序章 電光掲示板と赤い糸
台湾の夜は、どこまでも明るく、どこまでも湿り気を帯びて賑やかである。台北の林立する高層ビル群の足元を走るスクーターの群れ、夜市から立ち上る八角や揚げ油の濃厚な匂い、二十四時間営業のコンビニエンスストアが放つ眩しい蛍光灯の光。深夜の二時を過ぎても、路肩の屋台では誰かが熱い豆乳を啜り、小籠包を蒸す湯気が街灯の光に白く溶けていく。
その近代的な熱気と並行して、台湾のデジタル空間には、四半世紀にわたって独自の生態系を維持し続けている巨大な言論の城塞が存在する。
台湾大学のサーバーを拠点とする台湾最大の電子掲示板「批踢踢実業坊(PTT)」である。
無数の板(看板)が並ぶその広大なテキストベースの空間の中で、オカルトや超自然現象を専門に扱う「マーベル板(marvel)」は、中華圏全土のネットユーザーから別格の敬意と恐怖をもって閲覧され続けている。
利用規約によって純粋なフィクションを投稿する「創作」タグと、投稿者自身や身内が実際に体験したとされる「経験」タグが厳格に分けられているこの掲示板において、閲覧者たちが最も固唾を呑んで読み耽るのは、台湾中西部、台湾海峡に面した彰化県沿海部の伝統儀礼にまつわる手記群である。
鹿港、和美、線西、福興といった古い町々。
その街角や路地の電柱、あるいは町内会長(里長)のフェイスブックページに、ある日突然、一枚の簡素な告知文が貼り出されることがある。
「送煞儀式のお知らせ。◯月◯日午後十時より午前一時まで。ルートは以下の通り。沿道の住民は戸を閉ざし、外出を控えてください」
送肉粽(ソンロウゾン)。
「ちまきを送り出す」という穏やかな隠語で呼ばれるその儀礼は、首を吊って自死した者の魂を慰め、その怨念(煞気)が宿った縄や梁を切り取り、道士が先導して海へと送り届けて焼き払う、台湾で最も恐れられている除霊の神事である。首を吊った遺体の姿が、端午の節句に糸で縛って吊るされるちまきに似ていることから、その忌まわしい名を直接口にすることを避けてそう呼ばれるようになった。
儀式が通る時間帯、沿道の家々は鉄のシャッター(鉄巻門)を固く下ろし、窓には赤い紙を貼り、門前には魔除けの箒を立てて息を潜める。
もし、偶然にもその隊列と鉢合わせてしまったら、決して引き返して逃げてはならない。後ろを向けば、彷徨う怨念が背中に取り憑く。その時は、無言のまま隊列の最後尾につき、海辺で火が放たれる瞬間まで、死者とともに歩き続けなければならないという。
PTTのマーベル板に寄せられる体験談の数々は、現代のスマートフォンやスクーターを手にした若者たちが、ふとした油断からその禁忌の結界へと踏み込んでしまった際の、息の詰まるような恐怖を記録している。液晶画面の地図アプリが示す無機質なナビゲーションの先、夜の潮風が運んでくる火薬の匂いと、暗闇の中で激しく打ち鳴らされる銅鑼の音。それは、高度にデジタル化された都市生活のすぐ真下に、今なお絶対的な力をもって横たわる、千年の因果の残照であった。
第一章 深夜零時の配達注文
リン・チェンアンが、愛車のヤマハ・シグナスのキックスタンドを跳ね上げたのは、十一月も半ばを過ぎた金曜日の深夜、午前零時十五分のことだった。
二十五歳になるチェンアンは、台北の大学を卒業したものの定職に就けず、彰化市内の実家に戻って、フードデリバリーの配達員として働いていた。夜間の配達は、昼間の猛暑や渋滞から解放される上、深夜手当のインセンティブがつく。スマートフォンの画面に注文の通知が入るたび、彼は黒い保温バッグをリアキャリアに固定し、慣れ親しんだ彰化の街をスクーターで駆け回っていた。
その夜は、海側から冷たく湿った季節風が吹き荒れていた。
大陸から吹き下ろしてくる東北モンスーンが、街路樹のガジュマルの気根を激しく揺らし、道路の端にはビニール袋や乾いた落ち葉が擦れ合う音が響いていた。
ピロリン、という甲高い電子音がスマートフォンのホルダーから鳴り響いた。
新しい注文の割り当てだった。
受け取り場所は、彰化市街の街道沿いにある二十四時間営業の牛肉麺店。
配達先は、隣町の和美鎮の奥深く、海に近い農村地帯の細い路地の奥だった。
走行距離はおよそ七キロ。普段なら深夜の長距離配達は敬遠されるところだったが、画面に表示された配達報酬は、通常の三倍近い金額が設定されていた。
「和美の奥か……ずいぶん田舎だな」
チェンアンは呟き、受注ボタンをタップした。
手早く店で熱々の牛肉湯(牛肉スープ)とネギ餅の包みを受け取り、保温バッグの中へと滑り込ませる。ジッパーを閉めると、八角と煮込んだ牛肉の香ばしい匂いが立ち上った。
スクーターのセルボタンを押し、ヘッドライトの白い光で夜道を照らしながら、チェンアンは西へ向かってアクセルを捻った。
国道一号線の高架下をくぐり、和美鎮の境界を越えると、沿道の風景は急速に街灯の数を減らしていった。
立ち並んでいた看板や商店の灯りは消え去り、視界を覆うのは、冬の風にざわめく広大な水田と、泥炭質の土壌に建てられた平屋の古い赤煉瓦家屋(三合院)ばかりとなった。
ナビゲーションの音声案内が、無機質に左折を指示した。
幹線道路を外れ、両側を深い用水路に挟まれた未舗装に近い農道へと入り込む。
風が強まり、スクーターのハンドルが煽られて小刻みに取られた。海からの湿気が混ざり込み、ヘルメットのシールドの外側に細かな水滴が張り付いていく。
チェンアンは速度を時速三十キロまで落とした。
周囲には、一台の車も走っていなかった。深夜とはいえ、幹線道路から少し入っただけで、これほど完全な静寂に包まれるものだろうか。
ふと、道路脇の電柱がヘッドライトの光を浴びて白く浮かび上がった。
そこに、一枚の紙が貼り付けられていた。
A4サイズほどの、鮮やかな黄色い紙。
夜露に濡れながら、風にはためいている。
チェンアンは徐行しながら、その紙の横を通り過ぎた。
朱色のインクで印刷された太い文字が、ヘルメット越しに一瞬だけ網膜をかすめた。
「謹告 送煞路線……今宵子時……和美鎮柑井里より大肚渓河口へ……」
チェンアンの背筋を、冷たいものがサッと走り抜けた。
(送肉粽だ……)
彰化に生まれ育った彼にとって、その言葉の意味を知らないはずがなかった。
子時——すなわち午後十一時から午前一時。まさに、今この時間だった。
第二章 閉ざされた鉄巻門
チェンアンはスクーターを急停止させ、足元のアスファルトに両足を着けた。
アイドリングの排気音だけが、ポポポポと静寂の中に響く。
心臓の鼓動が速くなっていた。
スマートフォンをホルダーから外し、地図アプリを確認する。
彼が今いる細い路地は、指定された配達先へと向かう唯一のルートだった。迂回しようにも、周囲は水田と水路に阻まれ、数キロ手前まで引き返さなければ別の道はない。
(いや、ルートが重なっているとは限らない)
チェンアンは自分に言い聞かせた。
送肉粽の儀礼は、町内の一部の決まった通りを抜けて海へ向かう。電柱の告知文の細かい通過地までは読み取れなかったが、この広大な農村地帯で、ピンポイントで自分がその行列にぶつかる確率など天文学的に低いはずだった。
それに、もし配達を途中でキャンセルすれば、アカウントの評価が下がり、今夜の報酬も没収されてしまう。
「さっさと届けて、大通りへ戻ればいい」
彼はアクセルを開けた。
タイヤが砂利を噛み、スクーターが再び闇の中を進み始める。
配達先として指定された集落に入った時、チェンアンの胸のざわめきは決定的な確信へと変わった。
集落の様子が、あまりにも異常だった。
曲がりくねった古い路地の両側に並ぶ家々。
そのすべての玄関の鉄巻門(スチールのシャッター)が、完全に一番下まで下ろされていた。
ガラス窓という窓には、内側からカーテンが隙間なく引かれ、隙間という隙間に赤い長方形の紙——鎮宅の霊符が貼り付けられていた。
そして、どの家の門前にも、一本の竹箒(ほうき)が、逆さまに立てかけられていた。
門柱には、邪気を払うとされる青々としたヨモギ(艾草)とショウブの束が括り付けられ、その強い青臭い薬草の匂いが、夜の風に乗って漂っていた。
街灯の光すら、故意に落とされているかのように薄暗かった。
生き物の気配が全くない。
普段なら夜中に見かける野良犬の一匹すらおらず、路地にはただ、風に舞う黄色い冥銭(紙のお金)の切れ端が、カサカサと音を立ててアスファルトの上を転がっているだけだった。
チェンアンは喉を鳴らし、目的地の番地を探した。
「柑井里……六十八号」
路地の突き当たり、苔むした古い赤煉瓦の平屋の前に、スクーターを止めた。
門扉は固く閉ざされ、呼び鈴らしきものは見当たらない。
チェンアンはスマートフォンを取り出し、注文者の電話番号へ発信ボタンを押した。
トゥルルル……トゥルルル……。
呼び出し音が冷たく耳元で響く。
三回、四回。
五回目のコールの後、カチリと通話が繋がった。
『……もしもし……』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、ひどく掠れた、息も絶え絶えな老人の声だった。
「あ、夜分遅くにすみません! ご注文の牛肉湯をお届けに上がりました。門の前にいるのですが、開けていただけますか」
数秒の沈黙が流れた。
電話の向こうから、ヒュー、ヒューという、喉に痰が絡んだような苦しげな呼吸音が漏れ聞こえてくる。
『……持って……入ってきておくれ……』
老人の声は、頼りなく震えていた。
『……身体が……動かないんだ……門の閂(かんぬき)は……外してある……台所のテーブルの上に……置いておくれ……』
「えっ、でも、勝手に入るのは——」
『頼むよ……お腹が……空いて……動けないんだ……』
ツーツーツー。
通話が一方的に切断された。
チェンアンはスマートフォンを見つめ、溜息を吐いた。独居老人が体調を崩して動けなくなっているのかもしれない。配達員の規約としては敷地内への立ち入りは推奨されないが、このまま商品を門前に放置して帰るわけにもいかなかった。
彼は保温バッグから熱い料理の包みを取り出し、錆びついた鉄の門扉に手をかけた。
老人の言葉通り、閂は外れていた。
ギーッ、という耳障りな金属音を立てて、門が内側へと開いた。
中庭に入ると、そこには手入れのされていない枯れ草が生い茂っていた。
母屋の木製の扉は、わずかに数センチだけ隙間を開けて解錠されていた。
室内には明かりが点いておらず、完全な闇が広がっている。
「すみません、入りますよ」
チェンアンはスマホのライトを前方に向け、敷居を跨いで土間へと足を踏み入れた。
その瞬間。
バツンッ!
背後の木製ドアが、突風に煽られたように激しい音を立てて自ら閉ざされた。
第三章 銅鑼の音と跳鍾馗
チェンアンは驚いて振り返り、ドアノブを掴んだ。
しかし、外側から何者かが押さえつけているかのように、ドアはビクとも動かなかった。
「おい、冗談だろ……!」
暗闇の土間の中に、異様な匂いが満ちていた。
牛肉スープの香りを一瞬でかき消すほどの、強烈な異臭。
湿った赤土の匂い。
線香が一度に百本も燃え尽きたような、息苦しい煙の匂い。
そして、何かが長い間首を絞められ、失禁した後に残るような、生々しく酸っぱい汚物の臭気だった。
スマホの光を室内の奥へと走らせる。
そこは、古い伝統的な三合院の正庁(居間)だった。
正面の祭壇には、赤い布を被せられた観音菩薩の神像が祀られていたが、その神像の顔には、べったりと黒い布が巻き付けられ、目隠しがされていた。
そして、部屋の中央。
天井の太い梁(ハリ)を見上げた瞬間、チェンアンの呼吸が完全に止まった。
梁の木肌が、人間の一抱えほどの長さにわたって、ノコギリで荒々しく切り取られていた。
ぽっかりと空いた空間。
そして、その切り取られた梁の真下の床の上に。
一本の太い麻縄が、とぐろを巻くようにして転がっていた。
荷造り用の縄ではない。先端が輪の形に結ばれ、擦り切れた繊維に黒ずんだ脂と血痕が染み付いた、あの首吊りの縄だった。
(ここは……現場だ)
老人の家ではない。ここは、数日前に誰かが首を吊って命を絶った、まさにその現場そのものだったのだ。
あの電話の老人は誰だったのか。なぜ、自分をこの部屋へと呼び寄せたのか。
その時だった。
パパパパパパパパパンッ!
外の路地で、耳を劈くような凄まじい爆竹の破裂音が炸裂した。
閃光が窓の隙間から幾重にも差し込み、暗い部屋の壁を白煙とともに照らし出した。
続いて、重く、腹の底を揺さぶるような音が、夜の大気を震わせて近づいてきた。
ジャラン! ドォン!
ジャラン! ドォン!
銅鑼の鋭利な金属音と、大太鼓の地鳴りのような重低音。
規則正しい、呪術的なリズム。
そして、何十人もの人間が、無言のまま擦り足でアスファルトを踏みしめて進む、ザッ、ザッ、という擦過音。
来たのだ。
隊列が、この家の前の路地に到達したのだ。
チェンアンは恐怖で足が痙攣し、床にへたり込みそうになった。
外に出てはならない。出れば、あの忌まわしい煞気に直接当てられる。
しかし、その時、部屋の扉が外側から乱暴に蹴破られた。
ドォン!
扉が跳ね起き、夜の冷気とともに、もうもうたる煙が室内に雪崩れ込んできた。
敷居の外、中庭の闇の中に、異様な姿の人物が仁王立ちしていた。
顔面全体を、鮮やかな青と黒、そして朱色の隈取りで塗り固めた男。
頭には漆黒の官帽を戴き、身には破れ鐘のような深紅の道服を纏い、右手には青白く光る真剣——七星剣を握りしめていた。
跳鍾馗(ティヤオ・ゾンクイ)。
道士が自らの肉体に鬼を喰らう神・鍾馗を降臨させ、死霊を威嚇するための神聖にして最も危険な姿だった。
道士の両目は血走り、人間のものではない威圧的な光を放っていた。
道士は部屋の中にいたチェンアンを見るなり、眉を吊り上げ、雷鳴のような怒号を浴びせかけた。
「何をしておるか、愚か者!」
道士の声は、低く地響きのように濁っていた。
「すでに陣は敷かれた! 門を跨いだ生者は、この因果から逃れることは叶わん! 振り返るな! 前を見るな! 列の最後尾につき、海まで歩け! 一歩でも外れれば、貴様の魂魄が身代わりに縄へ吸い込まれるぞ!」
道士が七星剣を一閃させると、床に転がっていたあの麻縄が、まるで生き物のようにビクンと跳ね上がった。
背後の隊列から、黄色い道服を着た二人の男が飛び込んできた。彼らは口に米粒を含んで吹きかけながら、麻縄と、切り取られた梁の木片を、素早く麻袋の中へと放り込み、竹竿の先端に吊るし上げた。
チェンアンは思考する能力を完全に奪われていた。
彼が理解できたのは、ただ一つ。
逃げ道はない。
この死者の行進に加わり、海へ行く以外に、自分が生き延びる道は残されていないということだけだった。
第四章 潮風の砂浜
チェンアンは、吸い寄せられるようにして門の外へと押し出された。
路地には、数十人の男たちが無言で隊列を組んでいた。
先頭には、白粉を顔に塗った銅鑼叩きと太鼓引き。
その背後に、燃え盛る松明を掲げた男たち。
中央には、あの竹竿に吊るされた麻袋——死者の怨念が封じ込められた「ちまき」を担ぐ男。
そして、その周囲を、七星剣と塩米(塩と生米を混ぜた魔除け)の器を持った鍾馗の道士が、四方を睨みつけながら摺り足で舞い歩いていた。
誰も一言も発しなかった。
聞こえるのは、銅鑼のジャランという金属音と、絶え間なく投げつけられる爆竹の破裂音だけ。
沿道の家々は、まるで死に絶えた街のように真っ暗だった。
窓の隙間から外を覗こうとする者は一人もいない。誰もが毛布を被り、この破滅的な気配が通り過ぎるのを祈りながら待っているのだ。
チェンアンは隊列の最後尾、松明の煙のすぐ後ろを、操り人形のように足を動かして歩いた。
振り返ってはならない。
背後を振り返れば、首を吊った死者の霊が、すぐ真後ろに立っているという。
冷たい海風が、次第に強まっていった。
農村の路地を抜け、隊列は大肚渓の河口へと続く防潮堤の坂道を登り始めていた。
風の中に、強烈な潮の匂いと、干潟の泥の生臭さが混ざり始める。
堤防を越えた瞬間、視界が開けた。
目の前に広がっていたのは、台湾海峡の荒れ狂う暗黒の海だった。
黒い波が白い飛沫を上げて砂浜を打ち据え、ゴオオオッという重低音が夜空を揺るがしていた。
隊列は砂浜へと降りていった。
足元の黒砂が靴底を沈み込ませ、歩くたびに体力が奪われていく。
水際から五十メートルほど離れた砂の上に、乾いた流木と藁が山のように積み上げられていた。
男たちが手際よく竹竿を下ろし、あの麻袋を流木の山の中央へと据え置いた。
鍾馗の道士が、七星剣を空に向けて突き上げた。
「吉時至る! 煞気を海へ送る!」
道士が口に高純度の白酒(パイチュウ)を含み、松明の炎に向かって一気に吹きかけた。
ボオオオオッ!
夜空を焦がす火柱が立ち上がった。
炎が流木の山へと燃え移り、藁が一瞬にして爆発的なオレンジ色の火炎に包まれた。
煙が渦を巻き、風に乗って沖合へと流れていく。
パチパチパチ、と木材が爆ぜる音が響く。
これで終わる。
あの忌まわしい縄と梁が灰になり、海へと流されれば、自分は解放されるはずだった。
チェンアンが安堵の息を漏らしかけた、その時だった。
炎の中央から、音が聞こえた。
パチパチという木材の爆ぜる音ではない。
ギシ……ギシ……ギシ……。
木造家屋の梁が、人間の体重を支えて軋む、あの特有の重い摩擦音。
そして、激しく燃え盛る炎の壁の向こう側から、何かが、立ち上がった。
炎の渦の中から立ち上がったのは、火に焼かれる木材ではなかった。
それは、黒煙をまとった、人間の形をした影だった。
身に纏っているのは、泥と血にまみれた、安物の花柄のワンピース。
頭部は不自然に右肩の上へと完全に脱臼して折れ曲がり、首の周りには、食い込んだ麻縄の跡が、赤黒い溝となって生々しく腫れ上がっていた。
その顔面には、皮膚が存在しなかった。
火炎に炙られ、ただれ落ちた肉の隙間から、黄色い頭蓋骨が露出し、眼窩の奥には、二つの爛々と光る赤い燐光が灯っていた。
そして、その首の折れた女の影が。
炎の中から、ゆっくりと、その顔を巡らせた。
その視線が向かったのは、鍾馗の道士ではなかった。
松明を持つ屈強な男たちでもなかった。
隊列の最後尾、砂浜に立ち尽くしていた、チェンアンだった。
『……お前が……』
声が響いた。
耳から聞こえたのではなかった。
チェンアンの頭蓋骨の内部、脳の髄を直接冷たい氷の刃で引っ掻くような、女の掠れた絶叫。
『……お前が……私の……スープを……頼んだのか……』
チェンアンの呼吸が完全に止まった。
あの深夜の注文。
あの配達アプリの通知。
老人の声で電話をかけてきた者。
すべては、この女が、自らの死の現場に生者を誘い込み、この海辺の儀礼の炎から逃れるための「身代わり」として、チェンアンを呼び寄せた罠だったのだ。
女の影が、炎の壁を突き破った。
火の粉を撒き散らしながら、重力を無視した異様な滑走速度で、砂浜の上をチェンアンへと向かって突進してきた。
「うわああああっ!」
チェンアンの喉から、悲鳴が弾け飛んだ。
逃げようとしても、足元の黒砂に足を取られて動けない。
女の焼け爛れた両手が持ち上がった。
指先には爪がなく、骨が露出した十本の指が、チェンアンの首筋へと向かって、空気を切り裂くように伸ばされた。
氷点下の冷気が、チェンアンの喉元を直撃した。
皮膚が一瞬にして凍りつき、気道が猛烈な力で押し潰される。
視界が急速に暗転し、肺の中の空気が凍りついていく。
(死ぬ。ここで首を折られて、あの炎の中に引きずり込まれる)
その瞬間だった。
「喝ッ!」
割れ鐘のような怒号とともに、一本の青白い光条が、チェンアンの視界を横切った。
キンッ!
金属が骨を断ち切るような、凄まじい衝撃音が響いた。
鍾馗の道士が、砂を蹴って割って入り、手にした七星剣を、女の伸ばされた両腕の隙間へと真っ直ぐに突き立てたのだ。
剣の切先から、バチバチと激しい火花が散った。
道士の左手が、腰の布袋から一握りの塩米(イェンミー)を掴み出し、女の顔面に向かって力任せに叩きつけた。
「天羅神、地羅神! 日月照らし、悪煞退散!」
ジュウウウウウッ!
強烈な白煙が上がった。
塩米を浴びた女の顔面が、まるで熱湯をかけられた氷のように激しく泡立ち、肉が崩壊していった。
女の口から、耳膜を劈く断末魔の絶叫が上がった。
その叫び声とともに、女の影は後方へと吹き飛ばされ、再びあの燃え盛る流木の火炎の中へと吸い込まれていった。
道士は間髪を入れず、手にした七星剣の平らな刀身で、チェンアンの背中を力任せに打ち据えた。
バシィン!
凄まじい痛みが背骨を走り、チェンアンは砂の上に前のめりに倒れ込んだ。
口から、胃の中に溜まっていた胃液と、黒い泥のような液体が激しく吐き出された。
「息を吐け!」
道士がチェンアンの首筋を掴み、頭を砂浜に押し付けた。
「頭を上げるな! 海を見るな! 火が燃え尽きるまで、砂に額を擦り付けていろ!」
チェンアンは言われるがまま、冷たい黒砂の中に顔を埋めた。
背後で、激しい炎のゴオオオという轟音と、何かが引き裂かれるような悲鳴が、何度も、何度も繰り返されていた。
どれほどの時間が経ったのか。
風の音が次第に弱まり、波の音だけが砂浜を満たし始めた。
「……もう、よい」
道士の荒い息遣いとともに、肩を叩かれた。
チェンアンが恐る恐る顔を上げると、流木の山は完全に崩れ落ち、赤黒い熾火と白い灰の塊となって、煙を静かに上げていた。
麻袋も、縄も、梁の木片も、跡形もなく燃え尽きていた。
沖合に向かって、引き潮の波が白い泡を引いていく。
その水面の上に、朝の光を待つ薄紫色の静寂が、ゆっくりと降りてきていた。
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