序章 泥水と芳香水——紅河デルタの夜の掟

ベトナム北部、首都ハノイを貫いてトンキン湾へと注ぎ込む紅河(ソンホン)の流域において、人間は生涯で二度、死を迎えねばならないと言われている。

一度目は、病や老いによって心臓が止まり、肉体が冷たくなったその時である。親族は泣き叫び、白い喪章を額に巻き、棺を村外れの泥深い水田の脇に掘られた土穴へと下ろす。これを「生葬」あるいは「凶葬(フンタン)」と呼ぶ。

だが、それは仮初の眠りに過ぎない。亡骸が泥の底で三年の月日を過ごし、肉と内臓が完全に土へと還った頃、遺族は再びシャベルを手に集まり、暗黒の夜気に包まれた墓を掘り返さねばならないのだ。

土中から棺を引き上げ、蓋をこじ開け、濁った泥水の中から先祖の骨を一本残らず手作業で拾い集める。

酒と薬草を煮出した芳香水で泥を洗い清め、赤布の上に解剖学的な正確さで並べ直したのち、小さな陶器の棺——「ティエウ・クアック(小槨)」へと美しく納め直して、先祖代々の合同墓所へと永久に改葬する。

この神聖にして過酷な洗骨改葬の儀礼を、現地の言葉で「カイタン(Cải táng)」あるいは「ボックモー(Bốc mộ)」と呼ぶ。

この二度目の儀礼を経て初めて、死者は怨念を帯びた浮遊霊(マ)の軛を脱し、子孫を守護する清らかな祖先神(トティエン)の列へと迎え入れられるのである。

肉の腐臭を洗い流す「五香水」の甘酸っぱく重い芳香と、深夜の湿地帯から立ち上る生温かい泥の臭気。

二〇一〇年代、近代化の濁流が共産主義の古き農村を急速に呑み込み始めたベトナムにおいて、その千年の掟は、高速道路という名のアスファルトの巨獣と正面から衝突することとなった。

これは、進歩という名の暴力の足元で、自らの骨を散乱させられた死者たちが、生者たちに向けて放った冷たく哀切な警告の記録である。

第一章 アスファルトの侵蝕と、百本の線香

二〇一二年、十月の初頭であった。

当時、ハノイ市内の大学に通う二十歳の一学生であった私——トゥアンは、秋の収穫期を迎えたハイズオン省の寒村にある母方の本家へと呼び戻された。

普段であれば、旧正月(テト)の時期にしか帰省しない古びた瓦屋根の高床式家屋に、その日は母の兄弟や従兄弟たち、総勢二十人を超える親族が顔を揃えていた。母屋の土間にはタバコの煙が濃密に立ち込め、男たちの野太い怒号と、計算機を叩くプラスチックの乾いた音が響き渡っていた。

原因は、数年越しの噂であった「高速道路建設」の現実化であった。

ハノイと海の玄関口であるハイフォンを直線で結ぶ片側六車線の巨大な物流ハイウェイ。国家の威信を賭けたその開発ルートの巨大な赤線が、あろうことか、本家の裏山に広がる私有地——一族が四代にわたって土葬を重ねてきた、一族共有の墓地(ギアチャン)の真上を貫通することが確定したのである。

立ち退きと引き換えに政府から提示された補償金は、農村の人間にとっては目も眩むような大金であった。日本円にして数千万円、ベトナムドンにして数十億ドンに及ぶ札束。

しかし、道路工事の着工は目前に迫っており、土地収用局が定めた猶予期間はわずか二ヶ月。山肌に点在する親族の墓、計六基を、ただちに掘り起こして別の場所へ集団移転させねばならなかった。

問題は、その巨額の補償金を巡る生者たちの醜い欲望であった。

一族の長男であり、本家の主である長男の伯父は、弟や従兄弟たちを土間に集め、冷めた緑茶を啜りながらこう囁きかけたのだ。

「政府から降りる改葬費用は、一基あたり数千万ドンだ。だが、新しい墓地を山奥の安い荒れ地に小さくまとめ、陶器の棺も安物で済ませれば、半分以上の金が浮く。その余った金で、我々一族のための立派な記念会館(親族会館)を建てる名目にしようじゃないか。

……残りは、墓を守ってきた本家と、手伝った男たちで頭割りにすればいい」

親族の中には、祖先への不敬を恐れて眉をひそめる長老もいた。しかし、眼前にぶら下がった札束の魔力と、長男の伯父の威圧的な態度に、誰も公然と異を唱えることはできなかった。

こうして、死者たちの骨を掘り起こし、新しい安普請の墓所へと押し込める「集団改葬」の日取りが決定されたのである。

改葬の当日は、雨季の終わりの湿った夜であった。

ベトナムの風水において、日光の下で先祖の白骨を空気に晒すことは、魂を焼き殺す最大の重罪とされる。そのため、改葬の作業は必ず日没後、すべての陽気が消え失せた深夜から未明にかけて行わねばならない。

午後七時。夕闇が急速に水田の緑を黒へと塗り替える頃、本家の裏庭に、雇われた専門の墓掘り職人(フー・ダオ・モー)たちと親族が集結した。

長男の伯父や私の両親を含む年長者たちは、母屋の居間に陣取り、扇風機の生ぬるい風を浴びながら、早くもビールを開けてトランプ博打に興じ始めていた。

そして、私や従兄弟たち——一族の若い世代に課せられた役目は、裏山の斜面に点在する六つの墓の前に立ち、三十分おきに線香を新しく灯し続けるという、退屈で湿っぽい番人役であった。

山肌は、長年の雨風で泥濘んでいた。

墓は、小高い丘の斜面に、古い順に並んでいた。

最も高台にある曾祖父母の墓。その下にある、十五年前に亡くなった私の祖父の墓。さらにその周辺に、若くして病死した従兄弟や、長男の伯父の元に嫁ぎ、若くして雷撃で亡くなった前妻の墓。

そして一番低い場所に、数年前に急死した伯父の「後妻」の墓。

懐中電灯の細い光を頼りに、私と従兄弟のフンは、竹串に赤い染料を塗った線香の束を抱え、斜面を登った。

規則は厳格であった。一つの墓につき、一度に三本の線香を供える。天、地、そして祖先の霊を表す三本の煙を決して絶やしてはならない。

だが、作業を始めて二巡目のことであった。

時刻は午後八時を少し回った頃。周囲には生ぬるい無風の闇が広がっていた。

曾祖父母の墓に三本の線香を立て、その下の祖父の墓へと降り立ったフンが、舌打ち混じりにライターを擦った。

チッチッ……ボッ。

小さな炎が線香の先端を赤く焦がし、細い煙が立ち上る。

フンが土饅頭の前の素焼きの香炉にそれを突き刺した、まさにその刹那であった。

スゥッ……。

真ん中の一本から、何の前触れもなく火の気が消え失せた。

風は吹いていない。私の頬を撫でる空気は完全に静止していた。

「おい、フン。ちゃんと火がつかなかったんじゃないか?」

「いや、確実に赤くなってたぜ」

フンが再びライターを取り出し、消えた一本の先端を炙った。赤黒い炭化の輪が広がり、確かに煙が立ち上るのを確認して、再び香炉に立てる。

だが、私たちが背を向け、数歩歩き出した瞬間——背後でパチリと小さな音がした。

振り返ると、やはり真ん中の一本だけが、まるで冷たい指先でつまみ消されたかのように、完全に鎮火していたのである。

「湿気ってるんだよ、この線香」

フンは悪態をつき、新しい線香を束から引き抜いて火をつけた。

しかし、結果は同じであった。右の線香は燃えている。左の線香も煙を上げている。

だが、中央の線香だけが、何度火をつけても、五秒と持たずに黒い沈黙へと戻ってしまうのだ。

三度、四度。

何度試しても、祖父の墓の中央の線香は、頑なに火を受け入れることを拒絶し続けた。

背筋の奥底に、針で突かれたような冷たい悪寒が走った。

他の五基の墓では、三本の線香が暗闇の中で赤い三つ目玉のように爛々と輝き、順調に灰を落としている。なぜ、この祖父の墓だけが、中央の神仏と死者を繋ぐ一本を拒み続けるのか。

「……フン、これ、おかしいぞ。母屋の伯父さんたちを呼んでこよう」

私の震える声に、普段は強気なフンも青ざめた顔で頷いた。

大人の男たちがビール瓶を片手に斜面を登ってきたとき、時刻は間もなく午後十時を迎えようとしていた。

第二章 丑三つの開棺——肉なき白骨の点検

長男の伯父は、赤ら顔でタバコを吹かしながら、消えた線香を一瞥した。

「何を怯えているんだ、若い癖に。夜露が降りてきただけだ。ほら、酒を撒いてやれ」

伯父は手にしたルアモイ(米焼酎)の瓶を香炉の周囲にぶち撒け、自らの金のジッポーライターで強引に線香を燃え上がらせた。

だが、その時すでに、雇われていた初老の風水師——薄汚れた黒い道袍のようなシャツを着た男が、羅盤(コンパス)を握りしめたまま、墓の周囲の土壌を険しい眼差しで見つめていた。

「長男殿」風水師が掠れた声で言った。

「線香が真ん中だけ消えるのは、祖霊が『供養の受け取りを拒否している』印だ。……この墓の主は、今夜の仕事に強い怒りを抱いておられる。吉刻を待たずに強行すれば、血を見るぞ」

「うるさい!」伯父は怒鳴り散らした。「ショベルカーの重機は明日には入るんだぞ! 風水だの何だのとグズグズ言っていられるか! 掘れ! さっさと掘り起こせ!」

午前二時。丑の刻。

夜気配が最も濃密になり、遠くの村の犬たちが一斉に不気味な遠吠えを上げ始めた。

風水師の警告を無視し、墓掘り職人たちがツルハシとシャベルを振り上げ、湿った赤土を削り始めた。

ザクッ、ザクッ、という、刃先が土を噛む重い音が、深夜の山林に木霊する。

土饅頭が崩され、地中一メートルほどの深さから、長年の地下水で黒ずんだ木棺の天板が姿を現した。

職人たちがバールを隙間にねじ込み、体重をかける。

メキメキ……メリッ!

長年密閉されていた木棺が引き裂かれた瞬間、鼻腔の奥を焼き切るような、耐え難い「大地の臭気」が噴き出した。それは腐敗臭ではなかった。何年もかけて有機物が完全に分解され、湿った鉱物と鉄分、そして死の沈殿物が混ざり合った、冷たく重い土の吐息であった。

「骨だけだ。綺麗に落ちている」

職人の頭が、ヘッドライトの光を棺の底へと落としながら呟いた。

祖父の肉体は、完全に土へと還っていた。残されていたのは、泥水の中に横たわる、茶褐色に変色した完全な骨格だけであった。

ここからが、カイタンの最も過酷な儀礼となる。

職人たちは素手で棺の中に手を突っ込み、足の指の骨、脛骨、大腿骨、肋骨、脊椎、そして頭蓋骨を、一つひとつ泥の中から手探りで拾い上げていく。

傍らには、大鍋で煮立てられた五香水が湯気を立てていた。

職人たちは酒を含んだ布で、骨の表面にこびりついた泥と木の根を、赤子の肌を拭うように丁寧に擦り落としていく。清められた骨は、広げられた真っ赤な絹布の上に、解剖学的な順序に従って頭から足先へと整然と配置されていく。

骨の数に狂いはないか。爪の先の微小な骨片一つに至るまで、見落としは許されない。

もし先祖の骨を土の中に一本でも残せば、その欠けた骨の痛みが、現世の子孫の同じ部位に激痛となって現れると信じられているからだ。

祖父の骨が、真新しい素焼きの陶棺——長さ五十センチほどの、竜の浮き彫りが施された小さな棺へと納められていく。

続いて、曾祖父母の墓、従兄弟の墓が、次々と手際よく掘り起こされ、清められていった。

職人たちの手慣れた作業に、長男の伯父は安堵の表情を浮かべ、再び懐からタバコを取り出した。

「ほら見ろ、何も起きないじゃないか。年寄りの迷信だ」

だが、作業が最後の六基目——あの若くして亡くなった、長男の伯父の「後妻」の墓に達した時、山の空気が目に見えて歪み始めた。

後妻の墓は、斜面の最も低い、水はけの悪い湿地に位置していた。

シャベルを突き立てるたびに、グチャリ、グチャリと、泥水が靴底を呑み込んでいく。

棺の蓋が開けられた瞬間、職人たちが思わず顔を背けた。

棺の内部は、完全に地下水で水没していたのだ。濁った黒い水たまりの中に、バラバラになった骨が沈み、水底の泥と絡み合っていた。

「おい、急げ! もうすぐ四時だぞ!」

伯父が苛立ち紛れに腕時計を叩いた。

風水師が定めた、新しい墓地への埋葬のタイムリミット——天の門が閉じる前の「吉刻」は、午前五時であった。それを過ぎれば、掘り出された白骨は陽の気によって穢され、一族の運気は致命的な打撃を受ける。

職人たちは泥水の中に手を突っ込み、手探りで骨を掻き集めた。

五香水で洗う時間すら惜しみ、泥のついた骨を次々と布の上へと放り投げていく。

そして、その泥まみれの骨格は、安物のセメントで作られた粗悪な長方形の骨箱の中へと、乱暴に詰め込まれたのである。

第三章 荷台の破砕音と、消え失せた一本の椎骨

午前四時十五分。

本家の前の未舗装路に、白骨を乗せて山奥の新墓地へと運ぶための中型トラックが、アイドリングの排気煙を吐き出しながら横付けされた。

作業は時間との闘いであった。

職人たちと親族の若者たちが手分けをし、斜面から降ろされてくる陶棺を、トラックの荷台へと慎重に積み込んでいく。

最初に乗せられたのは、最も位の高い曾祖父母の重厚な陶棺であった。続いて祖父母、そして親族たちの棺が、年功序列の規則に従って整然と並べられていく。

残るは、最後の一つ——あの泥水から引き揚げられた、後妻の骨箱だけであった。

その運搬を担当することになったのは、先ほどまで母屋で酒を飲んでいた、長男の伯父の実の息子たち——私の従兄弟であるタインとドゥックの兄弟であった。二人は二十代半ばの粗暴な若者で、靴に泥がつくのを嫌がり、早く終わらせて街へ飲みに行こうとあからさまに不満を漏らしていた。

「おい、早くしろ! 遅れるぞ!」

荷台の上で棺を固定していた私が叫んだ。

斜面から木箱を担いで降りてきたタインとドゥックの二人は、なぜか、正規の舗装された正面のアプローチを使わなかった。

彼らは近道をしようとしたのか、母屋の裏手に広がる鬱蒼としたバナナ畑の畦道——泥深く、雑草が生い茂る暗黒の裏道へと足を踏み入れたのである。

懐中電灯の光が、二人の足元を頼りなく揺らしていた。

彼らがバナナの葉を掻き分け、トラックの荷台へと近づいてきたとき、私は荷台の上から両手を伸ばし、その箱を受け取ろうとした。

「重てえな、クソッ……水でも吸ってんじゃないのか」

タインが悪態をつきながら、セメント製の箱を私の腕へと押し上げてきた、まさにその瞬間であった。

ピシリ……。

極めて硬質で、不吉な亀裂の音が、湿った大気を震わせた。

「あ……」

ドゥックの手が滑った。

箱の底の角が、荷台の鉄のアオリ(側板)に激しく衝突した。

ガシャンッ!!

セメントの破片が飛び散り、箱の底面の一角が、大人の拳ほどの大きさに粉々に砕け落ちたのである。

次の瞬間、私の眼の前で、信じがたい光景が展開した。

カラカラカラ……カランッ!

砕けた穴から、乾いた何かが滑り落ち、トラックの鉄の荷台の上を甲高い音を立てて跳ねた。

懐中電灯のビームを反射したのは、黄色く変色した、人間の「指の関節の骨」であった。

続いて、細い肋骨の破片が二本、泥の混ざった荷台の溝へと転がり落ちた。

「うわあああっ!」

タインが悲鳴を上げて箱を取り落としかけた。

私は必死の思いで箱を抱きかかえ、荷台の奥へと引きずり上げた。

心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖の中、私は懐中電灯を箱の内部へと照射した。

底の割れ目から、赤布の端がはみ出し、内部の骨が激しくシェイクされて位置を崩していた。

「拾え! 落ちた骨を拾え!」

私は荷台の上から叫んだ。

親族たちが血相を変えて駆け寄ってきた。

タインとドゥックは青ざめ、震える手で荷台の上に散らばった数片の骨を拾い集め、割れた穴から中へと押し戻した。

大人の男たちが駆け寄り、急ぎ予備のビニールテープを何重にも巻きつけて割れ目を塞ぎ、どうにか荷台への固定を完了させた。

午前四時四十分。

東の空が白み始める寸前、トラックは泥を蹴立てて発進し、山奥の新しい墓地へと滑り込んだ。

風水師が額の汗を拭いながら呪文を唱え、六つの棺は、掘り立ての新しい穴の中へと次々と沈められ、急ぎ赤土が被せられた。

吉刻の針が午前五時を指す直前、どうにかすべての埋葬が完了したのである。

長男の伯父は、胸を撫で下ろして言った。

「これで終わった。多少の不手際はあったが、すべて時間通りだ。先祖も文句はあるまい」

男たちは互いの肩を叩き合い、大金を手に入れた安堵の笑みを浮かべていた。

だが、私だけは気づいていたのだ。

荷台の上に転がり落ちていた指の骨を拾い集めた際、あのセメントの割れ目の断面に、びっしりと「緑色の古い苔」が生え揃っていたことを。

あの亀裂は、今夜の衝突で生じたものではなかった。

あの箱は、掘り起こされる遥か以前——あの湿った墓穴の底で、何年ものあいだ割れたまま地下水に晒され続けていたのだ。

そして、祖父の墓の線香が消え続けたあの不可解な現象。

あれは、これから起きる冒涜を予見していた祖父の霊が、子孫たちに向けて発していた、必死の制止の叫びだったのではないか。

その疑念は、改葬からわずか一週間後、長男の伯父の肉体を襲った戦慄の異変によって、血の通った現実となって牙を剥くこととなった。

第四章 アプ・ヴォン(降霊)の慟哭——母の背を借りた死者

集団改葬が無事に終わったはずの翌週から、本家の長男の伯父の身辺に、説明のつかない凶変が雪崩を打って押し寄せた。

最初の異変は、伯父自身の肉体であった。

ある朝、目を覚ました伯父は、突如として腰から下に激しい激痛を訴え、自力で起き上がることができなくなった。

痛みの性質は異常を極めていた。骨の芯に、冷たい鉄の杭を何本も打ち込まれているような激痛。ハノイの大病院で精密なレントゲンとMRI検査を受けたが、脊椎にも神経にも一切の器質的異常は見当たらず、医師団は「原因不明の急性坐骨神経痛」と匙を投げるばかりであった。

痛みは日ごとに増悪し、筋骨逞しかった伯父の足はわずか半月で見る影もなく痩せ衰え、彼は車椅子なしでは排泄すらままならぬ廃人同然の姿へと成り果てた。

さらに、禍いは一族の若者たちへと連鎖した。

あの日、棺を落とした息子のタインが、バイクで帰宅途中に何もない直線道路で突然コントロールを失い、道路脇の電柱に激突。右足の骨を複雑骨折して入院した。

もう一人の息子ドゥックもまた、深夜に自室のベッドで「誰かが天井から冷たい泥水を垂らしてくる」という激しい錯乱状態に陥り、夜な夜な奇声を上げて暴れ回るようになった。

「……骨だ」

私の母が、青ざめた顔で震えながら呟いた。

「あの夜、後妻さんの骨が欠けたんだ。神仏がお怒りになっているんだよ」

耐えかねた親族たちは、一族の破滅を止めるため、ハノイの南西に位置するハナム省の高名な霊媒師(バ・ドン)の元へと縋り付いた。

そこで執り行われたのが、ベトナムの土着信仰「母道(ダオ・マウ)」の深奥に根差す、最も生々しい降霊儀礼——「アプ・ヴォン(Áp vong)」であった。

西洋の心霊主義や日本の降霊術のように、霊媒師自身がトランス状態になって死者の言葉を語るのではない。

ベトナムのアプ・ヴォンにおいて、霊媒師はただ祈祷を捧げ、場を清める触媒に過ぎない。死者の魂が直接憑依するのは、その場に居並ぶ「血を分けた親族自身の肉体」なのだ。

儀礼は、線香の煙が立ち込める薄暗い神堂の中で行われた。

祭壇には果物と生花、そして亡くなった後妻の遺影が掲げられていた。

霊媒師の老婆が、甲高い声で経文を唱え、木魚を打ち鳴らす。

親族全員が祭壇の前に正座し、両手を合わせて目を閉じ、死者の名を心の中で念じ続けた。

十分、二十分。

静寂と煙の中、ただ木魚のポク、ポクという単調な反響音だけが流れていた。

その時であった。

ガタガタガタッ……!

私の隣に座っていた、長男の伯父の実の娘——当時二十三歳であった従姉のランの身体が、まるで高圧電流を流されたかのように激しく痙攣を始めた。

ランの首が、ギチギチと音を立てて不自然に後ろへと反り返る。

両目の白目が露わになり、唇は紫色に変色し、その喉の奥から、彼女自身の若い可憐な声とは似ても似つかない、しゃがれた、泥の中から響くような女の呻き声が漏れ出した。

「う……あ……あああああッ!」

ランは自らの腰の骨を両手で力任せに殴りつけながら、床のタイルへと転がり落ちた。

「ラン! しっかりしろ!」親族が取り押さえようとしたが、華奢なはずの彼女の肉体は、大人の男三人を軽々と跳ね飛ばすほどの怪力を発揮した。

彼女は床を蛇のように這いずり回り、車椅子に座る長男の伯父の足元へと取り縋ると、血走った眼で義父を見上げ、引き裂かんばかりの金切り声で泣き叫んだのである。

『痛い……! 腰が痛いよ、あなた! 私の背骨はどこへ行ったの!?』

堂内の空気が、絶対零度まで凍結した。

声は、死んだ後妻その人の声であった。

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