で小さく引っ掻いたような、細い文字が残されていた。

——人間三十年、借りて返す。

それが何を意味していたのか、私には分からない。

彼が人の世で過ごそうと決めていた時間の長さだったのか、それとも、かつて己を救った人間の血筋に返そうとした恩の期限だったのか。

私は今、机の上に置いたその抜け殻を眺めている。

冬の乾いた空気の中でも、その表面には、いつも微かな露のような冷たい水分が結んでいる。

指先で触れると、心臓の鼓動とは違う、微かで規則正しい振動が、皮膚を通じて伝わってくるような気がする。

陸家嘴の夜景は、今夜も何千万人もの欲望と暮らしを乗せて、煌びやかな光を空へと放ち続けている。

六百メートルを超える塔の頂部には、赤と白の航空障害灯が規則正しく点滅し、見えない電波と電流が、現代の空を細かく縫い留めている。

その完璧な人工の檻の遥か上空を、かつて一筋の白い影が、己の命のすべてを賭けて突き抜けていった。

それを証明する公的な記録は、この国のどこにも残されていない。

ただ、冬の冷たい雨が黄浦江の水面を叩く夜、私はあの嵐の空を見上げずにはいられない。

あの光の果てに、彼は果たして、憧れ続けた海へと辿り着くことができたのだろうか。