『人は、死んだあとに戻ってこられると思いますか』。投稿の前、福来と名乗る男はそう尋ねた。録音に残った声は若い。
だが質問のあとには、返事を急かさない長い沈黙があった。彼が語ったのは、二〇二一年、河南省のある県で父の二番目の姉に起きたという出来事である。家族の名と町の名は、本人の希望により伏せる。
福来の叔母には、幼いころから『余計なものが見える』と親族のあいだで噂されていた。誰もいない庭の隅を人が通ったと言い、葬列のあとを知らない子どもがついて行くと注意した。そのような話が重なるうち、家族は驚かなくなった。
見えるという本人だけが、年を取るほど口数を減らしていった。
叔母の夫の父が亡くなった夜、自宅の正間には大きな棺が置かれていた。蝋燭と線香が絶えないよう、親族が交代で見守っていた。叔母は棺のそばで急に顔を伏せ、夫から理由を訊かれても答えなかった。
翌朝になってようやく、『お義父さんが立っていた』と打ち明けた。
老人は棺の中に横たわったまま、それとは別に蝋燭の横にも立っていたという。火へ顔を寄せ、細く長い舌で炎の先を何度も舐めていた。叔母が目を閉じても、瞼の裏で赤い火だけが動いた。
棺を確かめた者たちには、異変は見つけられなかった。
それから数年後、叔母は同じような話を自分の母について語り始めた。母親はすでに亡くなっていた。二〇二一年の春になると、『母さんが迎えに来ている』『一緒に暮らそうと言う』と、日に何度も繰り返した。
家族が叱ると黙ったが、夜中には玄関近くで誰かと話していた。
事故はその年の初夏に起きた。叔母は幼稚園へ子どもを迎えに行き、帰り道で道路を横切った。そこへ四輪駆動車が進入し、叔母をはねた。
救急車で病院へ運ばれ、家族が廊下で待つあいだ、処置は六時間近く続いたという。夜になって、医師から助からなかったと告げられた。
ここから先は、診療記録ではなく家族の記憶による。福来は、叔母が翌日に家へ戻され、葬儀の支度が始まったと話した。三日目の夜、顔色は青黒く、腕も硬かったという。
しかし遺体の状態や死亡判定の経緯を示す資料はなく、本稿は医学的な蘇生事例として扱うものではない。
夜半を過ぎ、福来は白布の外へ出ていた叔母の指が動くのを見た。最初は灯りのせいだと思った。次に、人差し指と中指が床を探すように曲がった。
彼が身を乗り出したとき、閉じていた口から、息を擦るほど小さな声が漏れた。『水。水を飲ませて』。
座敷にいた者たちは、いっせいに壁際まで退いた。逃げ出す者もいた。叔母の夫だけが湯呑みを持って近づき、その唇へ少しずつ水を含ませた。
最初の一口は顎からこぼれた。二口目に喉が動いた。三口目を飲むと、叔母は長く息を吐き、時間をかけて上半身を起こした。
家族が泣き、名を呼ぶなかで、叔母はすぐには誰の顔も見なかった。自分の両手を表と裏から確かめ、指を一本ずつ曲げていた。やがて夫を認めたが、再会を喜ぶというより、知らない部屋で頼れる相手を見つけたような目だったと福来はいう。
体調が落ち着いてから、叔母は事故のあとの記憶を語った。身体が突然軽くなり、病院の天井近くから自分を見下ろしていた。処置室の外では家族が泣いている。
そばへ行き、何度も声をかけたが、誰も振り向かなかった。肩へ触れようとしても、手は煙のように抜けた。
処置室の扉の左右には、背の高い二つの影が立っていた。一方は白く、もう一方は黒い。頭が扉の上へ届くほど大きく、手には太い鎖があった。
叔母が廊下から離れようとすると、黒い影が輪にした鎖を投げた。輪が頭を通った瞬間、病院の灯りはすべて消えた。
次に目を開けたとき、叔母は途方もなく広い道の上にいた。両側には家が並び、どの家も紙を折り、糊で貼ったように薄かった。窓の内側には緑色の灯りが浮いていた。
風はないのに軒先がかすかに震え、紙同士が擦れる音が道の奥まで続いていた。
道には多くの人がいた。清代の衣服を着た者、民国期の長衫を着た者、現代の上着を着た者が、同じ方向へ進んでいた。足は地面につかず、歩くというより滑っていた。
自動車も走っていたが、車体も窓も紙でできていた。エンジンの音はなく、通り過ぎるたびに紙銭を燃やした匂いが残った。
叔母はどれほど歩いたか分からない。やがて人の流れの向こうに、亡くなった父母を見つけた。喜んで駆け寄ると、両親は驚き、母は『どうして降りてきたの』と叱った。父も『ここはお前の来るところではない。早く上へ戻れ』と言った。
叔母が戻り方を尋ねても、両親は答えなかった。二人は道を逆向きに押し返した。背後で紙の車が近づき、白い灯りが足元を照らした。
母の両手が最後に強く胸へ当たると、叔母は後ろへ倒れた。その落下の先に、線香の煙と水の味があったという。
家族は、亡くなった両親が娘を送り返したのだと受け止めた。福来も、その時点では同じように考えた。しかし叔母が戻ったことを素直に喜べたのは、ほんの数日だけだった。
身体は叔母のものでも、日常の細部が少しずつ合わなくなっていった。
生前の叔母は酒を口にしなかった。仏教への信仰が深く、長いあいだ肉を避けていた。ところが帰宅後は、毎晩強い酒を求めた。最初の晩に半斤ほど飲み、顔色ひとつ変えなかったという。料理では、脂身の多い紅焼肉をことのほか好んだ。
家族が以前の食生活を思い出させても、叔母は『そんなものを食べて、よく生きていられたね』と笑った。箸の持ち方も変わっていた。右利きだったはずが、気づくと左手で肉をつまんでいる。
夫が指摘すると、箸を置き、自分の左手を初めて見るもののように眺めた。
もっとも奇妙だったのは言葉だった。叔母は生まれてからずっと河南のことばで暮らし、標準語を話しても土地の抑揚が残った。ところが戻ったあと、方言はきれいに消えた。
話すのは標準語だけで、語尾には家族の誰も聞き慣れない、南方を思わせる柔らかな抑揚が混じった。
声そのものは変わっていない。それでも別人が叔母の声帯を借り、ひとつずつ音を確かめながら話しているように聞こえた。幼い親族の名を取り違え、家の中で長年使ってきた呼び名も忘れた。
一方で、誰も教えていない遠い土地の料理や地名を口にすることがあった。
福来はある夜、叔母へ冥府で両親に会った話をもう一度尋ねた。叔母は酒の入った碗を持ったまま、『そんな夢も見たかもしれないね』と答えた。生き返った直後には細部まで語ったはずなのに、関心を失ったようだった。
そして福来の顔を長く見て、『あなた、どこの家の子だった』と訊いた。
家族は事故の衝撃や長い処置による記憶の障害を疑った。それは当然の見方であり、人格や嗜好の変化にも医学的・心理的な説明はありうる。だが福来にとっては、ひとつひとつの変化より、それらが同じ方向を向いていることが恐ろしかった。
叔母が何かを失ったのではなく、誰かが叔母の暮らし方を学び始めたように見えたのである。
夏の終わり、叔母は新疆へ行くと言い出した。河南から遠く離れ、縁者もいない土地だった。理由を訊くと、『昔から知っている人がいる』とだけ答えた。
家族が止めても聞かず、少ない荷物と現金を持って家を出た。駅で見送った夫にも、一度も振り返らなかった。
それ以来、福来は叔母に会っていない。電話番号はほどなく使われなくなり、どこに住んでいるのかも分からない。生存しているという話だけが、人づてに一度届いた。
福来は録音の最後で、最初の問いを言い換えた。『死んだ人が戻るかどうかじゃない。戻ってきたものを、同じ人だと呼べるかどうかなんです』。
本文の約81%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。