序章 灌漑水路と夜の呼び声

エジプトの国土の九割以上を占める広大な砂漠の中にあって、カイロの北側に扇状に広がるナイル・デルタ(下エジプト)は、世界で最も古くから耕作が続けられてきた緑の回廊である。網の目のように大地を切り裂く無数の灌漑水路——現地でティルア(tir'a)と呼ばれる人工の掘割沿いには、何千年も変わらぬ粘土質の泥土と、丈高いユーカリやナツメヤシの並木、そして冬になると青々と広がるエジプトクローバー(バルスィーム)の絨毯が地平線まで連なっている。

この肥沃なデルタの農村(リーフ)において、農民たち(ファッラーヒーン)の一日は、太陽が沈んだ後に最も過酷な局面を迎える。政府によって厳格に配分される農業用水の割り当て当番、いわゆる「夜間灌漑(ライ・ライリー)」のためである。

夜半を過ぎると、村の男たちは暗闇の中、鍬を担ぎ、懐中電灯一つを頼りに水路の堤防へと向かう。畦道に据え付けられた単気筒の古いディーゼル揚水ポンプ——現地でマカナと呼ばれる機械が、ドッ、ドッ、ドッ、という重い排気音を夜の静寂に響かせ、水路の黒い泥水を畑へと汲み上げていく。

アラブ世界の怪異体験投稿サイト、そして現代のエジプトの若者たちが日夜議論を交わす大手ソーシャルプラットフォームのオカルトスレッドには、このデルタの夜間灌漑にまつわる不穏な体験手記が、数十年にわたり途絶えることなく寄せられ続けている。

真夜中、ディーゼルエンジンの唸り声の隙間から聞こえてくる、自らの名を呼ぶ甘く透き通った女の声。

水面から立ち上る、泥と濡れた水草、そして死者を洗う香油のような異様な匂い。

懐中電灯の光が捉える、水路の縁に腰掛け、長い髪を梳かしながら手招きする青白い影。

そして、その呼び声に一度でも返事をしてしまった者が、何かに取り憑かれたように服を脱ぎ捨て、濁った水底へと自ら沈んでいく怪異。

エジプトの民間伝承において、その存在は「アル=ナッダーハ(El Naddaha)」——すなわち「呼び寄せる者」と呼ばれる。古代エジプトのイシス女神の信仰の残滓とも、水辺に潜む悪意あるジン(幽精)の一族とも囁かれるその怪異は、二十一世紀のコンクリート護岸工事が進む現代にあっても、農村の闇の底から、通りかかる生者の名前を正確な発音で呼び続けている。

第一章 シャルキーヤの泥堤

カリーム・エル=サイードが運転する埃まみれのトヨタ・ハイラックスが、シャルキーヤ県北部の小都市ファクースからさらに東へ外れた農道の悪路に足を取られ、車体を大きく軋ませたのは、十一月下旬の午後四時前のことだった。

カイロ大学工学部を卒業し、水資源灌漑省の下請けである土木エンジニアリング会社で現場監督を務める三十歳のカリームは、現在デルタ全域で急速に進められている国家プロジェクト「水路内張り事業(タフスィーン・アル=ティルア)」の施工監理を担当していた。

長年にわたり土のまま放置され、雑草の繁茂やシルトの堆積によって水流が滞り、貴重なナイルの水が地中に漏出していた農業用水路の底と法面を、平滑なコンクリートブロックで覆い固める。水の輸送効率を劇的に改善し、末端の貧しい農民たちまで均等に水を届けるための近代化政策だった。

しかし、現場の進行は遅れていた。カリームが向かっていた「第十二支線水路」は、全長四キロメートルほどの古い幹線水路だったが、先週から夜間の掘削および基礎コンクリート打設の工程が、原因不明のトラブルによって完全に停滞していた。

車を降りると、湿った黒土と青々としたクローバー、そして家畜の牛糞が混ざり合った、デルタ特有の濃厚な匂いがカリームの鼻腔を満たした。水路の土手の上には、掘削用の油圧ショベルが一台、巨大な鉄の腕をだらりと泥の上に投げ出して沈黙していた。

「技師先生、よく来てくれた」

土手の下、トタン板で組まれた粗末な現場事務所から出てきたのは、地元の下請け業者を束ねる現場責任者、サブリー親方だった。

五十代半ばのサブリーは、泥で汚れた灰色のガラビーヤの上からくたびれた毛織物のベストを羽織り、日に焼けて赤茶けた顔に深い皺を刻んでいた。

「サブリーさん、日報を見ましたよ。昼間の作業は順調なのに、なぜ夜間の捨てコンクリート打設が三日連続で中断しているんですか。来週にはカイロから省の検査官が来るんですよ」

カリームが苛立ちを隠さずに問い詰めると、サブリーは手袋を外し、ポケットから取り出したタバコにマッチで火をつけた。紫色の煙が、夕暮れの冷え始めた大気の中に細く漂う。

「先生、都会の机の上で図面を引いているあんたには笑われるかもしれんがね。……夜の十時を過ぎると、作業員たちが怖がって水路の中に降りようとしないんだよ」

「怖がる? 何をです。夜間の照明が足りないなら、発電機をもう一台手配しましたが」

「照明の問題じゃない」

サブリーは吐き出した煙の向こうから、水路の暗い水面をじっと見つめた。

「水路の底から、呼ぶんだよ。作業員一人ひとりの名前をな。……最初は遠くで女がすすり泣くような声がして、そのうち、親戚や母親の声そっくりに変わる。

『アハメド、こっちへおいで』『マフムード、足を滑らせたのかい』とな。先週の水曜日、ミニアから出稼ぎに来ていた若い男が、その声にふらふらと引き寄せられて、まだコンクリートを打っていない泥の深みに胸まで浸かっているのを、朝になって見つけたんだ。男は白目を剥いて、今も口がきけない状態だよ」

カリームは深くため息をついた。

「サブリーさん、それはただのメタンガスの吸入か、ディーゼルエンジンの排気による一酸化炭素中毒ですよ。あるいは、夜間の過密労働による幻覚だ。未舗装の水路の底には、何十年分もの有機物が腐敗してガスが溜まっている。

夜露でガスが地表に滞留すれば、脳が酸欠を起こして幻聴を聞くのは科学的に説明がつきます」

サブリーは苦笑いとも諦めともつかない表情で、短くなったタバコを泥の中に踏み消した。

「科学、かね。……なら、先生自身が今夜、自分の耳で確かめてみるといい。私は作業員たちに、今夜は十時で仕事を切り上げて宿舎に戻るよう言ってある。

だが、どうしても現場の確認をしたいなら止めはしない。ただ、これだけは覚えておきなさい」

老人はカリームの作業着の腕を、驚くほど強い力で掴んだ。

「夜中の水路端では、決して自分の本名を大声で呼んではいけない。そして、もし暗闇から自分の名前が聞こえても、絶対に『アイワ(そうだ)』と返事をしてはいけない。耳を塞ぎなさい。

泥を耳に詰め込んででも、聞こえないふりをするんだ。……ナッダーハに一度でも返事を返せば、魂の契約が結ばれてしまうんだからな」

第二章 ディーゼルポンプの鼓動

夜の九時半を過ぎると、作業員たちのトラックがヘッドライトの光を揺らしながら去っていき、現場には完全な闇が訪れた。

カリームはハイラックスの運転席に座り、ダッシュボードの書類に目を通していた。車内には、シガーソケットから給電した電気ケトルで淹れた、インスタントのネスカフェの湯気が立ち上っていた。

窓の外は、見渡す限りの漆黒だった。ナイル・デルタの夜は、都会の人間が想像するよりも遥かに暗い。街灯など数キロ先の幹線道路まで一本もなく、空には冬の星座が寒々しく瞬いているだけだった。

水路を挟んだ向こう側の畑には、背の低い農民たちの小屋が点在しているはずだったが、どの家も鎧戸を固く閉ざし、灯火一つ漏らしていなかった。

しかし、その完全な静寂を破る、規則正しい重低音が、数百メートル離れた水路の上流から響いていた。

ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。

古い単気筒のディーゼル揚水ポンプの音だった。どこかの農民が、今夜の割り当て時間に従って、自分の畑へ水を引いているのだ。金属が擦れ合うかすかな軋みと、巨大なピストンが重油を爆発させる乾いた打撃音。

その一定のリズムは、まるで大地そのものが規則正しく心臓の鼓動を刻んでいるかのようだった。

カリームは腕時計を見た。午後十時十五分。彼はダウンジャケットのジッパーを喉元まで引き上げ、ヘルメットを被ると、強力なLED充電式ハンドライトを手に車外へ出た。

外気は肌を刺すように冷え切っていた。十一月のデルタの夜気は、水路から立ち上る湿気を吸い込み、骨の髄まで冷えを染み込ませてくる。足元の堤防の土を踏むと、泥が靴底に重くまとわりついた。

ハンドライトのスイッチを入れる。八千ルーメンの白い光条が、掘削中の水路の断面を鮮明に切り拓いた。

深さ四メートル、幅六メートルほどの台形状の溝。左側の法面は、すでに灰色のプレキャスト・コンクリート板が整然と敷き詰められ、近代的な水路の姿を見せていた。しかし、カリームが立っている右側の法面と水路の底は、まだ重機で削り取られたばかりの、剥き出しの黒泥が露出していた。

水路の中央には、くるぶしほどの深さで、淀んだ泥水が細く流れていた。水面には、油膜のような鈍い光が浮かび、水生植物の千切れた葉が、ゆっくりと南から北へと流れていく。

カリームは斜面に据え付けられた木製の仮設階段を一段ずつ降り、水路の底へと降り立った。

足元が、ズブッと十センチほど沈み込んだ。何百年もの間、ナイルの洪水が運び込んできた肥沃で微細な粘土——シルト(タミ)の層だった。歩くたびに、泥の底に閉じ込められていたガスがプツプツと気泡を上げて弾け、ドブ川のような生臭い泥の匂いと、腐敗した巻貝の殻の匂いが立ち上った。

「有毒ガス警報器、異常なし」

カリームは胸ポケットに取り付けた携帯型ガス検知器の液晶を確認した。硫化水素もメタンも、検出限界値以下を示している。空気は清浄だった。サブリーの言う「有毒ガスによる錯乱」という仮説は、この時点で早くも怪しくなっていた。

彼はレーザー測距計を取り出し、未施工の法面の傾斜角を測定し始めた。赤い測距光の点が、湿った泥の壁の上を走る。

カチャリ。

背後で、音がした。

カリームは振り返り、ハンドライトの光を上流に向けた。光の先には、数十メートルにわたって続くコンクリートの壁と、泥の底があるだけだった。風はない。

しかし、その時、上流から響いていたあのディーゼルポンプの音が、奇妙な変化を見せ始めた。

ドッ、ドッ、ドッ、ド……プスン。

激しい息継ぎのような音を立てて、エンジンの回転が不規則に乱れた。金属が激しく打ち合わされるようなカンカンという異音が響いた後、プシューという排気音とともに、ポンプの回転が完全に停止した。

世界から、すべての機械音が消え去った。

訪れたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。風の音も、冬の虫の鳴き声すらしない。聞こえるのは、水路の底をチョロチョロと流れる泥水の微小なせせらぎと、カリーム自身の防寒着が擦れる衣擦れの音だけだった。

そして、その静寂の奥から、匂いが漂ってきた。

先ほどまでの泥と腐敗の匂いではなかった。それは、夜の冷気の中にあってはならない、驚くほど濃厚で甘美な芳香だった。

ダマスクローズの香油の匂い。あるいは、エジプトの伝統的な結婚式や野辺送りの際、遺体や花嫁の髪に塗り込められる、白檀(サッンダル)と麝香(ミスク)の混ざり合った、頭の芯が痺れるような甘い匂いだった。

第三章 名前を呼ぶ水面

カリームの喉が、唾液を飲み込む音を立てた。足元の泥が、急激に冷たさを増していくような感覚があった。安全靴の分厚いゴム底を通り抜けて、氷水のような冷気が足指の感覚を麻痺させていく。

(誰かが近くにいるのか?)

彼はハンドライトの光を、水路の両側の堤防の上へと走らせた。光の輪の中に、夜霧に濡れたユーカリの巨木が浮かび上がる。葉の一枚も揺れていない。

その時だった。

『……カリーム……』

声がした。

カリームの身体が、一瞬にして硬直した。耳元で囁かれたのではなかった。かといって、遠くの畑から風に乗って届いた声でもない。

それは、水路の底を流れる泥水の中から、水泡が弾ける音とともに、直接彼の鼓膜の内側へと染み込んできたような、湿り気を帯びた声だった。

若い女の声だった。柔らかく、澄んでいて、どこか哀愁を帯びた、エジプトの田舎言葉特有の抑揚を持った響き。

『……カリーム……どこへ行くの……』

カリームは息を止めた。全身の毛穴が収縮し、背筋に冷たい刃物を押し当てられたような悪寒が走った。

なぜ、自分の名前を知っているのか。この現場で自分の名を知る者は、サブリー親方と数人の作業員だけのはずだった。彼らはとっくに村の宿舎へ引き上げている。それに、今の声は、明らかに若い女性のものだった。

(幻聴だ。極度の疲労による聴覚の異常だ)

彼は自分に言い聞かせ、踵を返して仮設階段へと戻ろうとした。しかし、靴の裏にまとわりついた黒泥が、まるで生きたタールのように粘り気を増し、足を持ち上げることができなかった。

ピチャリ。

水音がした。前方の闇。水路が緩やかに左へとカーブしている、未施工区間のさらに奥。

ハンドライトの光を、震える手でそのカーブへと向けた。

光条の先端。水路の中央、泥水の中に、何かが立っていた。

白い布だった。農村の女性が頭からすっぽりと被る、薄い綿のスカーフ——タルハのような布地が、水面に垂れ下がり、泥水に浸かって揺れていた。そして、その布の下から伸びているのは、驚くほど細く、青白い二本の素足だった。

その足は、泥の中に沈んでいなかった。深いシルトの層の上に、重さを持たないかのように軽やかに立ち、一歩、また一歩と、カリームに向かって水面を歩いてきていた。

ピチャ、ピチャ、ピチャ。

水音とともに、あの香油の匂いが爆発的に濃密になった。甘く、重く、肺の奥を粘着質な油膜で満たしていくような匂い。カリームの頭の中で、キーンという激しい耳鳴りが鳴り響き始めた。

その人影が、ハンドライトの光の輪の中へと滑り込んできた。

女だった。黒い伝統的な農村のガラビーヤを身に纏い、胸元には銀のコインを連ねた首飾りがジャラリと揺れていた。しかし、その姿を見た瞬間、カリームの理性は音を立てて崩壊しかけた。

女の身体には、厚みがなかった。正面から見れば確かに美しい女性の輪郭をしていたが、光の角度がわずかに変わると、その身体はまるで水面に映った油の膜のように平面的で、向こう側の土壁が透けて見えていた。

そして、その顔面だった。

タルハの隙間から覗く肌は、抜けるように白かった。生きた人間の肌色ではなく、ナイルの底から引き揚げられた大理石の彫像のような、無機質な白さ。唇は濡れたように赤く、その口元が、狂おしいほど優美な微笑みを浮かべていた。

しかし、その両目には、白目が存在しなかった。眼窩全体が、光を一切反射しない漆黒の闇で満たされていた。底知れぬナイルの水底そのもののような、二つの穴。

その黒い穴が、カリームの目を真っ直ぐに見据えた。

女の唇が、ゆっくりと開いた。

『……カリーム……私の愛しい人……』

声が響いた瞬間、カリームの意識がグラリと揺れた。視界が歪み、周囲のコンクリート壁や泥の堤防が、まるで熱で溶けた蝋のようにぐにゃりと歪曲していく。

その声は、もはや見知らぬ女の声ではなかった。それは、彼が幼い頃、熱を出して寝込んだ時に枕元で子守唄を歌ってくれた、亡き祖母の声だった。そして次の瞬間には、彼がかつて深く愛し、数年前に病で失った元婚約者の、あの懐かしい声へと変貌していた。

『……寒いのよ、カリーム……手を取って……』

女の手が、ゆっくりと前へと伸ばされた。その指先は異常に細長く、爪の先は黒く尖り、水草の繊維が幾重にも絡みついていた。

『……返事をして……私の名前を呼んで……そうすれば、二人で水の下へ行けるわ……』

カリームの喉が、自らの意思とは無関係に動き始めた。声帯が痙攣し、息が喉元へせり上がってくる。答えなければならない。

彼女を安心させなければならない。返事をしなければならない。抗いがたい強烈な衝動が、脳の芯を痺れさせていく。

彼の唇が、微かに開きかけた。

「あ……」

その時、女の黒い瞳の奥で、何かが蠢いた。漆黒の空洞の底から、無数の小さな泥の泡が湧き上がり、女の口の端から、ドロリとした黒いヘドロが溢れ出してきたのだ。

女の微笑みが、耳元まで裂けるような、凶暴な捕食者の裂け目へと変貌した。

女の背後から、無数の黒い影が立ち上がった。

それは人間の姿ではなかった。泥水の中から、何十本もの長く湿った人間の腕が、水草の根のように絡み合いながら、天井のない夜空に向かって生え伸びていたのだ。腕の皮膚は腐敗して崩れ落ち、白骨化した指先が、カリームを指差してカチカチと音を立てていた。

過去数百年、あるいは数千年の間に、この水路の泥の中で命を落とした無数の者たちの残骸。川の底に引きずり込まれ、ナッダーハの肉片の一部となって泥炭層と同化した死者たちの腕だった。

『……答えろ……!』

女の声が、甘美な調べから、耳膜を切り裂くような金属的な絶叫へと一変した。

『……お前の名を……我が耳に渡せ……!』

突風が水路の底を吹き抜けた。水面の泥水が激しく波立ち、跳ね上がった飛沫がカリームの顔面を打ち据えた。その水滴は、氷のように冷たく、耐え難いドブ川の悪臭を放っていた。

カリームの足が、勝手に前へと踏み出された。ズブッ。泥の中に足が沈む。

意思に反して、身体が女の伸ばされた青白い手へと向かって歩みを進めていた。距離はわずか三メートル。女の尖った爪先が、カリームの首筋の皮膚をかすめ、氷のような冷気の筋が走った。

(死ぬ)

このまま一歩踏み出せば、あの黒い腕の群れに引きずり込まれ、水路の底の深いシルトの中に埋め殺される。

その極限の恐怖の中で、カリームの脳裏を、サブリー親方の言葉が雷鳴のように貫いた。

——耳を塞ぎなさい。泥を耳に詰め込んででも、聞こえないふりをするんだ。

カリームは奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。彼は両手を振り上げ、足元の泥の中へと、躊躇うことなく両手を突っ込んだ。

冷たいシルトの感触。彼は両手で黒く粘り気のあるナイルの泥を鷲掴みにした。小石や貝殻の破片が掌の皮膚を切り裂き、鋭い痛みが走った。その激痛が、麻痺しかけていた彼の神経を一瞬だけ覚醒させた。

「うおおおおおッ!」

カリームは絶叫しながら、泥まみれの両手を自らの両耳へと叩きつけた。親指と人差し指を使い、冷たく重い黒泥を、自らの耳孔の奥深くまで、力任せにねじ込んだ。

ボフッ、という鈍い音とともに、世界のすべての音が遮断された。

泥の栓が、空気の振動を完全に奪い去った。鼓膜を圧迫する泥の重みと、自らの激しい血流のドクドクという脈拍の音だけが、頭蓋骨の内部に響き渡った。

女の絶叫が消えた。あの狂おしいほど甘美な呼び声も、一瞬にして途絶えた。

第四章 耳を塞ぐ黒土

音が消えた世界の中で、カリームは目を開けた。

目の前にいた女の姿が、激しく波打っていた。彼女は口を大きく開け、喉仏を震わせて何かを叫び続けていたが、カリームの耳には微小な振動すら届かなかった。呼び声という「音の絆」を断ち切られた怪異は、生者を自らの領域へと引きずり込むための絶対的な力学を失っていた。

女の顔面が、急速に崩壊を始めていた。大理石のように白かった皮膚が、ひび割れた乾いた泥のように剥がれ落ち、その下から覗いたのは、腐食した魚の骨と、黒ずんだ水草の塊だった。女の身体は、形を保つことができず、ただの泥水の柱となって崩れ落ちていった。

背後に林立していた無数の死者の腕もまた、支えを失った操り人形のように、バシャバシャと水路の泥水の中へと倒れ込み、水泡となって消えていった。

しかし、水路の泥そのものが、狂乱を始めていた。

足元のシルトが、まるで熱湯を注がれた蟻塚のように激しく沸騰し、カリームの両足を泥の底へと引きずり込もうと、渦を巻いて締め付けてきたのだ。泥の冷たさは、すでに零下近くまで達していた。長靴のゴムを突き破り、足首の皮膚が凍傷にかかったように痺れていく。

カリームは後ろを振り向かず、泥を蹴った。耳の中の泥が体温で温まり、ドロリと溶け出しそうになるのを、首を縮めて耐えた。

一歩、また一歩。彼は四つん這いになり、泥壁に爪を立てながら、仮設階段のある方向へと泥の中を這い進んだ。

背後の水面から、凄まじい衝撃波が押し寄せてくるのが、大地の振動を通して伝わってきた。何かが、水路の底を猛烈な勢いで這い、追いすがってきている。振り返ってはならない。見てもいけないし、耳の泥を掻き出してもいけない。

指先が、濡れた木材の感触に触れた。仮設階段の最下段だった。

カリームは渾身の力を振り絞り、階段の踏み板を掴んで身体を引き上げた。一段、二段、三段。背後の泥の中から、冷たい水草のような感触が、彼の右足の安全靴の踵を鷲掴みにした。

凄まじい力だった。足首が関節ごと引きちぎられそうな重圧。カリームは左足の踵で、掴まれた右足の爪先を力任せに蹴りつけた。泥まみれの安全靴がスポンと抜け、靴下が冷たい夜気に晒された。

彼は靴を捨て、靴下一つのまま階段を這い上がり、堤防の上の平坦な地面へと転がり出た。

泥だらけの身体で立ち上がり、ハイラックスへと駆け込む。キーを差し込み、イグニッションを捻った。

キュルルル……ドォンッ!

ディーゼルエンジンが唸りを上げ、ヘッドライトの光が夜の霧を切り裂いた。カリームはギアをローに叩き込み、アクセルを踏み抜いた。

タイヤが濡れた泥土を激しく空転させ、泥を跳ね上げながら車が前進を始めた。バックミラーを見ることは決してしなかった。

彼は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で、耳の中に詰まった冷たい泥を、爪先で少しずつ掻き出した。泥の塊がポロリと指先に落ちた瞬間、遮断されていた世界の音が、津波のように車内へと雪崩れ込んできた。

ゴオオオオオッ、という、激しい風の吹き荒れる音。そして、遥か後方の水路の暗闇から、獣の咆哮のような、あるいは巨大な水門が決壊した時のような、重く湿った地鳴りが、夜の空気を震わせて響き渡っていた。

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