序章 常夏の排気ガスと、冷たい霧の峰
マレー半島の中央を貫くティティワンサ山脈の麓、首都クアラルンプールの夕暮れは、逃げ場のない湿気と排気ガスの油煙に塗り込められている。
幹線道路の渋滞を埋め尽くす赤いブレーキランプの列、スコールが去ったばかりの湿ったアスファルトから立ち上る熱気、そして耳をつんざく無数のスクーターの排気音。北緯三度の熱帯都市において、夜とは冷涼をもたらすものではなく、生ぬるいサウナの蓋を締め切るような重苦しい帳に過ぎない。
だが、その熱狂の坩堝から車を東へと走らせ、カラック高速道路の曲がりくねった山道を登り始めると、風景の質感は劇的な断絶を見せる。
標高千八百メートルの山頂に位置するメガリゾート——カジノ、遊園地、巨大ホテル群が林立する「ゲンティン・ハイランド(雲頂高原)」。
そこは、年間を通じて気温が十五度前後にまで急降下し、熱帯雨林の奥底から湧き上がる乳白色の濃霧が、昼夜を分かたず建造物の外壁を濡らし続ける、マレーシアで唯一の「寒冷なる異界」である。
華人系、マレー系、インド系が交錯するマレーシアのネット社会には、この高原にまつわる膨大な数の実体験が、英語とマレー語、そして広東語の混交した独特の語り口で語り継がれている。
カジノで全財産を失って谷底へ身を投げた者たちの足音。濃霧のハイウェイを逆走する無人の黄色いフォルクスワーゲン。
そして何より、山頂の華やかなカジノホテルの陰に隠れ、霧の中に巨大な墓標のように佇む、ある老朽化したコンドミニアムの一室にまつわる手記。
それは、貧乏な大学生たちが、常夏の熱気を逃れて登った冷たい霧の峰で、自らの足元に敷かれていた「緑色の呪符」を踏み抜いてしまった、逃れようのない一夜の記録であった。
第一章 プロトン・ウィラと、赤苔の巨塔
二〇〇九年の八月、大学のセメスター休みを迎えていた二十歳の学生であった私——ケニーは、スバン・ジャヤの安アパートで三人の悪友たちと顔を突き合わせていた。
エアコンの壊れた六畳間の蒸し暑さに耐えかねたワイキットが、扇風機の生ぬるい風を浴びながら、ベッドの上で跳ね起きた。
「おい、山へ行こうぜ。ゲンティンだ。あそこならクーラー要らずだし、カジノの小銭入れでちょっと運試しもできるだろ」
誰も異論はなかった。アメンが親から借りてきた年代物の国民車、プロトン・ウィラに四人で乗り込み、私たちは深夜の幹線道路へと滑り出した。
所持金は全員合わせても数百リンギット程度。巨大カジノホテルの「ファーストワールド」や「ゲンティンホテル」の正規料金を払えるはずもなく、私たちは学生御用達の格安物件として知られていた、山頂の外れにあるコンドミニアム——「アンバーコート」の空き部屋を、現地の仲介ブローカーを通して直接押さえることにしたのだ。
標高が上がるにつれ、窓から吹き込んでくる風は急速に湿り気を帯び、冷たくなっていった。
午前零時を回る頃、私たちは雲海を貫く九十九折の山道を登りきり、リゾートの中心街からさらに細い脇道へと逸れた。
ヘッドライトの白いビームが切り裂いた濃霧の向こう側に、その巨大な質量がぬっと立ち現れた。
二棟並び立つ、二十数階建ての巨大なコンクリートの巨塔。
一九九〇年代初頭の好景気期に富裕層向けの高原リゾートとして開発されながら、一九九七年のアジア通貨危機によって開発会社が倒産。管理が放置された結果、外壁の白い塗装は長年の湿気と雨水によって完全に剥落し、大気中の特殊な赤藻が付着したため、まるで乾いた血糊を上からぶち撒けられたような、赤黒い斑点模様でびっしりと覆い尽くされていた。
「……うわ、ネットの写真よりずっと気味が悪いな」
助手席のケルビンが身震いした。
駐車場には、持ち主が何年も放置したと思われる埃まみれの廃車が何台も放置され、湿った冷風が吹き抜けるたびに、トタンの看板がキイキイと軋む音を立てていた。
フロントロビーには、薄暗い蛍光灯が数本灯っているだけであった。カウンターの奥にいた出稼ぎ労働者とおぼしき男は、四人の身元確認もろくにせず、真鍮の古い鍵を無造作に放り出してきた。
「十四階だ。エレベーターを降りたら右の突き当たり。……夜中に外のドアをノックされても、絶対に開けるなよ」
男が広東語交じりの英語でぼそりと呟いた警告を、その時の私たちは、客引きの悪質な冗談程度にしか受け止めていなかったのである。
第二章 剥がれた絨毯と、緑の三角符
旧式のエレベーターは、上昇するたびに胃袋を揺さぶるような重い振動を立て、十四階に到着した瞬間に、ガタンッ! と大きな音を立てて停止した。
鉄の引き戸が開いた先に広がっていたのは、幅二メートルほどの薄暗い内廊下であった。
天井の間接照明は半分以上が球切れしており、壁紙は湿気でふやけて波打ち、足元の擦り切れた絨毯からは、何十年も日干しされていない毛布のような、濃厚なカビの臭気が立ち込めていた。冷気が足首にまとわりつく。吐き出す息が、うっすらと白く濁っていた。
十四〇四号室の扉を開けると、そこは広々としたツーベッドルームの間取りであった。
リビングの奥には、天井から床まで一面に広がるアルミサッシの引き戸があり、その向こう側には霧に沈んだ断崖絶壁を見下ろすバルコニーが口を開けていた。家具は古びていたが、一見したところ、ただの荒れ果てた安宿に過ぎないように見えた。
「おい、とりあえずベッドを決めようぜ」
ワイキットが荷物を投げ出し、奥の主寝室のドアを開けた。
私とアメンがリビングのソファに腰を下ろし、缶ビールを開けた、まさにその時であった。
奥の寝室から、ケルビンの不審そうな呼ぶ声が響いた。
「おい、ケニー。ちょっと来てくれ。……これ、何だと思う?」
寝室へ向かうと、ケルビンがクローゼットの脇の床にしゃがみ込んでいた。
足元の古い絨毯の端が、接着剤の劣化によって十センチほどめくれ上がっていた。
ケルビンがその捲れた絨毯の裏側の隙間を指差した。
コンクリートの床板の上に、一枚の紙片が、丁寧に折り畳まれて置かれていたのだ。
それは、濃緑色の厚手の紙を、一辺が五センチほどの「三角形」に折り固めた護符であった。
紙の表面には、黒い墨汁のような液体を用いて、道教の呪字がびっしりと書き殴られていた。
「ただの道教の符(フウ)だろ」アメンが笑った。「華人の家なら、厄除けでどこにでも貼ってある黄色い紙だよ」
「違う」
私はその緑色の三角符を凝視し、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
私の母方の実家は、ペナン島で代々広東系の道士の法事を取り仕切る家系であった。
中国の正統な道教において、一般的な平安祈願や金運招来に用いられるのは「黄色い紙に朱砂の赤インク」である。
だが——この「濃緑色の紙に、黒い墨で記された符」は、全く別の、極めて不吉な儀礼にのみ用いられる特殊な呪殺防壁であった。
それは、自ら命を絶った者、あるいは怨嗟を抱いて水死・墜落死した「凶死者(タイ・ホーン)」の霊魂が、生者を道連れに黄泉へと引きずり込もうとするのを力づくで封じ込め、その空間から外へ出られぬように足止めするための「鎮魂封じ」の符であったのだ。
「触るな、ケルビン!」
私が叫んだ瞬間、すでにケルビンの指先がその紙片をつまみ上げていた。
「なんだよ、ただのゴミだろ」
ケルビンが無造作にその緑の三角符を引き出し、サイドテーブルの引き出しの中に放り込んで引き出しを閉じた、その刹那であった。
パシッ……!
部屋の隅、浴室の奥から、乾いた静電気のような破裂音が響いた。
同時に、リビングの天井にぶら下がっていた古びたシーリングファンが、スイッチも入れていないのに、ギギギ……と錆びた鉄の音を立てて、ゆっくりと回転を始めたのである。
第三章 頭上の麻雀牌と、軋むドアノブ
午前二時を回った頃、部屋の空気は完全に異質なものへと変貌を遂げていた。
標高の高いゲンティンの夜風が、建物の隙間を吹き抜けるたび、ヒュオオオ……という獣の遠吠えのような風鳴りがサッシを震わせていた。
エアコンなど存在しない部屋であるにもかかわらず、室温は急激に低下し、私たちは全員がパーカーのフードを被り、毛布にくるまってリビングの床に固まっていた。
異変は、まず「頭上」から降ってきた。
ジャラジャラジャラ……カツンッ!
天井のコンクリートを隔てた真上——十五階の部屋から、何十枚もの「麻雀牌」を卓の上で激しくかき混ぜるような、乾いた衝突音が響き始めたのだ。
続いて、ギ……シ……ギ……シ……と、重量のある木製の家具を、床の上で引きずり回すような重苦しい摩擦音。
「……上の階の連中、こんな時間から麻雀かよ」
アメンが苛立たしげに天井を睨みつけた。
「うるさくて眠れやしねえ。注意してくるか?」
「よせよ」ワイキットが止めた。「カジノ帰りの柄の悪い連中かもしれない。関わらない方がいい」
だが、音は次第に常軌を逸した激しさを帯び始めた。
ドスンッ! ドスンッ!
大人の人間が、助走をつけて天井から飛び降りているかのような、激しい衝撃が頭上を襲う。
天井のコンクリートの継ぎ目から、パラパラと微細な石膏の粉末が、私たちの足元へと落ちてきた。
その時であった。
ベッドルームの扉の向こうで、ケルビンが突如として異様な呻き声を上げ始めた。
駆け込むと、ケルビンはベッドの上で硬直したまま、白目を剥いて両手で自らの喉元を掻きむしっていた。
「ケルビン! おい、どうした!」
身体を揺さぶっても反応がない。皮膚は氷のように冷え切っているのに、額からは脂汗が吹き出し、歯の根をガチガチと激しく打ち鳴らしながら、その喉の奥から、
『……寒い……足が……届かない……』
という、彼自身のものとは似ても似つかない、しゃがれた老婆のような呟きが漏れ出していた。
金縛り——マレーの言葉でいう「kena kacau(霊に邪魔される)」。
私とアメンが必死で彼の両腕を押さえつけていた、その刹那。
ガタガタガタッ!!
今度は、部屋の正面玄関のドアノブが、外側から狂ったような力で上下に激しくガチャガチャと揺さぶられ始めたのである。
「誰だ!」ワイキットが叫んだ。
鍵は内側から確実に掛けられていた。
だが、丸いステンレスのノブは、まるで怪力を持つ何者かが力任せに引きちぎろうとしているかのように、右へ、左へと激しく回転を繰り返している。
恐る恐るリビングへ戻った私は、足元のドアの隙間に目を落とした。
部屋の明かりが、ドアの下の数ミリの隙間から、外の内廊下の床へと漏れ出していた。
その光の筋を、二つの「黒い影」が遮っていた。
裸足の足であった。
人間の足首から下が、外の廊下の絨毯の上に、爪先を部屋の扉の側へ向けて、ピタリと直立していた。
皮膚は抜けるように白く、土気色に変色し、その足首の周囲には、濃密な「黒い水たまり」が、じわりとドアの隙間から部屋の内側へと染み出し始めていたのである。
第四章 封鎖された階層と、鎖に繋がれた闇
「おい、冗談じゃねえぞ!」
アメンが台所から包丁を引っ張り出してきた。
「誰かが悪戯してやがるんだ! 上の階のクソ野郎どもか、泥棒だ!」
「待て、ドアを開けるな!」私が制止したが、恐怖で半狂乱になったアメンとワイキットは、
「フロントへ行って人を呼んでくる。あの管理人の親父を引っ張ってくるぞ!」
と叫び、ドアチェーンを外すなり、外の内廊下へと飛び出した。
外の廊下には、誰もいなかった。
あのドアノブを揺らし、隙間から見えていたはずの「二本の足」の姿は、影一つ残されていなかった。
ただ、ドアの前の絨毯に、腐った雨水のような異臭を放つ、冷たい濡れ染みだけが楕円形に残されていた。
「ケニー、お前はケルビンを見てろ! 俺たちで上に行って文句を言ってくる!」
二人は制止を聞かず、非常用の内階段ではなく、廊下の突き当たりにあるエレベーターへと走っていった。
私は一人、寝室のケルビンの元へ戻った。彼の呼吸は浅く、胸元に手を当てると、心臓が小鳥のように狂った速度で鼓動していた。
その頃、アメンとワイキットは、上昇するエレベーターの箱の中にいた。
階数表示の赤いデジタルランプが、十三、十四、十五と切り替わっていく。
十五階に到達した瞬間、ピン、という電子音とともに、鉄の扉が左右に開いた。
二人が足を踏み出そうとしたその瞬間、二人の全身の筋肉が凍りついた。
十五階のフロアには、明かりが一つも存在しなかった。
完全なる漆黒。
そして、エレベーターの出口のすぐ目の前——廊下の入り口を塞ぐように、大人の手首ほどもある太い鉄の鎖が、壁の両端の金具に何重にも巻き付けられ、巨大な南京錠によって厳重に封鎖されていたのだ。
鎖には、何十枚、何百枚という「黄色と朱色の道教の呪符」が、びっしりと貼り巡らされていた。
長年の山風に晒されて紙の端はボロボロに引き裂かれ、湿った隙間風が吹き抜けるたび、バタバタバタッ、と無数の蛾が羽ばたくような不快な音を立てていた。
床は剥き出しの濡れたコンクリートのままであり、絨毯すら敷かれていなかった。
部屋など存在しない。ここは、何年も前にフロア全体が閉鎖され、人間が立ち入ることすら禁じられた「死の吹き溜まり」であったのだ。
では——あの天井の上で麻雀牌をかき混ぜ、家具を引きずり、床を踏み鳴らしていた音は、一体誰が立てていたというのか。
ヒタ……ヒタ……ヒタ……。
封鎖された暗黒のフロアの奥底——光の届かぬ廊下の突き当たりから、泥水を含んだ足音が、鎖に向かってゆっくりと近づいてくる気配が響いた。
「戻れッ!!」
ワイキットが狂ったように「閉」ボタンを連打した。
扉が閉まりかける刹那、二人は暗闇の隙間に目撃したという。
梁から垂れ下がった一本の太いロープの輪と、その下に散乱していた、何十個もの「古びた牌」の残骸を。
エレベーターが十四階へと戻り、二人が転がるようにして十四〇四号室へと駆け戻ってきたとき、室内にはさらなる絶望が口を開けていた。
「ケニーッ! ケルビンがいない!」
リビングへ飛び込んだ私が目にしたのは、吹き荒れる冷たい霧に濡れ、激しくカーテンが打ち付ける、全開になったバルコニーのアルミサッシであった。
第五章 非常階段の呼吸音と、カラックの夜道
霧が、リビングの中にまで雪崩れ込んでいた。
気温はすでに一桁近くまで落ち込んでいたはずだ。
バルコニーの濡れた手すりへ駆け寄った私の視線が、外の暗黒を捉えた。
地上十四階。足元には底知れぬ断崖と熱帯雨林の樹海が広がるのみの、高さ五十メートルの虚空。
その細い手すりの外側——わずか十センチほどのコンクリートの梁の上に、ケルビンが素足で立っていた。
彼はパジャマのまま、霧の海に向かって背中を向け、部屋の内側にいる私たちに向かって、直立不動の姿勢を取っていた。
その首の角度は、あり得ない方向にねじ曲がっていた。
左肩の骨の上に、耳が完全に押し付けられるほど直角に曲折した首。
そして、その白目を剥いた顔面は、土気色を通り越して青黒く鬱血し、口の端からダラダラと透明な涎を垂らしながら、私たちを見ていたのだ。
『……落ちたら……楽に……なるよ……』
ケルビンの喉仏が不自然に痙攣し、あの老婆のような掠れ声が夜風に散った。
『……金も……借金も……全部……消えるんだ……』
「ケルビンッ!!」
私は考えるよりも先に身体を投げ出していた。
サッシのレールを飛び越え、濡れた手すりに身を乗り出し、ケルビンのパジャマの襟首を力任せに鷲掴みにした。
アメンとワイキットも叫び声を上げながら私の腰と足にしがみつき、三人分の全体重をかけて、ケルビンの身体をバルコニーの内側へと引きずり倒した。
ドスンッ! とリビングの床に四つの肉体が重なり合って転倒した。
ケルビンは暴れ狂い、爪を立てて私の顔を掻きむしり、獣のような咆哮を上げたが、アメンが台所のシーツを引き裂いて彼の四肢を拘束し、私が懐からあのサイドテーブルの「緑の三角符」を掴み出して、彼の額へと力任せに押し当てた。
ジジジッ……!
まるで濡れた皮膚に焼鏝を当てたような鈍い音が響き、ケルビンの身体が激しく弓なりに反り返った。
彼の口から、生臭い、川底のヘドロのような悪臭を放つ黒い胃液が大量に吐き出され、直後、彼は糸の切れた操り人形のように脱力して意識を失った。
「逃げるぞ!」
私は叫んだ。荷物などまとめる暇はなかった。
車のキーと財布だけをポケットに突っ込み、意識のないケルビンの巨体を私とアメンが両肩から担ぎ上げ、ワイキットが先頭に立って部屋を飛び出した。
エレベーターホールへ走ったが、上り下りのボタンは赤く点滅したまま、一切の反応を拒絶していた。
「階段だ! 非常階段を使え!」
鉄扉を蹴破り、私たちは非常階段の螺旋状の暗闇へと飛び込んだ。
外壁の換気ルーバーから冷たい霧が渦を巻いて侵入し、ステップは結露によって氷のように滑りやすくなっていた。
十四階から一階へ。
ケルビンの重い肉体を引きずりながら、一段、二段と転がるように駆け下りる。
だが——その時、私たちの頭上から、音が降り注いできたのだ。
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