序章 真夜中のカードと格安套房
スマートフォンの画面が深夜零時を告げると同時に、台湾中の何十万人もの大学生や若年労働者たちが、ある一つのアプリを一斉に開く。
台湾最大の若者向けソーシャル掲示板「Dcard(ディーカード)」である。
もともとは台湾大学の男子学生が、毎日真夜中に一度だけ見知らぬ他大学の学生と「カード」を交換し、二十四時間以内に双方が承認すれば友人になれるというマッチングサービスとして開設されたそのプラットフォームは、いまや二十代から三十代前半の若年層の世論を左右する巨大なデジタル言論空間へと成長した。大学生活の愚痴、就職の不安、恋愛の破綻、そして家族にも言えない個人的な告白。
その細分化された無数の掲示板(看板)の奥底に、開設当初から常に高い閲覧数を維持し続けている場所がある。
「靈異板(マーベル板)」である。
台湾のネット怪談文化を長年牽引してきた老舗掲示板PTTの同名板と比べ、Dcardの靈異板には、より切実で、現代の若者たちの生活苦と直結した手記が圧倒的な密度で集まる傾向がある。なぜなら、この掲示板の書き手の大半は、地方から台北や台中、高雄といった大都市へ出てきて、限られた仕送りとなけなしのアルバイト代、あるいは手取り三万台湾元にも満たない初任給の中で、過酷な住宅市場に翻弄されている「社会的弱者」としての若者たちだからである。
その手記群の中で、最も多くの「いいね」と震えるコメントを集める定番のジャンルが存在する。
格安賃貸物件——いわゆる「凶宅(事故物件)」の体験談である。
台北や台中の古い雑居ビルや、築四十年を超えるエレベーターのない歩梯型集合住宅(公寓)。
それらの老朽化した一室を、家主が利益を最大化するために石膏ボードや薄いケイ酸カルシウム板で細かく区切り、四畳から六畳ほどの窓のない密室に仕立て上げた「分租套房(細分化ワンルーム)」。
相場の半額近い破格の家賃で借りたその狭い部屋で、彼らが直面するのは、安普請のプラスチック製木紋シートの床を通して這い上がってくる、前住人の消せない記憶である。
真夏の熱帯夜であるにもかかわらず、エアコンをつけなくても鳥肌が立つほどの局所的な冷気。
部屋の隅から漂い始める、芳香剤では決して覆い隠せない微かな炭の焦げた匂い。
天井の吊り天井(軽鋼架天花板)の隙間から、夜な夜な聞こえてくる重い擦過音。
そして、剥がれかけた壁紙の裏や、浴室の鏡の裏側に、押し込められるようにして貼り付けられた黄色い鎮煞符。
貧しさと孤独の中で、若者たちが都会の片隅で見つけ出した安息の場所は、時として、過去の絶望がそのまま保存された密閉された檻であった。
第一章 美村路の四階建て
趙偉傑(ジャオ・ウェイジエ)が、その部屋の鍵を受け取ったのは、湿度の高い熱風が街を包み込んでいた七月の初頭のことだった。
台中市内の私立大学で視覚伝達デザインを専攻し、この夏に卒業したばかりの二十三歳の偉傑は、西区の小さな広告制作会社にグラフィックデザイナー見習いとして採用されたばかりだった。試用期間の手取り月給は二万六千台湾元。学生ローンと毎日の食費を考えれば、家賃に割ける予算はせいぜい五千元が限界だった。
しかし、近年の台中の賃貸相場は急激に高騰していた。勤め先のある勤美誠品緑園道や台湾大道の周辺で、シャワーとトイレのついた独立したワンルーム(套房)を探せば、どんなに古くても八千元から一万元は下らない。
そんな中、不動産賃貸サイトの奥深くで見つけたその物件は、奇跡のように思えた。
台中市西区美村路の路地裏。築四十二年の歩梯型集合住宅の四階。
広さは約五坪(約十六平方メートル)。独立したバスルーム、小さな冷蔵庫、スチールパイプのダブルベッド、そしてクローゼットがついて、水道代とインターネット込みで、月額わずか四千二百元だった。
「前の店子が急に実家へ帰ることになってね。うちは家賃収入で儲けようとは思っていないのよ。真面目に綺麗に使ってくれる学生さんなら、安くていいの」
内見に立ち会った家主の陳太太は、六十代半ばの柔和な笑みを浮かべた女性だった。手首には分厚い翡翠のブレスレットを嵌め、偉傑の身分証と採用通知書を確認すると、気前よく契約書に判を押してくれた。
ただ、鍵を手渡す際、彼女は細い目で偉傑の顔を見つめ、念を押すように言った。
「偉傑さん、ここは古い建物だからね。壁は薄いケイ酸カルシウム板で仕切ってあるから、友達を呼んで騒いだりしちゃ駄目よ。それから、天井のボードは触らないでね。電気の配線が通っているから、勝手に押し上げたりしちゃ危ないから」
部屋番号は4B。
階段を四階まで登ると、湿った熱気で汗がシャツに張り付いた。
かつては一フロアに一世帯が入っていた広い住戸を、頑丈な防火扉を開けた内側で、四つの極小の部屋に分割してあった。廊下は大人一人がようやく通れる幅しかなく、昼間だというのに薄暗い蛍光灯が一本、かすかにジーというノイズを立てて灯っているだけだった。
4Bのドアを開けると、新しく塗り直された白い水性塗料のツンとした匂いが鼻を突いた。
床には、真新しいオーク調のプラスチック製木紋シートが隙間なく敷き詰められていた。壁は眩しいほどの純白で、窓の外には狭い路地を挟んで向かいの雑居ビルの黒ずんだ外壁が迫っている。天井は、事務室などでよく使われる六十センチ角の白いミネラルウール板を格子状のアルミフレームに嵌め込んだ「軽鋼架天花板(ドロップシーリング)」で覆われていた。
家財道具は最小限だった。合板の小さなローテーブル、安物のオフィスチェア、そして部屋の隅に押し込まれた薄いベニヤ板のワードローブ。
完璧だった。この家賃でこの立地なら、多少の狭さや日当たりの悪さなど、贅沢な悩みに過ぎなかった。
偉傑は引っ越し業者を使わず、スクーターの足元に段ボール箱を積んで三往復し、すべての荷物を運び込んだ。
初日の夜、彼はコンビニエンスストアで買ってきた冷たい無糖緑茶と鶏排(フライドチキン)でささやかな引っ越し祝いをし、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。
壁掛けの古い三洋製セパレートエアコンが、カタカタとプラスチックの軋み音を立てながら冷風を吐き出していた。
新しい生活が始まる。都会で自立し、自分の腕一本で生きていくのだという誇らしさが、彼の胸を満たしていた。
しかし、その夜の午前三時、彼は奇妙な感覚によって目を覚ますことになった。
第二章 隙間風と微かな炭の匂い
寒かった。
偉傑は無意識に薄いタオルケットを手探りで引き寄せ、肩まで被った。
エアコンの設定温度は二十七度にしてあったはずだった。それなのに、室内の空気はまるで晩秋の夜のように冷え切っていた。
肌の表面が粟立ち、吐き出す息が冷たく感じられるほどだった。
エアコンの送風口を見ると、ルーバーは静止しており、ファンは微風でしか回っていなかった。
リモコンの液晶画面を見る。摂氏二十七度。
故障だろうか。温度センサーが狂って、過剰に冷やし続けているのか。
偉傑がリモコンを切ろうと起き上がった、その時だった。
スッ……。
鼻先を、かすかな風が撫でて通り抜けた。
窓はしっかりと閉め切られていた。ドアの鍵もかかっている。密閉された五坪の部屋の中で、どこから風が吹いてくるというのか。
その風とともに、匂いが届いた。
ペンキの匂いでも、エアコンのカビ臭でもなかった。
それは、乾燥した木材と炭が燃え尽きた後に残るような、あの独特の焦げた匂いだった。
バーベキューの炭の匂い。
あるいは、廟の前の金炉で、大量の紙銭を焼き尽くした後に立ち上る、重く乾いた灰の匂い。
そして、その奥底から、微かに漂ってくる、安価なバニラの芳香剤と、腐敗した果物が混ざり合ったような、胃の奥がムカムカとする甘ったるい悪臭。
偉傑は鼻をひくつかせ、ベッドの上に正座した。
(隣の住人が、夜中に何かを燃やしているのか?)
この4Bの部屋の左隣は4A、右隣は4Cだった。壁は薄い乾式間仕切り壁であり、隣の部屋で咳払いをすればそのまま聞こえてくるほどの防音性能しかない。
しかし、両隣の部屋からは何の物音もしていなかった。テレビの音も、話し声も聞こえない。
ポタッ。
音がした。
頭上だった。
偉傑が眠るベッドの真上、あの白い軽鋼架の天井板からだった。
水滴が落ちるような音。
しかし、天井を見上げても、エアコンの配管がある場所ではない。石膏ボードの表面には、染み一つ浮き出ていなかった。
ポタッ……ポタッ……。
音は不規則だった。
水滴の落ちる音の合間に、何かが、天井裏の暗闇の中でゆっくりと引きずられるような、ズリ、ズリ、という重い摩擦音が混ざり始めた。
ネズミではない。ネズミの足音はもっと軽く、爪がボードをカリカリと引っ掻くような高音を立てる。
今聞こえているのは、湿り気を含んだ重い布の塊が、アルミのフレームの上を這い回っているかのような、鈍く湿った音だった。
偉傑は息を殺し、天井を凝視した。
外の美村路を走る深夜の暴走スクーターの爆音が、遠くの窓ガラスをビリビリと震わせて通り過ぎていく。
その爆音が遠ざかり、再び静寂が戻った瞬間。
天井裏の音が、ピタリと止まった。
偉傑の真上。
ベッドのヘッドボードの真上にある、一枚の天井板の真裏で、その「重み」が完全に静止していた。
(気のせいだ)
偉傑は首を振り、心の中で強く唱えた。
(古い建物なんだ。昼間に熱せられたコンクリートが、夜になって冷え固まる時に音を立てているだけだ。匂いだって、一階の路地にある熱炒(大衆居酒屋)の厨房の排気ダクトから上がってきた煙に違いない)
彼はエアコンの電源を完全に切り、タオルケットを頭から被って目を閉じた。
しかし、エアコンを切った後も、部屋の異常な冷気は明け方まで消え去ることはなく、彼の皮膚を氷のように冷やし続けていた。
第三章 午前三時十五分の足音
一週間が過ぎる頃には、偉傑の身体は限界に達しつつあった。
毎晩、決まって午前三時十五分になると、あの異常な冷気とともに目が覚めるのだ。
スマートフォンの画面を見るまでもない。枕元の時計は、狂いもなく三時十五分を指していた。
そして、あの炭の焦げた匂いと、甘ったるい腐敗の気配。
会社ではパソコンのモニターを見つめるだけで目の奥が激しく痛み、デザインの修正指示を何度も聞き逃して先輩デザイナーから怒鳴られた。
目の下には黒々とした隈が張り付き、肌は土気色に変色していた。
ある夜、偉傑は激しい息苦しさによって意識を引きずり戻された。
胸の上に、巨大な鉛の塊を押し付けられたような圧迫感。
指先一つ動かせない。
金縛り(鬼壓床)だった。
(またか……動け、頼むから動いてくれ!)
彼は必死に奥歯を噛み締め、呼吸を確保しようとしたが、肺胞が半分しか広がらない。
目は薄く開いていた。
暗闇の中、部屋の風景がおぼろげに見えている。
その時、視界の端——部屋の隅に置かれたあのベニヤ板のワードローブの前で、何かが動いた。
影だった。
人の形をした、濃密な闇の塊。
身丈は小さく、女性のように華奢な輪郭をしていた。
その影は、ワードローブの扉に向かって立ち尽くし、額を木板に押し付けるようにして、微動だにしていなかった。
ギギ……ギギギ……。
爪で木を引っ掻く音が、静まり返った部屋に響き渡った。
影の右腕が、ゆっくりと持ち上がっていた。
細い指先が、ワードローブの側面に爪を立て、上から下へと、皮膚を裂くような速度で引き下ろされていた。
そして、その影が、ゆっくりと向きを変えた。
首が、あり得ない角度まで横にねじれる。
パキッ、パキッ、と、乾いた竹をへし折るような骨の破裂音。
影の顔の部分には、目も鼻も口も存在しなかった。
ただ、白く濁った二つの燐光が、眼窩の奥深くで冷たく蠢き、ベッドの上に縛り付けられている偉傑の目を、正確に見据えていた。
『……あつい……』
声が響いた。
それは耳から入ってきたのではなかった。
偉傑の頭蓋骨の芯、脳の表面を直接冷たい針で突かれたような、掠れた女の囁き。
『……のどが……かわいた……』
『……あけて……窓を……あけて……!』
影が、床を滑るようにして一歩踏み出した。
足音はなかった。しかし、影が一歩近づくごとに、部屋の中の気温が氷点下へと叩き落とされていくのが分かった。
偉傑の胸元に、冷気の刃が突き刺さる。
呼吸が止まり、視界が急速に白濁していく。
(死ぬ)
彼は心の中で叫んだ。
その瞬間、階下の路地から、新聞配達のスクーターの甲高いクラクションが「プッ」と鳴り響いた。
パチン、と何かが弾けるような音がして、金縛りが唐突に解けた。
重圧が消え去り、偉傑は激しく咳き込みながらベッドから跳ね起きた。
全身から滝のような脂汗が噴き出し、シーツがぐっしょりと濡れていた。
部屋の明かりを狂ったように点ける。
白い蛍光灯の光が部屋を照らし出した。
誰もいなかった。
ワードローブの扉は固く閉ざされ、床の上にも何の痕跡もない。
しかし、部屋の空気の中には、あの強烈な炭火の煙の匂いと、生ぬるいジャスミンの芳香剤の残滓が、確かに漂い残っていた。
第四章 ミネラルウール板の染み
その日の夕方、偉傑は退勤後にまっすぐアパートへ戻る気になれず、美村路の角にあるセブンイレブンでアイスコーヒーを買い、イートインスペースで呆然と座り込んでいた。
帰るのが恐ろしかった。
あの四階のドアを開けることを想像するだけで、胃の奥が激しく痙攣した。
しかし、引っ越すための敷金も礼金も、今の彼の銀行口座には残っていなかった。
「……おい、兄ちゃん」
隣の席から、不意に声がかけられた。
見ると、青い作業着を着た五十代半ばの男が、缶コーヒーを片手に偉傑の顔を覗き込んでいた。アパートの近所にある水道管工事の親方だった。
「兄ちゃん、さっきから見てたが、ひどい顔色だぞ。幽霊にでも取り憑かれたみたいだ」
「……ええ、最近、あまり眠れなくて」
偉傑が力なく笑うと、男は煙草の箱を指先で弄びながら、声を落とした。
「兄ちゃん、あそこの美村路の路地裏の、古い四階建てに住んでるだろ。先週、段ボールをスクーターで運んでるのを見かけたよ」
「ええ、そうです。四階の部屋を借りています」
男の表情から、雑談の気楽さがスッと消え去った。
男は周囲の客を用心深く見回し、それから椅子を偉傑の方へと引き寄せた。
「四階の……どの部屋だ?」
「4Bです。一番奥の角部屋ですが」
男は短く息を呑み、額に手を当てた。
「陳のババア、またやりやがったな……。あの部屋、一昨年の秋に何があったか、何も聞かされずに契約したのか?」
「えっ……何があったんですか?」
偉傑の心臓が、嫌な跳ね方をした。
「一昨年の十月だ。ちょうどお前さんくらいの歳の一人暮らしの女の子が住んでいた。私立大の学生だったよ。
就職活動がうまくいかなくて、付き合っていた男にも逃げられて、ひどい借金を抱えていたらしい。……ある週末、部屋のドアと窓の隙間に全部ガムテープを目張りしてな、部屋の中で練炭を三つ、七輪に火をつけて……そのまま逝っちまったんだ」
全身の血が、足の裏から抜けていくようだった。
「発見されたのは、一週間後だ。異臭が酷くて、下の階の住人が警察を呼んだ。ドアを破った時には、もう……肉が腐って床のシートに溶け出していたそうだ。
部屋の中は煙の煤で真っ黒で、天井も壁も使い物にならん状態だった。陳のババアは警察の検視が終わった後、すぐに近所の左官屋を呼んで、煤けた壁の上から石膏ボードを二重に貼らせて、床にも新しい木紋シートを敷き詰めたんだよ。事故物件の告知義務?
そんなもん、あの守銭奴が守るわけがないだろう。『全面改装済みのおしゃれなワンルーム』って言って、他所から来た若い奴を騙して入れちゃ、数ヶ月で逃げ出されるのを繰り返してるのさ」
男は立ち上がり、偉傑の肩をポンと叩いた。
「兄ちゃん、命あっての物種だぞ。敷金なんざ諦めて、今夜にでも友達の家に逃げ込みな」
男が店を出ていった後、偉傑は冷え切ったアイスコーヒーを見つめたまま、一時間以上も身動きが取れなかった。
怒りと恐怖が、胸の中で黒い炎となって渦巻いていた。
騙されていたのだ。あの柔和な笑みを浮かべた家主は、人が死に、腐敗したその現場を、わずか数ミリの安物の建材で覆い隠し、自分に売りつけていたのだ。
夜の八時、偉傑はアパートへと戻った。
逃げる前に、確かめなければならなかった。
自分の目で、この部屋の真実を暴き出さなければ、この理不尽な恐怖に一生怯え続けることになる。
4Bのドアを開け、部屋に入る。
彼は合板のローテーブルをベッドの横に引きずり、その上にプラスチックの椅子を載せて簡易の踏み台を作った。
スマートフォンのライトを点灯させ、口に咥える。
椅子の上に慎重に登ると、頭が軽鋼架の天井板に届いた。
至近距離で見ると、白く塗装されていたはずの六十センチ角のウール板の表面に、直径三十センチほどの、油が浮き出たような黄褐色の染みが、かすかに残っているのが見えた。下から見上げた時には、照明の光に紛れて気づかなかった痕跡だった。
偉傑は両手を伸ばし、その染みのある天井板の角に指をかけた。
力を込めて、押し上げる。
ギギ……。
軽いアルミの枠から、ボードが浮き上がった。
埃がパラパラと顔の上に降り注ぐ。
その隙間から、天井裏の冷え切った暗黒が、強烈な悪臭とともに噴き出してきた。
あの炭の匂い。
そして、古い油脂が酸化し、鼻腔の奥にへばりつくような、濃厚な死臭。
偉傑は息を止め、スマホの光をその開いた隙間へと差し込んだ。
光の筋が、天井裏のトラス構造の空間を白く切り拓いた。
吊り天井のアルミフレームから、わずか四十センチ上。
そこには、四十二年前に打設された、本来のコンクリートの梁とスラブの地肌が剥き出しになっていた。
その梁の表面を見た瞬間、偉傑の喉から、声にならない悲鳴が漏れ出た。
コンクリートの壁面が、まるで巨大な炎で直火焼きにされたかのように、一面真っ黒に炭化していた。
煤の層が分厚くこびりつき、指で触れればボロボロと崩れ落ちそうなほど黒々と焦げ爛れている。
そして、その黒焦げの梁の中央。
コンクリートに打ち込まれていた鉄のアンカーボルト。
そこから、長さ三十センチほどの、赤く色褪せたビニール紐が、鋭利な刃物で引きちぎられた状態で、だらりと垂れ下がっていた。
紐だけではなかった。
梁を取り囲む四方のコンクリート肌に、何枚もの黄色い紙が、乱暴に貼り付けられていた。
朱色の辰砂のインクで、禍々しい筆致の呪文がびっしりと書き殴られた道教の霊符。
「五雷鎮煞」「幽魂速退」「不得作祟」——悪霊を力尽くでその場所に縛り付け、外へ出さないための、強力な封印の符だった。
紙の端は熱と煤で黒く縮れ、まるで死者の皮膚のようにめくれ上がっていた。
さらに、アルミフレームの骨組みの上。
二枚のボードの継ぎ目の真上に、直に置かれていたものがあった。
直径三十センチほどの、黒ずんだアルミニウム製の丸鍋。
中には、白く灰を被った、燃え残りの練炭の塊が二つ、手付かずのまま転がっていた。
そして、その鍋の底。
灰に半ば埋もれるようにして、一枚の小さなカラー写真が置かれていた。
角が煤で焦げたその写真に写っていたのは、大学の卒業式で黒いアカデミックガウンを着て、誇らしげに微笑む若い女性の姿だった。
しかし、その写真の女性の顔面の部分だけが。
まるで誰かの鋭利な爪で狂ったように引っ掻かれたかのように、白く無数の傷が刻まれ、両目の部分が完全に削り取られていた。
パキッ。
背後で、音がした。
偉傑は踏み台の上で硬直した。
音は、天井裏からではなかった。
彼の真下。
彼が登っているプラスチックの椅子の、すぐ足元からだった。
ゆっくりと、視線を下へ落とす。
踏み台の椅子の脚。
そのプラスチックの脚の根元を、両手でしっかりと掴んでいるものがあった。
皮膚が黒く焼け焦げ、指先から黄色い体液が滲み出た、二本の細い人間の腕。
その腕は、床の木紋シートの中から直接生え出ているかのように、下から伸びていた。
そして、椅子の座面の隙間から、下からのぞき込んできた顔。
髪の毛は熱でチリチリに縮れ、頭皮が白く露出していた。
顔面の皮膚は半分が剥がれ落ち、充血して飛び出しかけた二つの眼球が、真下から、偉傑の目を狂気じみた歓喜に濡れて見上げていた。
耳元まで裂けた紫色の唇が、カチカチと歯を打ち鳴らしながら動いた。
『……見つけた……』
声は、冷たい氷の針となって偉傑の鼓膜を貫いた。
『……私の……火を……消したのは……お前ね……!』
第五章 粗塩と城隍爺の神符
ガタガタガタッ!
踏み台の椅子が、激しい勢いで左右に揺さぶられた。
女の両腕が、信じられない力で椅子の脚をへし折ろうと軋ませる。
「うわああああっ!」
偉傑はバランスを崩し、天井のアルミフレームを掴んで耐えようとした。
しかし、薄いアルミのレールは体重を支えきれず、パキパキと音を立てて歪み、天井板が二枚、三枚と連鎖して床へと崩落した。
ドォン!
偉傑は背中から床へと叩きつけられた。
舞い上がる石膏の白い粉塵。割れたボードの破片が背中に突き刺さり、激痛が走る。
手から落ちたスマートフォンが床の上を滑り、そのライトが部屋の隅を斜めに照らし出した。
部屋の空気が、一瞬にして完全な氷点下へと凍りついた。
白い息が肺から絞り出される。
エアコンの吹き出し口からではなく、部屋の四方の壁の隙間から、濃密な黒い煙が、生き物のようにモクモクと湧き出していた。
煙の中に、女がいた。
彼女は立っていなかった。
関節が完全に破壊された手足を蜘蛛のように床に這わせ、天井から落ちてきたあのアルミニウムの鍋を抱え込むようにして、四つん這いで偉傑へと迫ってきた。
女の開いた口から、ドロリとした黒い煤の混ざった唾液が滴り落ち、真新しい木紋シートの表面をジュウジュウと音を立てて溶かしていく。
『……寒い……あたたまりたい……』
女の這い進む速度は、尋常ではなかった。
床の敷居を擦るザザッという摩擦音とともに、一瞬にして偉傑の足元まで到達した。
焦げた指先が、偉傑の足首を掴んだ。
激痛。
まるでマイナス四十度のドライアイスを素肌に直接押し当てられたかのような、血管を焼き切るような冷気。
偉傑の右足の皮膚が、瞬く間に黒紫色の凍傷の斑点に覆われていく。
動けない。
全身の筋肉が痙攣し、心臓が凍結したように収縮する。
女の顔が、彼の顔面の真上まで迫った。
鼻腔を塞ぐ、耐え難い腐敗と炭煙の悪臭。
女のもう片方の手が持ち上がり、尖った爪先が、偉傑の喉元へと突き立てられようとした。
その時だった。
偉傑の右手が、ジーンズのポケットの奥底にある、平たい赤い紙包みに触れた。
先週、彰化の実家を出る際、母親が「一人暮らしのお守りだから」と、無理やり財布の中に押し込んできたものだった。
彰化邑治城隍廟の平安符。
悪霊を裁き、死者の帳簿を司る司法神・城隍爺の神印が朱肉で捺された、赤い布の護符。
そして、その包みの中に一緒に入っていた、小さなビニール袋。
母が台所の塩壺から詰めてくれた、魔除けのための「粗塩と白米(粗鹽白米)」の粒だった。
偉傑は麻痺しかけていた右腕に、魂の最後の力を込めた。
ポケットを引き裂くようにして、護符と塩の包みを引きずり出す。
ビニール袋を歯で噛み破り、掌の中に粗塩の硬い結晶と、白米の粒を鷲掴みにした。
「失せろッ!」
偉傑は腹の底から絶叫した。
恐怖を塗り潰すための、生きるための剥き出しの怒号。
彼は握りしめた粗塩と白米を、城隍廟の神符とともに、目の前の女の焼けただれた顔面に向かって力任せに投げつけた。
ジュッ!
真っ赤に熱した鉄板に冷水を叩きつけたような、激しい蒸発音が轟いた。
粗塩の白い結晶が女の皮膚に触れた瞬間、パチパチと火花が散り、強烈な青白い光条が暗闇を切り裂いた。
ギャアアアアアッ!
耳膜を破らんばかりの、金切り声のような絶叫が炸裂した。
それは人間の声ではなく、密閉された空間で空気が急激に燃焼した時の、気圧の爆発音に似ていた。
女の影が激しく波打ち、足首を掴んでいた冷たい指の力が弾け飛んだ。
女は胸を掻きむしりながら、後方へと吹き飛ばされた。
床の上に散らばった白米の粒が、次々とポップコーンのように弾け、黒い煙を吸い込んでいく。
足が自由になった。
偉傑は痛む右足を引きずりながら、床を転がるようにして部屋のドアへと飛びついた。
ドアノブを掴み、渾身の力で引く。
ガチャリ!
今度は開いた。
偉傑は靴を履く余裕もなく、靴下一つのまま廊下へと転がり出た。
背後の4Bの部屋から、バタンッ! という凄まじい音を立ててドアが閉ざされ、内側から激しく鍵が何重にもかかる金属音が響いた。
彼は振り返らず、薄暗い階段を転がるようにして駆け下りた。
一段、二段と足を滑らせ、膝をしこたま打ち付けながらも、ただ一階の出口を目指した。
鉄の重い門扉を押し開け、外の夜気の中へと飛び出す。
生ぬるい、湿り気を帯びた台中の夜風が、彼の汗まみれの顔面を包み込んだ。
路上には、街灯の黄色い光が落ちていた。
遠くの大通りから、トラックの走る低い走行音が聞こえてくる。
人間が生きている世界の、温かい息遣い。
偉傑はその場のアスファルトの上にへたり込み、両手で顔を覆って激しく嘔吐した。
口から吐き出された胃液の中に、微細な黒い煤の粒子が、混ざり合って黒ずんでいた。
本文の約86%まで公開
【閲覧注意】ここから先は、記録の核心(真相)に触れる記述を含みます
この先は、記録の結末です。
メール認証後、この続きから全文をお読みいただけます。
すでに登録済みの方も、同じメールアドレスで認証できます。
まだコメントはありません。最初の読者として、この異聞の余韻を残してください。