序章 霧の松林と、肩の上の鉛

マニラの喧騒と耐え難い排気ガスの熱気を逃れ、夜行の長距離バスに揺られること六時間。

夜明け前の薄明かりの中、ルソン島北部の中央山岳地帯——標高千五百メートルの高地に位置するバギオのバスターミナルへ降り立った瞬間、肺腑に流れ込んでくるのは、熱帯のフィリピンにあって奇跡のように冷涼な大気と、深いベンゲット松(ピヌス・ケシヤ)の青い芳香である。

かつて二十世紀の初頭、アメリカ植民地政府が避暑地として建設したこの高原都市は、「パイン・シティ(松の街)」の名で親しまれ、暑気に疲弊したマニラ市民にとっての天国のような保養地として知られている。

だが、この街の美しく整えられた市街地を一歩外れ、深い谷を越えた先の丘陵へと視線を向けると、風景は一転して不穏な相を帯び始める。

谷底から湧き上がる乳白色の濃霧は、昼夜を分かたず杉や松の枝を濡らし、太陽の光を鈍い白光へと変えてしまう。

そして、その霧の吹き溜まりの頂点——ドミニカン・ヒルと呼ばれる急峻な丘の頂に、かつて数千人の血を吸い込み、今や窓ガラスをすべて失った巨大な廃墟が、灰色の怪獣のように蹲っている。

旧ディプロマット・ホテル。

第二次世界大戦の戦火、憲兵隊による拷問と斬首、赤十字の旗を掲げながら爆撃された避難民、そして戦後に再建されたホテルで起きた不可解な変死の数々。

地元の人々は、陽が落ちた後にその丘へ近づくことを頑なに拒む。

私がマニラの大学に通っていた二〇〇〇年代初頭、悪友たちとともにこの街を訪れ、その禁忌の扉を力任せに押し開けてしまったあの一夜の記憶は、十数年が過ぎた現在も、私の右の鎖骨の奥深くに、冷たい鉛の塊のような重縮感として沈殿し続けている。

第一章 有刺鉄線の谷と、ドミニコ会の遺構

その旅は、大学の学期休みを利用した、八人の男女による無邪気なドライブ旅行として始まった。

バンを借り切り、セッション・ロードの賑やかな市場でイチゴや工芸品を買い漁った私たちは、日が暮れるにつれて、退屈な観光地巡りには飽き足らなくなっていた。

男子学生の悪乗りと、女子学生たちの黄色い悲鳴。その場の熱気に背中を押されるようにして、誰からともなく持ち上がったのが、フィリピン全土で最も恐ろしいと囁かれていたあの丘——ドミニカン・ヒルの廃ホテルへの「夜間肝試し」であった。

当時、ディプロマット・ホテルの敷地はまだ歴史公園として一般開放されておらず、市当局によって厳重に封鎖されていた。

正門には鎖が巻かれ、私設の警備員が詰所に常駐して侵入者を監視していた。

だが、若さゆえの万能感に酔いしれていた私たちは、正規のルートを避け、建物の裏手に広がる鬱蒼とした谷底へと足を踏み入れたのである。

足元は、長年の雨水で泥濘んだ赤土の急斜面であった。

懐中電灯の光を漏らさぬよう手で覆いながら、私たちは松の根や岩肌に爪を立て、息を殺して斜面を這い登った。

行く手を阻んだのは、錆びついた有刺鉄線のフェンスであった。

ジェフが持参していたワイヤーカッターで下部の網目を力任せに切断し、私たちは服を泥まみれにしながら、一人ずつその冷たい鉄条網の隙間を潜り抜けた。

敷地内に足を踏み入れた瞬間、誰もがその場に立ち尽くし、息を呑んだ。

濃霧が、足元を生き物のように這い回っていた。

霧のカーテンを透かして目の前に屹立していたのは、一九一五年にドミニコ会の修道院として建てられ、後にホテルへと改装された、重厚な石造りの二階建ての巨塔であった。

外壁のコンクリートは長年の風雨で黒ずみ、至る所に爆撃と銃撃の弾痕が無数に口を開けている。

二階のテラスの中央には、天を刺すように巨大な石造りの十字架が聳え立ち、それが冷たい夜霧の中で、まるで墓石のように白く浮かび上がっていた。

「……おい、誰かいるぞ」

レイモンドが声を潜めて前方を指差した。

正面玄関へ続く巨大なアーチ状の窓の隙間に、揺らめく光が見えたのだ。

警戒して身を潜めると、それは私たちと同じように、スリルを求めて忍び込んだ別の地元の若者グループであった。彼らはロビーの中央にあった古い噴水の跡地に陣取り、持参した蝋燭に火を灯して、小声で祈りの言葉を唱え始めていた。

悪霊を鎮めるためのカトリックの祈祷。その敬虔な仕草が、かえってこの空間に充満する異常な緊張感を際立たせていた。

「私たちも行こう」

誰かが囁いた。

私たちは正面のアーチをくぐり、冷え切ったタイルの床を踏みしめながら、巨大なエントランスホールへと足を踏み入れたのである。

第二章 噴水の水垢と、肩の上の鉛

建物の内部は、外の夜気よりもさらに数度、明らかに冷え込んでいた。

天井のコンクリートは剥落し、鉄筋が錆びた骨のように剥き出しになっている。壁一面には無数の落書きが刻まれていたが、それらは近年のスプレーアートではなく、古い炭や刃物で刻まれたような、判読不能の記号や人名ばかりであった。

何より異様であったのは、空間全体を支配していた「臭気」であった。それは、何十年も乾くことのない湿ったコンクリートのカビ臭に、古い獣の脂、そしてわずかに、傷口から流れたばかりの新鮮な血液のような、甘酸っぱく生臭い鉄の匂いが混ざり合ったものであった。

先客のグループが噴水の縁で蝋燭を灯し終え、十字を切った、まさにその刹那であった。

ゾワリ……。

私の項(うなじ)の皮膚を、氷水で濡らした刷毛のような、絶対零度の冷気が撫で下ろした。

全身の鳥肌が一斉に逆立ち、奥歯がカチリと音を立てて噛み合わさった。

直後、私の両肩の上に、突如として信じがたい「重量」が圧し掛かってきたのだ。

重い。

信じられないほどに、重い。

それは、分厚い辞書や教科書を限界まで詰め込んだ登山用の大型リュックサックを、いきなり両肩に背負わされたような、骨がきしむほどの圧迫感であった。

首の筋肉が強張り、鎖骨が下へと押し下げられ、呼吸が浅くなる。

頭痛がこめかみを鋭く突き刺し、胃の腑から酸っぱい胆汁が競り上がってきた。

「……マーク? 顔色が真っ青よ、大丈夫?」

隣にいた女子学生の一人が私の異変に気づき、小声で尋ねてきた。

「いや……何でもない。ちょっと、肩が凝っただけだ」

私は虚勢を張って答えた。だが、その重量は幻覚などではなかった。歩みを進めるごとに、肩に食い込む見えない質量は増していき、私は前屈みにならなければ立っていることすら困難な状態に陥っていた。

その時、前方の噴水を見つめていたレイモンドが、震える指でホールの壁を指差した。

「おい……見ろ、あの壁……!」

噴水の後方、二階へと続く大階段の吹き抜けの壁面に、外からの月光を浴びて、巨大な「影」が投影されていた。

大柄な男のシルエットであった。

肩幅が異常に広く、頭部は僧侶のフードのようなものを被っているようにも見えた。

だが、その影の光源となるべき場所——噴水の周囲、窓の外のテラスには、影を落とすような人間など一人として存在しなかった。

虚空から生み出された黒い巨躯の影が、壁の上で、ゆっくりと、首を左右に傾げるようにして蠢いていたのだ。

女子学生たちの間から、悲鳴が漏れ出た。

「もう嫌! 帰ろう! お願いだから外へ出よう!」

恐怖の臨界点に達した彼女たちは、男子学生たちの腕を引っ張り、出口へと逃げ腰になり始めた。

だが、男の意地が私たちを引き留めた。ここで逃げ出せば、一生臆病者の烙印を押される。

私たちは互いに肩を叩き合い、震える足で大階段を登り、二階の回廊へと進むことを選んだのである。

階段の最後の踊り場に差し掛かった時であった。

同行していた女子学生の一人——普段は勝気で冗談ばかり言っていたニッキーが、突然その場にへたり込み、両手で顔を覆って激しく号泣し始めたのだ。

「ニッキー、どうしたの! どこか痛いの!?」

女子たちが駆け寄り、彼女の背中を擦った。

だが、ニッキーは一切の言葉を発することなく、ただ子供のように声を上げて泣き続けるばかりであった。その瞳は虚空の一点を凝視し、瞳孔は極限まで散大していた。

後に彼女が震える声で告白したところによれば、彼女が階段の最後のステップに足を掛けた瞬間、暗闇の踊り場の中央に、黒い僧服を纏った一人の神父が直立し、血走った眼差しで彼女の顔を至近距離からじっと見つめていたのだという。

そして、神父の姿は、彼女の悲鳴とともに、煙のように虚空へと掻き消えていったのであった。

二階のテラスへ出ると、夜風が霧を引き裂き、天空の月が巨大な十字架を青白く照らし出していた。

映画のセットのようなその光景に、もはや冒険を楽しむ気力は完全に消え失せていた。

「庭へ出よう。裏庭のベンチで少し落ち着いてから、引き返そう」

私たちは全員で階段を駆け下り、ホールの裏扉を押し開けて、建物の背後に広がる荒れ果てた庭園へと脱出したのである。

第三章 バレテの古樹と、根元の怪火

外の冷たい空気を吸い込んだ瞬間、ニッキーの過呼吸はようやく収まりを見せた。

庭園の片隅、苔生した石のベンチに腰を下ろした私たちは、互いの無事を確かめ合うように身を寄せ合っていた。

私の両肩に圧し掛かっていたあの異常な重量感も、建物の外へ出たことでわずかに和らいだように思えた。だが、それは消え去ったのではなく、依然として私の首筋の皮膚に、冷たい氷の指先のように絡みつき続けていた。

「……あれ? 俺の携帯がない」

ポケットを探っていた私が呟いた。

腰のベルトホルダーに装着していたはずの、当時愛用していたノキア製の携帯電話が、ホルダーの留め具ごと消え失せていたのだ。

道中で落としたのか、それとも階段を駆け下りた際に弾け飛んだのか。

学生にとって、携帯電話は高価な私物であった。紛失したまま帰るわけにはいかない。

「俺も行くよ」

親友のジェフとレイモンドが立ち上がってくれた。

女子学生たちと残りのメンバーを庭のベンチに残し、私たちは懐中電灯を手に、今来たばかりのルートを逆戻りして捜索を開始した。

ホールの床、大階段のステップ、瓦礫の散乱する回廊。

這いつくばるようにして床面を照らし続けたが、黒いプラスチックの端末は見当たらなかった。

「マーク、本当に落としたのか? 誰かに電話を鳴らしてもらおう」

ジェフが自らの携帯を取り出し、私の番号へとダイヤルした。

プルルルル……プルルルル……。

受話器の呼び出し音が鳴り響く。

だが、その電子音は、建物の内部からではなく、背後の庭園——私たちが先ほど通り過ぎた、草むらの奥底から微かに響いてきたのだ。

私たちは顔を見合わせ、音のする方角へと歩みを進めた。

庭園の最北端、建物の影に隠れるようにして聳え立っていたのは、一本の巨大な「バレテの木(イチジク属の巨木/ガジュマル)」であった。

フィリピンの民間伝承において、気根を無数に垂らし、奇怪にねじれ曲がった幹を持つバレテの巨木は、カプレ(煙草を吸う樹上の巨人)やアスワン(魔女)、そして行き場を失った無数の死霊たちが寄り集まる「魔の巣窟」として畏怖されている。

古くから、道路の拡張工事であってもバレテの木を伐採することは固く禁じられ、誤って切り倒した工事関係者が次々と変死を遂げたという逸話には事欠かない。

そのバレテの根元へと近づくにつれ、着信音は夜の静寂の中に、驚くほど明瞭に響き渡っていた。

そして、懐中電灯の光を根元の黒土へと向けた瞬間、私たちは全員、息を呑んで立ち止まった。

太い気根が複雑に絡み合い、まるで大蛇の群れが蜷局を巻いているかのような根の結節点。

その湿った木の洞の中から、青白い「怪火のような光」が、規則正しく明滅していたのである。

光の主は、私の携帯電話であった。

ディスプレイのバックライトが、暗黒の根の隙間を怪しく照らし出していた。

だが、それはあり得ない場所であった。

私たちは庭園に入った際、このバレテの木の周囲には爪先一つ踏み入れていなかったのだ。建物から庭のベンチに至る小道から、この巨木の生える藪までは、十数メートルもの深い草むらを掻き分けねば到達できない。

落としたはずの携帯が、なぜ、誰の手にも触れられることなく、この魔木の根元の洞の奥深くに、まるで何者かが鑑賞するために陳列したかのように、美しく置かれているというのか。

恐る恐る手を伸ばし、泥の中から端末を拾い上げた。

液晶画面には、ジェフの番号からの着信通知が表示されていた。

だが、その端末を握りしめた私の手のひらを、底なしの冷たさが貫いた。

携帯の表面は、まるで冷凍庫から取り出したばかりの氷塊のように凍りついており、濡れた泥の隙間から、あのドミニコ会の回廊と同じ、饐えた血液の臭気が立ち上っていたのである。

「……もう行こう」

レイモンドの声が震えていた。

「これ以上、ここにいちゃいけない。早く、みんなの所へ戻ろう」

私たちは逃げるように小走りで庭のベンチへと引き返し、待機していた仲間たちと合流すると、侵入したあの有刺鉄線の谷へ向けて、一目散に駆け出したのである。

第四章 警備員の閃光と、飛び降りた影

脱出のルートは、侵入時よりも遥かに過酷であった。

雨脚が強まり、赤土の急斜面はまるで油を流したように滑りやすく、私たちは何度も転倒し、泥にまみれながら有刺鉄線の切れ目を目指して這い登った。

私の両肩の重圧は、この時、極点に達していた。

息が苦しく、喉の奥から鉄の味が競り上がってくる。まるで、冷たい濡れ雑巾のような何かが、私の首筋に自らの両腕を回し、全体重を預けてしがみついているかのような生々しい感触。

ようやく最後の一人がフェンスの切れ目を潜り抜け、林道へと続く小高い岩場の上に全員が這い上がった、まさにその瞬間であった。

ピカーッ!!

暗闇を切り裂いて、猛烈な光量のハロゲン懐中電灯のビームが、私たちの顔面を真正面から射抜いた。

「誰だッ! 動くな!」

巡回中の、ホテルの専属警備員であった。

迷彩柄の雨合羽を纏い、腰に警棒と銃を吊るした大柄の男。

不法侵入が見つかった。私たちは観念し、警察への突き出しや罰金の覚悟を決めて、両手を上げてその場に立ち尽くした。

「すみません! 悪気はなかったんです、ただの肝試しで……」

私が先頭に立ち、泥まみれの顔で謝罪の言葉を口にしようとした、その刹那であった。

懐中電灯のビームが、私の顔から、私の「首と肩のあたり」へと焦点を合わせた瞬間。

「ヒッ……!!」

警備員の喉から、絞め殺される蛙のような短い悲鳴が漏れた。

男は持っていた大型の懐中電灯を取り落としかけ、ガタガタと全身を痙攣させながら、二歩、三歩と激しく後ずさりしたのだ。

ライトの光が地面を激しく揺らす。照らし出された警備員の顔面は、土気色を通り越して、まるで死人のように真っ白に脱色していた。

その瞳は極限まで見開かれ、唇は紫色に変色し、今にもその場で失神して倒れ込みそうなほどの純粋な恐怖の色が、その大柄な体を支配していた。

男が見つめていたのは、私の顔ではなかった。

男の視線は、私の頭部の真後ろ——私の両肩の真上に、完全に釘付けになっていたのだ。

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