序章 ミットラパープの夜間無線

タイの首都バンコクから東北部イサーン地方へと伸びる大動脈、国道二号線——通称ミットラパープ通り(友情道路)は、サラブリー県を過ぎて山間部へと差し掛かると、牙を剥いたようにその険しさを露わにする。かつて原生林に覆われ、マラリアと野獣によって旅人を阻んだ「ドンパヤーイェン(火の精霊の森)」の山裾を縫うその舗装路は、急勾配と先の見えないヘアピンカーブが連続し、昼夜を問わず、過積載の大型トレーラーや長距離高速バスが猛烈な速度で排気ガスを撒き散らしながら疾走している。

特に、サラブリー県ムワクレック郡からナコーンラーチャシーマー県境へと登りつめる通称「百人死の坂(ヌーン・ロー・ソップ)」と呼ばれる一帯は、雨が降れば油膜の浮いた路面が氷のように滑り、ブレーキを焼き切らせた大型車がガードレールを突き破って谷底へと転落する大事故が後を絶たない。

この魔の道路を、夜間にサイレンを鳴らして駆け抜ける男たちがいる。

民間救護財団——いわゆる「グーパイ(救急ボランティア)」の若者たちである。行政の救急サービスが隅々まで行き届かないタイにおいて、華人系の慈善団体を起源とする民間の救護財団は、警察や正規の救急隊よりも早く事故現場へ急行し、油圧カッターで大破した鉄屑を切り開き、負傷者を病院へ運び、そして肉片と化した死者を白いナイロン袋へと収容する過酷な任務を無給のボランティアとして引き受けている。

彼らの多くは、普段は町の自動車修理工やバイク便、市場の商人として働くごく普通の若者たちである。なぜ、夜になれば血と泥にまみれた現場へと自ら飛び込んでいくのか。そこには、死者を弔い、無縁仏を清めることによって自らのカルマを清算し、来世の平安を願うという、タイ仏教特有の「タムブン(功徳を積む)」の精神が深く根付いている。

タイの大手インターネット掲示板のオカルト系掲示板において、検索窓に「実体験(プラソプカーン・チン)」と入力した際、日常の体験談を圧倒する分量と生々しさで語り継がれているのが、これらグーパイの隊員たちが書き残した手記群である。

深夜、誰も乗っていないはずの荷台から聞こえてくる、爪で鋼板を擦る音。

電源を切った車載無線機から漏れ出す、死者の途切れ途切れの呼びかけ。

そして、事故現場から絶対に持ち帰ってはならないとされる、死者の「所有物」にまつわる因果の記憶。

それは、熱帯の夜風の冷たさとともに、道路という現代のインフラの裂け目に置き去りにされた、不慮の死者たち(ピー・ターイ・ホーン)の怨念が、生者の世界へと染み出してくる瞬間の記録であった。

第一章 百人死の坂

ナロン・ポンサワットが、愛車である白のいすゞ・D−MAXの運転席で無線機のマイクを握りしめたのは、十一月の第一金曜日、日付が変わって午前一時四十分を回った頃だった。

昼間はサラブリー市内の小さなバイク修理工場で油にまみれて働き、夜になるとサワーン・ラッタナチャイ救助隊のワッペンを縫い付けた紺色の作業服に着替えてパトロールに出る。二十六歳のナロンがグーパイの活動を始めてから、今年で四年が過ぎていた。

彼のピックアップトラックのルーフには赤色と青色のストロボ式回転灯が据え付けられ、荷台にはアルミ製の折りたたみ担架、油圧式スプレッダー、ガソリン発電機、そして何十枚もの厚手の白いナイロン製遺体収容袋(トゥン・ホー・ソップ)が常備されていた。

「全ユニットへ、救難信号。ムワクレック下り坂、三十四キロポスト地点。大型セメント運搬車と小型ピックアップの正面衝突。車両炎上なし、車内挟まれ多数、即死の模様。至急現場へ急行せよ」

ダッシュボードのスピーカーから、割れた変調を伴った無線のオペレーターの声が響いた。

助手席で仮眠を取っていた先任隊員のウィチャイが、跳ね起きるように身を起こした。四十五歳になるウィチャイはこの道二十年のベテランで、首には交通事故除けとして知られるルアンポー・トートの高僧粉末護符(プラ・クルアン)を何重にもぶら下げていた。

「ナロン、サイレンを回せ。あのカーブだ。雨上がりで路面が油を吹いているはずだぞ」

ナロンはスイッチを押し下げた。甲高い二連音のサイレンが夜気を引き裂き、ストロボの閃光が、濡れたアスファルトと沿道の深い熱帯雨林を赤と青に交互に染め上げた。アクセルを踏み込むと、三リッターのインタークーラー付きディーゼルターボが唸りを上げ、トラックは時速百十キロで夜のミットラパープ通りを駆け上がっていった。

現場に到着した瞬間、鼻腔を突いたのは、焼けたブレーキライニングの焦げ臭さと、漏れ出た軽油のツンとした匂い、そして生々しい血液の鉄錆の匂いだった。

山肌を削った片側三車線の急カーブ。中央分離帯のコンクリートブロックが数十メートルにわたって粉砕され、二十二輪の巨大なバラ積みセメントトレーラーが横転して道路を塞いでいた。その巨体の下敷きになっていたのは、一台の古いトヨタのピックアップトラックだった。

キャビンはまるでプレス機にかけられた空き缶のように厚さ五十センチまで押し潰され、ルーフの鋼板を引き裂いて、二本の足が不自然な方向に折れ曲がって突き出ていた。

道路一面に、粉々に砕けた強化ガラスの破片と、破裂したスイカのような生体組織が散乱していた。

「おい、油圧カッターを持ってこい! まだ息があるかもしれん!」

ウィチャイが叫び、発電機のスターターロープを力任せに引いた。けたたましい排気音とともに油圧ポンプが作動し、ナロンは重い爪のような油圧スプレッダーを抱えて、潰れたキャビンの隙間へと潜り込んだ。

金属が軋み、引きちぎられる凄まじい音が響く。柱を広げ、歪んだドアを引き剥がした時、ナロンの視界に飛び込んできたのは、言葉を絶する地獄だった。

運転席の男性は、ステアリングコラムに胸郭を完全に押し潰され、即死していた。そして、その横、助手席のスペースにいたのは、二十代半ばと思われる若い女性だった。ダッシュボードと助手席シートに挟まれ、首が骨折してあり得ない角度まで真後ろへと垂れ下がっていた。

長く美しいはずの黒髪は、頭頂部から流れ出た血で固まり、顔面の右半分はフロントガラスの破片によって無残に削ぎ落とされていた。

しかし、その女性の左手は、胸元で何かを強く握りしめたまま、硬直していた。

「……ナロン、合掌しろ」

背後からウィチャイが静かに声をかけた。ナロンは我に返り、血の付いた手袋を胸の前で合わせ、目を閉じた。

「お身体をお運びいたします。苦しみから解き放たれ、良き場所へ行かれますように。失礼をお許しください」

タイのグーパイが、遺体に触れる前に必ず唱える定型句。死者を驚かせず、その尊厳を傷つけないための絶対的な誓いだった。

二人は慎重に遺体を引き出した。骨の砕ける鈍い音が、静まり返った山あいに響く。ナロンは広げた白いナイロン袋の上に女性の遺体を横たえ、ファスナーをゆっくりと引き上げた。

頭部が覆い隠される寸前、街灯の薄暗いナトリウム光の下で、女性の残された左目が、わずかに開いているのが見えた。その濁った瞳は、まっすぐにナロンの顔を見つめているかのように見えた。

第二章 荷台の白い袋

二体の遺体を収容し、ナロンのD−MAXの荷台に並べて固定した時、時刻は午前三時を回っていた。警察の実況見分が終わり、大破した車両が民間の大型レッカー車によって引きずり出されていく。

「ナロン、ムワクレック郡立病院の安置所(ホーン・ゲップ・ソップ)へ運ぶぞ。当直の検視官が待っている」

ウィチャイが助手席に乗り込み、煙草に火をつけた。ナロンは作業用手袋を外し、アルコール消毒液を両手に吹き付けてからハンドルを握った。荷台には、二つの膨らんだ白い袋が、防水シートの下に並んで横たわっていた。

トラックは赤色灯だけを点滅させ、下り坂のカーブを慎重に滑り降り始めた。雨上がりの濃霧が、ドンパヤーイェンの深い谷底から這い上がり、ヘッドライトの光を乳白色の壁となって遮っていた。

車内は、湿ったエアコンの送風音と、エンジンの唸り声だけが支配していた。疲労が鉛のように両肩に圧しかかってくる。

その時だった。

カサッ。

背後から、音がした。キャビンの後部ガラスのすぐ向こう側、荷台の暗闇からだった。

ナロンはルームミラーに視線を走らせた。荷台を覆う厚手の青い防水シート。その端が、風に煽られたわけでもないのに、生き物が身じろぎしたかのように、小さく不自然に持ち上がっていた。

ジジジ……。

ファスナーの擦れる音だった。ナイロン製の遺体袋のジッパーが、内側から、誰かの爪先によって少しずつ押し開けられているような、乾いた連続音。

「……ウィチャイさん」

「気にするな」

ウィチャイは前を見据えたまま、煙草の煙を窓の隙間から吐き出した。その横顔は強張っていた。

「死んだばかりの肉体はな、筋肉が急激に収縮して痙攣することがある。神経の反射だ。よくあることだよ」

「でも、今の音は——」

「前を見ろ、ナロン。運転に集中しろ。後ろを振り返るな」

ウィチャイの声には、普段の温厚さとは異なる、鋭利な緊張感が張り付いていた。

ナロンは唾を飲み込み、視線を前方の道路へと戻した。急カーブが迫っていた。フットブレーキを踏み込み、ギアをサードからセカンドへと落とす。

その瞬間、車体全体がミシリと軋んだ。

まるで、大人二、三人分の体重が、荷台の左後方に突如として加わったかのような重みだった。サスペンションが深く沈み込み、ステアリングが異様な重さで左へと取られた。

「うわっ!」

ナロンは必死にハンドルを握り直した。タイヤが濡れたアスファルトを滑り、ABSが小刻みに作動してガタガタとペダルを押し戻す。ガードレールまで、わずか数十センチ。

スリップした車体を辛うじて立て直し、トラックはカーブを曲がり切った。

冷や汗がナロンの額から噴き出し、顎を伝って作業服の胸元に落ちた。彼は我慢できずに、再びルームミラーを見上げた。

ミラーの長方形のガラスの中に、信じられない光景が映っていた。

荷台の左側。あの若い女性の遺体を収めたはずの白い袋が。平らに倒れていたはずの袋が、まるで正座でもしているかのように、中央から直角に起き上がり、キャビンの後部ガラスに向かって、不気味に屹立していたのだ。

白いナイロンの表面の内側から、何かが激しく蠢いていた。人間の手の形をした突起が、布地を内側から突き破らんばかりに、何度も、何度も、外に向かって突き出されていた。

そして、その起き上がった白い袋の首のあたり。折れ曲がった頭部の輪郭が、ゆっくりと、後部ガラス越しに運転席のナロンの背中へと向けられた。

カツン、カツン、カツン。

硬いものが、ガラスを叩く音。指の爪だった。血の気の引いた指先が、キャビンのガラスを、一定のリズムで叩き続けていた。

「ウィチャイさん! 袋が、袋が起きてます!」

ナロンが絶叫した。ウィチャイは首から下げていたルアンポー・トートのペンダントを素手で握り締め、目を固く閉じて、激しい口調でパーリ語の経文を唱え始めた。

「ナモ・タッサ・バガワトー・アラハトー・サンマー・サムブッダッサ……!」

ウィチャイの怒号のような読経が、狭いキャビンに響き渡る。老隊員はダッシュボードの引き出しから、黄色い聖別された紐(サーイシン)を引きずり出し、フロントガラスのルームミラーに幾重にも巻き付けた。

「止まるな、ナロン! アクセルを踏め! 病院まであと三キロだ! 絶対に車を止めるんじゃないぞ!」

ナロンは歯を食いしばり、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。後部ガラスを叩く爪の音が、次第に激しさを増し、狂乱の打擲音へと変わっていった。ドンドン、ドンドン、ドンドン!

ガラスに細かなヒビが入るのではないかと思えるほどの衝撃。しかし、ナロンは一度も後ろを振り返らなかった。街灯の光が次第に増え、ムワクレックの町の灯りが見え始めた時、後部からの叩く音は、ふっと途切れた。

病院の救急救命センターの裏手、解剖室の薄暗いロータリーにトラックを滑り込ませた時、ナロンはハンドルに突っ伏して激しく喘いでいた。駆け寄ってきた白衣の当直職員たちが、荷台の防水シートをめくった。

ナロンが恐る恐る車を降りて確認すると、二つの白い袋は、何事もなかったかのように、平らに並んで倒れていた。ファスナーも閉まったままであり、表面には何の乱れもなかった。

ただ、キャビンの後部ガラスの外側。埃と泥で汚れていたそのガラスの中央に、はっきりと残されていた。

手のひらの跡だった。細く、爪の尖った、血の混ざった泥で濡れた女の手形が、二つ、ガラスを外側から押し潰すようにして焼き付けられていた。

第三章 消えない血痕

遺体を解剖室のステンレス製の台へと引き渡し、書類にサインを終えた後、二人はサラブリー市内にある救助隊の待機所(スラー・グーパイ)へと戻った。東の空が白み始めていたが、重い雨雲のせいで、街全体が湿った灰色の闇に沈んでいた。

待機所の裏手にある洗車場で、ナロンは高圧洗浄機のノズルを握り、トラックの荷台に向けてトリガーを引いた。

バシュウウウッ!

強烈な水圧が、荷台の波板にこびりついていた泥や、砕けたガラスの微粒子を吹き飛ばしていく。血液や体液の混ざった水が、赤黒い泡となってコンクリートの排水溝へと吸い込まれていく。

しかし、荷台の左奥——あの女性の遺体が置かれていた角の鋼板の上で、水流が弾かれた。

ナロンは眉をひそめ、ノズルを近づけた。そこに、手のひらほどの大きさの、黒褐色の染みがこびりついていた。女性の頭部から流れ出た血液が乾燥したものだった。

彼は強力なアルカリ性の工業用洗剤をぶちまけ、硬いデッキブラシで体重をかけて擦った。ゴシゴシと激しい音を立てて泡立てる。だが、どれほど擦っても、どれほど高圧の温水を吹き付けても、その黒い染みは薄れることすらなく、まるで鉄板そのものに焼き付けられた漆のように、鈍い光を放ち続けていた。

それどころか、水をかければかけるほど、その場所からあの匂いが立ち上ってきた。

消毒液の刺激臭。雨上がりの赤土の生臭さ。そして、その奥から漂ってくる、安価なジャスミンの香水の、胸が締め付けられるような甘ったるい匂い。あの事故現場の車内で、女性の遺体が放っていた匂いそのものだった。

「消えないのか」

背後からウィチャイが歩み寄ってきた。手には、二本の冷たい缶コーヒーを持っていた。ウィチャイは荷台の黒い染みを見つめ、それからナロンの顔をじっと見つめた。

「ナロン。お前、昨夜の現場から、何か持ってきちゃいないだろうな」

「滅相もない! ウィチャイさん、僕がそんなことするわけないでしょう!」

ナロンは激昂して言い返した。グーパイにとって、事故現場から死者の金品や遺留品を盗み出すことは、組織から永久追放されるだけでなく、最も重い仏罰(バープ)を受けるとされる絶対の禁忌だった。

「分かっている。お前がそんな奴じゃないことはな」

ウィチャイは缶コーヒーを一本手渡し、煙草を咥えた。

「だが、死者ってのは理屈じゃないんだ。未練や執着が強ければ強いほど、自分の体から離れたものを必死で探そうとする。特に、あの女の人のように突然命を奪われた『ピー・ターイ・ホーン』はな、自分が死んだことすら理解していないことが多い。

……もし、道具箱や服の隙間に、現場の破片一つでも紛れ込んでいたら、奴らはそれを取り戻すまで、どこまでもトラックを追いかけてくるぞ」

ナロンの背筋に、冷たいものが走った。

「今日、非番だろう。車の中を徹底的に掃除しろ。シートの下も、工具箱の中もだ。……何か見つかったら、絶対に自分のポケットに入れるな。すぐに寺へ持っていって、僧侶に預けるんだ」

ウィチャイはそう言い残し、疲れた足取りで待機所の仮眠室へと去っていった。

ナロンは一人、静まり返った洗車場に残された。高圧洗浄機のポンプの唸りが止まり、排水溝へ水が滴るピチャ、ピチャという音だけが響いていた。彼は荷台を見つめた。

あの黒い染みは、濡れた鉄板の上で、まるで生きている皮膚の黒子のように、動かずにそこにあった。

第四章 助手席の重み

その日の夕方、ナロンは自宅のアパートへ戻ることなく、待機所の駐車場でD−MAXの車内清掃を続けていた。フロアマットを剥がし、掃除機をかけ、シートの隙間に指を差し込んで小石やゴミを掻き出す。

運転席側には何もなかった。続いて、助手席側へと回る。グローブボックスを開け、車検証のファイルや予備のヒューズ、無線機のマニュアルを取り出した。

その時だった。

カラン。

グローブボックスの奥、エアコンのダクトと鋼板の隙間から、何かが滑り落ちてきた。それはフロアマットの上に落ち、鈍い金属音を立てた。

ナロンは身を屈め、それを拾い上げた。

手のひらの上に載ったのは、一本の細い金のネックレス(ソー・コー・トーン)だった。タイの伝統的な純度の高いイエローゴールド。留め具の部分が強い力で引きちぎられており、チェーンの途中には、親指の爪ほどの大きさの、小さな金のペンダントトップがぶら下がっていた。

透明なプラスチックのケースの中に収められていたのは、金箔を貼った小さなプラ・クルアン——ワット・ソートンの慈悲仏の護符だった。

しかし、そのケースの表面には、乾いた赤黒い血液が、指紋の形でべっとりとこびりついていた。

「嘘だろ……」

ナロンの喉がカラカラに渇いた。昨夜の現場。油圧スプレッダーで潰れた助手席を押し広げ、あの女性の遺体を引き出した瞬間。

彼女の首元から千切れたネックレスが、ナロンの作業服の胸ポケットか、あるいは抱えていた工具の隙間に引っかかり、そのまま車内へと落ちて入り込んでしまったのだ。

盗んだのではなかった。完全に不可抗力の事故だった。しかし、結果として、ナロンはこの呪われた「死者の所有物」を、自らの車内に持ち込んでしまっていた。

外は、急速に夕闇が濃くなっていた。サラブリーの街に、重苦しいスコールが降り始め、トタン屋根を激しく打ち据える轟音が周囲を満たしていた。

ナロンは震える手でネックレスをティッシュペーパーに包み、ダッシュボードの中央に置いた。今すぐ近くの寺院へ持っていこう。僧侶に事情を話し、清めてもらわなければならない。

彼は運転席に飛び込み、ドアを閉めた。キーをシリンダーに差し込み、右へ回す。

キュルルル……キュルルル……。

セルモーターが空しく回転するだけで、エンジンに火が入らなかった。バッテリーの電圧計は正常を示している。燃料も満タンだ。それなのに、エンジンはまるで息の根を止められたかのように、唸りを上げるだけで目覚めなかった。

「頼む、動いてくれ……!」

ナロンが何度もキーを捻り直した、その時だった。

プツン。

ダッシュボードの奥でリレーが作動し、車内のすべての照明が一瞬にして消え去った。メーターパネルの光も、時計のデジタル数字も消え、キャビンの中は完全な暗黒に包まれた。

外の雨音が、急速に遠のいていくような感覚があった。バチバチと屋根を叩いていた豪雨の音が、まるで分厚い鉛の壁の向こう側へと追いやられたかのように、くぐもった微小な音へと減衰していく。

そして、その静寂の車内に、匂いが満ち始めた。

あの匂い。消えなかった荷台の匂い。濡れた赤土と、腐敗しかけた血液、そして、あの濃厚なジャスミンの香水の甘ったるい香気。

ギシ……。

助手席のシートが、沈み込んだ。

スプリングがきしむ重々しい音。まるで、ずぶ濡れの人間が、外からドアを開けることもなく、空間の裂け目から直接その座席へと腰を下ろしたかのような重みだった。

ナロンの全身の筋肉が、一瞬にして金縛りにあったように凍りついた。首を右に向けることができない。視界の端、薄暗い助手席の影の中に、濡れた布の輪郭が沈み込んでいるのが分かった。

ヒュー……ッ、ヒュー……ッ。

骨折した喉仏が、無理やり空気を吸い込もうとするような、湿り気を帯びた激しい摩擦音。凍りつくような冷気が、助手席の側から波のように押し寄せ、ナロンの右腕の皮膚を鳥肌で粟立たせた。

カチリ。

ダッシュボードに据え付けられた車載無線機が。電源スイッチがオフになっているはずの無線機が、青白いバックライトを明滅させた。

ザーッ……ザザザッ……。

激しいホワイトノイズがスピーカーから吹き荒れる。そのノイズの底から、震える女の声が、途切れ途切れに漏れ出してきた。

『……痛い……』

ノイズに混じる、掠れた泣き声。

『……首が……動かないの……誰か……助けて……』

『……私の……返して……』

ナロンの呼吸が止まった。彼の視線が、ダッシュボードの中央に置かれた、あのティッシュペーパーの包みへと吸い寄せられた。

ペーパーの端が、目に見えない指先によって、カサリと小さくめくられた。

金色のチェーンが、暗闇の中で鈍く光を放つ。

その時、助手席の影が、ゆっくりと、ギチギチと骨を軋ませながら向きを変えた。

暗黒の中に浮かび上がったのは、あの解剖室の台の上に横たわっていたはずの、若い女の顔だった。

顔面の右半分は、無数のガラス片が突き刺さったまま裂け落ち、剥き出しになった頬骨と歯列が、黒ずんだ血にまみれていた。頭部は右肩の上に完全に脱臼して倒れ込み、引き裂かれた皮膚の隙間から、白く砕けた頚椎の断片が露出していた。

そして、その残された左目。

充血して白目が赤黒く濁りきったその瞳が、わずか三十センチの距離から、狂気じみた光を宿してナロンの顔を凝視していた。

女の唇が、耳元まで引き裂かれるように開いた。その開いた口の奥から、凝固した血の塊がボタボタとフロアマットの上にこぼれ落ちた。

『……泥棒……』

声はスピーカーからではなく、ナロンの耳のすぐ真横、耳朶に直接触れるような至近距離から吐きかけられた。

『……私の首から……奪ったわね……!』

女の左手が、信じられない軌道を描いて持ち上がった。指先は骨が露出し、爪の間にはフロントガラスの破片がびっしりと食い込んでいた。その手が、ナロンの首元へと向かって、空気を切り裂くように伸ばされた。

車内の空気が、マイナス数十度まで一気に急降下した。フロントガラスの内側が一瞬にして真っ白な霜に覆われ、外の景色が完全に遮断される。ナロンの首筋に、氷の刃のような指先が触れた。皮膚が凍りつき、気道が猛烈な力で圧迫される。

「あ……が……っ!」

声が出ない。視界が急速に狭まり、意識の端がチカチカと明滅を始める。女の顔がさらに近づき、腐敗した血液とジャスミンの匂いが鼻腔を完全に塞いだ。

(違う……盗んだんじゃない……!)

心の中で叫んでも、死者には届かない。理不尽な暴力によって命を奪われたピー・ターイ・ホーンにとって、生者はすべて自らの怨念を晴らすための標的に過ぎないのだ。

死の淵で、ナロンの右手の指先が、ダッシュボードの上の金の鎖に触れた。血に汚れたワット・ソートンの護符。

慈悲の仏。苦しむ者を救う、タイの聖なる力。

ナロンは最後の力を振り絞り、首を締め上げる女の凍てついた腕を払いのけるのではなく、その金のネックレスを両手で包み込んだ。そして、痙攣する両手を胸の前へと無理やり引き上げ、至高の合掌(ワイ)の形を作った。

親指を眉間に、人差し指を額につける、最大限の敬意の礼。

彼は割れそうな頭蓋骨の内側で、自らの魂のすべてを込めて、腹の底から叫んだ。

「プラ・ソートン! ルアンポー・トート! 我が祈りを聞き届けたまえ!」

ナロンの声が、車内の凍結した空気を震わせた。

「私は奪っていない! 私はあなたを助けようとした! あなたを暗闇から引き上げ、家族の元へ帰そうとした! この金はお前のものだ! 誰の手にも渡さない! 私が必ず、お前の母の元へ、お前の愛する者の元へ届けてやる!」

ナロンは額をステアリングに叩きつけるようにして、絶叫を続けた。

「私の命を奪うなら奪え! だが、この鎖を届けるまでは死ねない! 信じてくれ! グーパイの名にかけて、私は嘘をつかない!」

沈黙が訪れた。

首を絞め上げていた凄まじい圧力が、ふっと緩んだ。

ナロンは息を呑み、震える両手を胸の前に維持したまま、恐る恐る顔を上げた。

助手席の女の指先が、空中で静止していた。その濁りきっていた左目の奥から、赤黒い血に混ざって、一筋の透明な涙が頬を伝い落ちていた。

女の裂けた唇が、微かに震えた。

『……母さんに……』

それは、耳を劈く叫びではなかった。母を求める幼子の、あまりにも頼りなく、悲しい囁きだった。

『……母さんに……返して……』

フッ、と車内を生ぬるい風が吹き抜けた。フロントガラスを覆っていた白い霜が、一瞬にして水滴へと変わり、ダッシュボードの上をザーッと流れ落ちた。

助手席の影が、煙のように輪郭を失っていった。血まみれの服も、不自然に折れ曲がった首も、夜の闇の中へと溶けるように薄れ、消え去っていった。

カチリ。インパネの照明が一斉に点灯した。止まっていたエアコンのファンが勢いよく温風を吹き出し、車内の冷気を急速に追い払っていく。

ブルルンッ!

セルモーターを回してもいないのに、D−MAXのディーゼルエンジンが、力強い咆哮とともに自ら目覚めた。

ナロンはその場に崩れ落ち、ステアリングを抱きしめて嗚咽した。両手の平には、強く握りしめすぎた金のネックレスのチェーンが、赤く深い溝となって刻み込まれていた。

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