序章 格安の一等賞と、五行の傲慢

人は自らの理性を過信するとき、決まって破滅の扉を自らノックする。

私の実家は、中国江南地方——江蘇省蘇州の古い水郷に続く、地理風水を家学としてきた家系である。祖父からは、羅盤の磁針、家屋の採光、風、水、周辺地形を読む方法を教えられた。

だが風水は、土地と暮らしを理解する文化的体系であって、霊の存在を測る科学機器ではない。当時の若い私は、その区別を理解していなかった。

二〇二四年、私は東京の大学院へ留学し、都市計画と環境地理学を専攻していた。そこで関心を持ったのが、俗に「事故物件」と呼ばれる、過去に人の死が生じた住宅である。

日本の国土交通省は、人の死に関する不動産業者の告知についてガイドラインを設けている。自然死か事件性のある死か、特殊清掃の有無、発生場所、経過時間、取引判断への影響などによって扱いは異なり、「死があれば永久に必ず告知」という単純な制度ではない。

それでも私は、家賃の下がった部屋を家伝の術で「浄化」できれば、安く住めるうえ、自分の知識も証明できると考えた。

そんな折、SNS(X)のタイムラインを眺めていた私の目に、ある不動産情報系アカウントが投稿した戦慄すべき告発ポストが飛び込んできた。

【真偽不明】西新宿の某高層住宅、同じ部屋で入居者の死亡が続いたという噂

投稿には、十年間に五組が亡くなったという匿名の一覧が添えられていた。浴室での溺死、二人の転落、自死、薬物による死亡、発見の遅れた孤独死。建物名も管理会社名も伏せられ、裏付けとなる報道や公的記録へのリンクはなかった。

末尾には、家賃一万円、敷金・礼金・管理費なしという募集画面らしき画像が貼られていた。

画面の募集図面を凝視した瞬間、私の心臓は不快な跳躍を見せた。

西新宿の高層住宅。最寄り駅から徒歩数分、本来なら家賃二十万円を超えても不思議ではない立地である。それが一万円。

投稿が作り話である可能性は高かった。にもかかわらず、私は怖さより先に「自分なら確かめられる」という傲慢を抱いた。

浴室の溺死、バルコニーからの夫婦同時転落、梁のない室内での首吊り、薬物中毒死、そして腐敗が進んだ二週間の孤独死。

単なる「心理的瑕疵」の範疇を完全に逸脱している。死の形態が多岐にわたりすぎているのだ。通常、悪霊の類が居座る部屋は、同じパターンの死(首吊りの部屋では首吊りが連鎖する)を繰り返す傾向がある。

だが、この部屋はまるで、あらゆる死の形態を無差別に見本市のように蒐集しているかのような異常性を呈していた。

「面白い」

私は嘲笑を浮かべた。

「土地が変わっても、陰陽と五行の理まで変わるものか。家伝の方法で読み解けないはずがない」

私は即座に仲介業者へと連絡を入れた。不動産屋の担当者は、私がその曰く付きの部屋の内覧を希望していると知るや、電話口で引き攣った声を上げ、何度も「本当に後悔しませんね?」と念を押してきた。

仲介業者からは、投稿の一覧すべてではなく、把握している直近の事案と契約条件について説明を受けた。私は質問書へ回答を残し、躊躇なく契約書に署名した。

こうして私は、西新宿の空を衝くようにそびえ立つ、名称も所在地もここには記さない架空の巨塔——その二十階西端の部屋の鍵を手に入れたのである。

第一章 地上六十メートルの棺桶

入居初日の午後は、梅雨の湿気が重く淀む七月の蒸し暑い日であった。

高層エレベーターに乗り込み、耳膜を圧迫する気圧の変化に耐えながら二十階へ降り立つと、ホテルのような内廊下が東西にまっすぐ伸びていた。毛足の長い絨毯が足音を吸い込み、天井の間接照明が寒々しい白光を落としている。空気の循環が悪く、かすかに新築特有の接着剤の匂いに混じって、生ゴミを塩素で無理やりに漂白したような、異様な饐えた残り香が鼻腔を突いた。

二十階西端の部屋の電子錠を解錠し、重い鉄扉を押し開けた。

間取りは、専有面積五十平米ほどの広々とした1LDKであった。

リビングの奥には、天井から床まで一面に広がる巨大なペアガラスの掃き出し窓(フィックス窓)が嵌め込まれており、眼下には新宿中央公園の鬱蒼とした森と、立ち並ぶ都庁の超高層ビル群が一望できた。地上六十メートルの絶景。床は明るいオーク材のフローリングで統一され、壁紙も貼り替えられたばかりで、一見すれば都会の成功者が暮らす瀟洒な空間そのものであった。

だが、玄関の敷居を跨いだ瞬間、私の皮膚の下を走る霊的な神経回路が一斉に警報を鳴らし始めた。

「……冷えるな」

思わず独り言が漏れた。真夏の午後、締め切られていた室内であるにもかかわらず、室温計は十八度を指していた。エアコンは作動していない。

窓から差し込む西日は強烈であるはずなのに、その光は床の表面で不自然に乱反射し、部屋の四隅の薄暗がりを少しも暖めようとはしていなかった。

私は荷物の中から、祖父から受け継いだ家宝である「天心十道・純銅製二十四山羅盤(風水コンパス)」を取り出した。

部屋の中心——立極点(りっきょくてん)に立ち、両手で羅盤を水平に保持し、中央の天池(方位磁針の水盤)を覗き込んだ。

その刹那、背筋に氷柱を叩き込まれたような戦慄が走った。

金色の磁針が、ピタリと静止することを拒絶していたのだ。

針は南を指す代わりに、まるで狂乱した時計の秒針のように、右へ左へと小刻みに痙攣し、やがて水盤の中でグルグルと不気味な高速回転を始めた。

風水学において、羅盤の針の異常挙動には八つの凶兆が存在する。針が沈むのを「没針」、浮き上がるのを「浮針」というが、今この針が見せている狂乱は、最も忌むべき「転針(てんしん)」——すなわち、地下あるいは空間そのものに、強大な悪霊や地煞が渦巻き、陰陽の磁場が完全に反転している状態を意味していた。

「地上六十メートルの高層階で、なぜこれほど強烈な『陰煞』が湧き上がるのだ……?」

通常、土壌から湧き出る邪気や地磁気の乱れは、五階から六階の高さに達するまでに大気中に希釈され、消散していくのが定説である。高層階の凶相といえば、主に風の吹き抜け(風煞)や、周囲のビルの角が切り裂く「尖角煞」などの外的な形殺に限られるはずだった。

しかし、この部屋を満たしているのは、まるで墓穴の底、地下数百メートルの暗渠から直接湧き上がってきたかのような、粘りつく湿気と死臭を帯びた「大地の澱み」そのものであった。

私は唇を噛み締め、自らの知識を総動員して部屋の防衛線を構築し始めた。

玄関のドアの内側中央には、八卦の力で外からの魔を反射する「乾坤太極八卦凸面鏡」を設置した。

リビングの梁の交差する急所には、雷火の気を宿す樹齢百年の「雷撃桃木剣」を吊るし、部屋の四隅には、純度の高い辰砂(朱砂)で書いた道教の「五岳鎮宅護身符」を、両面テープで隙間なく貼り巡らせた。

さらに、寝室のベッドの周囲には、邪気を吸い取る天然のチベット産黒水晶(モリオン)の原石を四方に配置し、完璧な「四象結界」を完成させた。

「これでいい」

私は自らに言い聞かせた。これだけの布陣を敷けば、いかなる強力な浮遊霊であっても、部屋の中に侵入することすら敵わないはずであった。

だが、その過信は、入居初日の深夜、時計の針が丑三つ時——午前二時を回った瞬間に、木っ端微塵に粉砕されることとなった。

第二章 五重の怪異——連鎖する死の残影

カチャリ、と静寂の底で微かな音が響いた。

ベッドの中で浅い眠りに落ちていた私は、突如として皮膚を針で刺されたような悪寒に跳ね起きた。

時計のデジタル表示は「午前二時十四分」。

エアコンの送風音すら途絶えた室内は、音の凍りついたような静寂に支配されていた。

ピーン、ポーン……。

静寂を切り裂いて、玄関のインターホンがけたたましい電子音を鳴り響かせた。

心臓が跳ね上がった。こんな深夜に、タワーマンションのエントランスのオートロックを通過して、玄関前の個別インターホンを鳴らせる人間などいるはずがない。

私は抜き足差し足で廊下へと進み、壁に埋め込まれた液晶モニターの通話ボタンを押さずに画面を覗き込んだ。

モニターの白黒画面には、誰もいなかった。

無人の内廊下が、白けた蛍光灯の光を浴びて虚しく映し出されているだけである。

「センサーの誤作動か……?」

私が息を吐き出した、その瞬間であった。

モニターの画面の端——カメラの画角のギリギリ外側の死角から、「生々しい濡れた長髪」が、ヌッと画面の上部から垂れ下がってきたのだ。

続いて、カメラのレンズの真正面に、血走った巨大な眼球が割り込んできた。

モニター越しに、私と、その眼球の焦点が完全に一致した。

バチンッ! という激しい火花とともに、インターホンの液晶画面がブラックアウトした。

同時に、玄関ドアの外側——わずか数センチの鉄板の向こう側から、

ドスン……ドスン……ドスン……

と、巨大な重量物が床に打ち付けられるような鈍い打撃音が響き、ドアの隙間から、まるで真夏のドブ川から立ち上るような、猛烈な腐敗臭が吹き込んできた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前ッ!」

私は震える指で、通俗的な呪術書から覚えた九字を切った。中国と日本の宗教文化が混ざった自己流であり、正式な道教儀礼とは呼べない。

打撃音はピタリと止んだ。

だが、安堵する暇すら与えられなかった。

背後のリビング、そして浴室の方向から、常軌を逸した「物理現象」が一斉に噴き出したのである。

ジャーーーーーッ……!

浴室の扉の向こうから、激しい水流の音が響き始めた。

駆け寄ってガラス戸を開けると、浴槽の蛇口が限界まで捻られ、黒く濁った異臭を放つ泥水が、波々と溢れ出して洗い場を水浸しにしていた。排水口からは、ゴボゴボと人の喉が詰まるような喘鳴が響き、湯船の水底には、三十代とおぼしき男の青白い背中が、水死体特有の異様な膨張を見せて浮かび上がっていた。

『……苦しい……水が……抜けない……』

男の幻影が、濁った水の中から私を見上げて手を伸ばしてきた。

私は悲鳴を飲み込み、浴室のドアを叩き閉めた。

リビングへ逃げ戻ると、今度は頭上の天井から、ギシ……ギシ……という木材が軋む鈍い重量音が響いてきた。

見上げると、コンクリート打ちっ放しの天井のダウンライトの配管レールから、太い麻縄が一本、輪を作って垂れ下がっていた。そして、その輪の中に、首を異様な角度にへし折られた若い女の身体が、虚空にぶら下がっていたのだ。

女の飛び出した舌先から、ポタポタと粘りつく唾液が、私の足元のフローリングへと滴り落ちる。

さらに、狂気の連鎖は止まらなかった。

床の隅、黒水晶を置いたベッドルームの闇の中から、ガタガタと全身の骨を痙攣させ、口から白い泡と血を吹き零しながら、喉を掻きむしる男の呻き声が這いずり出てきた。急性薬物中毒死の残影。

そして、部屋の空気全体が、まるで何週間も放置された肉の塊が腐り落ちたような、濃厚な死臭(孤独死の腐敗気)に完全に呑み込まれていった。

「うわああああっ!」

私はリビングの窓際へと追い詰められた。

背後を振り返った私は、自らの眼を疑った。

地上六十メートル。二十階の外部には、足場など爪先一つ分も存在しない。

その窓ガラスの「外側」——強風が吹き荒れる漆黒の夜空の中に、四十代とおぼしき男女が、互いの手首を赤いビニール紐で固く結び合った状態で、空中に直立して窓ガラスに顔を押し付けていたのだ。

二人の顔面は、地面に激突した瞬間の破壊を再現するように、頭蓋がひしゃげて赤黒い肉が露出していた。

女の霊が、折れ曲がった指先で、カチ、カチ、カチと窓ガラスを爪で引っ掻きながら、耳を劈く金切り声で叫んだ。

『お前も落ちろッ! 一緒に落ちろッ!!』

パリンッ! というけたたましい破裂音がリビングに轟いた。

見れば、玄関に掲げていた乾坤太極八卦鏡が、見えない力によって真っ二つに叩き割られ、床に転がっていた。

四隅の朱砂の符は、黒い墨汁を浴びせられたように変色して炭化し、天井から吊るしていた桃木の宝剣は、根本からポッキリと折れて火花を散らしていた。

私が何年もかけて学んできた中国正統の風水結界が、わずか数分のうちに、赤子の手をひねるように完膚なきまでに蹂躙されたのだ。

この部屋に巣食っているものは、ただの「死者の霊」ではない。

過去に死んでいった五組の住人たちは、それぞれが独自の意思で祟っているのではなく、この空間そのものが持つ「底知れぬ悪意の重力」に呑み込まれ、その手足(傀儡)として永遠に自らの死の苦悶を再演させられているに過ぎないのだ。

私は部屋を飛び出し、非常階段を転がるように駆け下りた。

背後から、無数の死者たちの足音と、インターホンのけたたましい連打が、どこまでも追いかけてくるのを感じながら。

第三章 海を渡る長老——太極八卦陣の崩壊

翌朝、西新宿の二十四時間営業のファミリーレストランに逃げ込んだ私は、極度の恐怖と脱水症状から、ガタガタと震える手でコーヒーカップを握りしめていた。

服にはあの部屋の饐えた腐敗臭が染み付き、どれほど手を洗っても、指先から死人の冷気が抜け落ちない。

「私の腕では、太刀打ちできない……」

プライドは粉々に砕け散っていた。このまま放置すれば、部屋を引き払うどころか、私の魂魄そのものがあの部屋の「六番目の犠牲者」として引きずり込まれるのは時間の問題であった。

私は震える指でスマートフォンを操作し、国際電話をかけた。

相手は、蘇州で実質的な家長を務める私の大伯父——中国道教協会にも太いパイプを持ち、華東地域で数々の悪名高い凶宅を調伏してきた、当代随一の風水大師・陳玄道(チェン・シュアンダオ)であった。

電話口で事情を説明した私に対し、大伯父は当初、激しい怒声を浴びせてきた。

『莫迦者が! 己の浅学を過信して異国の魔窟に踏み込むとは何事か!』

しかし、私が羅盤の転針の様子、そして五重の死の連鎖の現象を詳細に告げると、受話器の向こうの大伯父の気配が、凍りつくように沈黙した。

『……針が円を描いて止まらぬと申したな。そして、天からではなく、地の底から陰気があふれ出ていると……。分かった。今すぐ羽田行きの便を押さえろ。私が直接東京へ赴く』

二日後、大伯父は二人の屈強な弟子を伴い、羽田空港へと降り立った。

御年七十を超える大伯父であったが、その眼光は鶴のように鋭く、手には紫檀の重厚な法具箱を抱えていた。中には、江西省竜虎山の天師府で開光された「五雷天蓬印」、百年物の沈香、そして代々の陳家が秘蔵してきた「張天師親筆の破煞黄符」が収められていた。

「安心しろ」大伯父は私の青ざめた顔を見据え、力強く言った。

「天地を読む方法は土地ごとに異なるが、まずは何が起きているかを見極めよう。術を誇示するために行くのではない」

その夜、午後十一時。

大伯父と二人の弟子、そして私の四人は、再びあのタワーマンション二十階西端の部屋へと足を踏み入れた。

大伯父の指揮のもと、リビングの中央に大掛かりな「太極八卦鎮煞陣」が敷設された。

床には黄粉で精緻な太極図が描かれ、八方には乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌の八卦を象徴する真鍮の神獣像が据えられた。中央の祭壇には三清道祖の神像が祀られ、太い紫煙が天井へと立ち上る。

大伯父は道袍(法衣)を身に纏い、手に桃木剣を構え、弟子たちに太鼓と銅鑼を打ち鳴らさせながら、天地を揺るがすような大音声で「金光神呪」を唱え始めた。

『天地玄宗、万炁の本、広修億劫、我に神通を証せよ……!』

厳かな経文の響きとともに、部屋の温度がわずかに上昇したように思えた。

黒ずんでいた窓ガラスの向こうの夜景が、本来の輝きを取り戻しかけた、まさにその瞬間——。

午前二時零分。

西新宿の大地が、突如として激しく「波打った」。

地震ではない。揺れているのは、タワーマンションの建物全体ではなく、この二十階西端の部屋の床のコンクリートだけであった。

床下深くから、

ズズズズ……ゴオオオオオオッ……!

という、巨大な何かが地底の岩盤を爪で引き裂くような、聞くに堪えない重低音の呻きが這い上がってきた。

「な、何だこれは!?」

弟子の一人が悲鳴を上げた。

祭壇の上に置かれていた三清道祖の陶器の神像が、突如として内側から爆縮するように粉々に砕け散った。

大伯父が壁に貼り巡らせていた「張天師の親筆符」が一斉に青白い冷たい火花を散らし、灰すら残さずに一瞬で燃え尽きた。

そして——床のフローリングの継ぎ目という継ぎ目から、「粘りつくような漆黒の水」が、噴水のようにブクブクと湧き上がり始めたのである。

水からは、千年間放置された下水と、ヘドロ、そして大量の血液が混ざり合ったような、耐えがたい悪臭が立ち込めていた。

『天地玄宗……! 急急如律令ッ!!』

大伯父は血相を変え、桃木剣を黒水の吹き溜まりへと突き立て、雷撃の呪を叫んだ。

だが、返ってきたのは、嘲笑のような地鳴りであった。

黒水の中から、青黒く変色した無数の「人間の腕」が、蓮の花のように一斉に生え伸びてきたのだ。

腕は大伯父の桃木剣を鷲掴みにし、怪力をもってそれを真っ二つにへし折った。

衝撃波が大伯父の胸元を直撃した。

「ぐはっ!」

大伯父は鮮血を吐き出して壁際まで吹き飛ばされ、手挟んでいた秘伝の羅盤が、パキリと音を立てて真っ二つに割れた。

弟子二人はすでに白目を剥いて失禁し、床に倒れ伏している。

大伯父は血まみれの口元を拭い、恐怖に震える眼で床から湧き出る黒水を見つめながら、絶叫した。

『逃げろ……! 早くここを出ろッ!』

『伯父さん!』

『これは霊などではない……! 人間の死霊の類など断じてないッ! ……この土地そのものが、太古の昔から呪われた「毒の坩堝」なのだ! 我ら外来の道法では、この地脈の因果に触れることすら叶わん……!!』

私は瀕死の大伯父と、気絶した二人の弟子を必死の思いで廊下へと引きずり出した。

背後でバタンと閉まった二十階西端の部屋の扉の向こうから、五組の死者たちの哄笑と、地底の怪物の咆哮が、混ざり合って響き渡っていた。

中国の大陸で百年の風雨を生き抜いてきた陳家の威信は、異国の摩天楼の一室で、無残にも叩き折られたのである。

第四章 熊野の神杉と、十二社の古層

意識朦朧の大伯父を大学病院の救急病棟へと運び込み、手当を終えた頃には、東の空が白み始めていた。

大伯父の肋骨は二本へし折れ、胸部には内出血による巨大な「黒い手のひらの痣」がくっきりと浮かび上がっていた。医師団は「局所的な強打による外傷」と診断したが、それが何もない密室の中で見えざる手によって刻まれたものであることを知る者は、私一人きりであった。

病室の前の廊下のベンチに座り込み、自らの無力さに打ちひしがれていた私の耳に、ふと、涼やかな衣擦れの音が届いた。

顔を上げると、そこに一人の老人が立っていた。

白髪を綺麗に結い上げ、白の小袖に濃紺の袴を身に纏った神職——神社の神官(宮司)の姿であった。手には神事用の木製の笏(しゃく)を持ち、その佇まいは、病院の無機質な白い空間の中で異様なほどの清冽な気を放っていた。

老神職は私の顔をじっと見つめ、痛ましげに眉根を寄せた。

「……若いお人。貴方、西新宿の『あの塔』の二十階に足を踏み入れましたね」

私は弾かれたように立ち上がった。

「な……なぜ、それを?」

老神職は静かに首を横に振った。

「貴方の身体から、強烈な『十二社の泥の臭気』が立ち上っております。……そして、大陸の尊い道術の破片が、無残に砕け散った残滓も。病院の裏手の鎮守の杜から、異様な気の激発が見えましたので、急ぎ駆けつけてみれば……やはり、あの部屋の因果に触れてしまった者がいたのですね」

老神職が名乗った神社の名を聞いた瞬間、私の脳裏の地理情報が電撃のように結びついた。

「神職様……! お願いです、教えてください!」

私は病院の廊下であることも構わず、老神職の前に膝をついた。

「あの部屋には、一体何が潜んでいるのですか。なぜ家伝の方法が、一片の木の葉のように弾き飛ばされたのですか」

老神職は私の肩にそっと手を置き、静かに諭すように言った。

「異なる土地の儀礼に優劣をつけることはできません。ただ、土地の記憶を読むには、その土地で積み重ねられた史料と言葉が要る。貴方が見たものを、まず歴史と照らしてみましょう」

老人は郷土史に詳しく、十二社界隈の小さな鎮守を預かる神職だと名乗った。私を近隣の古い会館へ導き、旧地図を広げた。

第五章 淀橋の怨禍——タワーマンションが貫いたもの

老人とともに新宿中央公園の木立を抜け、十二社熊野神社の前を通った。実在するこの神社は、応永年間に熊野三山から十二所権現を勧請したことに由来すると伝えられ、周辺の旧地名「十二社」にもつながっている。

私たちは神社そのものではなく、近くの架空の古い会館へ入った。そこで老神職は一枚の古びた和紙の絵図面を広げて見せた。

それは、江戸時代から明治初期にかけての、武蔵国豊島郡角筈村(つのはずむら)——現在の西新宿一帯の古地図であった。

「現代の人間はね、西新宿をただのガラスとコンクリートの摩天楼街だと思い込んでいます」

老神職は枯れ枝のような指先で、絵図面の中央に描かれた広大な池と湿地帯を指差した。

「この一帯はかつて『十二社』と呼ばれ、池と滝のある江戸郊外の景勝地でした。茶屋や料亭が並び、行楽客で賑わったことは新宿区の資料にも残っています」

老神職の口から語られた西新宿の歴史の裏面は、戦慄を禁じ得ない血と水の因果であった。

ここまでは確認できる歴史である。だが老人は、地図の余白に書かれた出所不明の古い異聞も示した。

そこには、池の端へ流れ着いた身元不明の死者を村人がひそかに弔い、水辺へ鎮め石を置いたという話が記されていた。公文書にも発掘記録にも裏付けはなく、後世の創作かもしれない。老人自身も「史実として語ってはいけない」と念を押した。

一方、淀橋浄水場は、一八九八年に現在の西新宿で給水を開始した東京最初の近代浄水場である。約七十年にわたり東京水道の中核を担い、副都心計画の進展と東村山浄水場への機能移転に伴って、一九六五年三月三十一日に閉鎖された。

「浄水場の史料に霊的な封印の記録はありません。ただ、怪談は巨大な水槽を『土地を押さえる重石』として読み替えたのでしょう」

老神職の声が低く沈んだ。

「浄水場が閉じ、跡地が高層街へ変わった。その劇的な景観の変化へ、古い池と水の記憶を重ねた噂が生まれたのです。あの投稿者はさらに、架空の高層住宅を旧沈殿池の底へ置き、死者の一覧まで作った。

貴方は、その物語の中へ自分から入ってしまった」

「では、あの投稿に書かれた五つの死は……」私の喉がカラカラに渇いた。

「ええ。現代の建築技術は素晴らしい。岩盤深くまで何十本もの太いコンクリート杭を打ち込み、巨大なビルを支えている。

……だがね、霊的な観点から見れば、それは『大地の傷口に、何本もの鉄の楔を力任せに突き刺した』に等しい暴挙だったのです」

老神職の説明によって、あの二十階西端の部屋の狂気のパズルが、戦慄すべき精度で組み上がっていった。

老人の解釈では、杭、水脈、二十階という高さに物理的な因果があるのではない。匿名投稿を読み、部屋を恐れ、同じ幻影を想像する人間の意識が、場所に新しい怪談の層を作った。私が見た五つの死も、実在の犠牲者の霊ではなく、投稿文から私自身が組み立てた「死の見本市」だった可能性がある。

「五組の死者が実在したと断定してはいけません。だからこそ危険なのです。存在しない死者に名前と姿を与え、読む者を同じ部屋へ誘う。怪談そのものが、新しい地縛を作ることもあるのです」

第六章 大祓の祝詞と、断ち切られた因果

「神職様……あの部屋を、救う手立てはあるのですか」

私の問いに、老神職は立ち上がり、神棚から一本の白木の三宝を取り出した。

その上には、青々とした榊の枝(玉串)と、古びた麻の緒、そして白木で削り出された「形代(かたしろ)」が載せられていた。

「土地の記憶は消せません。ですが、作り話によって結ばれた像なら、事実と虚構を分け、死者を勝手に再演させない形へ送り直すことはできるかもしれません」

管理会社の許可を得たその日の正午。

私と老神職は、固く閉ざされたマンションの管理用エレベーターに乗り込み、再び二十階西端の部屋へと足を踏み入れた。

扉を開けた瞬間、昨夜の黒水の痕跡は跡形もなく消え失せていた。

しかし、室内の空気は氷のように冷え切り、壁の奥からは今なお、無数の爪がコンクリートを引っ掻く不快な軋み音が響いていた。

老神職は部屋の中央に歩み出ると、一切の恐れを見せることなく、静かに大麻(おおぬさ)を執り、部屋の八方に向かって左右左と清めの祓いを修めた。

そして、笏を両手に構え、腹の底から響く朗々たる大音声で、太古から伝わる祝詞を奏上し始めたのである。

『高天原に神留り坐す……皇親我が神漏岐・神漏美の命以ちて……』

大祓詞の一節であった。その響きは攻撃のためではなく、まとわりついた像を一つずつほどき、本来の場所へ送り返すためのものに聞こえた。

祝詞が進むにつれ、部屋の空気が目に見えて変質し始めた。

窓の外の風景が激しく歪み、昨夜現れたあの首吊りの女、水死体の男、窓に張り付いていた夫婦の亡霊たちが、薄い水蒸気のようになって室内の空間に浮かび上がった。

亡霊たちは苦悶に顔を歪めていたが、老神職が榊の葉で清らかな神水を振りかけるたび、その輪郭は徐々に穏やかな人間の表情へと戻っていった。

『……集つ罪・穢れは、息吹戸主と云ふ神、根の国・底の国に息吹放ちてむ……』

祝詞が最後の結びを迎えた瞬間、老神職は手にした白木の形代を、リビングの床の中央——あの黒水が湧き出していたフローリングの継ぎ目へと、力強く叩きつけた。

スウゥゥゥゥッ……!

突如として、部屋の中心に目に見えない「大気の竜巻」が発生した。

室内に充満していた冷気、腐敗臭、そして死者たちの無数の幻影が、その白木の形代へと一気に吸い込まれていく。

形代は見る見るうちに真っ黒に変色し、ピキリと音を立てて中央から裂け、そのまま煙を立てて燃え尽きた。

直後、バチンッ! と大きな音がして、リビングのシーリングライトが一斉に点灯した。

窓から差し込んできた真夏の太陽の光が、何日ぶりかに、床のオーク材を黄金色に暖かく照らし出した。

室温計の針が、二十度、二十二度、二十五度と、急速に上昇していく。

足元から響いていたあの地底の地鳴りは、完全に途絶えていた。

ただ、遠く新宿中央公園の木々を揺らす、初夏の穏やかな蝉時雨の声だけが、窓ガラス越しに微かに響いていた。

老神職は額の汗を拭い、静かに私を振り返って微笑んだ。

「終わったとは言い切れません。ただ、少なくとも今夜、貴方がここへ戻る必要はありません」

終章 摩天楼の爪痕

事件の翌日、私は管理会社へ違約金を支払い、二十階西端の部屋の賃貸契約を即座に解除した。

病院に収容されていた大伯父も一命を取り留め、数日後には車椅子に乗って弟子たちと共に中国へと帰国した。成田空港の搭乗口で、大伯父は自らの砕けた羅盤の破片を私に握らせ、掠れた声でこう言い残した。

『……異国の神仏を侮るな。そして、人が土を蔑ろにして築き上げた砂上の楼閣を、決して信じるな』

あれから一年が経過した。

私は大学院を修了し、都内の古びた木造アパートで、日当たりの良い平穏な日常を取り戻している。部屋には贅沢な設備は何もないが、窓を開ければ土の匂いがし、羅盤の針は常に静かに南を指し示している。

ある日の夜、私はふと思い立ち、かつてあの事件の引き金となった不動産情報のアカウントを検索してみた。

あの投稿は削除されていた。検索結果のキャッシュにだけ、家賃一万円という画像が残っていたが、物件データベースには該当する募集が見当たらない。最初から存在しなかったのか、別の建物を加工した画像だったのかは分からない。

掲示板のコメント欄には、

『幽霊より家賃の安さだろw』

『誰か突撃してみてくれ』

といった、かつての私と同じような現代人たちの無邪気で傲慢な言葉が、無数に書き連ねられていた。

私はスマートフォンの画面を静かに伏せ、夜の空を見上げた。

西新宿の空にそびえ立つ、あの白銀の摩天楼の群れ。

人間がどれほど強固なコンクリートを流し込み、目映いネオンの光で夜の闇を塗り潰そうとも、その地上数百メートルの足元——大地の奥底に眠る「淀橋の底なし沼」は、今この瞬間も消え去ったわけではない。

深く打ち込まれた杭の傷口から、泥の記憶は静かに、確実に滲み出し続けている。

もし、あなたが東京の一等地で、相場の二十分の一という「信じがたい幸運」に出くわしたとしたら——。

どうか、その扉を開ける前に、自らの足元をじっと見つめてみてほしい。

あなたが踏みしめているそのフローリングのすぐ下には、何百人もの死者たちの冷たい指先が、今もあなたの足首を掴もうと、暗黒の水底から這い上がってきているかもしれないのだから。