序章 ナイルの砂塵と真夜中の回廊
エジプトの首都カイロの夜は、中東のどの都市よりも遅く、そして騒々しく更けていく。ナイル川の川面を渡る生ぬるい風、延々と続く黄と白のタクシーのクラクション、路肩の露天カフェ(アハワ)から立ち上る甘いリンゴ煙草(シーシャ)の煙と、夜半を過ぎても途絶えることのない男たちの話し声。二十四時間眠らないと言われるこの巨大な喧騒の都にあって、しかし、ふとした街角の裂け目に、すべての音が吸い取られたかのような濃密な暗黒がぽっかりと口を開けている。
タハリール広場から東へ広がるイスマーイール・パシャの時代に築かれた旧市街中心部、いわゆる「ウスト・エル・バラド(ダウンタウン)」。かつて十九世紀末から二十世紀初頭にかけて「ナイルのパリ」を目指して建設されたその界隈には、フランスやイタリア、オーストリアの建築家たちが設計した豪奢なベル・エポック様式の集合住宅が、埃にまみれた石の巨樹のように立ち並んでいる。
五メートルを超える高い天井、幾何学模様を描く磨り減ったオーク材の寄木張り床(パーケット)、鉄格子の蛇腹扉を持つ真鍮製のエレベーター、そして分厚い日よけ鎧戸の隙間から差し込む街灯の光。それらの建物の上層階には、相続の紛争や家賃統制法の縛りによって半世紀以上も鍵がかけられ、人間が足を踏み入れていない巨大な空室が無数に取り残されている。
アラブ世界最大級のオカルト・超自然現象ポータルサイト、そして英語圏とアラビア語圏が交差する大手ソーシャルプラットフォームのエジプト関連コミュニティには、そうしたカイロの古いアパートメントにまつわる異様な体験手記が、途絶えることなく書き込まれ続けている。
真夜中、誰もいないはずの直上の階から聞こえてくる、硬いビー玉(ビリー)がタイル床の上を転がる音。ズズズ、と数分間にわたって重い樫材の箪笥を引きずるような、終わりなき家具の移動音。壁の隙間から漂い始める、腐敗した古書と濃厚なダマスクローズの香油の匂い。
そして、部屋の隅の暗がりから、住人の一挙手一投足を見つめる「それら」の息遣い。
エジプトの土着信仰において、それらは単なる死者の幽霊とは呼ばれない。彼らは「アンマール・エル・マカーン(その場所の住人)」——人間が定住する遥か以前から大地と建物に棲みつき、不可視の領域から空間を共有しているジン(幽精)の一族であるとされる。近代的な学問を修め、合理的な思考を重んじるはずの現代のエジプトの若者たちが、暗黒の回廊で遭遇したのは、千年の歴史が幾重にも堆積した都市の地層から滲み出す、原初的な畏怖そのものだった。
第一章 シャムポリオン通りの高い天井
ターレク・マンスールが、重い鉄製の二重扉を開けてそのアパートのエントランスホールに足を踏み入れたのは、十月も半ばを過ぎた、乾いた風が吹き抜ける木曜日の午後三時のことだった。
カイロのアイン・シャムス大学で建築工学を専攻し、現在は歴史的建造物の保存修復を手がける測量コンサルタント会社で働く三十一歳のターレクは、ダウンタウン再開発計画の一環として立ち上げられた、民間ファンドによる老朽建築物の現状記録調査を担当していた。
今回の対象物件は、シャムポリオン通りとカスル・エル・ニール通りの交差点近くに佇む、千九百二十八年竣工の六階建て集合住宅だった。設計はイタリア人建築家によるもので、外壁にはネオ・クラシカル様式の精緻なレリーフが施されているが、一世紀近い排気ガスと砂漠からの粉塵(ハムシーン)によって、白亜だったはずの石灰岩はすっかり黄褐色に変色していた。
一階には埃っぽい自動車部品の商店と、水タバコの煙を燻らせる古びたカフェが軒を連ねていたが、二階から上の居住区画は、長年の権利関係のこじれにより、十数戸のうち大半が空室となっていた。
ターレクの任務は、四階にある広さ三百平方メートルを超える旧大区画の内部を、地上設置型の三次元レーザースキャナーを用いてミリ単位の精度でデジタル記録し、図面化することだった。
「ようこそ、技師さん」
薄暗いエントランスホールの片隅、木製の簡素な小机の前に座っていた老人が、掠れた声でターレクを迎えた。青いガラビーヤ(伝統的な裾の長い丈着)を纏い、頭に白い綿のターバンを巻いたその男は、このアパートで四十年にわたって門番(バッワーブ)を務めているアンム・ゴムアだった。
バッワーブとは、エジプトの集合住宅において、住人の出入りを監視し、清掃や買い出しを請け負い、建物のすべての鍵と秘密を握っている、いわば生活の守護者である。
「鍵は開けてある。四階の西側の角部屋だ。……だが、技師さん、仕事はいつまでかかるね」
アンム・ゴムアは真鍮のトレイに載せた小さなグラスの紅茶をターレクに差し出しながら、細い目でじっとその顔を見つめた。濃い紅茶の表面には、新鮮なミントの葉が一枚浮かんでいた。
「夕方からスキャンを始めて、順調にいけば夜の十時か十一時には終わると思います。各部屋の点群データを結合しなければならないので、少し時間がかかりますが」
「そうか」
老人はミントティーを一口啜り、視線を階段の吹き抜けの暗闇へと向けた。吹き抜けの中央には、真鍮の網目模様で囲まれた旧式のエレベーターシャフトが、垂直の檻のように最上階へと伸びていた。
「十時を過ぎたら、余計な部屋のドアを開けるんじゃないよ。あの部屋はな、前の持ち主だったギリシャ人の貿易商の一家が去ってから、三十年以上も誰も住んでいない。……誰も住んでいない部屋にはな、別の者たちが住み着くものだ」
「別の者、ですか」
「アンマールだよ」
老人は声を潜めた。
「彼らは静けさを好む。邪魔をされれば怒る。もし仕事中に、上の階から音が聞こえても、決して口笛を吹いたり、大声を上げたりするんじゃない。
足元に注意しなさい。部屋の隅には、私が先週撒いておいた塩がある。それを決して箒で掃き出したりするんじゃないぞ」
ターレクは都会育ちのエンジニアらしい愛想笑いを浮かべ、礼を言って階段へと向かった。迷信深い田舎出身のバッワーブが、古い建物の空室を神聖視して外所者を牽制するのは珍しいことではない。彼にとって重要なのは、ドイツ製の高性能スキャナーが吐き出す点群データの整合性と、納品スケジュールの厳守だけだった。
階段を一歩上るごとに、地上の喧騒が遠ざかっていった。大理石の踏み板は、無数の靴底によって中央が緩やかな窪みを描くほど磨り減っていた。踊り場のステンドグラスから差し込む西日が、埃の舞う空間に斜めの光の帯を投げかけている。
四階の踊り場に立ち、重厚なオーク材の扉を押すと、蝶番がギィと鈍い悲鳴を上げて開いた。
室内に足を踏み入れた瞬間、ターレクの皮膚が粟立った。外のカイロはまだ摂氏三十度を超える残暑の中にあった。それにもかかわらず、その部屋の空気は、まるで冷暗所の奥底のようにひんやりと冷え切っていたのだ。
匂いがあった。半世紀分の乾燥した埃の匂い。剥落した漆喰の石灰臭。そして、その奥から微かに漂ってくる、古い蜜蝋と、枯れたダマスクローズの香油の、胸の奥を締め付けるような甘美な芳香。
天井は四・五メートルを超え、見上げるような高さだった。居間、サロン、寝室、配膳室、合わせて八つの大部屋が、延々と続く回廊のように連結している。床一面に敷き詰められたオーク材のパーケットは、厚い埃の層に覆われていたが、窓の隙間から差し込む光を浴びて、鈍い光沢を放っていた。
ターレクは部屋の四隅に目をやった。アンム・ゴムアの言葉通り、部屋の角という角、そして幅の広い巾木の根元に、親指ほどの太さで、荒い結晶を持つ灰白色の粗塩が、幾重にも細い帯を描いて撒かれていた。
第二章 暗転と点群の波形
ターレクは荷物をサロンの中央に下ろし、機材のセットアップを開始した。
カーボンファイバー製の頑丈な三脚を展開し、その上に円筒形のレーザースキャナーを固定する。バッテリーを装填し、水準器の気泡を中央に合わせる。スキャナーは、垂直方向に高速回転する鏡と、水平方向に三百六十度旋回するヘッドを備えており、不可視の赤外線レーザーを毎秒百万発以上照射することで、空間のあらゆる物体の座標を、極小の「点」の集合として記録していく。
キャリブレーションを終え、操作用タブレットの画面をタップする。
ウィーーン、という、精密機械特有の滑らかなモーター音が静かな室内に響き渡った。スキャナーのヘッドがゆっくりと回転を始め、目に見えない光の刃が、埃にまみれた壁面、天井の漆喰装飾、そしてフランス製のガラスドアを撫で上げていく。
タブレットの液晶画面の上で、現実の空間がリアルタイムでデジタル化されていく。漆黒の背景の上に、何百万もの青や緑の微小な光の点が打ち込まれ、部屋の正確な三次元モデルが、まるで幽霊の骨格のように浮かび上がってくる。
一部屋のスキャンにおよそ十五分。ターレクは三脚を担ぎ、サロンから隣の応接室へ、そこから長い廊下へと、順序よく装置を移動させていった。
作業に没頭するうちに、時間はあっという間に過ぎ去った。窓の外の空は茜色から濃紺へ、そして完全な漆黒へと沈んでいった。鎧戸の隙間から見下ろすシャムポリオン通りの灯りは、深夜の一時を回る頃には目に見えて減少し、あれほど騒がしかったクラクションの音も、散発的な遠鳴りへと変わっていった。
午後一時四十五分。ターレクは廊下の突き当たり、かつて主寝室として使われていた最も広い部屋にスキャナーを据え付けた。彼自身は廊下の壁に背中を預け、タブレットの進行バーを見つめながら、魔法瓶から注いだ冷たい水を一口飲んだ。
疲労が両肩にずっしりと溜まっていた。しかし、スキャン作業は順調だった。この部屋と、奥の浴室を終えれば、今夜のノルマはすべて完了する。
その時だった。
コトン。
頭上から、硬く澄んだ音が響いた。
ターレクは視線を上げた。音は、天井の石膏レリーフの真上から聞こえていた。
タタタン、タタタン、タタタタタ……。
何かが、床の上を転がる音。ガラス玉。子供が遊ぶ、小さなガラスのビー玉が、硬いタイル張りの床の上に落とされ、弾み、勢いよく転がっていく音だった。
タタッ……ツーーーーッ。
ビー玉は天井の端から端へと一直線に転がり、壁にぶつかってカチリと止まった。
ターレクの眉が寄った。
(五階に誰かいるのか?)
この建物の五階と六階は、窓ガラスが割れ、完全に廃墟化していると聞いていたはずだった。野良猫か、あるいは鳩が瓦礫の隙間で何かを落としたのだろうか。しかし、あの音はあまりにも規則正しく、完璧な球体が滑らかな平面を転がった時にしか生じ得ない音響の軌跡を描いていた。
沈黙が戻った。ターレクが再びタブレットに視線を落とそうとした、その瞬間。
ズズズズズズズズ……ッ!
凄まじい地鳴りのような音が、頭上全体を揺るがした。
それは、重量数百キロはある巨大な樫の木の洋服ダンスを、何者かが力任せに抱え上げ、埃だらけの床板の上を引きずり回しているような音だった。木と木が擦れ合い、軋み、床板が重みに耐えかねて悲鳴を上げる、生々しい振動。天井の漆喰の微細な粉末が、サラサラと音を立ててターレクの作業着の肩の上に落ちてきた。
ズズッ……ガタン!
家具が壁に激突したような鈍い衝撃音が響き、再び静寂が訪れた。
ターレクの心臓が、喉元で激しく脈打っていた。猫や鳩の仕業であるはずがなかった。人間が、それも尋常ならざる腕力を持った何者かが、上の空室で家具を動かしている。
「不法侵入者か……?」
ターレクは立ち上がり、廊下の照明用のLED作業灯を手に取った。警察を呼ぶべきか、それとも階下のアンム・ゴムアに知らせるべきか。彼が部屋の出口へ向かって歩み出そうとした時、タブレット端末がピピッ、と甲高い警告音を鳴らした。
スキャナーの処理画面だった。エラー表示ではなかった。主寝室のスキャンが正常に完了したことを示す通知だった。
しかし、画面にレンダリングされた点群データを見た瞬間、ターレクの足が完全に凍りついた。
第三章 点群の空白
タブレットの画面に映し出されていたのは、主寝室の三次元ワイヤーフレームだった。天井、壁、窓枠、そして床のパーケット。すべてが青白い光の粒子の網となって、整然と立方体を形成していた。
しかし、その部屋の中央。何もないはずの空間に、異様な「点」の集積が存在していた。
それは、床から一・七メートルほどの高さに浮遊していた。数万個の赤いレーザー反射点が、密集して一つの明確な立体を形作っていたのだ。
頭部があった。異様に細長い、人間の二倍ほどの長さを持つ首。そして、その首から伸びる、胴体のない、幾重にもねじれ合わされた布のような、あるいは煙の帯のような不定形の輪郭。
その立体の「顔」に相当する部分は、スキャナーのセンサーが焦点を結べなかったのか、あるいはレーザー光そのものを吸収してしまったかのように、完全な「黒い空白(ヌルデータ)」となってぽっかりと穴を開けていた。
そして、その点群のデータのタイムスタンプは、頭上からあの家具の引きずる音が響いていた、まさにその瞬間の数秒間に記録されていた。
(機械のエラーだ)
ターレクは震える指で画面をスワイプし、別の角度から視点を回転させた。(レーザーが宙を舞う埃の乱反射を拾って、ノイズの塊を作っただけだ。アルゴリズムの誤認識に過ぎない)
彼は自分にそう言い聞かせ、主寝室のドアの隙間から、恐る恐る中を覗き込んだ。
部屋の中には、三脚の上に載ったスキャナーが静かに佇んでいるだけだった。LED作業灯の白い光が、何もない空間を虚しく照らしている。浮遊する影など、どこにも見当たらない。
安堵の溜息を吐き、スキャナーを回収しようと部屋の中央へ足を踏み入れた。
その瞬間、室内の空気が一変した。
バツン!
乾いた破裂音とともに、廊下に置いていたLED作業灯が吹き飛ぶように消灯した。同時に、ターレクの手元のタブレットの画面が激しく乱れ、バッテリー残量八十パーセントの表示が一瞬にしてゼロへと急落し、プツリと電源が落ちた。
完全な暗黒が、部屋を包み込んだ。
遮光カーテンのように閉ざされた鎧戸の隙間から、夜の街灯の光がわずかに差し込んでいるだけだった。その薄暗がりの中で、部屋の気温が、目に見える速度で急降下を始めていた。
吐き出す息が、真っ白な霧となって視界を塞ぐ。十月のカイロで、呼気が白くなることなど物理的にあり得なかった。足元のパーケットの木肌が、ピキピキと音を立てて収縮し、まるで冬のヨーロッパの古城に迷い込んだかのような極度の冷気が、ズボンの裾から這い上がってくる。
そして、あの匂いが爆発した。
ダマスクローズの甘い香油の匂い。しかし今やそれは、鼻腔の奥を焼き焦がすような、強烈な腐敗臭と、硫黄の焦げたツンとした刺激臭を伴っていた。
カサ、カサ、カサ。
音がした。足元だった。
ターレクは息を殺し、ゆっくりと視線を下へ落とした。
部屋の隅に撒かれていた、あの灰白色の粗塩の帯。その塩の結晶が、何者かの足によって踏み荒らされていたのではない。塩の粒そのものが、まるで生きた白蟻の群れのように、激しく泡立ち、カチカチと音を立てて弾け飛び、黒い灰へと変色しながら消滅していっていたのだ。
結界が、溶かされていた。
第四章 真鍮の籠と古き住人
ギィィィィィィン……。
遠くから、金属の軋む重い音が響いてきた。
廊下の向こう、エントランスホールの吹き抜け。あの、動くはずのない旧式エレベーターだった。深夜には電源が落とされているはずの機械が、モーターの唸りを上げ、太い鋼鉄のワイヤーを軋ませながら、ゆっくりと四階へと上昇してきていた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
蛇腹式の鉄格子の扉が、各階の踊り場を通過するたびに規則正しい衝撃音を立てる。そして、その音は、四階のフロアの前でピタリと止まった。
カチリ。フロアの呼び出しランプが灯る乾いたリレーの音。
続いて、誰もいないはずの廊下の奥から、足音が響き始めた。
ペタ、ペタ、ペタ。
それは靴音ではなかった。油に濡れた皮膚が、埃まみれの床板に吸い付いては剥がれるような、重く湿った素足の歩行音。一歩、また一歩。足音は長い廊下をまっすぐに進み、ターレクがいる主寝室の扉のすぐ外へと近づいてきていた。
ターレクは後ずさりした。背中が冷たい石灰壁に激突する。逃げ場はなかった。部屋の出口は、その足音が近づいてくる廊下へと続くドア一つしかなかった。
ドアノブが、ゆっくりと下に向かって回り始めた。
鍵はかかっていない。ラッチが外れる、カチッという金属音が静まり返った部屋に爆発するように響いた。
扉が、外側から静かに押し開かれた。
開いた隙間から、廊下の暗黒が室内に流れ込んできた。そこに立っていたのは、人間の背丈を遥かに超える、巨大な影の輪郭だった。
青白い街灯の薄明かりの中に浮かび上がったその姿は、布を纏った人間のようでありながら、その身体の境界線は常に煙のように揺らめき、定まっていなかった。頭部には、古いオスマン帝国風の刺繍が施されたターバンのような布が巻かれていたが、その下にある顔面は、あのタブレットの点群データと同じだった。
目も、鼻も、口もなかった。そこにはただ、光を完全に拒絶する、底知れない漆黒の空洞だけが口を開けていた。
その空洞の奥から、音が聞こえてきた。それは空気の振動ではなかった。ターレクの頭蓋骨の芯、脳の表面を直接冷たい爪で引っ掻くような、古めかしいエジプト・アラビア語の重々しい響き。
『……誰の許しを得て……この境界を測るのか……』
声が響くたびに、部屋中の空気がビリビリと共鳴し、窓のガラスが激しい振動を立てた。
『……我らは……お前たちの祖父の……そのまた祖父の時代から……この土の上に座している……』
『……光を放つ箱を持ち込み……我らの住処を暴く者は……誰だ……!』
影の足元から、無数の黒い煙の触手が、床のパーケットを這うようにしてターレクの足元へと伸びてきた。冷気の刃が作業着の布地を切り裂き、足首の皮膚に凍傷の激痛が走る。
ターレクの喉から、声にならない空気が漏れ出た。(殺される)彼らは悪魔(シャイターン)ではない。この建物の主、この土地の真の住人であるアンマールなのだ。彼らにとって、自分こそが土足で聖域を侵犯した傲慢な侵入者に過ぎない。
影の腕が、ゆっくりと持ち上がった。細長く、骨の関節が幾重にも波打つ灰色の腕。その鋭利な爪先が、ターレクの喉元へと向かって、空気を切り裂くように伸ばされた。
爪先が喉の皮膚に触れる寸前、ターレクの脳裏に、アンム・ゴムアの最後の言葉が雷鳴のように響き渡った。
——大声を上げるな。彼らは静けさを好む。邪魔をされたと怒っているのだ。
戦おうとしてはならない。近代の機械も、人間の腕力も、この百年の記憶を宿した存在の前には何の役にも立たない。必要なのは、排除ではなく、古き共存の儀礼だった。
ターレクは目を固く閉じ、突き出されかけた両手を下ろした。逃げるのをやめ、武器を探すのをやめ、全身の力を抜いて、埃にまみれた床の上に両膝をついた。
彼は震える手で、自らの作業着の胸ポケットに手を突っ込んだ。指先が、アンム・ゴムアから渡されていた、もう一つの小さな紙包みに触れた。出発前、老人が「念のために持っていきなさい」と無理やりポケットに押し込んできた、シナイ半島の粗塩の包みだった。
ターレクは紙包みを引き裂き、掌の上に粗い塩の結晶を握りしめた。そして、額を冷たい床板の上に押し付け、エジプトで古来よりジンとの共生のために唱えられてきた、神聖なる挨拶の言葉を、喉の奥から絞り出した。
「……ダストゥール(お許しを)」
ターレクの声は、恐怖で震えながらも、静かな部屋に確かに響いた。
「……ダストゥール、ヤ・アンマール・エル・マカーン(お許しください、この場所の住人たちよ)」
部屋を満たしていた狂乱の冷気が、ピタリと動きを止めた。
ターレクは額を床につけたまま、掌の塩を自らの周囲に円を描くように静かに撒き、祈りの言葉を続けた。
「私はあなた方の住処を奪いに来たのではありません。あなた方の聖域を壊しに来たのでもありません。私はただ、この古い美しい家が崩れ落ちぬよう、その姿を紙の上に書き留めるために参りました。
……無礼をお許しください。今宵の非礼を、どうかお許しください……」
彼は息を吐ききり、東方正教徒でもムスリムでも等しく唱える、至高の加護の句——アーヤト・アル=クルスィー(玉座の節)を、低く、穏やかな声で暗誦し始めた。
「アッラーフ、ラー・イラーハ・イッラー・フワ、アル=ハイユ・アル=カイヤューム……(アッラー、彼のほかに神はなし。永久に生きて自立される御方)……」
影の爪先が、ターレクの首筋からわずか数ミリの空中で静止していた。激しい硫黄の匂いの中に、ふわりとした、朝露のような瑞々しいミントの香りが混ざり始めた。
『……測るがよい……』
声は、先ほどのような破壊的な怒りを潜めていた。それは、遥か遠い砂漠の砂丘を吹き抜ける風のような、微かで乾いた囁きだった。
『……人の世の技をもって……石を記憶するがよい……』
『……だが……夜の静寂だけは……決して奪うでないぞ……』
ヒュウウウッ……。
冷たい突風が、部屋の中を一巡した。ターレクの背中を撫でて通り抜けた風は、もはや皮膚を凍えさせる刃ではなかった。それは、埃を払い、熱を冷ます、夜明け前の清涼な息吹だった。
遠くの地平線から、澄んだ音が響いてきた。
アッラーフ・アクバル、アッラーフ・アクバル……。
アザーンだった。近隣のモスクのミナレットから、夜明けの礼拝(ファジュル)を告げる肉声の呼びかけが、重なり合ってカイロの空を満たし始めたのだ。
カチリ。廊下の非常灯が、小さく音を立てて再び点灯した。ターレクの手元のタブレットの画面が明滅し、通常の待機画面へと復帰した。
ターレクは恐る恐る顔を上げた。
部屋には、もう誰もいなかった。主寝室のドアは静かに開け放たれ、中央の三脚の上では、スキャナーの緑色のインジケーターが、何事もなかったかのように規則正しく点滅を繰り返していた。
室内の気温計は、摂氏二十四度を示していた。あの凍てつくような冷気も、立ち込めていた異臭も、朝のアザーンの響きとともに、跡形もなく掻き消えていた。
ターレクは床に手をつき、荒い息を吐きながら立ち上がった。全身の服が冷や汗でぐっしょりと重く湿っていたが、足首の痛みは消え去り、そこにはただ、古い木材の穏やかな温もりだけが戻っていた。
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